SSブログ
前の10件 | -

平安時代(19) [まとめプリント]

今日は院政期の文化(いんせいきのぶんか)の2回目、
絵巻物(えまきもの)と装飾経(そうしょくきょう)をまとめていきましょう。

平安19.jpg

まずは絵巻物です。
絵巻物とは、絵と詞書(ことばがき)を交互にかいて、
人物の動きや時間の進行を表現する巻物です。
とくに院政期には、大和絵(やまとえ)の技法をもちいた立派な絵巻物がたくさんつくられます。
当時の貴族たちは、これをどんな風に楽しんだのでしょうね…

平安19-10.jpg

これから、院政期につくられた絵巻物の代表例を5つご紹介しましょう!
おもしろいものが多いので、ついついアツく語ってしまうと思いますが、何卒ご了承ください(笑)

①「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)
紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』(げんじものがたり)を題材とする絵巻物です。
絵の部分は、華やかで雅な貴族社会の様子を繊細に描いており、
作者は藤原隆能(ふじわらのたかよし)ではないかと言われていますが、確証はありません。
現在は断片的にしか残っておらず、
愛知県の徳川美術館(とくがわびじゅつかん)などが所蔵しています。

「源氏物語絵巻」に用いられているおもな技法は、次の2つです。
● 引目鉤鼻(ひきめかぎばな)
…大和絵で顔を描くときに用いられる技法
 目は細い筆でスッと線を引いて描き、
 鼻は同じく細い筆で鉤(かぎ)のような形(釣り針みたいな形のこと)に描くこと
● 吹抜屋台(ふきぬきやたい)
…建物の屋根と天井がないものとして、部屋の中を描く技法

平安19-6.jpg

↑ この場面は、最近めっきり見なくなった二千円札の裏面に用いられているのですが、
引目鉤鼻と吹抜屋台の技法がよく分かりますね!

*   *   *

②「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)
866年に起きた応天門の変(おうてんもんのへん)を題材とする絵巻物で、
絵は常盤光長(ときわみつなが)が描いたとされています。
現在は、東京都の出光美術館(いでみつびじゅつかん)が所蔵しています。

ところで、応天門の変…
覚えていますか??

866年のある日、朝廷の門の1つである応天門(おうてんもん)が炎上。
大納言(だいなごん)の伴善男(とものよしお)の告発によって、
左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)が容疑者として捕まるも、ほどなく釈放。
最終的には、伴善男が真犯人として捕まり流罪となった、という事件です。
ちなみに、「伴大納言絵巻」の伴大納言とは、大納言の伴善男を意味しています。

ここで、プリントにも載せた場面を見てください。

1920px-Ban_dainagon_ekotobaL.jpg

↑ 衣冠(いかん)姿の貴族や弓矢を携えた武士など、様々な人間が表情豊かに描かれています。
よく見ると、ほとんどが右の方を見てビックリしていますね。
そっちの方向にナニがあるのかというと…
そうです、燃えさかる応天門です!

Ban_Dainagon_Ekotoba_-_The_fire.png

↑ ちょっと想像以上の燃え方してるーーーッッ!!!(汗)
炎や黒煙の描き方がかなり写実的で、その恐ろしさが伝わってきます。
黒煙の流れ方を見ると、さきほどの群衆は風上にいることが分かります。

平安19-7.jpg

↑ 青丸のところを見てくださいよ!
風上だからって安心しているのでしょうか、
どさくさにまぎれてチカンをしようとしている男性が描かれております…(チカンアカン!)

絵巻物はこのあと、
源信の逮捕→源信の釈放→真犯人の発覚→伴善男の逮捕、と続いてゆきます。

それにしても、事件から300年もたった院政期に、
どうしてこんな立派な絵巻物が描かれたのでしょうか…
事件も絵巻物も謎だらけです。

*   *   *

③「信貴山縁起絵巻」(しぎさんえんぎえまき)
奈良県の信貴山(しぎさん)という山に、
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)というお寺があります。

これは、朝護孫子寺の命蓮(みょうれん)というお坊さんが起こしたミラクルの数々を描いた絵巻物です。
・「山崎長者の巻」(やまざきちょうじゃのまき)
・「延喜加持の巻」(えんぎかじのまき)
・「尼公の巻」(あまぎみのまき)
というタイトルのついた3本の絵巻物で構成されているのですが、
なかでも有名なのが「山崎長者の巻」、通称「飛倉の巻」(とびくらのまき)です。
おもしろいので、簡単にストーリーをご紹介しましょう。

信貴山にこもる命蓮は、ふもとにある長者の家まで法力で鉢を飛ばし、
そこに食べ物などを載せてもらって修行に励んでいました。

ん?
ホーリキで??
ハチを飛ばす???

え?
なにそのミラクル…
ちょっと理解できないんだけど…

ですよね。
分かります。
分かりますけど、命蓮のミラクルはこんなもんじゃありませんので、
とりあえずこのまま続きを読んでください。

ある日、いつものように長者の家に命蓮の鉢が飛んできたのですが、
何度も何度も飛んでくる鉢をうとましく思った長者は、
鉢を米倉のなかに入れたまんまカギをかけてしまいます。

すると!
突然米倉がゴゴゴゴゴと地面から浮き上がったのです!!

そして!
米倉の扉がバーンと開き、なかから鉢が飛び出したのです!!

さらに次の瞬間!
鉢が浮き上がった米倉を載せて飛んでいってしまったのです!!

エエェェェーーーッッ!!!でしょ。

Tobikura_no_maki_(flying_storchouse).jpg

↑ ホラ見てください、みんな表情豊かに「エエェェェーーーッッ!!!」って驚いてます。

果たして米倉はどこへ飛んでいってしまったのでしょう…
命蓮のミラクルは、まだまだ続きます。

長者たちが空飛ぶ米倉のあとを追ったところ、たどり着いたのは信貴山でした。
米倉は、命蓮の庵(いおり)のそばにドスンと落ちていたのです。

長者は「米倉を返してください…」と命蓮に訴えます。
すると命蓮は、
「せっかく飛んできた米倉はここで使わせてもらいたい。中身だけ返しましょう」
と答えます。

米倉返さへんのかいっ!!という突っ込みはさておき、
とりあえず長者は、米倉の中にある大量の米俵は返してもらえることになりました。

とはいえ、米俵ってめちゃくちゃ重たいんですよ。
とてもじゃないけど長者の家まで運べそうにありません。
困り果てている長者を見かねた命蓮は、米俵を1つだけ鉢の上に置くよう命じます。

すると!
米俵を乗せた鉢がフヨフヨと浮き、長者の家の方へと飛んでいったのです!!

さらに!
残りの米俵もフヨフヨと浮き、先頭の鉢を追って次々と飛んでいったのです!!

そして!
米俵は、米倉のあった場所にドサドサドサッッと返ってきたのです!!

超ミラクル~!!!!

Return_of_the_rice.jpg

↑ 米俵が空から降ってきたときの、長者の家にいる人たちの顔を見てくださいよ!
もうみんな「ウギャーーーーーッッ!!」って表情です!!
そりゃそーだよ、ビックリするよ!!!

以上、長くなりましたが「山崎長者の巻(飛倉の巻)」はこんなお話です。
とにもかくにも、米俵が戻ってきてめでたしめでたしです(あれ?米倉は??)。

プリントには、「延喜加持の巻」の一場面も載せています。

延喜といえば…?
そうです、延喜の治(えんぎのち)です。

誰がおこなったか覚えていますか?
そうです、醍醐天皇(だいごてんのう)です。

忘れたなー!って人は、902年のゴロ合わせを復習してくださいね。

せっかくなので、「延喜加持の巻」も簡単にストーリーを紹介しておきましょう。

あるとき、醍醐天皇が重い病気にかかってしまいます。
命蓮のミラクルを耳にした醍醐天皇の側近は、信貴山にいる命蓮に加持祈禱(かじきとう)を依頼します。
ところが、命蓮は都には行かず、ここ、つまり信貴山で加持祈禱をおこなうと主張します。
基本、命蓮は信貴山から動かないのです。

「私の加持祈禱によって醍醐天皇の病気が癒えたときは、
剣の鎧(よろい)を着た護法童子(ごほうどうじ)を遣わしましょう」と言う命蓮。

それから3日後、醍醐天皇のもとにやってきたのは…

Bishamonten_messager.jpg

↑ 剣の鎧をなびかせながら、
霊力を秘めた輪宝(りんぽう)をサッカーボールのように転がしながら疾走する護法童子です。
ワタシ的には髪の毛の散らかり具合がツボです。

右から左に見ていく絵巻物のなかを、
左から右へビューーーンと飛んでくる護法童子のスピード感が素晴らしいです。
輪宝の回転と、護法童子の速さをあらわす線の表現なんて、まるで現代のマンガですよ。

この輝く護法童子の姿を夢に見た醍醐天皇は、たちまち元気になったといいます。
命蓮、すごいよね!!!!

*   *   *

④「鳥獣戯画」(ちょうじゅうぎが)
これは超有名ですね~。
カワイイ動物たちが登場する、とってもコミカルな絵巻物です。
4本の絵巻物で構成されていて、なかには人間が登場するものもあるので、
「鳥獣人物戯画」(ちょうじゅうじんぶつぎが)と呼ぶこともあります。
所蔵しているのは、京都府の高山寺(こうざんじ)です。

なかでも有名なのは、このシーンでしょう!

平安19-4.jpg

↑ ウサギとカエルが相撲をとっています。

まずは右側。
2匹のウサギが応援するなか、ウサギとカエルが組み合っています。
なんとカエルがウサギの耳をかんでおります!
それ反則じゃないのか!!

そして左側。
ウサギを投げ飛ばすカエル!
勝者であるカエルの口からは、まるで「おりゃーっ!!」という声が出ているかのようです。
観客のカエル3匹は、仲間の勝利に大喜びです。

いやー、楽しそうでいいですね。
なんてったって、みんなカワイイです。

ちなみに、平安時代(9)にも書きましたが、相撲は宮中における年中行事の1つです。
貴族社会をまねているのでしょうか、
「鳥獣戯画」には、ほかにも年中行事に興じる動物たちの様子が描かれています。

次のシーンは、プリントに載せた部分です。

平安19-5.png

↑ サルのお坊さんが、カエルの仏様の前でなにやらお経を読んでいます。
その奥では、嘆き悲しむキツネやサルの姿が見て取れます。
ワタシ的には、烏帽子を(えぼし)をかぶってタレ耳になっているウサギがたまりません。

これに続くのは、こんなシーンです。

平安19-3.jpg

↑ 読経を終えたサルのお坊さんのもとに、お礼の品々がどんどん運ばれます。
それを見てニンマリするサルのお坊さん。
このシーンは、仏教界を風刺しているものと考えられます。

作者は、ながらく鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)だとされてきましたが確証はなく、
おそらく複数の人間によって描かれたものだと考えられています。
ちなみに、「鳥獣戯画」には詞書の部分はありません(当初はあったのかもしれませんが…)。

*   *   *

⑤「年中行事絵巻」(ねんちゅうぎょうじえまき)
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の命令によってつくられた、宮中の年中行事を記録した絵巻物です。
残念ながら、江戸時代のはじめに火災によって焼失してしまい、
現在は焼失前に描かれたとされる模写がいくつか残っているのみです。



次に装飾経を2点、ご紹介しておきましょう。
装飾経とは、美しくデコられた写経のことです。

①「扇面古写経」(せんめんこしゃきょう)
 または「扇面法華経冊子」(せんめんほけきょうさっし)
扇面(せんめん、扇形の紙のこと)に大和絵で下絵を描き、
その上に法華経などを書きうつした装飾経です。
プリントに載っているのは、大阪府の四天王寺(してんのうじ)が所蔵するもので、
お経の下絵として、女房装束(にょうぼうしょうぞく)を身にまとった女性と、
衣冠姿で笛を手にしている男性の姿が描かれています。
このような「ザ・貴族」な下絵だけでなく、庶民の生活をイキイキと描いたものもあります。

*   *   *

②平家納経(へいけのうきょう)
平清盛(たいらのきよもり)らが、平氏一門の繁栄を祈願するため、
広島県の厳島神社(いつくしまじんじゃ)に奉納した装飾経です。
金ピカピンでとにかくゴージャス!
平氏のセレブぶりがよく伝わってきます。
ちなみに、平清盛自筆の部分もあります。

最後に解答を載せておきましょう。

平安19解答.jpg

絵巻物5点と装飾経2点だけなのに、アツく語りすぎてしまいました…すいません。
プリントの空欄部分を中心に覚えてくださいね(汗)



次回から、ゴロ合わせをお届けします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

画像出典
wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語絵巻
     https://ja.wikipedia.org/wiki/伴大納言絵詞
     https://ja.wikipedia.org/wiki/信貴山縁起
     https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥獣人物戯画
     https://ja.wikipedia.org/wiki/扇面法華経冊子
広島県教育委員会HP https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-101020010.html
nice!(3)  コメント(4) 
共通テーマ:学問

平安時代(18) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、院政期の文化(いんせいきのぶんか)を取り上げます。
今回は、文学・芸能・建築・彫刻を解説してゆきます。

平安18.jpg

この文化が栄えたのは、院政期、すなわち11世紀末から12世紀ごろです。
文化の中心地は平安京ですが、地方への広がりも見られます。
担い手は、上皇や貴族はもちろんのこと、新たに台頭してきた武士や庶民も加わります。

特徴を3点にまとめると、
(1)これまでの貴族文化にくわえ、
   新たに台頭してきた武士や庶民とその背後にある地方文化を取り入れた、新鮮で豊かな文化
(2)歴史物語(れきしものがたり)・軍記物語(ぐんきものがたり)・絵巻物(えまきもの)の普及
(3)浄土教(じようどきよう)が広まり、各地に浄土教建築や浄土教美術が見られる
です。

*   *   *

では、文学から見ていきましょう。

①歴史物語
武士が台頭し、いよいよ武家政権が成立しようという時代、
貴族たちは華やかな過去に思いを馳せ、それらを振り返ろうとします。
そこでつくられるのが、歴史を題材とする物語、すなわち歴史物語です。
これらの多くは、ひらがな中心の和文体(わぶんたい)で書かれています。
(和文体に対し、漢字だらけの文章は漢文体(かんぶんたい)といいます)

●『栄華物語(栄花物語)』(えいがものがたり)/赤染衛門(あかぞめえもん)?
…宇多天皇(うだてんのう)~堀河天皇(ほりかわてんのう)の時代を、
 編年体(へんねんたい)でまとめた歴史物語
 藤原道長(ふじわらのみちなが)を中心に宮廷貴族の栄華を描き、それを賛美します
 作者は赤染衛門という女性が有力で、続編はのちに別の誰かが書いたと考えられています
 よって、国風文化に区分されたり、院政期の文化に区分されたりするのですが、
 近年は国風文化に区分されることが多くなっています

●『大鏡』(おおかがみ)/作者不明
…文徳天皇(もんとくてんのう)~後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の時代を、
 紀伝体(きでんたい)でまとめた歴史物語
 190歳(え?)のおじいちゃんと180歳(えぇ?)のおじいちゃんが語り合う藤原道長の栄華を、
 ワカゾーが質問したり批評したりして批判的にとらえています

*この2冊は藤原道長の栄華を対照的に評価しています
・『栄華物語(栄花物語)』は賛美
・『大鏡』は批判
 と、セットで覚えておくとよいでしょう☆
 (そのために『栄華物語』は院政期の文化で紹介しました)

*編年体と紀伝体
 どちらも中国の歴史叙述法です
・編年体:出来事を年代順に記述する形式
・紀伝体:個人や1つの国に関する情報をまとめて記述する形式
 簡単にいうと、編年体は年表スタイル、
 紀伝体はカテゴリーごとにまとめたスタイル、てな感じです

●『今鏡』(いまかがみ)/藤原為経(ふじわらのためつね)
…『大鏡』のあと、後一条天皇から高倉天皇(たかくらてんのう)の時代を、
 紀伝体でまとめた歴史物語
 150歳(えぇぇ?)のおばあちゃんが語る昔話を記録する、という形で物語が進むのですが、
 なんでもこのおばあちゃん、『大鏡』の190歳のおじいちゃんの孫なんだって!
 すんごい長生きの家系だね!!

*ちなみに、タイトルに「鏡」のつく歴史物語が、
 『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』(みずかがみ)・『増鏡』(ますかがみ)と4つあり、
 これらをまとめて「四鏡」(しきょう)といいます
 「ダイ・コン・ミズ・マシ」のゴロ合わせで覚えてねって古典の授業でも習いませんでしたか?
 『栄華物語(栄花物語)』も一緒に、
 「ハナ・ダイ・コン・ミズ・マシ」で覚えるパターンもあります
 『水鏡』は鎌倉文化、『増鏡』は南北朝文化でご紹介しますね~

②軍記物語
戦乱を主題とする物語です。
この時期の貴族たちが、地方武士の動きに関心をもっていたことを表しています。

●『将門記』(しょうもんき)/作者不明
平将門の乱(たいらのまさかどのらん)を日本語風の漢文体で記した軍記物語
 作者も成立年代も不明ですが、最初の軍記物語と考えられています

●『陸奥話記』(むつわき)/作者不明
前九年合戦(ぜんくねんかっせん)の経過を日本語風の漢文体で記した軍記物語
 11世紀後半ごろに成立したと考えられています

③説話集(せつわしゅう)
人々のあいだで語り伝えられてきた昔話や伝承などをまとめたもので、
宗教的訓戒のほか、当時の武士や庶民の生活・風習などを描いています。
この時期の貴族たちが、武士や庶民の姿に関心をもっていたことを表しています。

●『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)/作者不明
…インド・中国・日本に伝わる説話を1000話余り集めた説話集
 すべて「今は昔…」で始まることから、このタイトルがつけられています

 ん?そういえば…
 「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」とか言っちゃったヒトって、
 『今昔物語集』に載ってたんでしたよね…

 名前、思い出せますか?
 あのガメツくヒラタケとってきた受領ですよ!!

 正解は…
 藤原陳忠(ふじわらののぶただ)でしたー!
 覚えてましたか??
 詳しくは988年のゴロ合わせをご覧ください~

*   *   *

次に、芸能を見てゆきましょう。

①今様(いまよう)
今様とは「現代風の歌謡」という意味で、平安時代末期に流行した民間歌謡をさします。
もとは庶民の間で流行っていた歌なのですが、
これにドハマりしたのが、まさかの後白河法皇(ごしらかわほうおう)です。
そのハマりようは、今様の歌いすぎで喉を痛めてしまうほどだったようで、
果てはヒット曲を集めた『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)という本までつくっています。
この時期の貴族が、庶民の文化と深く関わりをもっていたことを示しています。

②催馬楽(さいばら)
神事の神楽歌(かぐらうた)や古謡(こよう、古くから伝わる歌謡のこと)をアレンジし、
雅楽(ががく)の伴奏にあわせてうたうもの。
平安時代中期以降、貴族に愛好されます。

③朗詠(ろうえい)
雅楽の伴奏にあわせて、おもに漢詩の名句をメロディーにのせてうたうもの。
朗詠といえば、『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)ってのがありましたね…
復習しておいてくださーい!

④田楽(でんがく)と猿楽(さるがく)
● 田楽:豊作を祈って、田植えのときにおこなう農耕儀礼がはじまりと考えられています
    平安時代には芸能として洗練されてゆきます
● 猿楽:ものまねをはじめ、滑稽(こっけい)を主とする雑芸・歌曲のこと
    奈良時代に伝来した散楽(さんがく)という芸能に由来すると考えられています
どちらも、庶民のみならず、貴族の間でも流行し、
やがて祇園祭(ぎおんまつり)などの御霊会(ごりょうえ)や、
大寺院での法会(ほうえ)などでも演じられるようになります



プリントの右上に移って、建築を見ていきましょう。

①浄土教建築
このころ、浄土教の思想は全国に広まります。
それは、寺院に所属しない聖(ひじり)や上人(しょうにん)などと呼ばれる民間の布教者が、
各地で浄土教を説いてまわったためです(聖と上人の厳密な区別はありません)。
浄土教について、詳しくは1052年のゴロ合わせに書きましたが、
阿弥陀仏(あみだぶつ)、または、阿弥陀如来(あみだにょらい)と呼ばれる仏さまを信仰し、
来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願う教えですす。
これが全国に広まった結果、各地の地方豪族たちが、
阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂(あみだどう)を建立するようになるのです。

● 中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう、岩手県)
…奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の本拠地である平泉(ひらいずみ)に、
 藤原清衡(ふじわらのきよひら)が建立した阿弥陀堂
 極楽浄土を再現したかのように(行ったことないけど)、どこもかしこも金ピカです
 ちなみに、台座の部分には、
 藤原清衡・藤原基衡(ふじわらのもとひら)・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)三代のミイラと、
 藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の首が納められています

● 白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう、福島県)
…藤原清衡の娘が、亡き旦那さまのために建てた阿弥陀堂
 「白水」は、平泉の「泉」の漢字を分解したものと考えられています

● 富貴寺大堂(ふきじおおどう、大分県)
…九州最古の阿弥陀堂
 このころ、九州にも浄土教が広まっていたことを今に伝えています

②厳島神社(いつくしまじんじゃ、広島県)
航海の安全をつかさどる神様をまつる神社です。
日宋貿易(にっそうぼうえき)を推進する平清盛(たいらのきよもり)があつく信仰し、
海に浮かぶ寝殿造(しんでんづくり)のような立派な社殿を整えます。
1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

行ったことありますか?
もうね、本当に美しいんですよ…
個人的なことを申しますと、私、大好きなのです。

柱がどっぷりと海につかる満潮のときの姿が美しいのはもちろんですし、
大きな鳥居まで歩いて行けちゃう干潮のときの姿も一興です。

何度か訪れたときに何の気なしに撮った写真ですが、
たまたま同じアングルで撮っていたので見比べてみてください。

↓ 満潮のとき
DSC06556.JPG

↓ 干潮のとき(鳥居のところまで人がいっぱい!)
DSC01038.JPG

日本三景(にほんさんけい)の1つに数えられるのも納得ですね~。

③三仏寺投入堂(さんぶつじなげいれどう、鳥取県)
修験道(しゅげんどう)の修行場である断崖絶壁に建てられたお堂です。
修験道をひらいた役小角(えんのおづぬ)、または、役行者(えんのぎょうじゃ)という人が、
ここに投げ入れて作った、という伝説から投入堂という名前がついています。

平安18-6.jpg

いやチョットこれすごくないですか?
断崖絶壁のくぼみに、見事にジャストフィットしてますよね。
投げ入れたというのも納得してしまいます。
(役小角は飛鳥時代の人ですけどね…)

高校生の時、日本史の資料集で見て衝撃を受けて以来、ずーっと行きたかったんですよ。
10年ほど前に念願叶って参拝してきましたので、いくつか写真を見てください!

↓ まず、どこにあるのかというと…ここです!
 もんのすんごい山の中です!!
平安18-9.jpg

しかもその道中ったら…

↓ ひたすらこんな断崖絶壁なんですよ!(この後ろ姿は母です)
 道中は階段なぞ整備されていませんので、木の根っことかを頼りに登ってゆきます。
 ちなみに、スニーカーよりもワラジがオススメとのことで、ワラジを購入しました。
平安18-7.jpg

↓ とてつもなく巨大な岩を、クサリを使って登らなければならないところもあります。
 「日本一危険な国宝」と呼ばれるのも納得です…
平安18-11.jpg

↓ 休憩することなく(そんな場所もないし…)ひたすら30分ほど登った先にあるのが、
 この文殊堂(もんじゅどう)というお堂です。
 すごく良い景色なのですが…
平安18-12.jpg

↓ 足元はこんなことになっております!
平安18-13.jpg

ここからさらに10分ほど登ると…

↓ ついに!投入堂に到着です!!
(投入堂の中には入れません、この場所から拝観するのみです)
平安18-10.jpg
もうね、すっっっごい感動しますよ!
登る前は「投入堂着いたら何かめっちゃ願い事したるねん!」とか思ってましたが、
投入堂の姿を見た瞬間、おのれの願い事なんてホントどーでもよくなりました!!
ボンノーが消えた気がいたしました…

しかぁし!
感動も束の間…

↓ 帰り道もヤバいのです!イヤむしろ帰り道のがヤバいのです!!
 写真では伝わりにくいですけど、ほんとにすんごい崖なんですよ、コレ。
 ずっとお尻つけてズリズリ滑り降りてかないと絶対落ちて死ぬわ…ってレベルです。
平安18-5.jpg

投入堂のスゴさ、伝わりましたでしょうか?
体力に自信のある方、機会があればぜひ登ってみてください。
季節・天候・服装・人数など様々な入山制限がありますので、
行かれる際は事前に公式HPなどで調べてからお出かけくださいませ!

*   *   *

最後に彫刻を見ておきましょう。

①蓮華王院千手観音立像(れんげおういんせんじゅかんのんりゅうぞう、京都府)
蓮華王院(れんげおういん)は、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)とも呼ばれるお堂で、
平清盛が、後白河法皇の院御所(いんのごしょ)のすぐ近くに造営し、寄進したものです。

現在もなかにはズラズラズラーーーッと1000体もの千手観音立像が並んでいるのですが、
このうち124体が院政期のもの、つまり平清盛が創建した当時のものなんだとか。

とにもかくにも、1000体の千手観音立像が整然と並ぶ姿は本当に圧巻です。
ちなみに、一体一体みんな違うお顔をしているんですよ。
ガイドさんに「このなかにアナタにそっくりな観音様が必ずいますよ」なんて説明されたりして、
ついつい「どれどれ?」と探してしまいます(笑)

なお、蓮華王院の建物自体は鎌倉時代に焼失し、再建されています。
そして、本尊の千手観音坐像(せんじゅかんのんざぞう)も鎌倉時代の作品です。
どちらも鎌倉文化でまた紹介しますね~。

念のため説明しておくと、
千手観音立像は立っている千手観音さまで、
千手観音坐像は座っている千手観音さまです。

②浄瑠璃寺本堂九体阿弥陀如来像(じょうるりじほんどうくたいあみだにょらいぞう、京都府)
極楽往生の仕方には9通りある、ということからつくられた、9体の阿弥陀如来像です。

③臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ、大分県)
岸壁を刻んでつくられた、60体あまりの石仏(せきぶつ、石でつくられた仏さま)です。

解答を載せて終わりにしましょう!

平安18解答.jpg



次回は院政期の文化の続き、絵巻物を中心に絵画資料を見てゆきます!

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

画像出典
中尊寺HP https://www.chusonji.or.jp/index.html
白水阿弥陀堂HP http://shiramizu-amidado.org/
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/臼杵磨崖仏
奈良寺社ガイド https://nara-jisya.info/2018/12/16/浄瑠璃寺/#i-4
nice!(8)  コメント(2) 
共通テーマ:学問

平安時代(17) [まとめプリント]

保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱(へいじのらん)を経て勢いを強める平清盛(たいらのきよもり)が、ついに政権を獲得します。
日本史史上はじめての武家政権である、平氏政権(へいしせいけん)の誕生です。
そのあらましと特徴をまとめてゆきましょう!

平安17.jpg

保元の乱平治の乱、この2つの中央抗争を解決したのは、
武士の力、とくに平清盛の軍事力です。

そんな圧倒的な軍事力をもつ平清盛は、
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の院近臣(いんのきんしん)という立場と、
奥さんが二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)であるという立場を活かし、
院政と親政をめぐって対立する両者と、それぞれよい関係を築くことにも成功します。

こうして、平清盛は武士としてはじめて公卿(くぎょう)となり、
その後も大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)と異例の出世を遂げ、
ついに1167年、太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されるのです。

皇族か貴族しか任命されないはずの太政大臣に、武士である平清盛が就任する、という、
あまりにも信じられない出来事に、
当時の人々は「平清盛が白河法皇(しらかわほうおう)の子どもだからだ」なんてウワサしたんだとか。

とはいえ、このころ太政大臣はただの名誉職にすぎなかったので、
平清盛はわずか3か月で辞職しています。
「前太政大臣」という肩書きさえあれば充分だったのでしょう!

ちなみに、武士で太政大臣に任命されたのは、
・平清盛
・足利義満(あしかがよしみつ、室町幕府 第3代将軍)
・豊臣秀吉(とよとみひでよし)
・徳川家康(とくがわいえやす、江戸幕府 初代将軍)
・徳川秀忠(とくがわひでただ、江戸幕府 第2代将軍)
・徳川家斉(とくがわいえなり、江戸幕府 第11代将軍)
以上の6人だけです。

翌1168年、平清盛はひどい高熱にうかされ、危篤に陥ります。
平清盛が病気になったことで政情は不安定となり、
後白河上皇はその安定化をはかるため、高倉天皇(たかくらてんのう)を即位させます。
平清盛の影響力、ハンパない…

で。
その平清盛の病気なんですが…

なっがぁぁぁーーーい虫がおしりから出てきて治ったんだそうです。

おしり?
えぇ、おしりです…
おしり。

おそらくサナダムシです。
知ってますか?サナダムシ。
人間のおなかにすみつく寄生虫の一種です。

東京に目黒寄生虫館という博物館がありまして、
大学院生だったころ、ディズニーランドへ遊びに行った帰りに立ち寄りました。
ホルマリン漬けのビンがズラリと並んだ館内には、
約8.8mもあるサナダムシが展示されておりました。
「こ…こんな長いものがお腹のなかに…!平清盛、めっちゃ痛かったやろな!!」
と、心底思いました。
なんだか色んなところがかゆ~くなる気がする博物館ですが、ご興味ありましたらゼヒどうぞ。

平安17-1.jpg

病気の影響により出家した平清盛は、一命をとりとめたのち、
福原(ふくはら、現在の神戸市)にたてた別荘に移り住みます。
政界から引退したのかと思いきや、
そこで厳島神社(いつくしまじんじゃ)の整備や、
日宋貿易(にっそうぼうえき)の拡大に乗り出します。

さらに1172年、平清盛は娘の平徳子(たいらのとくこ)を高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)とします。
(のち平徳子には、建礼門院(けんれいもんいん)という女院(にょいん)の称号が贈られます)
平徳子からすれば、お母さんの妹の息子、すなわちイトコとの結婚です。
もし平徳子が男の子を産んで、その子が即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれるわけですから、
彼女のプレッシャーはものすごいものだったでしょう…

平徳子のプレッシャーはさておき、
日宋貿易による莫大な利益と、おびただしい数の荘園・知行国を所有するようになった平氏は、
さらに天皇の外戚になれるかもしれないという可能性を手にしたのです。
そりゃ平時忠(たいらのときただ)が「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうワケです。

そんなときに起こるのが、1177年の鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)です。
「鹿ヶ谷(ししがたに)にある山荘で、後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の近臣である藤原成親(ふじわらのなりちか)・俊寛(しゅんかん)などが平氏打倒をくわだてている」との密告があり、
藤原成親は備前(びぜん)に、俊寛は薩摩(さつま)に流罪となった事件です。
この事件により、後白河法皇は政治的な権力を低下させ、高倉天皇は親政を強く願うようになります。
平清盛は後白河法皇との距離をとり、高倉天皇との関係をより一層強めてゆくのです。

その翌年、平徳子が待望の男の子を出産します。
ホントに…ホントによく頑張ったよ、徳子…(涙)
この赤ちゃんを生後1ヶ月で皇太子とし、皇太子の外戚としてますます力を伸ばす平清盛は、
後白河法皇との関係をさらに悪化させてゆきます。

そして1179年、ついに平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、院政を停止させてしまうのです。

奪い取った官職は、平氏の一族はもちろんのこと、平氏に好意的な貴族たちにも与え、
また知行国の入れ替えなどもおこなって、
平氏の権力が全国におよぶような軍事的支配体制を確立します。

ここでいよいよ、わずか満1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位します。
即位にともない、お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政を開始しますが、
もちろん政界の主導権を握るのは、安徳天皇の外戚である平清盛です。

こうして平氏政権という武家政権が成立するのですが、ながくは続きません。
しかし武家政権は、1867年の大政奉還(たいせいほうかん)まで、700年近く続いてゆくのです。



プリントの右側にうつります。
平氏政権の特徴をまとめてゆきましょう。

①貴族的性格
平氏政権には、摂関家とよく似た部分が見受けられます。

○ 高位高官の独占
平清盛の太政大臣就任をはじめ、一族で高位高官(こういこうかん)にのぼります。
高位高官とは、高い位階(いかい)と高い官職(かんしょく)のことですよ。
位階と官職については、飛鳥時代(8)のプリント右上の表を参考にしてください。

○ 外戚関係の利用
平清盛は、娘の平徳子を高倉天皇の中宮とし、
2人の間に生まれた満1歳の安徳天皇を即位させ、天皇の外戚として権力を握ります。

○ 多くの荘園・知行国を経済的基盤とする
平氏の所有する荘園は全国に500余ヶ所、知行国は約30ヶ国にのぼります。
1179年以降の平氏の知行国は次の通りです。
平安17-3.jpg
数えてみると32ヶ国もありますね~。
このころ全国は約70ヶ国に分かれているので、
日本のほぼ半分が平氏の知行国、ということになります。

②武士的性格
保元の乱平治の乱を制圧したうえに成立した平氏政権には、
もちろん武士らしい面が見受けられます。

○ 武力を背景に、天皇や院の勢力と対抗
圧倒的な軍事力をもつ平氏は、クーデターによって後白河院政を停止させ、
安徳天皇を即位させて高倉院政を開始させます。
安徳天皇の外戚として権力を握るのはもちろんのこと、
平氏の軍事力なしには成立し得なかった高倉院政においても実質的な権力者となるのです。

○ 各地で成長する武士を、荘園や公領(国衙領)の地頭(じとう)に任命
地頭といえば、鎌倉幕府が置いた守護(しゅご)・地頭のセットを思い浮かべることと思いますが、
このころすでに地頭というものは存在していたようです。
残された史料が少なくて、詳しいことは明らかにされていないみたいですが、
平氏政権は各地の武士を地頭に任命することで、
彼らを家人(けにん、貴族や武士に仕える家来のこと)として組織していたんだとか。

分かります?
ちょっとナニ言ってるか分かんないですよね…

武士のおこりについては平安時代(12)で書きましたが、
地方豪族や有力農民が自分の土地を守るために武装したパターンや、
押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)に任命された中級・下級貴族が、とある土地に定着したパターンなどがあるんでしたね。

平氏政権は、様々なパターンで成立し、成長してきた武士たちを、
それぞれの土地の地頭に任命することで、彼らがその土地の支配者であることを認めたのです。
そして、平氏政権から地頭に任命されたことで、その土地の支配者であることを認められた武士は、
平氏に仕える家来、すなわち平氏の家人となったのです。

平安17-4.jpg

こうして平氏は、とくに西国一帯の武士を家人として組織してゆくのです。

ちなみに、鎌倉幕府に仕える家人のことを何と呼ぶか分かりますか?
答えは、御家人(ごけにん)です。
鎌倉幕府の将軍に対するリスペクトをこめて、家人に御の字がついておるのです。

③経済活動
11世紀後半以降、日本は朝鮮半島の高麗(こうらい)や中国の宋(そう)との間で、
積極的に商船を往来させるようになります。
といっても、あくまで私貿易です。
国と国の正式な貿易ではありません。

12世紀、宋は女真族(じょしんぞく)が建てた金(きん)という国に皇帝を連れ去られて滅んでしまうのですが、このとき難を逃れた皇帝の弟が、南にうつって宋を再興します。
もともとの宋を北宋(ほくそう)、再興した後の宋を南宋(なんそう)と呼んで両者を区別するのですが、
平氏がおこなった日宋貿易の相手国は南宋です。

そもそも南宋との私貿易に注目したのは、平忠盛(たいらのただもり)です。
彼は瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐して貿易ルートを確保し、日宋貿易を活発におこないます。
平忠盛は、これによって莫大な富を得るだけでなく、
輸入した珍しい品々を白河法皇や鳥羽上皇に献上して、両者からかわいがられるようにもなるのです。

平忠盛の息子である平清盛も、積極的に日宋貿易に取り組みます。
摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の兵庫県神戸市)という港を修築したり、
音戸の瀬戸(おんどのせと、現在の広島県呉市)という海峡を開削したりするなど、
よりスムーズに商船の往来ができるよう尽力します。

ちなみに、音戸の瀬戸の開削工事については、次のような伝説が残されています。

いよいよ今日で開削工事が完成するぞ!という日。
太陽が沈んでしまって、残念ながらその日のうちに工事は終わりませんでした。
すると、平清盛はおもむろに岩の上に立ち、
沈んだ太陽に向かい、金ピカの扇を広げて「かえせ、もどせ」と叫びます。

そしたらですよ!

太陽が再び昇り、その日のうちに工事は完成したんだとか!!

平安17-2.jpg

ウッソーん!!って感じですが、
太陽を従えることができた、なんてゆー伝説を残しているあたり、
平清盛の影響力の大きさを知ることができますね。
まぁ…ウソだろけどね!!

日宋貿易の貿易品は以下の通りです。

【輸出品】金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器・扇など
【輸入品】宋銭(そうせん)・陶磁器・書籍・香料・薬品など

銅銭(銅でできたお金のこと)である宋銭の輸入は、日本に貨幣経済をもたらします。
また、書籍のうち、仏教経典は鎌倉仏教に影響を与えることになります。

では最後に解答を載せておきましょう。

平安17解答.jpg



次回から2回にわたって、院政期の文化をまとめてゆきます。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(7)  コメント(6) 
共通テーマ:学問

平安時代(16) [まとめプリント]

今日は、保元の乱(ほうげんのらん)と平治の乱(へいじのらん)をまとめてゆきます。

平安16.jpg

いよいよ源氏と平氏が中央政界で大活躍するので、これまでの流れをおさえておきましょう。

まずは源氏です。

1028年に房総半島で起きた平忠常の乱(たいらのただつねのらん)を、
源頼信(みなもとのよりのぶ)が平定し、源氏は東国進出のきっかけをつかみます。
そして、1051年に東北地方ではじまった前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を、
源頼義(みなもとのよりよし)・源義家(みなもとのよしいえ)親子が平定、
次いで1083年にはじまった後三年合戦(ごさんねんかっせん)を、源義家が平定し、
源氏は東国で武家の棟梁(とうりょう)としての地位を固め、勢力を拡大させてゆきます。

とくに、後三年合戦で恩賞を出さなかった朝廷にかわり、
自分の財布から家臣に恩賞を与えた源義家の人気はすさまじく、
東国では源義家に土地を寄進して保護を求める武士が増加し、
朝廷がその寄進を禁止するほどだったとか。

ここまでの流れは平安時代(13)にまとめているところです。

その後はというと、
源義家の息子である源義親(みなもとのよしちか)が朝廷に反乱を起こしたり、
一族のなかでの争いが続いたりと、
源氏は勢力をやや衰退させてしまいます。

次に平氏です。

このころ、伊勢(いせ)・伊賀(いが)を地盤とする伊勢平氏(いせへいし)が勢力を拡大させます。
白河法皇(しらかわほうおう)の命を受けた伊勢平氏の平正盛(たいらのまさもり)が、
源義親の乱の平定に成功したことがきっかけです。
その後、息子の平忠盛(たいらのただもり)も、
瀬戸内海の海賊を平定するなどして白河法皇、そして鳥羽上皇(とばじょうこう)からかわいがられ、
武士として、院近臣(いんのきんしん)として、重用されるようになります。

今日まとめてゆく保元の乱・平治の乱は、
源義親の子である源為義(みなもとのためよし)、その子である源義朝(みなもとのよしとも)、
平忠盛の子である平清盛(たいらのきよもり)の時代に起きる武力衝突です。



1156年に起こる保元の乱の対立関係は、以下の通りです。

1156-1.jpg

1156年のゴロ合わせでは、天皇家の2人を中心に保元の乱を書いたので、
今回は藤原氏の2人を中心に書くことにしましょう。

兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟の藤原頼長(ふじわらのよりなが)です。
この2人、20歳以上年の離れた異母兄弟(いぼきょうだい、お母さんが異なる兄弟のこと)です。

*   *   *

兄の藤原忠通は、鳥羽天皇(とばてんのう)・崇徳天皇(すとくてんのう)・近衛天皇(このえてんのう)・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の4代にわたって摂政・関白をつとめた権力者です。
跡継ぎに恵まれなかった彼は、あるとき弟の藤原頼長を養子とします。

ところが…
弟を養子にして20年が経とうというころ…

藤原忠通に息子が生まれるのです!
40歳を過ぎてからの跡継ぎ誕生!!
こりゃめっっっっちゃかわいいわけですよ!!!

てなわけで、藤原忠通は藤原頼長との養子関係を破棄し、
我が子に摂関家を継がせようとします。

デター!
弟を養子にしたあと息子生まれるパターン!!
カワイイ息子を守るために弟とモメるパターン!!!

その後、藤原忠通と藤原頼長はイロイロ対立するようになり、
もう仲直りなんて絶対無理!というレベルまで関係を悪化させてしまいます。

*   *   *

では、弟の藤原頼長とはどんな人物だったのでしょう。

藤原忠通の息子である僧侶の慈円(じえん)が、著書『愚管抄』(ぐかんしょう)のなかで、
「日本一の大学生(だいがくしょう、日本一のすごい学者、という意味)」と評するように、
藤原頼長は非常にすぐれた学者さんであったようです。
読んだ書物の数は1030巻を超えるという読書家で、
移動の時間を惜しんで牛車のなかでも書物を読んでいたんだとか。
また書物に対する敬意もすさまじく、
自宅に当時の最高技術を駆使した防火設備つきの書庫までつくっています。
とくに学んだのは明経道(みょうぎょうどう)、すなわち儒学だったようです。

また、20年近くにわたって『台記』(たいき)という日記を書いているのですが、
ここには朝廷における儀式のほか、政治情勢や人間関係などを克明に記録しており、
彼の学識と事務的能力の高さをいまに伝えています。
とにもかくにもメチャクチャ勉強熱心で、すんごいデキる人だったのです。

そんな藤原頼長が左大臣となったのは、30歳のときです。
律令にのっとった政治を復活させるべく、彼はとてつもなく厳しい改革に乗り出します。
ときには遅刻した貴族の家を焼き払うこともあったとか…
コ、コエー!!!
そのあまりに苛烈な性格から、
「悪左府」(あくさふ)というあだ名をつけられるほど、周囲の人々の反感を買ってしまいます。
(「左府」(さふ)は左大臣のこと。
 「悪」は単に悪いという意味だけでなく、モノスゴイという意味もあります)
裏を返せば、藤原頼長がそこまで厳しくしないといけないほど、
当時の貴族たちはゆるみきっていたのでしょうね…
でも家燃やしたらアカン。

平安16-1.jpg

*   *   *

1141年、崇徳天皇が譲位し、弟の近衛天皇が即位しますが、
ほどなく近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます。
かわって即位したのは、後白河天皇です。

近衛天皇は眼の病気が原因で亡くなったようなのですが、
「それは藤原頼長が天狗の像の目に釘を打って、近衛天皇を呪ったからだ!」というウワサが流れます。
これにより、近衛天皇をかわいがっていた鳥羽法皇(とばほうおう)の信頼を失った藤原頼長は、
崇徳上皇(すとくじょうこう)に近づいてゆくのです。

1156年7月2日に鳥羽法皇が亡くなると、
今度は「崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている!」というウワサが流れます。
藤原頼長は謀反人(むほんにん)として扱われ、財産を没収されてしまいます。

追い詰められた藤原頼長は、崇徳上皇のもとへゆき、
平忠正(たいらのただまさ)、源為義・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士を集めます。

一方、後白河天皇と藤原忠通は、
最大の兵力をほこる平清盛を味方につけることに成功し、ここに源義朝らも加わります。

兵力の差は歴然です。
崇徳上皇サイドがあまりにも不利な状況にあるため、源為朝は夜襲(やしゅう)を提案するのですが、
「そんな卑怯なことができるか!」と藤原頼長によって却下されてしまいます。

マジメか!

で、結局、7月11日の未明、後白河天皇サイドが夜襲をしかけ、
崇徳上皇サイドはわずか数時間で総崩れとなってしまうのです。

保元の乱の結果は以下の通りです。

1156-5.png

崇徳上皇は讃岐(さぬき)に流罪、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。

藤原頼長は、戦いの最中に首に矢を受けるという重傷を負いますが、
なんとか奈良に逃れているお父さんのもとまでたどり着きます。
40歳を過ぎてから生まれた息子である藤原頼長を溺愛してきたお父さんですが(どっかで聞いた話だな…)、
「謀反人となった息子に会うことはできない」と、藤原頼長との面会を拒否します。
最愛のパパから見放された藤原頼長は、絶望のなか37年の生涯を閉じるのです。
奈良に埋葬された遺体は、のち信西(しんぜい)によって掘り起こされた、とも伝わっています。

ここで、源為朝についてもチラっとお話ししておきましょう。
1156年のゴロ合わせを見てみると…
1156年.jpg
マッスルキャラとして登場していますね(笑)

源為朝は弓の名手で、なんと身長2mを超える大男だったんだとか。
しかもものすごい暴れん坊で、
お父さんである源為義が、九州に追放してしまうほどだったんだとか(よっぽどですね…)。
お父さんにそこまで怒られたんなら、さすがに反省するだろうな…と思いきや、
なんと源為朝はそこで仲間をつくって九州を平定してしまうのです。

都にもどったのち、保元の乱ではお父さんと一緒に崇徳上皇サイドについた源為朝は、
夜襲を提案するも藤原頼長に却下され、自慢の弓で後白河天皇サイドを迎え撃ちます。
その際、超極太の弓を放って、平清盛たちを震え上がらせたんだとか。
保元の乱ののち、弓を放てないよう肘をはずされた状態で伊豆大島に流されたというんだから、
よっぽど怖い思いをさせたんでしょうね…

でもねー、肘はずしたくらいじゃダメだったんですねー。
治っちゃったんですよ、ハイ。

その後、伊豆大島で暴れ回ったり、
鬼の子孫が棲むという鬼ヶ島に行って大男を連れて帰ってきたりともうメチャクチャです。
結果、そんな源為朝を討伐するため、朝廷の軍勢が船でやってくるのですが、
なんとその船も弓を放って沈めてしまいます。
しかし、ここまでと悟った源為朝は、帰宅したのち自害したと伝わっています。

が!
実は自害しておらず、なんとか琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄のこと)に逃れ、
そこで生まれた子どもが初代琉球国王になった、という伝説も残っています。
うーん、源為朝ならやりかねないカモ…
この話を題材にしたのが、化政文化(かせいぶんか)で登場する曲亭馬琴(きょくていばきん)の『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)です。

*   *   *

ここで、すんごく個人的なことを申し上げてよいですか?

私、大河ドラマのなかでは「平清盛」(2012年放送)が一番好きなんです。
なぜって、山本耕史さん演じる藤原頼長が抜群に良かったからです!
上品で、厳格で、非情で、酷薄で…そんな山本耕史版ライチョウが大好きでした。
(大学で日本史を専攻していたので、頼長のことは音読みで「ライチョウ」と呼んでいます)

保元の乱で藤原頼長が亡くなるシーンなんて、
テレビの前で「ライチョウーーーっっ!!」って大号泣しました。
オウムが…オウムがね…
(ライチョウやらオウムやら、ややこしくてすいません…笑)

で、その大河ドラマ「平清盛」にもありましたが、
彼の日記である『台記』には、子どもたちへの訓戒(くんかい)が記されています。
現代語訳すると、こんな感じです。

 いつか私が死んだ後、私を恋しく思ったなら朝廷に来るがよい。
 私の魂はきっとそこにとどまっている。
 豪華な衣服や家来の数を求めるな。
 忠勤に励み、それで人に嘲(あざけ)られても恥じるな。
 忠を尽くし、決して報いを求めるな。
 努めなさい。努めなさい。

藤原頼長が死んだ後、阿部サダヲさん演じる信西がこの部分を見つけて読むんですよ…
うあぁぁぁー、思い出しただけで泣けます…

機会がありましたら、ぜひ「平清盛」、ご覧ください。

*   *   *

ちなみに藤原頼長は、腐女子のなかでは結構有名人だったりするのです。

えぇ、腐女子です。

『台記』には、男色(だんしょく)の模様がそれはそれは詳細に描かれているからです。

えぇ、男色です。

BLです!
ボーイズラヴです!!

お相手は10人ほど確認できるのですが(プリントの系図にいる源義賢(みなもとのよしかた)もその1人です)、
一番のお気に入りは秦公春(はたのきみはる)という人物です。
『台記』には、彼とのやりとりがピュアに、そして生々しく記録されています。

平安16-2.jpg

一体どんな感じで書かれているのか気になりますよね…
では、ほんの一文だけ紹介しておきましょう。
秦公春ではなく、
「讃」という隠語でたびたび登場するお相手(讃岐国の受領とかかな)と会った日の記録です。

「遂倶漏精、希有事也、此人常有此事、感歎尤深」
(『台記』仁平二年(1152)8月24日条)

あえて白文で載せますので、内容が気になる人は頑張って漢文勉強して下さい(笑)
もうね、セキララすぎるからマジメ(?)な当ブログでは訳せません訳しません。

とはいえこの時代、男色は当たり前のことです。
フツーなんですよ、フツー。
だから藤原頼長がBLしていよーと、そのお相手が10人いよーとフツーです。

でもね、この時代の日記って、他人に読まれることが前提なんですよ(詳しくはコチラ)。
子孫が先例を学ぶために日記を読むのですが、そこにこんな生々しい記録があったら、ネェ?
ちょっと藤原頼長フツーじゃないのかもしれません(笑)



藤原頼長好きが高じて、保元の乱が長くなってしまいました…すいません…
平治の乱は1159年のゴロ合わせで詳述したので、ここではザックリ見ていきましょう!

平治の乱が起こるのは、保元の乱から3年後の1159年です。
対立関係は以下の通りです。

1159-1.jpg

保元の乱で謀反人(藤原頼長のこと)を出した摂関家は勢いを失い、
かわって後白河天皇のブレーンである藤原通憲(ふじわらのみちのり、出家して信西(しんぜい)と名乗る)が権力を手にします。
信西は平清盛と手を組み、平氏の軍事力を背景に政治改革を推し進めてゆきます。

1158年、二条天皇(にじょうてんのう)が即位します。
父親である後白河上皇は院政を開始し、
親政(しんせい)を望む二条天皇と対立してゆきます。

このころ後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が頼りにしたのは、
藤原信頼(ふじわらののぶより)という院近臣です。
彼、おそらく後白河上皇とデキてるんですよねー…
ちなみに藤原忠通は、藤原信頼とモメたために後白河上皇によって失脚させられています。
愛のチカラおそるべし…

一方、信西はというと、平清盛を味方につけているのをいいことに、
自分の身内をどんどん出世させてゆきます。
藤原信頼はじめ、周囲はそんな信西に不満を抱きますが、
平清盛が怖くて手が出せません…

が!
チャンス到来!!
1159年のある日、平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけたのです!!!

すかさず藤原信頼は、源義朝とともに立ち上がります。
彼らはまず後白河上皇の邸宅である三条殿(さんじょうどの)を襲撃して後白河上皇の身柄を確保し、
二条天皇とともに幽閉(ゆうへい)します。
そのうえで信西を自害に追い込み、政権を獲得するのです。
藤原信頼と源義朝のクーデターは大成功です。

が!
熊野詣に出かけたはずの平清盛が、とんでもないスピードで戻ってきたのです!!
そして、藤原信頼のやり方に不満をもつ二条天皇が、平清盛に藤原信頼と源義朝の追討を命じたのです!!!

一気に形勢逆転です。

息子の平重盛(たいらのしげもり)・弟の平頼盛(たいらのよりもり)らを率いる平清盛は、
息子の源義平(みなもとのよしひら)・源頼朝(みなもとのよりとも)らとともに戦う源義朝をあっさり打ち負かし、平治の乱は終息するのです。

平治の乱の結果は以下の通りです。

1159-5.jpg

源義朝は、尾張(おわり)まで逃れたものの謀殺(ぼうさつ)され、源義平も斬首されます。
藤原信頼も、信西を自害に追い込んだ罪などにより斬首されます。
当時13歳の源頼朝は、平清盛のママハハによって命を救われ、
伊豆(いず)に流罪となります。

こうして勢いを得た平清盛が、武士でありながら政権を獲得するに至るのです。

*   *   *

最後に、保元の乱と平治の乱の歴史的意義を2点確認しておきましょう。

①中央政界の抗争を武士の力のみで解決=貴族の無力化
②平清盛の地位と権力の高揚=平氏政権の成立

武力なしでは政権を維持できない時代の到来です。
これを慈円は、著書『愚管抄』のなかで「ムサノ世(武者の世)」と表現しています。

長くなりました。
解答を載せて終わりにしましょう。

平安16解答.jpg



次回は、平氏政権をまとめてゆきます。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(10)  コメント(4) 
共通テーマ:学問

平安時代(15) [まとめプリント]

前回は、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)と白河天皇(しらかわてんのう)の政治をまとめました。
今日はその続き、院政のはじまりを見ていきましょう!

平安15.jpg

1086年、白河天皇が、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に譲位します。
堀河天皇はまだ8歳ということで、
白河上皇(しらかわじょうこう)が院政(いんせい)を開始します。
白河上皇が院政を始めた理由については、
1086年のゴロ合わせで詳述しているので、そちらをご覧下さい!

上皇のおうちを院(いん)とか、院御所(いんのごしょ、院の御所 でもOK!)などと呼ぶのですが、
院政とは、上皇が院(院御所)で、天皇を後見する形で国政を主導する政治形態をいいます。
ちなみに院という言葉は、上皇自身を指す場合もあります。
白河上皇ならば、白河院(しらかわいん)てな感じです。
ややこしいので、これ以降、上皇のおうちは院御所と書くことにしますね。

白河上皇がはじめた院政は、
このあと鳥羽上皇(とばじょうこう)・後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の計3代にわたり、
100年余り続きます。
当時、すっかり衰退している摂関家は、
院政をおこなう上皇と結びつくことで勢いを盛り返そうとします。

なお、その後も江戸時代にいたるまで、院政はちらほらおこなわれるのですが、
それについてはまた追々…

*   *   *

院政の仕組みは、こんな感じです。

・実   権:上皇(院)
・政 務 機 関:院庁(いんのちょう)…上皇直属の家政機関
・役   人:院司(いんし)…院庁の職員の総称
・命   令:院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)…院庁から出される文書
       院宣(いんぜん)…上皇の意向を受けて出される文書
・警備の武士:北面の武士(ほくめんのぶし、北面武士 と書いてもOK!)…院御所の北面に組織
・財   源:院分国(いんぶんこく)・寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)など
・近   臣:院近臣(いんのきんしん)…院政を行う上皇の側近として権勢をふるう、
・近   臣:院近臣(いんのきんしん)…上皇の乳母(うば)の血縁者や受領(ずりょう)出身者など

なんでもかんでも「院」の文字がついているので覚えやすいですね!

*   *   *

補足説明をしておきたいのが、命令の部分です。
院庁下文(読み方注意!)と院宣、なんで2種類あるの?って感じですよね。

ここで、プリントにも載っている次の写真を見て下さい。
院庁下文.jpg
長野県立歴史館が所蔵する、鳥羽法皇(とばほうおう)の院庁が出した院庁下文です。
右上に「院廳下」と書かれていますが(「廳」を簡略化した漢字が「庁」です)、
これ、「いんのちょうくだす」と読みます。
院庁下文は、「院庁から下されたお手紙ですよ~!」という意味の、
この漢字3文字で書き始められることが多いです。
書き終わりは、院司が数名(この院庁下文では7人)サインをします。

このように院庁下文は、院庁という役所から、院司という職員が数名サインして出されます。
つまり、公的な性格の強い命令文なのです。

一方、院宣はというと、
天皇や太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)が出す命令文である宣旨(せんじ)の、
院バージョン(上皇バージョン)です。
上皇の意向を受けた院司が出すもので、
院庁下文に比べると、私的な性格の強い命令文といえます。

公的なのが院庁下文、私的なのが院宣、てな感じで区別してください。
いずれも、院政の発展とともに、国政一般に効力をもつようになってゆきます。

*   *   *

もひとつ補足説明を。
北面の武士についてです。

これは、院御所が雇った警備員です。
メンバーは源氏や平氏といった武士が多く、
源頼朝(みなもとのよりとも)のお父さんである源義朝(みなもとのよしとも)や、
平清盛(たいらのきよもり)のお父さんである平忠盛(たいらのただもり)もその1人です。

院御所の警備員になるということは、上皇や院近臣のそばに仕えるということです。
そんな権力者に顔を覚えてもらえれば、出世も夢ではありません。
北面の武士は、武士にとって中央進出の足場でもあったのです。

ところで…
なんか似たような名前の単語、ありましたよね…?

そうです!
滝口の武士(たきぐちのぶし)です!!
滝口の武者(たきぐちのむしゃ)とも呼ぶんでしたねー。
詳しくは平安時代(12)をご覧ください。

滝口の武士は、朝廷を警備する武士で、
北面の武士は、院御所を警備する武士です。
のちのち西面の武士(さいめんのぶし)なるものも登場しますので、
いまのうちに滝口の武士と北面の武士の違いを押さえておいてくださいね!!

*   *   *

その後、堀河天皇が成人し、関白には22歳のワカゾーが就任します。
1107年には堀河天皇が亡くなり、息子の鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したため、
おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう)にますます権力が集中するようになり、
院政は本格化してゆきます。

あれ?
なんか知らん間に、白河上皇が白河法皇に変わってますよ??
そうなんです、彼は1096年、娘の死をきっかけに出家しているのです。

天皇をやめると上皇(じょうこう)と呼ばれるようになり、
上皇が出家すると法皇(ほうおう)と呼ばれるようになるのです。
このことはプリントの右下にも書いていますので、確認して下さいね!

続いて1123年には、鳥羽天皇が息子の崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位しますが、
白河法皇が院政を継続します。
その白河法皇が1129年に亡くなると、かわって鳥羽上皇が院政を開始するのです。



プリントの右上、院政期の社会にうつります。

①経済

○ 知行国(ちぎょうこく)の制度

これは、上皇・朝廷が、貴族や寺社などを一国の知行国主(ちぎょうこくしゅ)として認め、
その国の支配権にあたる知行権(ちぎょうけん)や収益権を与える制度です。

ん?ナニソレ??って感じですよね。

前回、公領のしくみはこうなっていることを学びましたよね。
平安14-4.png

受領(ずりょう)とは、国守(くにのかみ)レベルの国司を指すんでしたね。
国守とは、国司で一番エラい人のことです。
国司の四等官制(しとうかんせい)は、
守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)ですもんね。
四等官制って??という人は、飛鳥時代(8)を復習して下さい。

受領に任命されるのは中級貴族なのですが、これになれたらもうウハウハです!
このころには在京、イコール京都に滞在したまんまでも、つまり現地に行かなくても、
それはそれはもうガメツク儲けられたのです!!

うらやましいですよね…
受領になりたいですよね…

でもね、繰り返しますが、
受領に任命されるのは中級貴族なんです。

そこで!

受領に任命されたいのに任命されない身分の人を、
受領みたいにガメツク儲けさせてあげよう!!

というのが知行国の制度なのです!!!

じゃ、受領に任命されたいのに任命されない身分の人って、
一体どんな人なんでしょうか。

答えは…

まさかの、身分が高すぎる上級貴族です!!!!!

えぇ!?
貧しい下級貴族とかじゃないの!!??
って感じですよね…

平安15-3.jpg

まず、朝廷または上皇は、上級貴族を知行国主に任命します。
すると知行国主は、自分の子弟や近臣などを国守に推薦し、その推薦料をもらいます。
任命された国守もほとんどは現地に行かず、かわりに目代を派遣して実務にあたらせます。
知行国主は、朝廷に決められた額の税はおさめますが、
残りは自分の収益とすることができるのです。

簡単な図にすると、こんな感じでしょうか。
公領と比べると分かりやすいですかね?

平安15-4.jpg

身分が高すぎて受領になれない上級貴族が知行国主となって、
身近な人を受領に推薦して丸儲け、ってことです。
ややこしそうに見えますが、案外シンプルなしくみです。

このころ、朝廷の税収は減っていて、貴族たちに支払う給料もままならない状況です。
知行国の制度は、そんな貴族の経済的基盤を確保する目的で生み出されたのです。

といって、貧しい下級貴族を救うのではなく、
上流貴族たちがガッポリ儲けるための制度ってのが何ともガッカリですよね!!

○ 院分国(いんぶんこく)の制度

知行国主が上皇または女院(にょいん)の場合、その知行国を院分国と呼びます。
厳密にいうと、院分国と知行国はちょっと仕組みが異なるのですが、
大学受験レベルではこの理解でオッケーです◎

女院とは、上皇の近親のなかで、院号(○○院という称号のこと)を与えられた女性のことです。
保元の乱で登場した、美福門院(びふくもんいん)とか、待賢門院 (たいけんもんいん)がそうです。

知行国の制度・院分国の制度によって、公領は上皇や知行国主・国司の私領のようになり、
院政を支える経済的基盤にもなってゆくのです。

○ 寄進地系荘園

院政期、有力貴族や大寺院への荘園の寄進が増加します。
とくに鳥羽上皇の時代には、彼の周辺に寄進地系荘園がたくさん集まります。
不輸の権・不入の権(警察権の排除にまで拡大)を持つ荘園も一般化し、
荘園の独立性が高まってゆきます。

このころ、上皇が女院や大寺院に大量の荘園を与えることもありました。
有名な例を2つ見ておきましょう。

・八条院領(はちじょういんりょう)
 鳥羽法皇(とばほうおう)の娘である八条院(はちじょういん)という女院が相続したもので、
 平安時代末に約100ヶ所、最終的に約220ヶ所以上にのぼった荘園群です。
 のちのち後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が継承し、
 南北朝時代には、南朝(なんちょう)の大覚寺統(だいかくじとう)の経済的基盤となります。
 ちなみに、八条院は1156年の記事にある、次の系図に登場しております。
 近衛天皇のお姉ちゃんにあたる人物です。
1156-1-2.jpg

・長講堂領(ちょうこうどうりょう)
 後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、長講堂(ちょうこうどう)という京都の寺院に寄進した荘園群です。
 鎌倉時代初めに約90ヶ所を数え、
 南北朝時代には、北朝(ほくちょう)の持明院統(じみょういんとう)の経済的基盤となります。

大覚寺統や持明院統については、また南北朝時代に詳しく説明しますね!

*   *   *

②宗教

○ 上皇による仏教保護

院政期、上皇たちは仏教をあつく信仰し、保護します。
白河上皇も鳥羽上皇も後白河上皇も、みんな出家して法皇となっています。

このころブームになっていたのは、
熊野詣(くまのもうで)と高野詣(こうやもうで)です。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)

以上の3つの神社をまとめて熊野三山(くまのさんざん)と呼ぶのですが、
これらに参詣することを熊野詣といいます。

もう1つの高野詣はというと、高野山(こうやさん)に参詣することをいいます。

さて高野山。
なんという宗派の総本山(そうほんざん、中心寺院のこと)だったか覚えていますか…?

ハイ、真言宗(しんごんしゅう)です。
「わっすれたわ~~~…」という人は、平安時代(3)を復習して下さいね!

浄土教と末法思想の広がりを背景に、
熊野三山や高野山は特別な場所と見なされるようになり、
上皇をはじめ、たくさんの人たちがここを目指したのです。
いずれも現在の和歌山県にあり、都からは結構遠いんですけどね。
2004年、熊野三山や高野山は、そこに至る参詣道もふくめて世界遺産に登録されました。

○ 僧兵(そうへい)の出現

荘園をたくさん所有する大寺院は、ドロボーなどから土地を守らなければなりません。
また、国府や開発領主といったさまざまな勢力にも対抗せねばなりません。

そこで登場するのが、僧兵です。
白い袈裟(けさ)で顔を覆っていたり、鎧(よろい)を身につけていたり、
長刀(なぎなた)で武装していたりと、ものものしいビジュアルをした下級僧侶です。

やがて僧兵は、強訴(ごうそ)をおこなうようになります。
神木(しんぼく、神様の宿る木のこと)や神輿(しんよ、おみこしのこと)を先頭に立てて、
朝廷や貴族に、自分たちの要求を無理矢理聞き入れさせようとするのです。

平安15-2.jpg

ウワー…めっちゃ怖いですねー…
武装したマッチョな僧侶が、おみこしかついで迫ってくるんですよ…
しかも「言うこときかんかったらバチがあたるぞー!」とか言うてるんですよ…

現代でさえこんなのが迫ってきたらめっちゃ怖いのに(まぁ迫ってくることはないでしょうけど)、
このころの貴族は、仏様とか神様とか怨霊とかバチとか、チョー信じてるんですよ!
だから、こんなことされたらもうめっっっちゃ怖いんですよ!!
僧兵の要求をのむしかないんですよ!!!

僧兵の襲来をおそれる貴族たちは、ガードマンとして武士を雇います。
これも、武士の中央政界進出につながってゆくのです。

そんな僧兵には、あの白河法皇でさえ手を焼いていたようで、
「天下の三不如意(ふにょい、自分の意のままにならないもの)」として、

賀茂川(かもがわ)の水
双六(すごろく)の賽(さい)
山法師(やまほうし、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵のこと)

の3つを挙げています。

たびたび氾濫を起こす京都の賀茂川・双六のサイコロの目・延暦寺の僧兵、
この3つはどうも自分の思い通りにならない…と愚痴っていたようです。
(ほかは思い通りになるってことですよね…やっぱ白河法皇パネェ!!!)

強訴の常連メンバーとしてあげられるのは、
白河法皇をも苦しめた山法師こと延暦寺の僧兵と、
奈良法師(ならほうし)こと興福寺(こうふくじ)の僧兵です。

山法師は、比叡山(ひえいざん)のふもとにある日吉神社(ひよしじんじゃ)の神輿をかついで強訴し、
奈良法師は、
興福寺の隣にある春日大社(かすがたいしゃ)の榊(さかき)という木をささげて強訴します。

比叡だから法師、
奈良だから奈良法師、で覚えて下さいね!
ちなみに、興福寺と延暦寺はまとめて南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれることもあります。
(南都=興福寺、北嶺=延暦寺)

*   *   *

最後に解答を載せておきましょう!

平安15解答.jpg

次回は、保元の乱・平治の乱をまとめていきます。
更新が滞っていること、なにとぞご了承くださいませ。

画像出典
長野県立歴史館 https://www.npmh.net/index.php
nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

平安時代(14) [まとめプリント]

久しぶりの更新、久しぶりのまとめプリントです。

これまでの古代(こだい)とオサラバし、いよいよ中世(ちゅうせい)に突入します。
とはいえ、「中世っていつのこと?」と問われると、これがハッキリ答えられんのです…
かつては鎌倉時代と室町時代を中世と呼んでいたのですが、
最近では「院政期あたりから中世って言ってもいいんじゃな~い?」てな感じになってきています。
中世という時代区分はヨーロッパで考えられたものなので、
日本にぴったり当てはまらないんですよねー。
なので、「このプリントあたりから中世なんだ~」とザックリとらえておいてください。

では、まとめプリントに沿って見ていきましょう。

平安14.jpg

1068年、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位します。
藤原氏と外戚(がいせき)関係にない彼は、
大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者さんを登用し、親政(しんせい)を開始します。

そして翌1069年、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を発令するのです。

このころ、公領(こうりょう)とか国衙領(こくがりょう)などと呼ばれる国の土地は、
どんどん増える荘園によって圧迫されておりました。
そこで、公領(国衙領)を守るため、基準にあわない荘園を停止してしまおう!と考えたワケです。

これまで荘園整理令は、902年や1045年など、たびたび発令されてきましたが、
いずれも国司に任せていたため不徹底に終わっています。

てなワケで、後三条天皇は本気です!
(いや、みんな本気だっただろうけど…)
荘園の審査を、国司に任せるのではなく、中央でおこなったのです!!

中央の太政官(だいじょうかん、または、だじょうかん)に
記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)、略して記録所(きろくしょ)を設置して、
荘園の所有者が提出する券契(けんけい、荘園の証拠書類)と国司の報告を審査します。
で、書類不備のものや、前回の荘園整理令が出された1045年以降に成立した新しい荘園など、
基準にあわない荘園を停止したのです。

これは、摂関家や大寺社の荘園も対象としたため、かなりの成果をあげます。
たとえば、京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という神社が所有する荘園は、
なんと34カ所のうち13カ所もの権利が停止されています。

後三条天皇、強気だぜー!
摂関家を外戚としない彼だからこそ、できたのでしょうね!!

ほかにも後三条天皇は、宣旨枡(せんじます)を制定し、枡の大きさも統一しています。

*   *   *

後三条天皇にかわって即位したのは、息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。
白河天皇といえば、上皇として院政(いんせい)をはじめたことで有名ですが、
天皇としての功績で覚えることは、
京都に法勝寺(ほっしょうじ)というお寺をつくったことぐらいでしょうか。
たび重なる火災や戦乱で建物はすべて失われてしまいましたが、
とてつもなく大きなお寺で、高さ80メートルを誇る八角形の九重塔まであったんだとか!
五重塔どころじゃないですよ、“きゅうじゅうのとう”ですよ!!

復元した模型がコチラ↓(10階建てに見えるのは、裳階(もこし)がついているためです)
hossyouji.jpg
(古典の日記念 京都市平安京創生館より)

そびえてますね~!
ちなみに現在、九重塔があった場所には、京都市動物園の観覧車がたっています。
いまもそびえとるわけですね~(笑)

このあと法勝寺の近くには、「勝」の漢字がつく大きなお寺が次々とたてられます。
お寺の名前と、それを建てた人の名前の一覧は以下の通りです。
 ・法勝寺         :白河天皇
 ・尊勝寺(そんしょうじ) :堀河天皇(ほりかわてんのう)
 ・最勝寺(さいしょうじ) :鳥羽天皇(とばてんのう)
 ・円勝寺(えんしょうじ) :待賢門院(たいけんもんいん、詳しくはコチラ
 ・成勝寺(じょうしょうじ):崇徳天皇(すとくてんのう)
 ・延勝寺(えんしょうじ) :近衛天皇(このえてんのう)
これらを6つまとめて六勝寺(ろくしょうじ、または、りくしょうじ)と呼びます。



では、プリントの右上にうつりましょう。

きましたよ~…荘園制…

いやですよね。
きらいですよね。

分かります!
その気持ち!!
なるべく簡潔にかみ砕いて説明しますので、ついてきてください!!!

*   *   *

まずは簡単に、荘園の歴史をおさらいしておきましょう。
平安時代(10)平安時代(11)もあわせてご覧くださいね!

平安14-1.jpg

743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出され、
初期荘園(しょきしょうえん)、つまり墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)が発生します。

でもそのうち、浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などが横行するようになり、
戸籍(こせき)・計帳(けいちょう)制度は崩壊、
902年に延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)を出してみるも、
班田収授(はんでんしゅうじゅ)もおこなわれなくなり、税制は立ち行かなくなります。

↓   ↓   ↓

平安14-2.jpg

そこで10世紀、朝廷は税制の大転換をおこないます。
これまでの人頭税(じんとうぜい、人にかける税)にかわり、土地に税をかけるようにし、
その徴税を、これまでの郡司にかわり、国司に請け負わせるようにしたのです。
徴税を請け負うかわりに、一国内の統治をゆだねられるようになった国司はオイシイ役職となり、
成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)・遙任(ようにん)がおこなわれるようになります。
なかには、ガメツイ受領(ずりょう、任国に赴く最上席の国司)も現れます。

この税制の大転換にともない、課税対象となる田んぼは名(みょう)という単位に分けられ、
国司はその耕作と徴税を有力農民である田堵(たと)に任せます。
田堵は名を請け負うことから、やがて負名(ふみょう)と呼ばれるようになります。
また、田堵のなかにはじゃんじゃん土地を開発し、
大名田堵(だいみょうたと)とか開発領主(かいはつりょうしゅ)と呼ばれるほど成長する者も現れます。

でもね、この時代、税は土地にかけられるようになっているわけですよ。
土地を開発すればするほど、いっぱい税を支払わないといけなくなるわけですよ。

なんとか税から逃れたい開発領主(大名田堵)たちは、
不輸の権(ふゆのけん)や不入の権(ふにゅうのけん)をもつ特権階級に土地を寄進します。
土地を寄進しても、みずからは荘官(しょうかん)としてその土地の管理を続けられるので、
寄進地系荘園はどんどん増加してゆくのです。

↓   ↓   ↓

平安14-3.jpg

前述の通り、増えまくる寄進地系荘園は、1069年の延久の荘園整理令によって整理されます。
これにより、貴族や寺社が支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とがハッキリし、
荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立するのです。
ザックリいうと、荘園と公領(国衙領)で国が構成されている、という感じです。

荘園については平安時代(11)に詳述しているので、そちらをご覧いただくとして、
ここでは公領(国衙領)を見ていきましょう。

平安14-4.png

公領(国衙領)の統治を担うのは国司、とくに受領です。
前述のとおり、受領とは任国に赴く最上席の国司を指します。
なのにねー、このころになると、任国に行かなくなっちゃうんですよ!
受領なのに遙任しちゃうんですよ!!
なんたる矛盾!!!

そんなこんなで任国の国衙には、受領が派遣した目代(もくだい)がやってきます。
目代は、地元の有力者である開発領主たちを在庁官人として雇い、国衙を経営してゆくのです。

なお、公領(国衙領)の開発を奨励する朝廷は、
それらを郡(ぐん)・郷(ごう)・保(ほ)という並列した支配単位に編成しなおします。
国衙は、在庁官人のなかから郡司(ぐんじ)・郷司(ごうじ)・保司(ほし)を任命し、
それぞれの徴税を請け負わせるようになります。

徴収する税はというと、
公領では官物(かんもつ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)、
荘園では年貢(ねんぐ)・公事・夫役に変わっています。

むあぁぁぁぁーーーー、ややこしいですよねーーーー…
もっとうまくまとめられたらいいのですが、私にはこれが限界のようです…

*   *   *

最後に解答を載せておきましょう。

平安14解答.jpg



次回は、院政をまとめていきます。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

画像出典
古典の日記念 京都市平安京創生館 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/index.html
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

1177年 鹿ケ谷の陰謀が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)についてお届けします。

シシガタニ ノ インボウ…
一体それなんやねん!って突っ込みたくなりますよね。

鹿ヶ谷(ししがたに)というのは、京都の地名です。
現在も、銀閣寺(ぎんかくじ)のちょっと南のあたりで住所として使われています。

1177年、その鹿ケ谷にある山荘で、なにやら陰謀がくわだてられたようです!
詳しく見ていきましょう!!






前回は、1167年に平清盛(たいらのきよもり)が
太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に就任したことを紹介しましたが、
出世したのは平清盛だけではありません。
平氏の多くが高位高官(こういこうかん、高い位階と高い官職のこと)にのぼりつめたのです。

もうね、平氏の勢いハンパないのです!
そのハンパなさをあらわす史料を、ここで見ておきましょう。

六波羅殿(ろくはらどの、京都の六波羅に邸宅をかまえる〔1   〕のこと)の御一家の君達(きんだち、上流貴族の子弟のこと)といひてしかば、花族(かしょく)も英耀(えいゆう、英雄の誤り、花族と同じく摂家につぐ貴族の家格のこと)も面(おもて)をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国(にゅうどうしょうこく、〔1   〕のこと、入道は出家した人を指し、相国は太政大臣を指す)のこじうと(配偶者の兄弟のこと)平大納言(へいだいなごん)〔2   〕卿(きょう)ののたまひけるは、「此(この)一門にあらざらむ人は皆人非人(にんぴにん)なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構(あいかま)へて其(その)ゆかりにむすぼゝれむとぞしける。(中略)日本秋津嶋(あきつしま)は纔(わずか)に六十六箇国、平家知行(ちぎょう)の国卅余箇国(1180年には平氏の知行国が30国をこえる)、既(すで)に半国にこえたり。其外(そのほか)庄園田畠いくらといふ数を知(しら)ず。綺羅(きら、美しい服のこと)充満して、堂上(とうしょう)花の如(ごと)し。軒騎(けんき、車や馬のこと)群集して、門前市(もんぜんいち)をなす。揚州(ようしゅう)の金(こがね)、荊州(けいしゅう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しょっこう)の錦(にしき、揚州・荊州・呉郡・蜀江はいずれの中国の地名で、それぞれの物品の名産地を羅列)、七珍万宝(しっちんまんぽう、多種多様な宝物のこと)一(ひとつ)として闕(かけ)たる事なし。(後略)
(出典『3   』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…平清盛(六波羅殿・入道相国などと呼ばれる)
 2…時忠(ときただ)
 3…平家物語(へいけものがたり)

とっても有名なセリフが出てきましたね~!
下線部分、よく「平家にあらずんば人にあらず」って訳されますね。
「平氏じゃないヤツは人間じゃないのダ!」ってことです。

ちょっとひどくなーい?
ダレよ!?
こんなセリフ言っっちゃったの!

え?
平時忠??

平清盛じゃなくって?
んじゃアンタ誰??

って感じですよね。
そこで、前回登場した系図をもう一度見てみましょう。

1177-1.jpg

あーーーー…
いるね!
いるいる!!

えーっと…
平清盛の…奥さんの…弟…だね、ウン。
いやぁ~…アンタがこのセリフ言っちゃう!?って感じですよね~。

でもですよ!
系図をよく見てください!!

お姉ちゃんの平時子(たいらのときこ)は、アノ平清盛の奥さんで、
妹の平滋子(たいらのしげこ)は、アノ後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の奥さんではないですか!

しかもですよ!
平滋子の産んだ憲仁親王(のりひとしんのう)は、
1168年に即位して高倉天皇(たかくらてんのう)となるのです!!

さらにですよ!
その高倉天皇と結婚したのは、平時子の産んだ平徳子(たいらのとくこ)なのです!!

1177-2.jpg

あんたの周り、すごい人だらけじゃん!
そりゃ「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうわけだ!!

とにもかくにも、そんなセリフを生み出してしまうほど、平氏の勢いはものすごかったのです。
こののち、もしも高倉天皇と平徳子の間に子どもが生まれて即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれちゃうわけですからね!

これを快く思わないのが、後白河法皇とその側近たちです。
1176年に、平清盛と後白河法皇の間を取り持ってきた平滋子がこの世を去ることで、
両者の関係はどんどん悪化してゆきます。

後白河法皇の周辺からは、
まるで藤原氏のようなやり方で勢力を伸ばす平氏に対する不満の声が、
ちらほら聞こえるようになります。

そんなときに起こるのが、鹿ケ谷の陰謀なのです。

*   *   *

1177年のある日、
鹿ケ谷にある俊寛(しゅんかん)というお坊さんの山荘(別の人物の山荘という説もアリ)で、
後白河法皇が院近臣(いんのきんしん)たちと飲み会をしておりました。
院近臣とは、院政をおこなう上皇(法皇)の側近のことで、
俊寛もその1人です。

いい感じにお酒もまわっていたのでしょうか、
飲み会メンバーの1人である藤原成親(ふじわらのなりちか)は、
立ち上がったときにうっかり瓶子(へいし、お酒を入れる壺のこと)を倒してしまいます。
それを見た後白河法皇が「あれはいかに」と尋ねると、
藤原成親は「ヘイシが倒れましたー!」と答えます。

瓶子と平氏をかけたわけですね!
まさかのオヤジギャグ!!

次に、俊寛が「それをどうするのー?」とあおると、
西光(さいこう)というお坊さんが、
「クビをとるっきゃないでしょー!」と瓶子の首をボキっと折ったそうな。

1177-3.jpg

以上の様子は、『平家物語』に描かれています。
物騒ですけど、なかなか盛り上がった飲み会ではありませんか。

でもね。

これをね。

平清盛にチクった人がいたのです。

源行綱(みなもとのゆきつな)です。
多田源氏(ただげんじ)なので多田行綱(ただゆきつな)とも呼びます。
(そういや昔、源(多田)満仲(みなもとの(ただ)みつなか)もなにやらチクってましたよね…
 覚えてますか?詳しくはコチラ!!)

彼の「鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の院近臣たちがなんかくわだててるっぽい」という密告により、
平清盛はすぐさま飲み会のメンバーを捕らえます。
そして、俊寛を薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流罪とし、
藤原成親を備前国(びぜんのくに)に流したうえ、食べ物を与えず崖から落として殺害します。
瓶子の首を折った西光は、ほとんど教科書に登場しないマイナーな人物ですが、
ひどい拷問のすえ、口を切り裂かれ、首を斬り落とされるという悲惨な最期を遂げます。

ちょ…
飲み会の席でのことですやん…
怖すぎますやん…

後白河法皇自身は罪には問われなかったものの、
このような形で側近たちを失ったことは、
後白河法皇に精神的なショックを与え、また政治的な権力の低下をもたらします。
後白河法皇の院政が弱体化するなかで、
いいオトナに成長した息子の高倉天皇は、親政を願うようになるのです。

*   *   *

鹿ケ谷の陰謀の翌年、平徳子が男の子を出産します。
この赤ちゃん、なんと生後1か月で皇太子となります!
平清盛は、皇太子の外戚としてますます力を伸ばし、
後白河法皇との関係を悪化させてゆきます。

そして1179年、平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
かわって平氏に好意的なものたちに与えます。
さらに、後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、
院政を停止してしまいます。

ここで、わずか1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位するのです。
お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政をしきますが、
もちろん安徳天皇の外戚である平清盛が政界の主導権を握ります。

また、平氏の知行国(詳しくは平安時代(15)をどうぞ!)も30ヶ国をこえ、
さきほど読んだ史料の太字部分、
日本秋津嶋は纔に六十六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国にこえたり。
という状況になります。

いやー…
平清盛、とてつもない…

平清盛の権力はとてつもないものになりますが、
多くの人々の反感を買うことにもなるのです。

*   *   *

それでは、最後にゴロあわせを。

1177年.jpg

ワンワンニャアニャアではありません(1122年になっちゃいますから…)!
ワンワンナァナァで1177年です!!






次回からは、まとめプリントをお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(6)  コメント(6) 
共通テーマ:学問

1167年 平清盛が太政大臣になる [年号のゴロ合わせ]

今日は、平清盛(たいらのきよもり)について、
1167年に太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されたことを中心にお届けします。






では問題!
平氏って、誰の子孫でしょうか?

ハイ、答えは桓武天皇(かんむてんのう)です。
なので、桓武平氏(かんむへいし)というんでしたね!
忘れたわー…という方は、平安時代(13)を復習してください。

平氏の多くは関東地方を基盤とするのですが、
平貞盛(たいらのさだもり、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)で登場した人ですよ!)の子孫は、
伊勢国(いせのくに)に移り住みます。
この一族を、とくに伊勢平氏(いせへいし)と呼びます。

伊勢平氏の存在を世に知らしめたのは、平正盛(たいらのまさもり)です。
北面の武士(ほくめんのぶし、詳細は平安時代(15)で)として白河法皇(しらかわほうおう)につかえ、
また、12世紀のはじめに起きた源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定したのです。

その息子である平忠盛(たいらのただもり)も、白河法皇にかわいがられます。
瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐し、
白河法皇亡きあとも、鳥羽上皇(とばじょうこう)から重用されます。
さらに日宋貿易(にっそうぼうえき)にも着手し、莫大な富をたくわえます。

そんな平忠盛の長男として生まれたのが、平清盛です。

うーん、それにしても平氏はみんな名前がモリモリしててややこしいですねー…
平盛子(たいらのもりこ)って女性までいるぐらいですからねー…
とにもかくにも、

 平正盛 ー 平忠盛 ー 平清盛

の順番ですよ。
まじモリモリですね。

*   *   *

平清盛は、保元の乱(ほうげんのらん)で後白河天皇(ごしらかわてんのう)サイドを勝利に導き、
さらに平治の乱(へいじのらん)でも大活躍し、もんのすごいスピードで力を伸ばしてゆきます。

しかも、奥さんである平時子(たいらのときこ)は、
二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)だというんだから、
ますます絶好調です!
(乳母については、1159年のゴロ合わせを参照してください)

それだけではありません。
平清盛は、後白河上皇の院庁(いんのちょう)にもつかえ、
奥さんの妹にあたる平滋子(たいらのしげこ)を後白河上皇と結婚させます。
さらに、蓮華王院(れんげおういん、院政期の文化で解説予定)という立派なお寺をつくって、
後白河上皇にプレゼントしちゃいます。

このころ、親政を志す二条天皇と、院政をおこなう後白河上皇は対立しているのですが、
平清盛は両方といい関係を築いてるわけですよ!
いや~…揺るぎないわ~…

1167-2.jpg

そんな折、二条天皇が亡くなります。
かわって即位したのは、二条天皇の息子である六条天皇(ろくじょうてんのう)です。
このとき、まさかの生後7か月。
7か月ったらアナタ、1人でちゃんとおすわりもできない状態ですよ。
即位式なんて、途中で泣いちゃっておっぱい(もちろん乳母の)飲んだんだとか。
そりゃそーですよ、だって赤ちゃんだもん…

六条天皇の時代、皇太子に任命されたのは、
後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王(のりひとしんのう)です。
彼にとって平清盛は、お母さんのお姉ちゃんの旦那さんです。
ん?あぁ、一応オジサンだね、うん。
ということで、平清盛がお世話係を仰せつかることになります。

そんなこんなで平清盛はどんどん出世し、
1167年には太政大臣に任命されるにいたります。
このとき、彼は50歳です。

本来、太政大臣に任命されるのは、皇族か貴族だけなのですが、
平清盛は武士でありながらこれに就任しちゃったのです!
太政大臣に任命された武士は、日本史史上6名だけです。
1167-1.png
そうなんです、平清盛が最初なんですよ!
「最初の」とか「最後の」ってのは重要なので、しっかり覚えておきましょう。

*   *   *

ところで、そもそも太政大臣ってナニか分かってますか?
ちょっとここで飛鳥時代(8)のプリントで律令制度(りつりょうせいど)を振り返ってみましょう。

飛鳥8解答.jpg

このように、律令にはいろんな官職(かんしょく)が定められていますが、
なかでも一番エライのが太政大臣です。
ただし、ふさわしい人物がいないときは任命されない則闕の官(そっけつのかん)です。
(太政大臣不在のとき、一番エライのは左大臣です)

「ん?摂政とか関白が一番エライんじゃないの??」と疑問に思いましたか?
そうなんですよ、このへんややこしいんですよねー…

思い出してください、摂政も関白も令外官(りょうげのかん)です!
どちらも律令に定められていない官職です!!
だからこの律令の表には載っていないのです!!!

なのでねー、このころの太政大臣はただの名誉職になってしまっていて、
たいした権限はありません。
平清盛は、わずか3か月で辞職してしまいます。

とはいえ、皇族か貴族しか就任できなかったものに任命されたのですよ!
すごいことじゃないですか!!
考えられないことですよ!!!

ってなワケで、こんなウワサがあるのです。

 平清盛は、白河法皇の子どもだ

ギャーーー!!
また出た白河法皇ーーーーー!!!

1167-3.jpg
(なぜ鳥羽天皇が背後にいるのかは、1156年のゴロ合わせを復習してください)

実は、平清盛のお母さんが誰かというのは、明らかになっていません。
お父さんである平忠盛は、白河法皇に仕えた女性と結婚しているのですが、
彼女がお腹に白河法皇の子を宿していて、その子を平清盛として出産した…のかもしれません。

ウワサはウワサ。
ホントのところは分かりません。

ただ、このウワサは当時もそこそこ広まっていたようです。
白河法皇の子どもだから、平清盛は武士なのに太政大臣になれたんだ、的な感じでね。
そんなウワサがたっちゃうぐらい、考えられないような大出世を遂げたということです。

いや~…

それにしても白河法皇…

すごいわ…

それでは、今日のゴロ合わせ。

1167年.jpg

いやーん、平清盛ったらいい胸毛してますね☆
「ダイジョーブ?」から、ダイジョー大臣を思い出してくださいね!






次回は、1177年に起きた鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)をお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:学問

1159年 平治の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、平治元年(へいじがんねん)、西暦1159年に起きた
平治の乱(へいじのらん)を取り上げます。

まずは、対立関係を表でみてみましょう。

1159-1.jpg

前回の保元の乱(ほうげんのらん)から3年しか経っていないというのに、新キャラが続々と!
しかも名前が似たり寄ったりでややこしい!!
ホント受験生泣かせですよね…

なるべく簡潔に解説していきますので、
頭を整理しながらついてきてくださいねー!!



保元の乱に勝利した後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、政治改革を推し進めます。
その改革のブレーンとなったのが、信西(しんぜい)です。
もとは藤原通憲(ふじわらのみちのり)という名前の貴族だったのですが、
このころには出家していて、信西というボーズネームを名乗っています。

どうして信西がブレーンになれたのかというと、
本人が頭脳明晰(ずのうめいせき)であることに加えて、
奥さんが後白河天皇の乳母(うば)だったからです。

乳母って分かりますか?
赤ちゃん用のミルクがないこの時代、
お母さんのおっぱいの出がよろしくないと、赤ちゃんが死んでしまうことさえありました。
そうならないためにも、めっちゃ母乳の出る女性を授乳係として雇うことがあったのです。
お母さんにかわっておっぱいを与えてくれる女性、それが乳母です。

ちなみに、母乳が出るのは出産から数年以内の女性に限られます。
とゆーことは…
そうです、乳母にも赤ちゃんがいるのです。
雇い主の赤ちゃんに授乳し、我が子にも授乳するのです。
しかも、授乳の順番は雇い主の赤ちゃんが先なんだそうですよ。
うーん、たいへんだぁ~…

信西の奥さんが後白河天皇の乳母に選ばれたのは、
後白河天皇が産まれて間もなくのことだったようです。
(このとき信西とすでに結婚していたかどうかは不明です)
しかし、このころ彼女が出産したという記録は残っていません。

ん?てことは??
そう、おっぱい出ないんです。

実は、乳母というのは授乳するだけではないのです。
身分の高い人々の間では、育児はしかるべき人物にお任せする、という慣例がありました。
その育児を担当する女性も、乳母と呼ばれたのです。

つまり信西の奥さんは、後白河天皇の養育を専門とする乳母だったのです。
そんなこんなで信西は、後白河天皇の時代に力をのばし、改革を進めてゆきます。

① 保元の乱のあと、後白河天皇のブレーンである信西が改革をおこなう
まずはこれを頭に入れてください。

*   *   *

このころ信西は、軍事力が必要だと考えるようになります。
それは、保元の乱で荒れた京都の治安を守るためであり、
各地の荘園を管理するためであり、
そしてなにより、自らが進める改革に対する反発を抑え込むためです。
そこで信西が手を組んだのが、最大の兵力をほこる平清盛(たいらのきよもり)です。
信西は、平清盛の軍事力を背景に改革を推し進め、
平清盛は、信西の力をかりて一族の出世をはかってゆくのです。

② 信西と平清盛が手を組んで、それぞれ力をのばしてゆく
ここまではOKですね?
さぁ、いよいよややこしくなってきますよぉ~…

*   *   *

1158年、後白河天皇は息子に譲位し、二条天皇(にじょうてんのう)が即位します。
これを決定したのは、信西と美福門院(びふくもんいん)です。
美福門院は、保元の乱でも登場した鳥羽法皇(とばほうおう)の奥さんですよ~。

二条天皇は、生まれて間もなくお母さんを亡くしたので、
おじいちゃんである鳥羽法皇に引き取られ、美福門院によって育てられます。
やがて美福門院は、我が子同然の二条天皇の即位を願うようになります。
鳥羽法皇亡きあと、ものすごい広さの荘園を相続した美福門院の発言力は相当なもので、
またそもそも後白河天皇は、二条天皇が成人するまでのツナギで即位したため(詳しくは保元の乱で!)、
信西は美福門院の要求を聞き入れるしかなかったようです。

こうして天皇の座を退いた後白河上皇(ごしらかわじょうこう)は院政を開始し、
親政をめざす二条天皇と対立するようになるのです。

③ 後白河上皇と二条天皇が対立する
このころ後白河上皇は、信西にかわるあらたな家臣を探しはじめます。

*   *   *

院政をおこなうなかで、
後白河上皇は藤原信頼(ふじわらののぶより)という貴族を頼るようになります。
信頼(のぶより)を信頼(しんらい)しちゃうわけですね~、ははは。
藤原信頼のように、院政をおこなう上皇の近くに仕える家臣のことを、
院近臣(いんのきんしん)といいます。
信西ももちろんその1人です。

ちなみに、藤原信頼は源義朝(みなもとのよしとも)と手を組んでいます。
源義朝は、保元の乱で平清盛とともに戦い、後白河天皇サイドを勝利に導いた武士でしたね。

④ 後白河上皇が、藤原信頼(源義朝と手を組む)を頼るようになる
なぜ後白河上皇が藤原信頼を頼るようになったのかというと、
ズバリ2人が“おホモダチ”だったから!という説があります(諸説アリマス)。
腐女子ども、「キャー!!」と興奮することなかれ、
男色(だんしょく、今風にいうとBLですね)は、この時代フツーのことです。
また後日、詳しく?述べたいと思います。

*   *   *

さて、信西はどうしているのかというと、
自分の子どもたちを次々と出世させ、ますます力をのばしている真っ最中です。
おぉっと、これはまわりのヒンシュクを買うパターンですねー。

ただですねー…
信西ムカつくからボッコボコにしたいなぁーって思ってもですねー…
彼の近くには平清盛がいるんですよ。

めっちゃ強いんですよ!
兵力ハンパないんですよ!!
手出しできないんですよ!!!

1159-6.jpg

⑤ 信西ムカつく、でも平清盛が怖すぎて手が出せない
ちなみに、藤原信頼と手を組んでいる源義朝ですが、
保元の乱の恩賞が平清盛より少なかったことにかなり不満を抱いています。
でも、平清盛には敵(かな)いそうにないので、何も言えずにいます…

*   *   *

なんとそんなとき!
平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけます!!

熊野詣については、平安時代(15)で詳しく述べていますが、
簡単に言うと、紀伊半島のさきっちょにある神社を参詣(さんけい)することです。

そーなんです!
あの平清盛が、平安京から遠く離れた神社までお参りしに行っちゃったのです!!
これは信西をボッコボコにするチャンスです!!!

すかさず藤原信頼と源義朝は立ち上がります。
まずは、後白河上皇の邸宅である三条殿(さんじょうどの)を襲撃し、
後白河上皇の身柄(みがら)を確保します。
そして、二条天皇も一緒に幽閉(ゆうへい、閉じ込めてしまうこと)してしまいます。

この様子は、鎌倉文化で紹介する「平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)」に描かれています。
Heiji_no_ran.jpg
燃えさかる三条殿を背景に、残酷な場面がさまざまに描かれています。
なかには戦乱に巻き込まれる女性の姿も確認できますね。

⑥ 平清盛が熊野詣に出かけた隙に、藤原信頼と源義朝が挙兵し、後白河上皇と二条天皇を幽閉したうえで信西を排除しようとする
てか、「藤原信頼と源義朝は後白河上皇の味方なのに、何で襲撃してんの?」ってパニくりません?
こーゆーところがややこしいんですよねー…
朝廷の軍隊を官軍(かんぐん)、それに敵対する軍隊を賊軍(ぞくぐん)と呼ぶように、
天皇や上皇をいただく軍隊は、正当性のある軍隊です。
よって、藤原信頼と源義朝は、信西を排除するという自分たちの行動が正当なものであるよう、
また二条天皇と後白河上皇の身柄が信西や平清盛に奪われ、自分たちが賊軍となってしまわないよう、
まず三条殿を襲撃したのだと考えられます。
それにしても、こんな手荒な方法しかなかったんですかねぇ…

*   *   *

ところで、信西はどうなったのかというと、この混乱のなか、なんとか平安京を脱出し、
山城国の田原(たわら、現在の宇治田原町(うじたわらちょう))という場所まで逃れます。
そして、大きな箱のなかに入り、家来たちに命じて土の中に埋めてもらいます。

ちょ…
ほんまにそんな隠れ方する人おるんですね…
しかも、箱には竹筒をさして、ちゃんと息を吸えるようにしておいたというんだからカンペキです!

しかぁし!
家来たちは追手(おって)の尋問に耐えられず、信西の居所はすぐにバレてしまいます…

1159-7.jpg

うぅ…ここまでしたのに…む、無念…
信西は、掘り起こされる最中、自ら喉をついて命を絶ったようです。

その後の信西の様子は、さきほども登場した「平治物語絵巻」に描かれています。
1159-3.jpg
↑ どこに信西がいるか分かりますか?
分かりにくいでしょうから、ちょっと赤丸をつけてみますね。
1159-4.jpg
↑ ワァァァー!いたァァァァーー!!(涙)
胴体から切り離された信西の首は、薙刀(なぎなた)にひっつけられて平安京まで運ばれたのです。
絵巻には、その様子を見た人たちが息をのんだり、ひそひそ話をしたりする姿も描かれていますね。

⑦ 信西が自害する
信西の子どもたちも次々と捕らえられ、のちに流罪となります。

*   *   *

クーデターを成功させた藤原信頼は、ついに政権を手に入れます。
ところがどっこい!
このタイミングで、熊野詣を中断した平清盛がいそぎ平安京に戻ってくるのです!!

藤原信頼の血なまぐさいやり方に不満をもつ者も多いなか、
ものすごい兵力を率いる平清盛が戻ったことで、藤原信頼の政権は揺らぎます。
さらになんと、二条天皇が夜な夜な平清盛の邸宅に逃げてきて、
藤原信頼と源義朝を討つよう命じるのです!

朝になり、二条天皇がいないことに気が付いた藤原信頼と源義朝はもうパニックです。
しかも、二条天皇の動向を知った後白河上皇もすでに逃げ出しているという始末。
藤原信頼と源義朝は、一夜のうちに賊軍になってしまったのです…

1159-8.jpg

⑧ 帰京した平清盛に、二条天皇が藤原信頼・源義朝の追討を命じる
後白河上皇と藤原信頼のカンケイって、そんなもんだったんですねぇ…

*   *   *

官軍となって勢いづいた平清盛は、藤原信頼と源義朝を討つため、
息子の平重盛(たいらのしげもり)や、弟の平頼盛(たいらのよりもり)らと出陣します。
それを迎え撃つ源義朝は、
息子の源義平(みなもとのよしひら)・源頼朝(みなもとのよりとも)らを率いて戦いますが、
平清盛との兵力の差は歴然で、敗れてしまいます。
なんとか東国へ逃れようとしますが、源義朝は尾張国(おわりのくに)で謀殺(ぼうさつ)され、
その後、源義平も捕らえられて斬首となります。

藤原信頼はというと、自ら出頭し、言い訳をしまくりますが、
三条殿を襲撃し、信西を殺害した首謀者として斬首されます。

1159-5.jpg

⑨ 藤原信頼が処刑され、源義朝は殺害される
ちなみに、源頼朝はというと、東国へ逃れる途中でお父さんとはぐれてしまいます。
その後、捕らえられ、処刑されるところを、
平清盛のお母さん(実母ではありません)が「命だけは助けてあげて」と訴えたため、
伊豆国(いずのくに)に流罪となります。

だって源頼朝、このとき13歳なんですよ!
処刑するなんて、あまりにもかわいそうじゃないですか!!

でもねー…
この優しさが平氏を滅ぼすことになっちゃうんですよねー…

*   *   *

長くなりました、ホントに長くなりましたゴメンナサイ。
なるべく簡潔にと言っておきながら、全然短くまとまんなかったですゴメンナサイ。

とにもかくにも、まずは青字で書いたを覚えて平治の乱の大枠(おおわく)をとらえ、
そのあと細かいところを読んで理解を深めてください。

最後にゴロ合わせを載せておきましょう★

1159年.jpg






保元の乱も平治の乱も、武士の力によって決着がつきました。
みんなが武士の実力を、とくに平氏の実力を認めざるをえなくなります。
というわけで、次回は平氏政権をゴロ合わせとともにお届けします。

更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/平治の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/信西
nice!(3)  コメント(6) 
共通テーマ:学問

1156年 保元の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、保元元年(ほうげんがんねん)、西暦1156年に起きた
保元の乱(ほうげんのらん)を取り上げます。

保元の乱とは、
兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に、
兄・藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立が重なり、
それぞれに武士である平氏・源氏が加わって大規模な武力衝突に発展してしまった、
壮絶な兄弟ゲンカです。

最初に、対立関係を表にまとめておきましょう。

1156-1.jpg

う~ん、登場人物が多くてすでにややこしいですね…
なので、今回は天皇家の対立に焦点をしぼって、保元の乱を見ることにしましょう。
崇徳上皇と後白河天皇、この2人の対立の原点は、
どうやら彼らのお父さんである鳥羽天皇(とばてんのう)にあるようです。



鳥羽天皇は、1107年にお父さんである堀河天皇(ほりかわてんのう)の死去にともない即位します。
このときわずか5歳。
よって、おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう、1096年ごろ出家)が院政(いんせい)をおこないます。

それから16年後、鳥羽天皇は息子に天皇の位を譲ります。
即位した崇徳天皇(すとくてんのう)は、これまた5歳。
もちろん院政が敷かれます。
院政をおこなったのは、崇徳天皇のお父さんである鳥羽上皇(とばじょうこう)ではなく、
これまた白河法皇です。
崇徳天皇にとっては、ひいおじいちゃんにあたる人物です。

こんな風に白河法皇がずぅぅーーーっと君臨し続けるので、
鳥羽上皇は、天皇としても、上皇としても、まったく権力を握れない日々を送ります。
ちょっとじいさん!いい加減 引退してくれよ!!って感じですよね。

といっても、じいさんの時代がいつまでも続くわけではありません。
1129年、白河法皇は77歳でこの世を去るのです。

さぁ!
ついに鳥羽上皇が権力を握る日がやって来ましたよ!!

てなわけで、鳥羽上皇はさっそく院政を敷き、白河法皇の側近たちを次々と排除します。
そして、1141年には崇徳天皇に譲位を迫り、息子の近衛天皇(このえてんのう)を即位させます。
近衛天皇は、このとき3歳。
院政をおこなうのは、もちろん近衛天皇のお父さんである鳥羽上皇です。

ところが…
1155年、近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます…

次に即位したのは、近衛天皇のお兄ちゃんにあたる後白河天皇です。
鳥羽法皇(とばほうおう、1142年に出家して法皇となる)としては、
孫(後白河天皇の息子、のちの二条天皇(にじょうてんのう))を天皇にしたかったのですが、
さすがに天皇になったことのないお父さんを差し置いて即位しちゃいかんだろ…ということで、
急遽、即位することになったのです。
そんな後白河天皇は、このとき29歳。
かなりイイトシなのですが、鳥羽法皇は院政を継続します。

うーん、なんだか人間関係がややこしくなってきたので、
ここでちょっと系図を確認するとしましょう。

1156-1-2.jpg

崇徳上皇・近衛天皇・後白河天皇は、みーんな鳥羽法皇の息子とゆーことですよ。
いや~、ややこしいですね~…

ここまでの流れは理解できましたか?
では、続きを見ていきましょう。

*   *   *

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなります。

この直前、息子である崇徳上皇は、鳥羽法皇のお見舞いに出かけます。
ところが、お父さんに面会を拒否されてしまうのです!
しかも、「私が死んでも崇徳上皇に遺体は見せるな」という遺言つき!!

なにそれ!
ちょっとヒドくないですか!!

実は、鳥羽法皇と崇徳上皇の関係は、かなり前からギスギスしていたのです。
ここで、崇徳上皇が天皇の位を譲ったときに話を戻してみましょう。

*   *   *

崇徳天皇は、白河法皇の死後、鳥羽上皇から譲位を迫られ、
かわって近衛天皇が即位したんでしたよね。

近衛天皇は崇徳上皇の弟ですが、崇徳上皇の奥さんの養子になっていたので、
ながらく「皇太子」のポジションにありました。
ところが実際、近衛天皇が即位したときには、
「皇太弟」のポジションから天皇になった、という風に変わっていたのです!
崇徳上皇の弟、つまり鳥羽上皇の息子として即位した、ということです。
結果、院政は天皇のお父さんである鳥羽上皇がおこなうこととなり、
天皇のお兄ちゃんである崇徳上皇は、権力を手にすることはできませんでした。

その後、近衛天皇は若くして亡くなったのでしたね。
次の天皇として有力視されたのは、崇徳上皇の息子でした。
もし彼が即位すれば、崇徳上皇は天皇のお父さんなので、院政をおこなえる可能性がでてきます。

ところが鳥羽法皇は、崇徳上皇の弟である後白河天皇を即位させたのでしたね。
さらに、後白河天皇の息子(のちの二条天皇)を皇太子にたて、
次の天皇とすることも決定しました。

鳥羽法皇によって、
崇徳上皇の息子が天皇になること、
そして崇徳上皇が院政をおこなう可能性は完全に絶たれてしまったのです。
そこに死の間際の面会拒否とあの遺言ですよ。

いやぁ~…崇徳上皇マジでかわいそすぎます…
鳥羽法皇は、崇徳上皇のナニが気にいらないとゆーのでしょう!

1156-3.jpg

ここで1つ、なんとも怪しいウワサ話を紹介しましょう…
(以降、便宜上、「崇徳上皇」で名称を統一します)

崇徳上皇のお母さんは、
待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし、または、たいけんもんいんたまこ)といいます。
白河法皇に育てられた女性で、1117年に鳥羽天皇と結婚し、7人の子を産みます。
崇徳上皇は、その最初の子どもです。

ところが。
ところがですよ。

崇徳上皇のほんとうのお父さんは白河法皇である。

なんてゆーウワサがたつのです!
鳥羽天皇からすると、奥さんと、自分のおじいちゃんとの間にできた子です。
うぅぅぅーん、ちょっと相当キモいですよね…

1156-4.jpg

そんな息子に譲位した鳥羽上皇は、
やがて美福門院得子(びふくもんいんなりこ)という別の奥さんを愛するようになります。
そして、彼女が産んだカワイイ我が子を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫ったというわけです。

このウワサは、鎌倉時代に成立した『古事談(こじだん)』という本にしか載っていないので、
真偽のほどは分かりませんし、当時どれだけ広まったのかも分かりません。
でも、鳥羽法皇の崇徳上皇に対する態度を見ると、
「ウワサは本当なのかも…」と思ってしまいますね…

*   *   *

鳥羽法皇が亡くなったところに話を戻しましょう。

鳥羽法皇が亡くなり、なんかもういろいろショックを受けている崇徳上皇に、
さらなる追い打ちがかかります。

崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている。

というウワサが流れるのです。

藤原頼長とは、お兄ちゃんである関白の藤原忠通と対立している左大臣です。
(この兄弟の対立については、平安時代(16)のまとめプリントで詳しく述べる予定です)
またウワサかぃ!と突っ込みたくなりますが、ウワサほど怖いものはありません…
これにより、藤原頼長は財産を没収されてしまうのです。
もはや謀反人(むほんにん)扱いです。

このままでは自分も危ないと悟った崇徳上皇は、自宅を脱出します。
藤原頼長はそんな崇徳上皇と合流し、
ここに平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためよし)・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士が加わります。

こうした崇徳上皇側の動きに、後白河天皇と藤原忠通もすかさず
平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士を集めます。

そして1156年7月11日の未明、両勢力は激突するのです。
世にいう保元の乱です。

勝敗は、わずか数時間で決します。
勝利したのは、後白河天皇側です。

敗北した崇徳上皇は、投降のすえ讃岐国(さぬきのくに)に流罪となり、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。
なお、藤原頼長は戦いのさなかに命を落としています。

1156-5.png

ちなみに、
天皇・上皇の流罪は、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)以来(淳仁天皇が淡路島に流罪)、
死刑の執行は薬子の変(くすこのへん)以来(藤原仲成が処刑)のことです。

ここで、保元の乱についての史料を見ておきましょう。

保元元年(1156年)七月二日、〔1   〕院失セサセ給(たまひ)テ後、日本国ノ乱逆(〔2   〕のこと)ト云(いう)コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ
(出典:慈円(じえん)『〔3   〕』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…鳥羽(鳥羽法皇の死去→保元の乱の勃発、この順序を押さえておけば答えられますね)
 2…保元の乱
 3…愚管抄(ぐかんしょう、鎌倉文化で紹介する歴史書)

この史料のなかで重要なのは、「ムサノ世」という言葉です。
中央政界における争いを、武士の力で解決した保元の乱は、
貴族の無力さと武士の実力を世に広め、武士が政界に進出するきっかけを与えました。
つまり日本は、保元の乱によって武士が政権をとる「武者の世」となったのです。

*   *   *

余談ではありますが、最後に崇徳上皇の讃岐国での様子を見ておきましょう…

ところで、讃岐国ってどこか分かりますか?
讃岐と言えば…
そう!うどんで有名ですよね!!さぬきうどん!!!
「それでも分からん!」という人は、飛鳥時代(11)を復習してください。

讃岐国に流罪となった崇徳上皇は、仏教を深く信仰するようになり、
たくさんの写経(しゃきょう、お経を書写すること)をおこないます。
そして、保元の乱で亡くなった人々の供養(くよう)と、自身の反省の証にしてほしい…と、
それらをまとめて朝廷に送ります。

ところが!
ところがですよ!!

後白河天皇は、「これ、呪い(のろい)が込められてるんちゃうの!」とキモがり、
ぜんぶまとめて崇徳上皇のもとに送り返すよう命じるのです!!!

ちょ!
後白河!!

あかん!
それは絶対にあかん!!

でもホントに送り返しちゃったんですよねー…

もちろん崇徳上皇は怒り狂います。
その怒りはすさまじく、舌を噛み切り、その血でもって
「大魔王になって、天皇を没落させ、民をこの国の王にしてやる」
というような内容を、送り返されてきたお経に書いたほどだったとか。

その後、崇徳上皇は讃岐国で生涯を閉じるのですが、
亡くなるまで髪の毛や爪を伸ばし続けて天狗になった、とか、
崇徳上皇の遺体をいれた棺(ひつぎ)から血があふれ出した、とか、
なんとも怖いウワサが残っています。
やがて崇徳上皇は、怨霊(おんりょう)として人々からおそれられるようになるのです。

崇徳上皇の魂が京都に戻るのは、明治時代の直前のことです。
明治天皇が即位する際、京都に神社を建てて崇徳上皇を祀(まつ)ったのです。
平安時代末期に天皇が武士に政権を奪われたのは、崇徳上皇の呪いによるものだ、
という考えが幕末期まで続いていたのでしょう…
大政奉還によって政権が天皇(朝廷)に返上されたタイミングで、
崇徳上皇はようやく京都に帰ることができたのです。

なお、崇徳上皇は讃岐国で2人の子どもに恵まれた、
というほっこりエピソードも残っています。
幸せな面もあったんだね…ホントに良かった……(涙)

長くなりました。
最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1156年.jpg

キレていい、キレていいよね、崇徳上皇…

すみっこにいるマッスルキャラについては、平安時代(16)をご覧ください。



次回は、平治の乱(へいじのらん)をゴロ合わせとともにお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(10)  コメント(8) 
共通テーマ:学問
前の10件 | -