239年 卑弥呼が魏に使者を派遣する [年号のゴロ合わせ]
今日はみなさんご存知の有名人、邪馬台国の卑弥呼の話をしましょう。
陳寿が著した『三国志』の一つである『魏志』のなかに、東夷伝という部分があり、
ここには倭人、とくに邪馬台国についての詳しい記述が見られます。
これを日本史では『魏志』倭人伝と呼びます。
ちょっと長いですが、引用します。
倭人は〔1 〕の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。①旧(もと)百余国。漢の時朝見する者有り、今使訳通ずる所〔2 〕国。都より倭に至るには、海岸に循(したが)ひて水行し、(中略)〔3 〕に至る。女王の都する所なり。 男子は大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん、入れ墨のこと)す。(中略)祖賦(そふ)を収むに邸閣有り。国々に市有り、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。(中略)〔4 〕、〔5 〕と道路に相逢へば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝へ事を説くには、或は蹲(うずくま)り或は跪(ひざまず)き、両手地に拠りて、之が恭敬(きょうけい)をなす。(中略) 其の国、本亦男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。②倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を〔6 〕と曰ふ。〔7 〕を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なし。男弟有り、佐(たす)けて国を治む。(中略) 景初二年六月、倭の女王、大夫〔8 〕等を遣し郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。(中略)其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて日く、「(中略)今汝を以て〔9 〕と為し、金印紫綬を仮(ゆる)し、装封(そうふう)して〔1 〕の太守に付し仮授せしむ(中略)」と。 〔6 〕以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。〔6 〕の宗女〔10 〕の年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。
空欄に入る語は答えられましたか?
1…帯方(たいほう、後漢が朝鮮半島に設置した郡)
2…三十
3…邪馬台国(所在地は北九州か畿内か…最近は奈良県の纏向(まきむく)遺跡が注目されています)
4…下戸(邪馬台国には大人-下戸-奴卑という身分制度が存在したことが分かります)
5…大人
6…卑弥呼
7…鬼道(きどう、呪術の意、彼女は呪術で人々を統治していたようです)
8…難升米(なしめ、大夫という役職の者で、中国に派遣されました)
9…親魏倭王(しんぎわおう、魏と親しい倭の王という意)
10…壹与(壱与)(いよ、臺与(とよ)という説もアリ、卑弥呼は結婚しておらず、彼女は卑弥呼の一族の者であったようです)
さらに、下線①と②はどの史料の引用か分かりましたか?
①…『漢書』地理志
夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
『漢書』と『魏志』で、楽浪郡と帯方郡、百と三十をそれぞれ混同しないよう注意しましょう。
②…『後漢書』東夷伝
これは昨日詳述しましたので、そちらをご覧ください。
『魏志』倭人伝には、卑弥呼が景初二年に使者を遣わした、と書かれていますが、
これはおそらく景初三年の誤りであろうとされています。
このとき卑弥呼は「親魏倭王」の称号とともに多数の銅鏡を賜ったとされます。
銅鏡とは、有名な「三角縁神獣鏡」です。
縁が三角で、神獣が施されているのでこう呼ばれています。
簡単に描くとこんな感じ。
ということで、今日のゴロ合わせ。
このような銅鏡を用いて呪術で邪馬台国を統治したのでしょうね…
それでは、今日はここまで☆
陳寿が著した『三国志』の一つである『魏志』のなかに、東夷伝という部分があり、
ここには倭人、とくに邪馬台国についての詳しい記述が見られます。
これを日本史では『魏志』倭人伝と呼びます。
ちょっと長いですが、引用します。
倭人は〔1 〕の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。①旧(もと)百余国。漢の時朝見する者有り、今使訳通ずる所〔2 〕国。都より倭に至るには、海岸に循(したが)ひて水行し、(中略)〔3 〕に至る。女王の都する所なり。 男子は大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん、入れ墨のこと)す。(中略)祖賦(そふ)を収むに邸閣有り。国々に市有り、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。(中略)〔4 〕、〔5 〕と道路に相逢へば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝へ事を説くには、或は蹲(うずくま)り或は跪(ひざまず)き、両手地に拠りて、之が恭敬(きょうけい)をなす。(中略) 其の国、本亦男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。②倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を〔6 〕と曰ふ。〔7 〕を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なし。男弟有り、佐(たす)けて国を治む。(中略) 景初二年六月、倭の女王、大夫〔8 〕等を遣し郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。(中略)其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて日く、「(中略)今汝を以て〔9 〕と為し、金印紫綬を仮(ゆる)し、装封(そうふう)して〔1 〕の太守に付し仮授せしむ(中略)」と。 〔6 〕以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。〔6 〕の宗女〔10 〕の年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。
空欄に入る語は答えられましたか?
1…帯方(たいほう、後漢が朝鮮半島に設置した郡)
2…三十
3…邪馬台国(所在地は北九州か畿内か…最近は奈良県の纏向(まきむく)遺跡が注目されています)
4…下戸(邪馬台国には大人-下戸-奴卑という身分制度が存在したことが分かります)
5…大人
6…卑弥呼
7…鬼道(きどう、呪術の意、彼女は呪術で人々を統治していたようです)
8…難升米(なしめ、大夫という役職の者で、中国に派遣されました)
9…親魏倭王(しんぎわおう、魏と親しい倭の王という意)
10…壹与(壱与)(いよ、臺与(とよ)という説もアリ、卑弥呼は結婚しておらず、彼女は卑弥呼の一族の者であったようです)
さらに、下線①と②はどの史料の引用か分かりましたか?
①…『漢書』地理志
夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
『漢書』と『魏志』で、楽浪郡と帯方郡、百と三十をそれぞれ混同しないよう注意しましょう。
②…『後漢書』東夷伝
これは昨日詳述しましたので、そちらをご覧ください。
『魏志』倭人伝には、卑弥呼が景初二年に使者を遣わした、と書かれていますが、
これはおそらく景初三年の誤りであろうとされています。
このとき卑弥呼は「親魏倭王」の称号とともに多数の銅鏡を賜ったとされます。
銅鏡とは、有名な「三角縁神獣鏡」です。
縁が三角で、神獣が施されているのでこう呼ばれています。
簡単に描くとこんな感じ。
ということで、今日のゴロ合わせ。
このような銅鏡を用いて呪術で邪馬台国を統治したのでしょうね…
それでは、今日はここまで☆
2015-06-17 21:59
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コメント(4)
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初めまして
歴史は暗記 だけではないですね
イラストもイイ感じデス
さてさて 壹与 は 臺与 では ご確認下さい
更新を期待しております
それでは
山野井 都
by 山野井 都 (2019-07-13 05:58)
山野井都さま
コメント&ご指摘、ありがとうございます!
おっしゃる通り、文中どちらも壹与になっておりましたので、
修正いたしました。
壹与と臺与については、弥生時代(6)でも触れておりますので、ご参考にして頂けると幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします!
by 春之助 (2019-07-13 15:29)
質問です。伴と伴造の関係は理解できるのですが、部と品部の違いがイマイチわかりません。朝廷に仕えているかどうかの違いですか。
by ビッグバード (2022-06-11 16:41)
ビッグバード様
古墳時代(5)についての質問ということですね!
部と品部の違い…ムズカシイですよね…
まず、部(べ)は様々な労働者のグループだと考えてください。
そのなかで、大王家・朝廷にそれぞれの職能をもって仕える部を品部(しなべ)と呼び(韓鍛冶部とか錦織部とか史部などをまとめた呼び方)、
大王家の直轄民を名代・子代の部と呼びます。
一方、豪族に仕える私有民を部曲(かきべ)と呼びます。
by 春之助 (2022-07-05 22:44)