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☆おしらせ☆ [その他]

近世公家研究のパイオニアである西村慎太郎先生の著書、
『そもそもお公家さんってなに!?近世公家のライフ&ワーク』が現代書館さまより刊行されます。

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僭越ながら、表紙と本文のイラストを手がけさせていただきました。
書店に並ぶのは3月7日ごろだそうで、ただいま現代書館さまのHPにて予約受付中です。
(期間限定で送料無料キャンペーンをしているんだそうですよ!!)

大学・大学院では幕末期の朝廷を研究していたので、本文の校閲もおこなわせていただきました。
手持ちの公家の日記(古文書)を読んだり、論文を読んだり…
久々に「日本史の研究」に携わることができ、よい勉強になりました。

でも…でもでも…

やっぱりお公家さんがナニモノなのかよく分かりません!(笑)
謎すぎるーーーッッ!!

そんなお公家さんの具体例がしこたま掲載されている本書、
お手にとっていただけたら幸いです☆
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1297年 永仁の徳政令を出す [年号のゴロ合わせ]

平禅門の乱(へいぜんもんのらん)のあと、政治を主導するのは、
9代執権(しっけん)である得宗(とくそう)の北条貞時(ほうじょうさだとき)です。

彼にとってもっぱらの課題は、窮乏する御家人たちを救うことです。

そもそもなぜこのころの御家人がビンボーに苦しんでいるのかというと、
・元寇(げんこう)ですごく頑張ったのに、満足なゴホウビがもらえていない
・分割相続(ぶんかつそうぞく)の繰り返しで所領が細分化してしまった
・急速な貨幣経済の進展に巻き込まれてしまった
などが原因としてあげられます。

そんななか、1297年2月に彗星(すいせい)が観測されます。
この天体ショー、当時は不吉なことが起こる前触れだと考えられており、
為政者はその災いを避けるため、なにかよいことを行わなければなりませんでした。

そこで翌3月、北条貞時は窮乏する御家人たちを救うため、
永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)を出すのです。



まずは史料を見てみましょう。
これは3月に出したものをふまえて作った、より詳しい内容の法令です。

一、越訴(おっそ、裁判で敗れた者が判決を不服として再び訴訟を起こすこと)を停止(ちょうじ)すべき事(中略)
一、質券(しちけん)売買地(質入れや売買した土地のこと)の事
 右、所領を以(もっ)て或(あるい)は質券に入れ流し、或いは売買せしむるの条、御家人等侘傺(たてい、困窮すること)の基(もとい)なり。向後(きょうこう、今後)に於(お)いては、停止に従ふべし。以前沽却(こきゃく、売却すること)の分に至りては、本主領掌(りょうしょう、領有して支配すること)せしむべし。但(ただ)し、或いは御下文(おんくだしぶみ)・下知状(げちじょう、いずれも幕府が土地の譲渡・売却を認めた公文書のこと)を成し給(たま)ひ、或いは知行〔1   〕箇年を過ぐるは、公私の領を論ぜず、今更(いまさら)相違有るべからず。(中略)次に非御家人・凡下の輩(ぼんげのともがら、一般庶民のこと、具体的には〔2   〕をさす)の質券買得地の事。年紀(取得時効20年)を過ぐると雖(いえど)も、売主知行せしむべし。
一、利銭出挙(りせんすいこ、利息をつけて銭を貸すこと)の事
 右、甲乙の輩(すべての人ということ)、要用(どうしても必要なこと)の時、煩費(はんぴ、わずらわしい出費のこと)を顧みず負累(ふるい、借金して負債を重ねること)せしむるによって、富有(ふゆう)の仁は其の利潤を専(もはら)にし、窮困(きゅうこん)之族(やから)は弥(いよいよ)侘傺に及ぶか。自今(じこん)以後、成敗(せいばい、裁決すること)に及ばず。(以下略)
永仁五年(1297)七月廿二日 (「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)、原漢文)


空欄にあてはまる語句は、
 1…廿(にじゅう、20をあらわす漢字ですー)
 2…借上(かしあげ、高利貸し(こうりがし)のこと)
です。

この3ヶ条を訳してみましょう。

一、判決済みの訴訟の再審請求を受理しない事
一、質流れになったり、売買した土地の事
 右については、所領を質に入れて流したり、売却することは御家人たちが困窮するもとである。今後はこれを禁止する。以前に売却した土地については、本来の持ち主(御家人)に取り返させ、支配させよ。ただし、買ったあとに幕府から下文や下知状をもって公認されていたり、いまの持ち主がすでに20年以上その土地を支配している場合は、公領・私領にかかわりなく、今さら現状を変更することはしない。(中略)次に非御家人や高利貸が質流れや買い取った土地については、何年たっていようとも、売主の御家人が支配すべきである。
一、利息をつけて銭を貸す事
 これについて、だれでも金が必要なときは、わずらわしい出費を考えずに借金を重ねるので、金持ちは利潤をますます増やし、貧乏人はますます困窮するようになると思われる。今後、幕府はこの訴訟をいっさい取り上げない。

てな感じです。
それぞれの条文を簡単にまとめると、

□ 1条目:越訴の禁止
□ 2条目:御家人が所領を質に入れたり売却することを禁止
     すでに質に入れたり、売却してしまった所領は、もとの持ち主である御家人に返還する
     ※ただし条件つき
□ 3条目:御家人が関係する金銭の訴訟は受理しない

となります。

なかでも永仁の徳政令といえば、やっぱ2条目ですよねー!
貧しさのあまりお金にかえた所領がなんと返ってくる!!ってやつ!!!

ただ、さっきの2条目のところに「※ただし条件つき」って書いてるんですよねー。

そうなんです!
無条件で所領が返ってくるわけではないのです!!
いろいろ条件をクリアしないといかんのです!!!

ややこしいので、まずはイラストにしてみましょうー。

1297-1.jpg

情報詰め込みすぎでスミマセン…
順を追って見ていきますね。

あるとき、ビンボーに苦しむ御家人は、
先祖代々守ってきた所領を泣く泣く売ったり質に入れたりしてお金を工面(くめん)し、
家族や家臣を養い暮らしておりました。
(彼のことは、以降〔元の持ち主〕と表現します)

そんななか、1297年に永仁の徳政令が出されます!
条件を満たせば、泣く泣く手放したあの所領が〔元の持ち主〕のもとに戻ってくるとゆーのです!!

その条件は、〔元の持ち主〕から所領を手に入れた人物(以降、〔いまの持ち主〕と表現します)が、
御家人か、御家人じゃないか、
また所領を手放してから何年経っているか、
で変わってきます

①〔いまの持ち主〕が御家人の場合
・〔元の持ち主〕が所領を手放してから20年以上経過している⇒返ってこない!
 だって、〔いまの持ち主〕である御家人はもうかれこれ20年以上その所領を支配してるんですよ?
 それだけ長いこと支配してるんだから、その所領はそのまま〔いまの持ち主〕のもので決定!!
 ってことです。
・〔元の持ち主〕が所領を手放してから20年経っていない⇒返ってくる!!
 〔いまの持ち主〕がその所領を手に入れてからまだ日が浅いので、〔元の持ち主〕に返しましょう!
 ってことです。
つまり、御家人同士でやりとりをした所領は、それから20年たっているかどうかが分かれ道となるのです。

②〔いまの持ち主〕が御家人じゃない場合
・経過年数とか関係なし⇒とにかく返ってくる!!
 エーーーーーッッ!そんなんアリ!?って感じですよねーーーー…
 御家人を救済するための法令だからって、御家人じゃない人の冷遇っぷりがスゴい!!

いやーこれは不平等ですよねー…
モメる、ゼッタイにモメるやつ…

まずは〔いまの持ち主〕にその所領を手放してもらうための訴訟を起こすわけですが、
そんな訴訟がすんなり進むとは思えません。
そもそも〔元の持ち主〕からその所領を手に入れた人が、また別の人に売って、その人がさらにまた別の人に売って…とか繰り返してたら、本当の持ち主が誰なのかを特定することすら難しいワケです。

モメる、ゼッッタイにモメるやつ…

一応、〔いまの持ち主〕が20年以上その所領を知行(ちぎょう)している場合、
または〔いまの持ち主〕が知行していることを認める鎌倉幕府の公文書がある場合は、
返還の対象外と規定してはいるのですが…

おっそろしーほどの訴訟が鎌倉に押し寄せることになります!

やっぱりねーーーーッッ!!

1条目で越訴を禁止しているのは、それを見越してのことなのかもしれません…

ともあれ、永仁の徳政令は一部をのぞいて1298年2月に停止されてしまいます。
(もともと1年間だけの時限立法だった、という説もあります)

それでは、今日のゴロ合わせ。

1297年.jpg

次回は鎌倉時代(7)のまとめプリントです。
北条貞時の政治の復習と、得宗専制政治をまとめてゆきます☆



【参考文献】
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)

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1285年 霜月騒動が起こる [年号のゴロ合わせ]

8代執権(しっけん)・北条時宗(ほうじょうときむね)の時代、
元・高麗連合軍が二度にわたって日本を襲撃します。
1274年の文永の役(ぶんえいのえき)と、1281年の弘安の役(こうあんのえき)です。
日本はいずれにも勝利しますが、
また攻めてくるかもしれない…という軍事的緊張は解けず、
さらに鎌倉幕府は恩賞(おんしょう、ゴホウビのこと)のやりくりにも頭を悩ませます。

そんななか、1284年に北条時宗が病気のため、満32歳の若さでこの世を去ってしまいます。
かわって9代執権に就任するのは、北条時宗の一人息子である北条貞時(ほうじょうさだとき)です。

といってもねー、彼、満12歳なんですよ。
小六ですよ!小六!!
さすがに執権として政治を主導するには無理がありますよねー…

なので、安達泰盛(あだちやすもり)という御家人が補佐をすることになります。

ん?
なんかこの名前、前回出てきませんでしたっけ??

そうです!
「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)のなかで、肥後(ひご)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)から「ゴホウビください!」と直談判されているこの人です!!
鎌倉6-4.jpg
ここから、文永の役のあと、恩賞を担当する立場にあったことが見て取れますが、
ほかにも様々な重要ポストを歴任してきた有力御家人です!!!

そんな安達泰盛は、北条貞時のお母さんのお兄ちゃんなのですが(つまり北条貞時のオジサン)、
父である安達義景(あだちよしかげ、覚えなくていいですよ!)が早くに亡くなってしまったため、
生まれたばかりの妹を養女として育てます(なんとこの兄妹、21歳もトシが離れておるのです!)。
というワケで、北条貞時にとって安達泰盛は、母方のおじいちゃんみたいな存在なのです。

母方のおじいちゃんって…

そうです!
外戚(がいせき)です!!
北条貞時にとって安達泰盛は、外戚みたいなものなのです。

そもそも安達氏は、源頼朝(みなもとのよりとも)が平治の乱(へいじのらん)に敗れて伊豆(いず)に流されたころから仕えている、それはそれは古い家臣です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝にずーっと付き従っていたチョビヒゲの方がいましたが、
彼が安達氏の祖である安達盛長(あだちもりなが、覚えなくていいですよ!)です。
安達泰盛は、そのひ孫にあたります。

なんだかややこしくなってきたので、簡単な系図で安達氏と北条氏の関係を整理しておきましょう。
1285-1.jpg
これを見ると、安達氏は北条氏とガッツリ関係を結んでいることが分かりますね!

とにもかくにも、
“安達氏は古くからの有力御家人で、とくに安達泰盛は9代執権・北条貞時の外戚みたいなポジションにあるため、幼い執権を補佐することになった”、
ということをまずは理解してください。

こうして安達泰盛は、自身のポジションと政治経験を活かした政治改革をどんどん進めてゆきます。
これを、弘安徳政(こうあんとくせい)と呼んだりします。



さて、そんな安達泰盛を冷ややかな目で見ているのは、平頼綱(たいらのよりつな)です。
彼は御家人ではありません、御内人(みうちびと、または、みうちにん)です。

ん?御家人と御内人ってナニが違うの??って感じですよね。

簡単に言うと…
 ・御家人…将軍と主従関係を結んでいる家臣
      御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の関係で結ばれる
 ・御内人…得宗(とくそう)の家に仕える家臣
という違いがあります。

しれっとまた新しい用語が登場しましたねー。

得宗!
得宗ってなんや!!

ハイ、得宗とは北条氏の惣領(そうりょう)のことです。
この名称は、2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)が出家した際、
「徳宗」(とくそう)と名乗ったことに由来するんだとか(諸説アリマス)。

イヤイヤ、漢字ちゃうやないかーーーーいッッ!!
ホント受験生泣かせですよね…

さきほどの系図を見ると、青枠で囲われている名前がありますよね?
それが得宗です。
ちなみに、北条時氏(ほうじょうときうじ)は早くに亡くなっているため得宗にはなっていません。
また、北条時政(ほうじょうときまさ)を得宗とする説もあります。

で、その得宗に仕える家臣こそが御内人なのです。
そして、御内人のなかのリーダーを内管領(うちかんれい、または、ないかんれい)と呼びます。

またもやややこしくなってきましたねー…
イラストでまとめて頭を整理しておきましょう☆

1285-2.jpg

つまり、
将軍と主従関係にあるのが御家人で、
御家人の一人である北条氏の得宗に仕えるのが御内人で、
御内人のリーダーが内管領、
ということです。

ついでにいうと、将軍と主従関係にない非御家人(ひごけにん)なるものも存在します。

整理できましたか?
なお、執権と得宗の関係については鎌倉時代(7)で説明する予定です。

*   *   *

話を元に戻しましょう!

平頼綱は、御内人のリーダーである内管領です。
しかも、平頼綱の奥さんは北条貞時の乳母(うば)です。
平頼綱は、いわば北条貞時の育ての親なのです。
(この平という一族は由来がよく分かっておらず、いつのころからか北条氏に仕えていたんだとか…)

てなワケで、
“北条貞時の育ての親”である平頼綱からすると、安達泰盛の権勢っぷりは目に余るし、
“北条貞時の外戚的存在”である安達泰盛からすると、平頼綱は「御家人の家臣にすぎないんだから身の程をわきまえろよ」って腹が立つしで、
二人の関係はこじれてゆきます。

さらに、御内人たちは平頼綱を応援するし、御家人たちは安達泰盛を応援するもんだから、
両者の間の溝は深まるばかりです。

そんなあるとき、
平頼綱は「安達氏は将軍になろうとしているにちがいない!」と北条貞時にチクります。

なんでも、安達泰盛の息子である安達宗景(あだちむねかげ、覚えなくていいですよ!)は、
「実は、ウチのひいおじいちゃんは源頼朝の息子なのだ!」とか言い出し、
源氏を名乗りはじめたんだとか。

鎌倉幕府の将軍は、源頼朝にはじまり、
源頼家(みなもとのよりいえ)・源実朝(みなもとのさねとも)と3代続けて源氏が就任しました。
この3代をまとめて源氏将軍(げんじしょうぐん)と呼ぶんでしたよね。

ところが、源実朝の暗殺によって源氏将軍は絶え、
4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)と5代将軍・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)は摂関家から迎えます。
この2人を摂家将軍(せっけしょうぐん)とか藤原将軍(ふじわらしょうぐん)と呼びます。

そして、6代将軍は後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の息子である宗尊親王(むねたかしんのう)を迎え、
このころは宗尊親王の息子である惟康親王(これやすしんのう)が7代将軍の座に就いている、
そんな時代です。

そこに、安達氏が「ウチは源氏の血を引く一族なのだ!」とか言い出すもんだから、
平頼綱は「安達氏は将軍の座を狙っているのだ!源氏将軍の復活をもくろんでいるのだ!!」と解釈したワケです。

そうして1285年11月、なんだか自分ちの周りが騒がしいのに気がついた安達泰盛は、
惟康親王や北条貞時のもとを訪ねようと出かけます。
そこを御内人たちに襲われ、合戦のすえ安達泰盛は命を落としてしまいます。

すかさず、地方にいる安達氏の一族にも追撃の手がのび、
元寇(げんこう)で活躍した安達盛宗(あだちもりむね、覚えなくていいですよ!)が博多で討たれるなど、
およそ500人が自害または討ち死にしたと伝わっています。
(このとき没収した所領が弘安の役のゴホウビとして分配されたことは前回触れました)

11月に起きたこの事件を、霜月騒動(しもつきそうどう)と呼びます。

ということで、ここで本日のゴロ合わせ。

1285年.jpg

霜月は11月ですからねー!!

さて、安達泰盛の死後、政治を主導するのはもちろん内管領の平頼綱です。
とはいえ彼は御家人ではないので、評定衆や引付衆にはなれません。
それでも権力を独占し、幼い執権を差し置いて専制政治をおこないます。

ところが、彼の栄華は突然終わりを迎えます。

1293年、関東地方を大地震が襲い、
その混乱に乗じて北条貞時が命を下し、平頼綱は自害に追い込まれてしまうのです。

このころ平頼綱は出家して平禅門(へいぜんもん)と名乗っていたようなので、
これを平禅門の乱(へいぜんもんのらん)とか、平頼綱の乱(たいらのよりつなのらん)と呼びます。

*   *   *

北条時宗の急死
→幼い北条貞時の執権就任
→安達泰盛の改革
→平頼綱が安達泰盛を滅ぼす(霜月騒動)
→北条貞時が平頼綱を討つ(平禅門の乱、または平頼綱の乱)

という流れ、しっかり理解してくださいね☆

いよいよ満20歳となった9代執権・北条貞時が、得宗として専制政治を開始します。
これを得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)と呼びますが、
詳しくは鎌倉時代(7)でまとめてゆきたいと思います。

次回は永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)をゴロ合わせとともにお届けします。



【参考文献】
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)

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鎌倉時代(6) [まとめプリント]

前々回は1274年の文永の役(ぶんえいのえき)を、
前回は1281年の弘安の役(こうあんのえき)を、それぞれゴロ合わせとともにお届けしました。
まとめて元寇(げんこう)とか蒙古襲来(もうこしゅうらい)と呼ぶこの2つの事件、
今日は前後関係もひっくるめて、まとめプリントで解説してゆきますよ★

鎌倉6.jpg

まずはプリントの右上です。
1206年、チンギス=ハン(漢字で書くと成吉思汗)が、
モンゴル高原で抗争を繰り返していた遊牧諸民族を統一し、モンゴル帝国をきずきます。
プリントの左上にある〈12世紀ごろ〉という地図のなかに「モンゴル」と書いておきましたが、
まぁこのあたりです。

強力な騎馬軍団をほこるモンゴル帝国は、周囲の国々をどんどん征服して領土を広げてゆきます。
1234年に女真族(じょしんぞく)の王朝である金(きん)を滅ぼすと、
東ヨーロッパや西アジアにまで遠征をおこなってそれぞれ勝利し、
モンゴル帝国はユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国へと発展するのです。

プリントの〈13世紀ごろ(南宋滅亡前)〉と〈モンゴル帝国の最大領域〉という地図は、
最後にのせてある解答を参考にして、完成させてくださいね☆

1260年、チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハン(漢字で書くと忽必烈汗)が即位します。
フビライ=ハンは都を大都(だいと、現在の北京(ペキン))に遷(うつ)し、
国号を元(げん)と改めます。

このころ、朝鮮半島の高麗(こうらい)は、三別抄(さんべつしょう、高麗の軍隊)が抵抗を続けているものの、すでにモンゴル帝国(元)に服属しています。
フビライ=ハンは、モンゴル帝国(元)の南に位置する南宋(なんそう)の征服を目指し、
また、海の向こうにある日本にも服属を求めるようになるのです。

これに対して、鎌倉幕府の8代執権(しっけん)である北条時宗(ほうじょうときむね)は、
九州に所領をもつ御家人や九州に住んでいる御家人に北九州を警備させる異国警固番役(いこくけいごばんやく)を設置します。

1273年、フビライ=ハンは抵抗を続けてきた三別抄を鎮圧し(三別抄の乱(さんべつしょうのらん))、
翌1274年、元と高麗の連合軍およそ3万人(人数については諸説アリマス)を日本に向かわせます。
いわゆる文永の役です。

対馬(つしま)と壱岐(いき)を襲い、さらに博多湾から上陸する元・高麗連合軍を、
御家人たちが迎え撃ちます。
その様子は、「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)とか、「蒙古襲来絵巻」(もうこしゅうらいえまき)と呼ばれる絵巻物に描かれています(のちのち鎌倉文化で紹介します)。

なかでも有名なシーンがコチラ(黒字と青字で文字を書き加えています)。

鎌倉6-1.jpg

肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が、
元・高麗連合軍の集団戦法(しゅうだんせんぽう)や「てつはう」という火薬を用いた武器を相手に奮闘する様子が見て取れます。

この日は元・高麗連合軍が優勢のまま日暮れとなり、お互い戦闘を中断して夜を迎えます。
そして夜が明けると…

なんと!
元・高麗連合軍がいなくなっているのです!!
暴風雨だか仲間割れだか威力偵察だかなんだか分かんないけど、日本勝っちゃったのです!!!

ということで、鎌倉幕府は命懸けで戦ってくれた御家人たちに恩賞(おんしょう、ゴホウビのこと)を与えなければなりません。
しかし…これが…ヒジョーにキビシイのです…

普通はね、戦いに勝利すると、敗者の所領やら地位やらをイロイロ取り上げられるので、
それを戦いに参加してくれたメンバーにゴホウビとして分配するんですよ。

ところが…
ところがですよ…

文永の役の敗者は、海の向こうから攻めてきて、そして消えた元・高麗連合軍なんです。
鎌倉幕府は戦いには勝ったものの、ゴホウビとして分配できるようなものを何もゲットできていないのです。

ね?キビシイでしょ…

それでも鎌倉幕府はどうにかやりくりして、1年がかりで約120人の御家人にゴホウビを与えます。

ちなみに「蒙古襲来絵詞」には、ゴホウビリストからなぜか漏れてしまった竹崎季長が、
「オレ、一番乗りで頑張ったんだよ!ゴホウビちょうだい!!」と、
鎌倉にいる恩賞担当の安達泰盛(あだちやすもり)に直談判する様子が描かれています。
(黒字で文字を書き加えています)

鎌倉6-4.jpg

竹崎季長が安達泰盛になにやら相談していますね~。
結果、竹崎季長は肥後国のとある地頭職(じとうしき)と馬一頭を賜ります。
持ち馬を売って旅費をまかない、肥後国から鎌倉まで行った甲斐があったというものです(泣)

*   *   *

文永の役のあと、鎌倉幕府は高麗に出兵する計画をたてますが、実現には及ばず、
異国警固番役の整備や、石塁(せきるい)とか石築地(いしついじ)と呼ばれる防塁(ぼうるい)の築造など、防衛力の強化につとめます。

ちなみに、石塁の様子は「蒙古襲来絵詞」にも描かれています。

鎌倉6-6.jpg

センターにいる赤い鎧(よろい)を着た騎馬武者が竹崎季長で、
その奥に描かれている立派な石垣が石塁です。
武装した御家人たちがズラッと乗っかってますねー。
よっぽど頑丈に作ったのでしょう、石塁の一部は現在も遺(のこ)っているんだそうですよ。



元は1279年に南宋を滅ぼすと、1281年、いよいよ弘安の役を起こします。
元・高麗連合軍を主力とする東路軍(とうろぐん)およそ4万人と、
旧南宋(きゅうなんそう)の軍を主力とする江南軍(こうなんぐん)およそ10万人が日本を目指します。

先発した東路軍は、対馬・壱岐を襲い、さらに博多湾からの上陸を試みるのですが…
文永の役のときと違って今回は上陸に失敗してしまいます。

なぜって?

だってそこには!
石塁があるんだもん!!
上陸のため小舟に乗りかえた東路軍は、石塁の向こうから放たれる矢の餌食(えじき)になってしまうのです!!!

その場を逃れた東路軍は、志賀島(しかのしま)までまわりこんで上陸するのですが、
ここでも竹崎季長をはじめとする御家人たちから激しく攻撃され、
江南軍との待ち合わせ場所である壱岐まで後退します。
船内で病気が蔓延(まんえん)するなか、またまた壱岐でも御家人たちの激しい攻撃をうけ、
東路軍はもうボロボロです。

そのころ、ようやく江南軍が出発します。
出発の直前に、たまたま漂着した日本の船から「平戸島(ひらどじま、覚えなくていいですよ)から攻めたほうが便利ダヨ!」という情報を得たため(コラコラなんてことを教えるんだ!)、江南軍は平戸島を目指します。

これを知った東路軍も平戸島に向かい、両軍は平戸島と壱岐の間にある鷹島(たかしま、これも覚えなくていいですよ)という島周辺でようやく合流します。

さぁいよいよ全軍で日本を攻めるゾーッッ!という夜…

なんと九州北部を台風が襲います!
だって台風シーズンだもんねーーーーッッ!!

台風によって多くの船が沈み、多くの兵が溺死し、そんなこんなで弘安の役も日本が勝っちゃうのです!
これがウワサの神風(かみかぜ)ってものなんでしょうか!!

東路軍と江南軍は撤退を決め、エラい兵は台風を耐え抜いた船から兵や馬を追い出して、
自分たちだけサッサと海を越えて帰ろうとします(ヒドい!!!)。

その船に目をつけるのが御家人たちです。
だってエラい兵がいっぱい乗ってるんですよ?
これを襲えばお手柄(てがら)たてホーダイじゃないですか!!

というワケで、竹崎季長も自分の船でこれを追おうとするのですが、なかなか自分の船がやってきません。
そこで、なんやかんやうまいこと言って、ほかの御家人の船に乗せてもらって追撃します。

ただ、めっちゃ急いでいたので、兜(かぶと)をかぶらずに来てしまったのです。
このままだと船から船に乗り移るときに頭をケガをしてしまうかもしれません。
ケガをしてしまったら手柄をたてることなんてできません。

そこで竹崎季長!
なんと両足につけている脛当て(すねあて、膝から下の部分のプロテクター)をはずし、
それらを結び合わせたものを頭にかぶっちゃうのです!!

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そんな竹崎季長が敵の船に飛び乗って大活躍するシーンがコチラ。
(黒字と青字で文字を書き加えています)

鎌倉6-7.jpg

敵の首をきりとる拍子にーーッ!
脛当てを結び合わせてつくったやつがーーーッッ!!
ポロリと落ちてるーーーーッッッ!!!

そりゃそうなるよねーーーーーッ!
でもまぁ無事に手柄をたてられたようでヨカッタよ!!

このように、御家人たちは船で逃げようとするエラい兵を生け捕ったり討ち取ったりし、
さらに、エラい兵に置いてけぼりにされたおよそ10万人もの兵たちも掃討(そうとう)し、
弘安の役は終結するのです。

*   *   *

とはいえ、いつ三度目の蒙古襲来があるか分からず、
異国警固番役も継続されるなど、九州北部は緊張状態が続きます。
1293年には、鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)にかわって鎮西探題(ちんぜいたんだい)が設置され、
1296年以降は北条氏が赴任し、九州の御家人の訴訟も裁いてゆくことになります。
ちなみに、鎮西(ちんぜい)は九州を意味する言葉ですよー。

また、鎌倉幕府にとって弘安の役のゴホウビはかなりキビシかったようで、
勝利から4年が経っても下せずにいました。

1285年、安達泰盛(「蒙古襲来絵詞」に出てきた恩賞担当のヒト)が滅ぼされる霜月騒動(しもつきそうどう)が起こり、
その影響で、九州の御家人が数名討たれる事件が起こります。
鎌倉幕府は、このとき敗者から取り上げた所領を、弘安の役のゴホウビとして分配します。
その敗者ってのが、元寇で活躍した御家人だったりで…なんとも複雑なゴホウビとなってしまいます。

といっても、ゴホウビはまだまだ足りず、
鎌倉幕府は狭い狭い土地を何年もかけて御家人たちに与えてゆきます。
最後のゴホウビが下されたのは、なんと弘安の役から26年後だったんだとか。

いろいろ頑張ったのに満足なゴホウビをもらえず、御家人たちの生活はカツカツです。
これも相続形態が嫡子(ちゃくし)による単独相続(たんどくそうぞく)から分割相続(ぶんかつそうぞく)にシフトしてゆく一因となるのです。

*   *   *

ちなみに、「蒙古襲来絵詞」は改ざんされているかもしれない、という説があるのをご存知ですか?
それがこのシーンです。

1274-3.jpg

え?さっき見たばっかりのあの有名なココが!?って感じですよね。
ではこのシーン、もうちょっと長く見てみましょう。

鎌倉6-2.jpg

んー?
なんか有名なトリオだけ絵のタッチが違うくない??
トリオ以外のヒト、みんな絵の線ほっそくない???

では、有名なトリオを手で隠してみましょう。
エイッ!!

鎌倉6-3.jpg

絵のタッチがそろったーー!
しかも竹崎季長の頑張りで元・高麗連合軍が逃げてるシーンに変わったーーー!!

もしかしたらこういうことなのかもしれません…

鎌倉6-5.jpg

ただし、別のシーンにトリオみたいな太いタッチで描かれている人物が確認できますし(安達泰盛が描かれている場面の右端にいるヒトとか…)、
他にも修正されている部分が多々あることから、完成品見た竹崎季長が「もっと元・高麗連合軍の強さが伝わるように描き直して欲しい!」と、絵師に手直しを指示したのではないか、との説もあります(大倉隆二氏の説)。

また、博多湾周辺の海底から、元寇の遺品と考えられる船や武器などがたくさん発見され、
引き上げられています。
これらの研究が進めば、元寇にまつわる新情報が発表されるかもしれませんね。

日本史の研究はたえず進んでいます。
研究者の方々を、ただただ尊敬するばかりです。

では最後に解答を載せておきましょう☆

鎌倉6解答.jpg



次回は、今日チラっと出てきた霜月騒動をゴロ合わせとともにお届けします。

参考文献
大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』(海鳥社、2007年)
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)
小学館ウイークリーブック『週刊日本の美をめぐる 蒙古襲来と戦いの絵巻』(小学館、2003年)

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞
https://ja.wikipedia.org/wiki/安達氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇防塁
http://www.craftmap.box-i.net/

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1281年 弘安の役が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、1274年の文永の役(ぶんえいのえき)を、ゴロ合わせとともにお届けしました。

元(げん)のフビライ=ハンが、日本に服属を求める国書を何度送るも既読スルーの連続。
1274年、ついにキレたフビライ=ハンは、およそ3万人(諸説アリマス)の軍勢を日本に送りこみます。
元と高麗(こうらい、元に服属中)の連合軍は、まず対馬(つしま)と壱岐(いき)を襲い、
さらに博多(はかた)に上陸して集団戦法(しゅうだんせんぽう)や「てつはう」とよばれる火薬を使った武器などで御家人たちを苦しめます。
ところが、元・高麗連合軍は一晩のうちに消えてしまい…なんか分かんないけど日本勝っちゃった!!
というのが文永の役でしたね。

今日はその続き、1281年に起こる弘安の役(こうあんのえき)を見ていきましょう。
文永の役と弘安の役、2つまとめて元寇(げんこう)とか、蒙古襲来(もうこしゅうらい)と呼ぶんでしたよね☆



文永の役の翌年、フビライ=ハンの使者がまたもや日本にやってきます〔7回目〕。

やばい!
フビライ=ハンまだ諦めてない!!
こりゃまた服属求めて日本に大軍を派遣してくるかもしんない!!!

というワケで、8代執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)は、
使者を殺害し(エッ!)、元・高麗連合軍の再来に備えて2つのことをおこないます。

①異国警固番役(いこくけいごばんやく)の強化
文永の役に先だって編成されていた異国警固番役を強化するため、
九州の御家人たちを4つのグループに分け、3ヶ月交代で北九州沿岸の防備に当たるよう整備しなおします
異国警固番役を課せられる御家人は、京都大番役(きょうとおおばんやく)と鎌倉番役(かまくらばんやく)は免除されます(異国警固番役だけでも大変ですからね)
なお、鎌倉幕府と主従関係を結んでいない非御家人(ひごけにん)も動員されたようです

ちなみに、長門国(ながとのくに、現在の山口県)を防備する長門警固番役(ながとけいごばんやく)も編成され、長門探題(ながとたんだい)が指揮したんだとか

②石塁(せきるい)、または石築地(いしついじ)の築造
博多湾の沿岸およそ20kmにわたって、高さ2mほどの防塁(ぼうるい、防御用のカベ)を築かせます
石を積みあげてつくったこのカベを、石塁とか石築地と呼びます

こうして日本が九州北部の防御力を高めているころ、元は日本再征計画を中断しています。
元の南に位置する南宋(なんそう)との戦いが、最終局面を迎えているためです。

1276年、元は南宋の首都をついに陥落(かんらく)させ、
幼い皇帝をたてて抵抗を続ける南宋を1279年に滅ぼしてしまいます。
これにより、フビライ=ハンの矛先は再び日本に向けられるようになるのです。

滅ぼされてしまった南宋(以下、旧南宋(きゅうなんそう)と呼びます)と日本は、
古くから日宋貿易(にっそうぼうえき)などで交流を重ねてきました。
そこでフビライ=ハンは、旧南宋に「ウチは元に滅ぼされてしまいました…オタクはいまのうちに元に服属したほがいいんじゃないですか?」的な手紙を書かせ、使者に託して日本へ向かわせます〔8回目〕。
オトモダチから服属を説得してもらう作戦です!

しかし、オトモダチ作戦は功を奏さず、
鎌倉幕府はこれまた使者を殺害してしまいます(エェッ!!)。

そのころ、フビライ=ハンはようやく7回目の使者が殺害されたことを知り(8回目の使者の殺害はまだ知らない)、日本再征の準備を進めます。

そしていよいよ1281年、元・高麗・旧南宋の兵およそ14万人(人数については諸説アリマス)が、
2つのルートに分かれて日本を目指します。
文永の役はおよそ3万人だったので、今回はとんでもない軍勢です。

1281-1.jpg

元・高麗連合軍を主力とするおよそ4万人の東路軍(とうろぐん)は、
5月3日に朝鮮半島南部の合浦(がっぽ)を出発します。
旧南宋の兵を主力とするおよそ10万人の江南軍(こうなんぐん)とは壱岐で合流する計画ですが、
ちょっと色々モメてて江南軍は出発が遅れている状況です。
ちなみに、長(ちょうこう)のから出撃するから江南軍、と覚えてください☆

よって、東路軍は江南軍の到着を待たず、先に対馬・壱岐、そして長門国を襲います。
さらに文永の役のときと同じように博多湾から上陸しようとするのですが…

なんと!
そこには!!
文永の役のときにはなかったカベがあるのです!!!

そうです!
石塁(石築地)です!!
それが立派に役割を果たして東路軍の博多上陸を阻(はば)んだのです!!!

頑張ってつくった甲斐があったヨネー!(泣)

博多上陸を諦めた東路軍は、志賀島(しかのしま)を占領して船を停泊させることとします。

志賀島…
なんか聞いたことのある地名ですよね?
なにかが見つかった場所ですよね??
覚えてますかどーですか???
答えはコチラ

ここで東路軍は竹崎季長(たけざきすえなが)をはじめとする御家人たちの猛攻を受け、
壱岐まで後退して江南軍の到着を待つことにします。

ところが、江南軍は合流の期限である6月15日を過ぎても壱岐に現れず、
さらに東路軍の船の中では病気が蔓延(まんえん)し、多数の死者が出てしまいます。

そのころ江南軍はどこにいるのかというと…
ようやく長江の南にある慶元(けいげん)を出たところです。
なんてこった!

ちなみに、慶元はのちに寧波(ニンポー)という地名に改められるんですけど、
ここで戦国時代に寧波の乱(ニンポーのらん)という事件が起こります。

あとすっごい余談なんですけど、江南軍のリーダーは范文虎(はんぶんこ)という名前です。
あ、覚えなくていいですよ!

でも…でもでも…はんぶんこって…超かわいくないですか?
なにかと半分わけてくれそうですもんねー。
あ、ホント覚えなくていいですからね!!

さて、はんぶんこ率いる江南軍はどこを目指しているのかというと、
東路軍との待ち合わせ場所である壱岐ではありません!
なんてこった!!

なんでも、日本を攻めるなら壱岐より平戸島(ひらどじま)からの方が絶対イイ!という情報を得たらしいのです。

そこで江南軍は、平戸島で合流する案を壱岐の東路軍に知らせるのですが…
そのころ東路軍は壱岐でも日本の総攻撃を受けており、もはやボロボロです。
でもなんとか江南軍と合流しようと平戸島に向かいます。

そして7月下旬、東路軍は平戸島と壱岐の間にある鷹島(たかしま)という島でようやく江南軍と合流するのです。

ところが!
7月30日の夜!!
九州北部を台風が襲います!!!

海は荒れ狂い、船同士の衝突は避けられず、たくさんの兵が海に投げ出されて溺死してしまいます。

台風シーズンだもんね!
これは避けられない!!

結局、はんぶんこの主張によって軍の撤退が決まります。
エラい人たちは、たくさんの兵や馬を置き去りにして、
台風を耐え抜いた頑丈な船に乗ってそそくさと帰ってしまったんだとか。

見捨てられた兵たちに対して、御家人たちは攻撃をくわえて追い払い、
弘安の役も日本の勝利で終わります。

フビライ=ハンはというと、3回目の日本侵攻を本気で考えていたようですが、
弘安の役による被害は甚大で、国内からの反発も多く、
日本を服属させるという夢を実現することなく1294年にこの世を去ってしまいます。

とはいえ、日本は北九州の防備を解くことはできません。
異国警固番役は鎌倉時代を通して継続されることになります。
もう元が攻めて来ないことを現代人は知っているけど、当時の人は知りませんもんね。

御家人たちはまたもや恩賞をろくにもらえず、それでも異国警固番役は続き、
ますます疲弊することになるのです。
このあたりのことは次回、鎌倉時代(6)でまとめてゆきたいと思います!

では、ゴロ合わせを載せて終わりとしましょう。

1281年.jpg

文永の役の「往(い)になよ(帰って!)」を受けて、「往ぬわい(帰るわ!)」です。
セットで覚えてくださいね☆

あと、チンギス=ハンなのかフビライ=ハンなのか、まだこんがらがる人のために…
今回は「不憫(フビん)」ってことでフビライ=ハンを記憶に刻んでください!!

ただし!
フビライ=ハンは日本には来てません!!
間違えないでくださいね~(汗)



画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞

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1274年 文永の役が起こる [年号のゴロ合わせ]

たいへんご無沙汰しております!
ちょっと別件の仕事に追われておりまして、更新が滞ってしまいました…
では久々のゴロ合わせ、いっきますよーぅ☆

すんごい余談ですが、今回から本文途中のイラストはデジタルに移行しました(液タブ便利!!)。
ただ、ゴロ合わせのイラストは、従来のものとテイストを変えたくないので、
これからもアナログでお届けしていきたいと思いまーす☆

*   *   *

今日は、1274年に起こる文永の役(ぶんえいのえき)を取り上げます。
これは、1281年の弘安の役(こうあんのえき)とセットで覚えなきゃいけないヤツです。

どちらも、元(げん)と高麗(こうらい)を中心とする連合軍が日本を襲撃した事件ですよねー。
2つまとめて、蒙古襲来(もうこしゅうらい)とか、元寇(げんこう)とか呼んだりします。
ちなみに、蒙古ってのはモンゴルのことですよ、念のため。

このときの執権(しっけん)は、8代目の北条時宗(ほうじょうときむね)。
5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)の息子にあたる人物です。



まずは、北条時宗が執権に就任するまでの流れを見ておきましょう。

1256年、病にたおれた5代執権・北条時頼は、執権の座を降りることを決意します。
とはいえ、嫡子(ちゃくし)の北条時宗は、まだ満5歳です。

そこで、北条一族の人間が2代続けて執権をつとめることになるのですが…
彼らはあくまでも北条時宗がオトナになるまでのツナギです。
しかも、病から復活した北条時頼が執権を差し置いて実権を握っちゃうので、もう完全にお飾りです。

てなワケで、6代目と7代目の執権の名前は覚えなくて構いません!
なんか気の毒だけど…ほかに覚えることいっぱいあるんだから2人は覚えなくて構いません!!
(一応、鎌倉時代(3)のプリント右上にある系図のなかに名前は載っています)

そんなこんなで1268年、満16歳となった北条時宗が、ようやく8代執権に就任します。

このときすでに、モンゴル帝国の国書が日本に届いています。
送り主は、ご存知、フビライ=ハンです(ハンというのは、遊牧民の族長が名乗る称号なんだとか)。

*   *   *

1206年、チンギス=ハンがモンゴル高原の遊牧民を統一してつくったモンゴル帝国は、
やがてユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国へと発展します。

1260年、チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハンが即位し、
都を大都(だいと、現在の北京(ぺきん))に遷(うつ)します。
ちなみに、国号を中国風の元(げん)に改めるのは1271年なので、まだ少し先のことです。

このころ、モンゴル帝国は朝鮮半島の高麗(こうらい)をすでに服属させており、
フビライ=ハンはモンゴル帝国の南に位置する南宋(なんそう)の征服を目指しています。

そんなとき、フビライ=ハンに仕えたヴェネツィア(イタリア)の商人・マルコ=ポーロによると、
フビライ=ハンは次のようなウワサバナシを耳にしたんだとか。

「高麗の海の向こうには、屋根も床も窓もぜーんぶ金でできた宮殿があるほど、
 めちゃくちゃ金がとれる島があるらしい」

なにそのウワサバナシ!
チョーー魅力的じゃん!!

その島とは…ハイ、日本です。
まぁ中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)とかあるし、あながちウソじゃないのかな…
(このころ金閣はまだありませんからね!金閣はのちのち室町時代の北山文化で紹介しまーす!!)

とにもかくにも、そんなウワサバナシを聞いちゃ放っておけません。
フビライ=ハンは、ゴールデンアイランド・日本も服属させたいと考えるようになるのです。

*   *   *

これから、文永の役にいたるまでのモンゴル帝国(元)と日本のやりとりを紹介するんですけど、
とにかく長くてややこしいうえに、まっっったく覚えなくてよい部分なので…
もうホントにサラッと読んじゃってください。

サラッと読むべきところは紫色の文字にしてありますので、
サラッといきましょー☆

1266年、フビライ=ハンは日本に宛てた国書を使者に託し、高麗に日本までの道案内を命じます〔1回目〕。

でもさー…のちのちモンゴル帝国が日本を攻めるとなるとさー…
高麗もイロイロ手伝わされそうじゃないですか?

高麗的にそれ、めっっっちゃ迷惑なのヨネー…

てなワケで、「海がすっごい荒れてて日本に渡れない!危ない!!」とかなんとか理由をつけて、
国書は海を渡ることなく、フビライ=ハンのもとに戻ってきます。

フビライ=ハン、ブチギレ。

「次はちゃんと日本に行って、ちゃんと返事をもらって来い!」とフビライ=ハンから念を押され、
国書を携えた高麗の使者は、1268年に大宰府(だざいふ)に到達します〔2回目〕。
国書はすぐさま鎌倉に送られますが、鎌倉幕府はそれを朝廷に転送します。
「古来から外交の窓口は朝廷じゃないか!」というワケです。
これをうけて、朝廷は国書に対する返事をどうするか一生懸命話し合いを続けるのですが…
なんと半年以上たっても答えを出すことができません。
待ちくたびれた高麗の使者は、返事をもらわずに帰ってしまいます。

日本征服という欲望を昂ぶらせるフビライ=ハンは、翌1269年にも使者を派遣します〔3回目〕。
使者たちはいったん対馬にたどり着くものの、島民の妨害にあって先には進めず、
島民の男性2人を拉致(らち)して帰ります。

同年、拉致した2人を日本に送り届けることを名目に、使者が大宰府にやってきます〔4回目〕。
このとき使者が持参した国書の内容は、モンゴル帝国への服属をハッキリと求めるものでした。
朝廷はもちろん服属を拒否する返事を作成しますが、それがどんなワザワイをもたらすか分からないため、鎌倉幕府は返事を使者に渡さないよう朝廷に求めます。
結局、使者たちはまたもや返事をもらえず、手ぶらで帰ってゆきます。

1271年、またまた使者が大宰府にやってきます〔5回目〕。
このときの国書の内容は、「期限までに返事がないなら軍事力にモノ言わすからな!!」という脅迫めいたものでした。
もうそろそろね…ホンマええ加減にしぃやってことですよね…

朝廷は、前回作成した返事にちょっと手直しを加えたものを使者に渡そうとするものの、
ホントにそれでいいのか不安が押し寄せてきて、やっぱり結論を出せません。
てなワケで、とりあえず返事はあとまわしにして、日本から使者を派遣することにします。
日本の使者たちは大都まで赴くものの、フビライ=ハンとの面会は許されず、帰ってきます。

1272年、フビライ=ハンはこれまた使者を派遣しますが〔6回目〕、
またもや返事を手にすることはできません。

ハイッ!
サラッと読むのはここまでです!!
以降はしっかりと読んでください!!!

要するに、フビライ=ハンは日本を服属させようと、6回もチャレンジしてるんですよ!

6回ですよ!6回!!
それなのに、のらりくらりと無視されてばっかなんですよ!!!
国書の既読スルー!!!!
そりゃフビライ=ハンも頭にくるよねーーーーッッ!!!!!

1274-1.jpg

ところで、「元寇起こしたのって、フビライ=ハン?チンギス=ハン??ん?どっち??」って分かんなくなることありません?
ここは「不備」ってことで、フビライ=ハンだと覚えちゃいましょーう ♪

ちなみに、このころの東アジアの情勢はどうなっているのかというと…
高麗は元に服属中ですが、高麗の軍隊である三別抄(さんべつしょう)は抵抗を続けており、
1273年に三別抄の乱(さんべつしょうのらん)を起こすも元・高麗連合軍に鎮圧されています。
南宋は長きにわたる元との戦いに敗北し、もう抵抗する力はほとんど残っていません。
そんな状況です。

つまり!
フビライ=ハンにとって、日本征服に集中できるタイミングがやってきたのです!!

こうして文永11年(1274年)に起こるのが、文永の役です。

手始めに、フビライ=ハンは船を300隻つくるよう高麗に命じます。
ウワーッ!やっぱり手伝わされるんやーん!!ホンマ迷惑なんですけどぉー…て感じですが、
元に服属している以上、高麗は必死でそれを作り上げるしかないのです。

*   *   *

このような動きに対して、8代執権・北条時宗は防御体制の強化に乗り出します。

1271年、九州に所領をもつ御家人に対し、現地に行って非常事態に備えるよう命じます。
さらに翌1272年には、九州に住む御家人に対し、元が攻めてくるならココらへんだなと想定される地域、
すなわち筑前(ちくぜん)や肥前(ひぜん)、博多湾などを交代で警備するよう命じます。
これを異国警固番役(いこくけいごばんやく)といいます。

これ、漢字気をつけてくださいね!
「警護」ではありません、「警固」です!!
誰かを護(まも)るんじゃなくて、場所を固(かた)めるんですよー。

*   *   *

1274年10月3日、元と高麗の連合軍およそ3万人(人数については諸説アリマス)が、
高麗が作った例の船などに乗って朝鮮半島を出発します。
そして、10月5日に対馬を、10月14日に壱岐を襲います。
いずれの島でも島民は必死に抵抗しますが、たくさんの人が命を落としてしまいます。
なかには、手のひらに穴をあけられ、そこにヒモを通されて船に結びつけられる女性もいたんだとか。
また、生け捕りにされた人も多く、その人たちは捕虜(ほりょ)として大陸に連行され、
エラい人々に労働力として献上されたものと思われます。

壱岐をあとにした元・高麗連合軍は、九州の沿岸部やいくつかの島を攻撃しながら移動し、
ついに10月20日、博多に上陸します。
迎え撃つのは、九州に集結した御家人たちです。

当時の御家人は、開戦の合図としてものすごく音の出る鏑矢(かぶらや)を射るのをルールとしています。
ルールにのっとった戦いを美徳とする御家人は、上陸してきた元・高麗連合軍に対しても、もちろんこれをおこないます。
すると…

元・高麗連合軍、大爆笑!
元にも高麗にも、そんなルールはないのです!!
御家人たちは、なぜ笑われているのか分からず戸惑います。

そんななか、元・高麗連合軍がドラや太鼓を打ち鳴らして大きな声をあげるもんだから、
御家人たちも、御家人を乗せている馬たちも、超ビックリです!

あまりにも戦い方が違うんです!!

御家人たちの戦い方は、一騎打ち(いっきうち)が基本です。
まずは「やぁやぁ!我こそは○○国××に住む、姓は□□、名は△△…」的な感じで、
お互いに名前や家柄・身分などを声高らかに自己紹介してからタイマンをはるんだとか。

かたや、元・高麗連合軍の戦い方は、対象を大勢で攻撃する集団戦法(しゅうだんせんぽう)が基本です。
攻撃や退却などの指示は、遠くまで聞こえるようドラや太鼓の音でもっておこなうんだとか。
それはもちろん、御家人が自己紹介中でもお構いナシです!

日本の特撮モノとかって、ヒーローが変身してても、キメポーズしてても、ロボが合体してても、
一連の動作が終わるまで敵は律儀に待っててくれるじゃないですか!!

そんなこと、元・高麗連合軍は知らないんですよ!
だから待ってくんないんですよ!!
そもそも言葉が通じないから、自己紹介されてもナニ言うてるのか分かんないんですよ!!!

1274-2.jpg

さらに元・高麗連合軍は、毒をぬった矢を射ってきたり、
「てつはう」と呼ばれる20cmほどのボール状の爆弾を投げてきたりします。

御家人たちからすると、もうオドロキの連続です!
それでも肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)をはじめ、
御家人たちは元・高麗連合軍に必死に立ち向かいます!!
(ただし、御家人たちも集団戦法をとっていた、という説も近年提唱されています)

その様子を描いたのが、教科書でもおなじみのこの場面です。
馬に乗った竹崎季長が、元・高麗連合軍相手に奮闘する様子が描かれています。
てつはうが爆発している様子も見て取れますねー。
1274-3.jpg
「蒙古襲来絵巻」(もうこしゅうらいえまき)とか、
「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)と呼ばれるこの絵巻物については、
鎌倉時代(6)のまとめプリントと鎌倉文化のところで触れたいと思います。

やがて日が暮れたため、お互い戦闘を休止します。

そして夜が明けてみると…

なんと!
海に元・高麗連合軍の船がないのです!!
すっかり消えているのです!!!

これについて、
暴風雨に遭って元・高麗連合軍の船が沈んでしまった、とか、
元・高麗連合軍のなかで仲間割れが起こったため帰ってしまった、とか、
日本が想像以上に強くて、海の向こうから武器や援軍をすぐに補充できない元・高麗連合軍は、戦闘の継続を諦めた、とか、
御家人たちの実力をさぐるための威力偵察だった、とか、
さまざまな説が唱えられています。
なお、1274年10月20~21日は、いまのカレンダーだと11月末にあたるので、台風が原因という可能性は低そうです。

とにかく!
元・高麗連合軍が消えちゃったので!!
なんかよく分かんないけど!!!
文永の役は日本の勝利で終わったのですーーーッッ!!!!

ちなみに、この時代は情報の伝達にものっっすごい時間を要します。
文永の役に日本が勝利したころ、鎌倉幕府は対馬が襲撃されたことを知ったばかりで、
元・高麗連合軍の九州上陸に備えて、鎌倉から誰をリーダーにして軍勢を送るか、という議論をしておったようです。

いや、もう終わってるよーーーッ!
元・高麗連合軍に勝ったんよーーーーッッ!!
って、すっごい教えてあげたくなりますよね!!!

結局、鎌倉幕府が文永の役の勝利を知ったのは、11月に入ってからでした。
タイムラグハンパねぇーーーッッ!!(笑)

とにもかくにも日本が勝ったので、
鎌倉幕府は命懸けで戦ってくれた御家人たちにゴホウビを与えなければなりません。

でもねー…
これが正直キビシイのです…

普通はね、戦いに勝ったら相手の所領とかなんやかんやが手に入るので、
それを頑張った御家人たちにゴホウビとして与えられるんですよ。

しかし今回は…
元・高麗連合軍が海の向こうから攻めてきて、消えちゃったので…
勝利したとはいえ、御家人たちのゴホウビになるようなものを何も得られていないのです。

さらに、いつまた元・高麗連合軍が攻めてくるか分からないので、
異国警固番役をちゃんと制度化して強化し、
博多湾沿いに石を積んで防塁(ぼうるい、防御用のカベ)をつくるよう命じます。
このカベを石塁(せきるい)とか石築地(いしついじ)と呼びます。

さぁ果たして!
元・高麗連合軍は再び襲来するのか!!

来るよ!!!

てなわけで、次回は1281年の弘安の役をお届けします。

最後にゴロ合わせを載せておきますね-。

1274年.jpg

往ぬ(いぬ)って言葉、分かります?
関西では「立ち去れ!」って意味で「往ね!」という言葉を使ったりします(ワカモノは使わない)。

現代ではなじみのない言葉かもしれませんが、古典で習いますよね!
「な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね」って覚えるナ行変格活用!略してナ変!!それそれ。
「帰ってほしい!」ってことで「往になよ」と覚えてください。

あと、てつはう・集団戦法・毒をぬった矢、という元・高麗連合軍の情報も盛り込んでおきました☆

次回の更新は、なるべく早く!お届けできたらいいなぁ…
いつものろのろですみません…



参考文献
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞

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鎌倉時代(5) [まとめプリント]

今日は、鎌倉時代(5)のまとめプリントです。
鎌倉時代の武士について、イロイロ見ていきますよ~★

鎌倉5.jpg

まずはプリントの左側、武士の生活です。

①住居

中世の武士が住む家のことを、館(やかた、または、たち)と呼びます。
プリントには、河川に近い微高地(びこうち)に建てられることが多い、とありますが、
この時代の武士が家を構えるのは、川の近くの小高い場所がベストなのです。

なぜなら、川の近くは日常生活や農業に必要不可欠な水を手に入れるのに便利だし、
小高い場所は敵の襲来に気付きやすいうえ、もしものときには防御しやすいからです。

ここで、「一遍上人絵伝」(いっぺんしょうにんえでん)に描かれている館を見てみましょう。
教科書に出てくるワードはあらかじめ書き入れてあります。
(「一遍上人絵伝」については、のちのち鎌倉文化のまとめプリントでご紹介します)

館(文字あり).jpg

「一遍上人絵伝」は、時宗(じしゅう)をひらいた一遍(いっぺん)を描いた絵巻物なのですが、
もうねー、いろんなところに一遍が描かれているんですよ。
なので、ここにも一遍!そこにも一遍!!あそこにも一遍!!!と、ついつい一遍探しに夢中になってしまいます(笑)

ちなみに、上の場面にも一遍が2人描かれています。

黒い衣を着た丸坊主で猫背の男性なのですが…

見つかりましたか?

正解はコチラ。

館(一遍文字あり).jpg
(便宜上、2人の一遍をそれぞれ「一遍1」・「一遍2」とします)

いましたねー、一遍!!
では、一遍探しが終わったところで、館の様子を見ていきましょうー!!

館の周りは、堀(ほり)や板塀(いたべい)・土塁(どるい)などで囲います。
堀は溝のこと、板塀は板で作った塀のこと、土塁は土を盛り上げて作った壁のことですよ、念のため。
絵を見ると、堀と板塀で館を囲っている様子が分かりますね~(竹やぶの部分もアリ)。

また、館の入口には、監視・防御の場であり、かつ倉庫でもある矢倉(やぐら)を設置します。
「一遍2」が出ていこうとしている玄関の門の上にある、屋根のない小部屋がそれです。
この矢倉で、日頃は敵が襲って来ないか見張りをおこない、
もし敵が襲ってきたときには、そこに保管してある矢を放ったりして応戦するのです。

館の周囲は、堀・板塀・土塁・矢倉などでぐるりと守られていることが分かりましたね~。

次に、館の建物を見てゆきましょう。

「一遍1」と立ち話をしているのが、この館の主人なのですが、
主人やその家族が生活する建物を、母屋(おもや、主屋と書いてもOK!)と呼びます。
絵をよく見ると、母屋は板敷き(いたじき、フローリングのこと)で、畳を敷いている部分もあることが分かります。

ほかには、母屋の右側に、馬を飼育する厩(うまや)と、武芸の訓練をおこなう馬場(ばば)があるのが確認できます。
武士は、自分ちの厩でマイホース(ホースは馬ですよ!)を飼っていて、
いざというときに備えて、常日頃から馬場で馬に乗って戦う訓練に励んでおるのです。

ちなみに、母屋と馬場の間には鷹(たか)が描かれていますねー。
どうやらここの主人は、狩りで活躍する鷹も飼育しているみたいです。

それから、絵には描かれていませんが、館には侍(さむらい)という建物もつくられます。
これは、主人の家臣である郎従(ろうじゅう)たちの詰め所です。

さて、館のまわりはというと、基本的には田んぼが広がっています。
呼び方はイロイロで、佃(つくだ)とか、正作(しょうさく)とか、用作(ようさく)と呼んだり、
門田(かどた)と呼んだりします(呼び方の違いは気にしなくてヨイでしょう…)。
いずれも年貢(ねんぐ)や公事(くじ)のかからない直営の田んぼで、家族や下人が耕作します。

さらに武士たちは、近くにある荒れ地の開発もすすめ、その土地の地頭になります。
そして、農民から徴収した年貢を国衙や荘園領主におさめ、
それとは別に徴収したものを、加徴米(かちょうまい)として自らの収入にするのです。

②一族の結合

武家社会における一族の結合体制を、惣領制(そうりょうせい)と呼びます。
一族の構成メンバーは以下の通りです。

・惣領(そうりょう)、または、家督(かとく)
…一族の宗家(そうけ)のリーダー
 宗家とは、一族の中心となる家筋のことで、本家(ほんけ)とも呼びます
・嫡子(ちゃくし)
…惣領制において家督を相続する子ども、つまり跡継ぎ
 ちなみにこの時代、嫡子になるのは長男とは限りません
 お母さんの血筋や立場(正式な奥さんかどうか、など)がめっちゃ影響します
・庶子(しょし)
…嫡子以外のもの

この時代、一族における惣領の立場はとにかく絶対です。

鎌倉幕府との主従関係は、惣領が一族を代表して結びますし(庶子は、惣領を通じて結ぶのみ)、
いざという戦時には、惣領が庶子を率いて鎌倉幕府のために戦います。
軍役や課役も惣領が一括して引き受け、惣領がそれらを庶子たちに割り当てます。
あと、先祖の祭や一門の氏神(うじがみ、たいてい館の近くに祀ってある)の祭祀を主宰するのも惣領の役割です。

鎌倉幕府は、惣領を通じてそれぞれの一族を支配する体制をつくりあげるのです。

③相続形態

鎌倉時代の相続形態は、一族のみんなで分け合う分割相続(ぶんかつそうぞく)です。
といっても、分け前は均等ではありません。
次の惣領となる嫡子が一番たくさん相続し、のこりを庶子たち(女子もふくむ)で分け合います。

でもこれを何代も何代も続けてゆくと…
土地の細分化(さいぶんか)が進んでしまいます。

そこで、女子の相続した所領には、本人一代限りの領有しか認めず、死んだら惣領に返還する、というシステムが適用されるようになります。
これを一期分(いちごぶん)といいます。

一期分は、やがて女子に限らず広く適用されるようになり、
鎌倉時代末期には、嫡子(次の惣領)が一人で相続する単独相続(たんどくそうぞく)に移行します。
分割相続 → 単独相続、この順番はしっかり理解しておきましょう☆

鎌倉5-2.jpg

ちなみに、分割相続では一族の結合は強まる傾向にありますが、
単独相続だと庶子たちの不満が募り、惣領の座をめぐって兄弟たちが争う、なんてことも起こります…

④武芸の訓練

前述の通り、武士たちは常日頃からマイホースに乗って戦う訓練にはげんでいます。
とくに訓練をしたのが、次の3つです。
・流鏑馬(やぶさめ)
…走る馬にまたがりながら、3つの的(まと)を順番に射る武芸
 このとき用いる矢は、先端近くにカブみたいな形のパーツをつけた鏑矢(かぶらや)というもので、
 射るとカブにあけられたいくつかの穴に風が通ってものすごい音が鳴るんだとか 
 鏑矢を使うから鏑の漢字が入っておるわけですが…いやホント読めないし書けませんよね…(泣)
 ちなみに、神事として流鏑馬をおこなう神社もあるので、目にする機会があるかもしれません
 鎌倉5-1.jpg
 ↑ これは京都の下鴨神社(しもがもじんじゃ)でおこなわれた流鏑馬神事の写真です
  2003年に撮影した写真なので…たいへん…古いです…
 流鏑馬2(文字あり).jpg
 ↑ 四角い的に向かって鏑矢が放たれた瞬間をとらえた写真なのですが…
  見物客が多すぎて見えねェェェ!!ス、スミマセン…
  それにしても…密ですよねー…コロナ禍の今では考えられないギュウギュウっぷり…
  そしてデジカメとケータイのビジュアルに歴史を感じます…
  でも流鏑馬のビジュアルは、きっと鎌倉時代から変わっていないのだ
・笠懸(かさがけ)
…走る馬にまたがりながら、30mくらい離れたところにセットした的を射る武芸
 もともとは、射る人の笠を木に懸けたものを的にしていたようですが(だから笠懸)、
 このころには、丸い板に革を張ったものを木枠にぶら下げて的にしていたんだとか
 笠懸(文字あり).jpg
 (絵巻物「男衾三郎絵巻」(おぶすまさぶろうえまき、鎌倉文化で紹介予定)より)
・犬追物(いぬおうもの)
…囲いのなかに犬を放ち、それを馬上から射る武芸
 犬を傷つけない特殊な鏑矢を用いるとのことですが…
 そうは言っても…ねぇ…
 ということで、現在はおこなわれておりません
以上の流鏑馬・笠懸・犬追物の3つをまとめて騎射三物(きしゃみつもの)と呼びます。
ほかには、広い原野でシカやイノシシなどの獣を大人数で追い込んで射る巻狩(まきがり)も行われました。

それからそれから…

武士とは、武勇を重んじ、我が身を犠牲にしてでも主人に尽くし、一門・一家の誉(ほま)れを尊ぶ精神をもち、恥を知る態度をもつ者たちであったようです。
彼らの日常生活のなかから生まれる道徳は、「武家のならい」とか「兵(つわもの)の道」とか「弓馬(きゅうば)の道」などと呼ばれ、後世の武士道(ぶしどう)の起源になったと考えられます。

また、武士の生活が質素で簡素であったことを伝える2つのお話を紹介しておきましょう。

源頼朝(みなもとのよりとも)のもとに、オシャレが大好きな藤原俊兼(ふじわらのとしかね)という家来がいました。
あるとき、着物をいっぱい重ね着してコーディネートを楽しんでいたところ、
源頼朝から「お前は才能があるのに倹約を知らない、ぜいたくをヤメロ」と言われ、刀で袖を切りとられたんだとか。
たまにハデハデな武士がいると、ガチで叱られるようです(笑)

もう1つは『徒然草』(つれづれぐさ)に収録されているお話。
ある夜、北条の一族である大仏宣時(おさらぎのぶとき)が、
北条時頼(ほうじょうときより)から「いまからウチに飲みに来いよ」と誘われます。
着ていく服を探していると、「夜なんだし服装なんかどうでもいい、早く来い」と矢の催促。
あわててテキトーな服をまとい、急いで北条時頼の家に行くと…
「この酒を一人で飲むのは淋しいから呼んだのだ。家の者はみんな寝ているから…台所にナニかおツマミになるものがないか探してこい」と言われます。
大仏宣時は台所へゆき、小皿についていたお味噌を発見します。
北条時頼は「これでじゅうぶん ♪」と言い、2人はそれをおツマミにしてお酒を酌み交わしたんだとか。

いや…ちょっと…淋しいからって夜に呼び出しといてヒドくない?
そこあんたのウチやん、大仏宣時が来るまでおツマミ探す時間あったやん…と突っ込みたくなります…

んが!
ここでは「小皿についていたお味噌をツマミにお酒を飲んだ」という武士の質素さを感じ取っていただきたいデス!!(でもすごく突っ込みたい)



続いてプリントの右側にうつりましょう。
武士の土地支配についてです。

①紛争の発生

1185年、鎌倉幕府は荘園・公領ごとに地頭を設置します。
といっても、まだまだ西日本は朝廷の力が強いので、東日本が中心です。

その後、1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)をきっかけに、
鎌倉幕府の支配権は全国に広がり、西日本にも地頭が設置されるようになります。

するとねー…
まぁーモメるんですよ、これが。

だって鎌倉幕府から派遣されたヤツが、いきなりその土地の地頭になるワケですよー。
しかも、おのれの支配権を広げる気まんまんなうえ、
風水害とかを理由に、年貢を滞納したり、横領したりする地頭まで現れる始末。

うん、モメないはずがナイ!!!(笑)

そこで鎌倉幕府は、1232年に御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定したり、
1249年に引付衆(ひきつけしゅう)を設置したりして、モメごとに対処します。

といっても、追いつかないんですよねーーーー…
鎌倉幕府は、なるべく当事者間で紛争を解決する和与(わよ)を推奨します。

②紛争解決の手段

和与には2つのパターンがあります。

・地頭請(じとううけ)、または、地頭請所(じとううけしょ)
 荘園・公領の領主が、地頭に荘園の管理いっさいを任せるかわりに、
 毎年一定額の年貢納入を請け負わせる制度
 領主のメリットは、その年が豊作・凶作にかかわらず、一定額の収入を確保できるところです
 一方、地頭は、凶作のときのリスクは負うものの、
 領主に一定額の年貢さえ納めれば、残りはすべて自分のものにできるというメリットがあります

・下地中分(したじちゅうぶん)
 地頭と荘園領主で荘園を分割して相互の支配権を確認し、
 以後はお互いに侵略しないことを約束する制度
 もう地頭とモメたくない!めんどくさい!!こっちのことはほっといてくれ!!!てことですね~
 次の地図を見てください
 赤い線を引いて領家(りょうけ、荘園領主のこと)分と地頭分に折半していることが分かります
 下地中分.jpg
 境界線を緑色でなぞって分かりやすくしてみました
 赤丸には「領家分」、青丸には「地頭分」と書いてあります
 下地中分(文字あり).jpg
 
地頭請や下地中分がおこなわれた結果、地頭は所領における支配権をますます強めます。
それはゆくゆく荘園公領制の崩壊につながってゆくのですが…
これについては、また改めて解説したいと思います。

こまごまと説明していたら長くなってしまいました…
そしてコロナ禍でブログを書く時間が全然つくれません…更新おそくてゴメンナサイ…

では、最後に解答を載せておきますね★

鎌倉5解答.jpg



次回は、文永の役(ぶんえいのえき)のゴロ合わせをお届けします★

ちなみに…すんごくどうでもよいことなのですが…
10年ほど愛用していた複合機をようやく買い換えた結果、
イラストが濃くスキャンされるようになりました…
ベタ塗りの部分のムラが見えなくなって嬉しい…それだけです(笑)

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【画像出典】
広報ふじさわ:http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/sumafo/khf-s150925/sisei19_s.html
wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/笠懸
      https://ja.wikipedia.org/wiki/下地中分

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鎌倉時代(4) [まとめプリント]

今日は、鎌倉時代(3)の続きを見ていきます。
承久の乱(じょうきゅうのらん)のあと、3~5代目の執権(しっけん)による政治をまとめますよ☆

鎌倉4.jpg

最初に取り上げるのは、
2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)の息子である北条泰時(ほうじょうやすとき)です。

北条泰時は、1221年の承久の乱において、
オジサンの北条時房(ほうじょうときふさ、北条義時の弟)とともに大軍を率いて京に攻めのぼり、
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)サイドに勝利します。
2人はそのまま京にとどまって戦後処理にあたり、
初代・六波羅探題(ろくはらたんだい)となって朝廷の監視などにつとめます。

甥っ子&オジサンコンビ、大活躍です☆

その後、1224年にお父さんの北条義時が急死したため、
北条泰時は鎌倉に戻って3代目の執権に就任します。
40歳を迎えて間もない北条泰時が、豊かな政治経験をもとに、いよいよ執権として駆けだすのです!

ところが!
そんな矢先!!

1225年に鎌倉幕府の重鎮である大江広元(おおえのひろもと)と北条政子(ほうじょうまさこ)が相次いでこの世を去ってしまいます。

執権に就任したばっかりなのに、オオモノが次々と亡くなっちゃって大ピンチ!
かと思いきや…

北条泰時は、オオモノたちの死をきっかけに、
強力なリーダーが政治を主導するスタイルではなく、
みんなで鎌倉幕府を動かしてゆくスタイルを目指しはじめます。

オオモノがいなくなった今だからこそできる改革に着手したとゆーワケです!
さすが政治経験値の高いアラフォー執権の北条泰時です!!

1225年、北条泰時は改革の手始めとして、オジサンの北条時房を鎌倉に呼び戻し、
執権の補佐役である連署(れんしょ)に任命します(1224年の執権就任時に置いたという説もアリ)。
ちなみに、連署という役職名は、鎌倉幕府が出す命令文とかに、執権と並んで名で名することに由来します。

甥っ子&オジサンコンビ、再結成ですね☆
北条泰時と北条時房、この2人はコンビで覚えておきましょう!!

鎌倉4-1.jpg

北条泰時の相方は、フサフサの北条時房ってことで覚えちゃいましょう!
(北条時房がフサフサだったかどーかは知りません!笑)

さらに北条泰時は、有力御家人や政務にすぐれた者のなかから11人を選び出し、
評定衆(ひょうじょうしゅう)に任命します。
評定衆は、執権・連署とともに政所(まんどころ)に集まって重要なコトを決定するメンバーなのですが、
この執権1人+連署1人+評定衆11人の合計13人で構成される鎌倉幕府の最高決裁会議を、
評定(ひょうじょう)と呼びます。

13人の会議といえば…十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)ってのがありましたねー!
評定はそれをモデルに始まったのかもしれません。
ただし、評定衆の人数は14~15人に増えたりするので、評定の構成メンバーは13人とは限りません。
それから、評定衆に選ばれるのはたいてい北条氏の一族です。

このように、3代執権の北条泰時は、連署を設置したり、評定衆を任命して評定をひらいたりして、
みんなで鎌倉幕府を動かしてゆくスタイルを確立してゆきます。

ちなみに、1226年に藤原頼経(ふじわらのよりつね)、または九条頼経(くじょうよりつね)が鎌倉幕府の第4代将軍に任命されますが、評定には呼ばれません。
あくまでも評定のトップは執権なのです。

もしかしたら…北条泰時は、将軍による専制政治を防ぐために、
あらかじめ執権を頂点とする合議システムを作っておいたのかもしれませんね…

このほか、北条泰時がおこなったことといえば…

アレです!
アレアレ!!

1232年の御成敗式目(ごせいばいしきもく)、または貞永式目(じょうえいしきもく)の制定です!!
これは大事ですよ~、詳しくはゴロ合わせを読んでくださいね☆

御成敗式目ができて、これで安安泰★
ってことで、制定したのは北条時であることを覚えちゃいましょう ♪

御成敗式目制定から10年後の1242年、北条泰時は病気のためこの世を去ってしまいます。



北条泰時の嫡男(ちゃくなん)は、若くして亡くなったため、
4代目の執権には、その嫡男の息子である北条経時(ほうじょうつねとき)が就任します。
北条泰時にとっては、孫にあたる人物です。

北条経時は、このとき満19歳です。
政治経験の乏しいワカゾーが執権に就任したことを1つのきっかけに、
北条氏の執権政治に不満を持つ者たちが、将軍・藤原頼経のもとに集うようになります。

満1歳で鎌倉にやってきて、満7歳で元服(げんぷく)して将軍となった藤原頼経も、すでに満26歳。
立派なオトナになったものの、評定に呼ばれることもなく、鎌倉幕府から絶賛ハブられ中です。

そんな将軍・藤原頼経が、
執権のワカゾーよりオニイサンだし、官位も高いし、血筋もいいし、朝廷とのパイプもあるし…で、
反北条のシンボルとしてかつがれるようになるのです。

これを危険と判断した北条経時は、1244年に藤原頼経を将軍の座から追いやってしまいます。
かわって将軍となったのは、藤原頼経の息子である満4歳の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)、または、九条頼嗣(くじょうよりつぐ)です。
ウン、執権のがだいぶオニイサンだから安心だね☆(笑)

しかし、ほどなく北条経時は体調を崩してしまい、
1246年に執権の座を弟に譲るやいなや、この世を去ってしまいます。

*   *   *

5代目の執権は、満18歳の北条時頼(ほうじょうときより)です。
これまたワカゾーが執権に就任したことで、
反北条勢力は、鎌倉にとどまっていた前将軍・藤原頼経のもとに再び集いはじめます。

そこで北条時頼は、藤原頼経を京都に強制送還し、
彼のもとに集まっていた反北条勢力を処分してしまいます。

さらに、1247年の宝治合戦(ほうじがっせん)で有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)の一族を滅ぼし、
北条氏の地位を不動のものとするのです。

その後、1249年に引付衆(ひきつけしゅう)を設置し、
御家人たちの所領にまつわる訴訟を専門に担当させて、公平で迅速な裁判制度の確立を目指します。

また、このころの鎌倉幕府は、朝廷に大きな影響力を及ぼせるほどに成長しており、
北条時頼は1246年、朝廷に政治の刷新と制度の改革を要求します。
院政をおこなう後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)は、この求めに応じて、
鎌倉幕府にならって院に評定衆を設置します。

そして、とある陰謀へのかかわりを疑われた藤原頼嗣を京都に送還し、
1252年、後嵯峨上皇の息子である宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉幕府の第6代将軍として迎えるのです。

以後、皇族出身の将軍が4代続きますが、
彼らをまとめて皇族将軍(こうぞくしょうぐん)とか、親王将軍(しんのうしょうぐん)とか、宮将軍(みやしょうぐん)と呼びます。
皇族将軍ももちろん評定には呼ばれず、実権はありません!

このように、北条時頼は独裁体制を確立するのです。

では、最後に解答を載せておきましょう!

鎌倉4解答.jpg

空欄2の執権・空欄4の評定衆・空欄5の評定・空欄23の引付衆の枠線がそれぞれ水色で囲まれているのは、鎌倉時代(2)によるものです。
承久の乱のあとに設置されたものを、しっかり色分けしておいてくださいね~!!



次回は、鎌倉時代(5)のまとめプリントです。
武士の生活などをまとめていきますよ★

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1249年 引付衆を設置する [年号のゴロ合わせ]

今日は、1249年に設置される引付衆(ひきつけしゅう)を、ゴロ合わせとともにお届けします。



鎌倉幕府は1232年に御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定しますが、
所領に関するモメゴトはあとをたちません。

そこで1249年、5代執権(しっけん)の北条時頼(ほうじょうときより)は、
御家人たちの所領に関する裁判が迅速に公正におこなわれるよう、
評定衆(ひょうじょうしゅう)のもとに引付(ひきつけ)という組織をつくります。

引付を構成するのは、次の3つの役職です。
・頭人(とうにん)…リーダー、1名、評定衆から選出
・引付衆…数名、うち2~3名は評定衆から選出
・引付奉行人(ひきつけぶぎょうにん)…書記、数名

このメンバーで1つの引付チームがつくられ(チーム数は時代によって変わります)、
それぞれのチームで、以下のような手順で訴訟の審理にあたります。

1249-1.jpg

図の左上の方、「スタート」と書いてある場所から見ていきましょう。

訴えたいことがある人は、はじめに問注所へ訴状(そじょう)を提出します。
訴え出た人、つまり原告(げんこく)を、訴人(そにん)と呼びます。

問注所は、訴状を審査し、
その内容が御家人の所領にまつわるものであれば、引付奉行人にまわします。
(借金や土地の売買などにまつわる訴状は、そのまま問注所で扱います)

訴状を受け取った引付奉行人は、「こんな訴状が届きましたよー」と訴えられた人に書面で通達します。
訴えられた人、つまり被告(ひこく)を、論人(ろんにん)と呼びます。

論人は、訴状に対する反論をしたためた陳状(ちんじょう)を引付奉行人に提出すると、
引付奉行人は、「こんな陳状が届きましたよー」と訴人に書面で通達します。

すると、訴人は陳状に対する反論をしたためた2通目の訴状を引付奉行人に提出し、
論人は2通目の訴状に対する反論をしたためた2通目の陳状を引付奉行人に提出します。

するとすると、訴人は2通目の陳状に対する反論をしたためた3通目の訴状を引付奉行人に提出し、
論人は3通目の訴状に対する反論をしたためた3通目の陳状を引付奉行人に提出します。

てな感じで、書面によるやりとりが訴人と論人それぞれ3回ずつ行われるので、
これを三問三答(さんもんさんとう)と呼びます。

三問三答が終わると、いよいよ直接対決です。
引付から召文(めしぶみ)という呼出状が届くと、
訴人と論人はそれぞれ引付に出頭し、引付衆らのもと口頭弁論をおこないます。

引付は、これらをふまえて判決原案を作成し、評定におくります。
そして、評定が最終的な判決をくだすと、
図の「ゴール」のところにあるように、引付から勝訴人に判決書が届けられます。

以上が引付による訴訟審理の手順です。
ちなみに、引付がつくった判決原案が、評定でくつがえることはありません。
だって、引付の頭人と引付衆の数名は評定衆のメンバーですからねー。

細かいことをイロイロ書きましたが、要するに、

めちゃくちゃ多い御家人の所領にまつわるモメゴトを“なるはや”でさばくため、
北条時頼は専門機関として引付(引付衆はそれを構成するメンバー)をつくった

とゆーことです。

それでは最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1249年.jpg

なかなか判決出なかったら胃に悪いもんね~…



次回は、鎌倉時代(4)のまとめプリントをアップします!

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1247年 宝治合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、三浦泰村(みうらやすむら)が滅ぼされる宝治合戦(ほうじがっせん)を取り上げます。
宝治合戦でキーとなるのは、三浦氏(みうらし)・安達氏(あだちし)・北条氏(ほうじょうし)の3つの一族です。
では、順番に見ていきましょう~。



まずは三浦氏です。

三浦泰村のおじいちゃんである三浦義澄(みうらよしずみ)は、
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で功績をあげるなど、
古くから源頼朝(みなもとのよりとも)と主従関係を結んでいた人物です。
源頼朝の死後は、十三人の合議制のメンバーにも選ばれています。
鎌倉時代(3)のプリントで確認してみてください、いますよ!)

三浦泰村のお父さんは、
娘が北条泰時(ほうじょうやすとき)と結婚して長男を産んだため、
北条氏の外戚(がいせき)となって力をのばします。
梶原景時(かじわらかげとき)・畠山重忠(はたけやましげただ)・和田義盛(わだよしもり)などなど、
有力御家人の死にもことごとく関わっている人物です。

このように、三浦氏は代々鎌倉幕府の有力御家人として活躍しており、
三浦泰村もまた、1225年に設置される評定衆(ひょうじょうしゅう)のメンバーに選ばれます。
さらに、4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)、または九条頼経(くじょうよりつね)とも親密な関係を築き、北条氏に匹敵しうる一族として存在感を高めてゆきます。

*   *   *

次に安達氏です。

安達景盛(あだちかげもり)も、古くから源頼朝と主従関係を結んでいた人物です。
3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の死をきっかけに、出家して高野山(こうやさん)に入るものの、
ことあるごとに鎌倉幕府にがっつり顔を出してくるおじいちゃんです。

承久の乱(じょうきゅうのらん)のときも、わざわざ鎌倉にやって来て、
あの北条政子(ほうじょうまさこ)の演説を代読した、とも伝わっています。

宝治合戦のきっかけをつくった人物ですが、
教科書的には覚えなくてよい名前なので、ここでは“安達おじいちゃん”と呼んでおきます。

安達氏も有力御家人の一族ですが、三浦氏には及ばない、といったところです。
安達おじいちゃんは、そんな三浦氏をライバル視しています。

*   *   *

ラストはご存知、北条氏です。

このころの執権(しっけん)は、3代執権・北条泰時の孫である、
5代目の北条時頼(ほうじょうときより)です。

北条時頼は、北条泰時の孫という点が注目されがちですが、
彼のお母さんは安達おじいちゃんの娘なので、実は安達おじいちゃんの孫でもあります。

しかも、お母さん側のおじいちゃんなので…

そうです!
安達おじいちゃんは北条時頼の外戚なのです!!
それなのに、安達氏は三浦氏より格下扱いされていて、安達おじいちゃんはご立腹です。

さて、そんなおじいちゃんズをもつ北条時頼は、
お兄ちゃんである先代の執権・北条経時(ほうじょうつねとき)の死を受けて、
1246年に満18歳という若さで5代目の執権に就任します。

するとねー、ワカゾーだからってナメられるんですよ!

お兄ちゃんが満19歳で4代執権になったときも、それはそれはもうナメられました。
執権がワカゾーであるのをいいことに、
反北条の御家人たちが、4代将軍・藤原頼経のもとに集うようになったのです。

よって1244年、北条経時は藤原頼経を将軍の座から引きずり下ろし、
わずか満4歳の息子、藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)、または九条頼嗣(くじょうよりつぐ)を5代将軍としたのです。

ワカゾーだからってナメんなよ!って話です。

しかし、その2年後にワカゾー執権の北条経時がこの世を去り、
またもやワカゾーの北条時頼が執権に就任します。

すると、鎌倉で“大殿(おおとの)”なんて呼ばれて慕われていた前将軍・藤原頼経は、
再び反北条のシンボルとしてかつがれるようになるのです。

これに気付いた北条時頼は、なんと藤原頼経を京都に強制送還し、
彼の周辺にいた反北条の御家人たちも処分してしまいます。

ワカゾーブラザーズをなめんなよ!って話です。

ただし、このとき北条時頼は三浦氏を処分していません。
三浦泰村は古くから藤原頼経と親密な関係にあり、
また彼の弟も、反北条のリーダー的存在として藤原頼経のそばにいたのに…です。

北条時頼は、古参の有力御家人である三浦氏とモメたくなかったのかもしれません。

とにもかくにも、これによって反北条勢力のほとんどが排除されたため、
北条氏は執権としての地位を確固たるものとするのです。

*   *   *

さぁ、ではこの3つの一族によって引き起こされる宝治合戦を見ていきましょう。

1247年、宝治元年(ほうじがんねん)になると、怪異(かいい)が頻発します。
怪異とは、よからぬことが起きる前触れとも捉えられる怪奇現象のことなのですが、
このときは、鎌倉でアリとか黄色いチョウチョとかが大量発生したり、
謎の飛行物体が目撃されたり、海が赤く染まったりします。

なにかが起こりそうでみんながソワソワするなか、
安達おじいちゃんが久しぶりに高野山をおりて鎌倉にやってきます。

安達おじいちゃんは、孫の北条時頼や、安達家の息子や孫たちが、
三浦氏に気を遣ってそこそこ仲良くしているのが許せなくって、彼らを叱りに来たようです。

でもネー…
全然響かなかったんですネー…

だって、北条時頼も安達家の人たちも、三浦氏とモメたくないんですもん。

するとあるとき、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に、
「三浦泰村は近いうちに討たれるであろう~~~」
なんてゆー予言めいた看板が立てられます。

この看板、一体ダレが立てたのでしょうか…

えっ?
安達おじいちゃんじゃないの??

イヤイヤ、ウン、真相は不明です。

看板のこともあって三浦泰村との関係は一時不穏になりかけますが、
北条時頼はなんとか丸くおさめます。

それなのにぃーーーーーーッッ!

そんな孫の態度に業を煮やした安達おじいちゃんは、
ついに安達氏の孫である安達泰盛(あだちやすもり)に、三浦泰村の屋敷を襲撃させてしまいます!!

こうなったら北条時頼も引くに引けません。
やむなく三浦泰村討伐の命を出すのです。

屋敷のまわりに火をかけられた三浦泰村は、
三浦氏の一族や前将軍・藤原頼経をしたう者たちとともに、源頼朝のお墓までのがれます。
そこに、反北条のリーダー的存在として抵抗を続けていた弟も合流し、みんなで自害します。
その数は500名を超えたのだとか…

1247-1.jpg

このとき、三浦泰村の弟は、自分の首が北条氏や三浦氏の手にわたらないよう、
誰か分からなくなるまで自らの顔を切り刻んだと伝わっています。
三浦泰村からは、「源頼朝のお墓にあるものに血が飛ぶからやめなさい!」とたしなめられたそうな。

そんな三浦泰村は、
「代々鎌倉幕府に仕えてきた三浦氏なのに、事実ではない事柄によって滅ぼされるという辱めを受け、恨みと悲しみは深い。父は有力御家人の死にことごとく関わり、罪業(ざうごう)を負ったため、これはその報いなのであろう。これから死にゆく身なので、もはや北条氏に恨みはない」
などと言い残したそうです。

イヤ、恨んでるよね…
ウン、まぁ恨むよね、フツーね。

この1247年の宝治合戦によって、三浦氏の一族と将軍家をしたう反北条の御家人たちが一掃され、
北条時頼の独裁体制が確立するのです。

それでは、今日のゴロ合わせ。

1247年.jpg

法事(ほうじ)と宝治(ほうじ)をかけてみましたが、
漢字、間違えて覚えないでくださいね!!

北条時頼は丸くおさめようとしているのに、
安達おじいちゃんが2DAYS法事という挑発をしてきて苦しむ三浦泰村、ってな感じです。
なんじゃそりゃ!!(笑)



次回は、1249年に設置される引付衆(ひきつけしゅう)を、
ゴロ合わせとともにお届けします。

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