552年 仏教が伝来する(壬申説) [年号のゴロ合わせ]
昨日は、538年に百済から仏教が伝来したお話をしました。
この年号、いわゆる戊午説の根拠は、『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺縁起』、2つの歴史書でしたね。
では、今日はもう1つの説をご紹介しましょう。
552年に仏教が伝来した、と記述する歴史書が1つだけあります。
何か分かりますか?
そう、720年に舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって編纂(へんさん)した『日本書紀』です。
まずは『日本書紀』における仏教伝来の一節を見てみましょう。
(〔1 〕天皇十三年(〔2 〕年のこと))冬十月、百済の〔3 〕(中略)釈迦仏の金銅像一躯(ひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る。(中略)乃(すなわ)ち群臣に歴問(れきもん)して曰く、「西蕃(百済のこと)の献れる仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し。全(もは)ら未(いま)だ曾(かつ)て有(あら)ず。礼(いやま)ふべきや不(いな)や」と。蘇我大臣〔4 〕宿禰、奏して曰(もう)さく、「西蕃の諸国、一(もはら)に皆礼ふ。豊秋(とよあきづ)日本豈(あに)独り背かむや」と。物部大連〔5 〕・中臣連鎌子、同じく奏して曰さく、「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす。方(まさ)に今改めて蕃神(あだしくにのかみ)を拝みたまはば、恐るらくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむ」と。天皇曰く、「情願(ねが)ふ人〔4 〕宿禰に付(さず)けて、試(こころみ)に礼ひ拝ましむべし」と。
空欄に入る言葉は分かりましたか?
1…欽明
2…552
3…聖明王
4…稲目(大臣の蘇我稲目、そがのいなめ)
5…尾輿(大連の物部尾輿、もののべのおこし)
欽明天皇は、百済の聖明王が伝えた仏教を信仰するべきかどうか、家臣たちに意見を問うたようです。
すると、蘇我稲目は「ほかの国が信仰しているのに、なぜ日本だけが信仰しないのでしょう」と答えます。
一方、物部尾輿や中臣鎌子(カマコ…)らは、「日本には昔からたくさんの神様がいらっしゃるのに、なぜ外国の神様を信仰するのか。そんなことをしたら、日本の神様が怒ってしまうかもしれない!」と反論します。
結果、欽明天皇は「では、蘇我稲目に試しに信仰させてみよう」と提案した、と書かれています。
つまり、蘇我稲目は仏教を崇拝しようとし、物部尾輿と中臣鎌子は仏教を排除しようとしたのです。
前者を崇仏派、後者を排仏派と呼びます。
とくに中臣家は神事・祭祀を担当する家柄ですしね、排仏派の立場をとるのは当然のことでしょう。
日本には昔から八百万(やおよろず)の神々、すなわちたくさんの神様がいると信じられてきました。
大きな木や石、自然現象などに霊魂が宿ると考えるアニミズム(アミニズムではありませんよ!「兄、水虫」で覚えましょう…)の思想が古くからありますし、さらに台所やトイレにまで神様がいる、とまで考える民族です。
しかも、その神様たちは基本的に目には見えないのです。
現在も、神社で「これが神様です!!」という像をほとんど見かけませんよね。
神様には具体的な姿や形はなく、鏡とか刀剣とかに宿るのだ、と考えられているようです。
かたや、百済から伝わった仏様は、仏像という形で目に見えている。
日本古来の神様と比べると、まったく異質なものです。
じゃぁこれを信仰してみよう!と思うのはなかなか難しいのではないでしょうか…
町を歩いていると、いきなり外人から「アナタ、コノ神サマヲ信ジマセンカ?」と声をかけられたら…
「いま、忙しいんで…」とか言って目も合わさずに避けるでしょう。
そう考えると、排仏派の考えの方が普通なのかもしれません。
ところが、蘇我稲目はこれを信仰してみようというのです。
もちろん排仏派はこれに反対するので、いわゆる崇仏論争というものが発生します。
崇仏論争については、またのちに詳述したいと思います。
話を元に戻すと、『日本書紀』には仏教の伝来は552年と書かれていましたね。
これを壬申説と呼びますが、壬申説をとるのはたった1つ、『日本書紀』だけです。
かたや、538年の戊午説をとる歴史書は2つあるので、信憑性は戊午説の方が高いということになります。
しかし…
『日本書紀』ですからね…
国が編纂した歴史書が間違っている…とも言い難いので、
現在は、戊午説の方が有力ではあるけれど、壬申説も捨てがたいよね、という結論になっています。
では、ここで今日のゴロ合わせ。
いずれにせよ仏教は、欽明天皇の時代、6世紀に百済から伝来したようです。
なお、仏教の伝来には、実はもう1つ説があります。
『扶桑略記』(ふそうりゃっき)という歴史書の中に、
継体天皇の時代、522年に司馬達等(しばたっと)が奈良で仏教を信仰していた、と書かれているのです。
司馬達等は、飛鳥文化を代表する仏師である鞍作鳥(止利仏師)の祖父にあたる人物です。
これについては、個人的に信仰していた、ということで、
戊午説や壬申説が仏教の公伝というのに対して、私伝という扱いになっています。
それでは、今日はここまで☆
この年号、いわゆる戊午説の根拠は、『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺縁起』、2つの歴史書でしたね。
では、今日はもう1つの説をご紹介しましょう。
552年に仏教が伝来した、と記述する歴史書が1つだけあります。
何か分かりますか?
そう、720年に舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって編纂(へんさん)した『日本書紀』です。
まずは『日本書紀』における仏教伝来の一節を見てみましょう。
(〔1 〕天皇十三年(〔2 〕年のこと))冬十月、百済の〔3 〕(中略)釈迦仏の金銅像一躯(ひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る。(中略)乃(すなわ)ち群臣に歴問(れきもん)して曰く、「西蕃(百済のこと)の献れる仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し。全(もは)ら未(いま)だ曾(かつ)て有(あら)ず。礼(いやま)ふべきや不(いな)や」と。蘇我大臣〔4 〕宿禰、奏して曰(もう)さく、「西蕃の諸国、一(もはら)に皆礼ふ。豊秋(とよあきづ)日本豈(あに)独り背かむや」と。物部大連〔5 〕・中臣連鎌子、同じく奏して曰さく、「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす。方(まさ)に今改めて蕃神(あだしくにのかみ)を拝みたまはば、恐るらくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむ」と。天皇曰く、「情願(ねが)ふ人〔4 〕宿禰に付(さず)けて、試(こころみ)に礼ひ拝ましむべし」と。
空欄に入る言葉は分かりましたか?
1…欽明
2…552
3…聖明王
4…稲目(大臣の蘇我稲目、そがのいなめ)
5…尾輿(大連の物部尾輿、もののべのおこし)
欽明天皇は、百済の聖明王が伝えた仏教を信仰するべきかどうか、家臣たちに意見を問うたようです。
すると、蘇我稲目は「ほかの国が信仰しているのに、なぜ日本だけが信仰しないのでしょう」と答えます。
一方、物部尾輿や中臣鎌子(カマコ…)らは、「日本には昔からたくさんの神様がいらっしゃるのに、なぜ外国の神様を信仰するのか。そんなことをしたら、日本の神様が怒ってしまうかもしれない!」と反論します。
結果、欽明天皇は「では、蘇我稲目に試しに信仰させてみよう」と提案した、と書かれています。
つまり、蘇我稲目は仏教を崇拝しようとし、物部尾輿と中臣鎌子は仏教を排除しようとしたのです。
前者を崇仏派、後者を排仏派と呼びます。
とくに中臣家は神事・祭祀を担当する家柄ですしね、排仏派の立場をとるのは当然のことでしょう。
日本には昔から八百万(やおよろず)の神々、すなわちたくさんの神様がいると信じられてきました。
大きな木や石、自然現象などに霊魂が宿ると考えるアニミズム(アミニズムではありませんよ!「兄、水虫」で覚えましょう…)の思想が古くからありますし、さらに台所やトイレにまで神様がいる、とまで考える民族です。
しかも、その神様たちは基本的に目には見えないのです。
現在も、神社で「これが神様です!!」という像をほとんど見かけませんよね。
神様には具体的な姿や形はなく、鏡とか刀剣とかに宿るのだ、と考えられているようです。
かたや、百済から伝わった仏様は、仏像という形で目に見えている。
日本古来の神様と比べると、まったく異質なものです。
じゃぁこれを信仰してみよう!と思うのはなかなか難しいのではないでしょうか…
町を歩いていると、いきなり外人から「アナタ、コノ神サマヲ信ジマセンカ?」と声をかけられたら…
「いま、忙しいんで…」とか言って目も合わさずに避けるでしょう。
そう考えると、排仏派の考えの方が普通なのかもしれません。
ところが、蘇我稲目はこれを信仰してみようというのです。
もちろん排仏派はこれに反対するので、いわゆる崇仏論争というものが発生します。
崇仏論争については、またのちに詳述したいと思います。
話を元に戻すと、『日本書紀』には仏教の伝来は552年と書かれていましたね。
これを壬申説と呼びますが、壬申説をとるのはたった1つ、『日本書紀』だけです。
かたや、538年の戊午説をとる歴史書は2つあるので、信憑性は戊午説の方が高いということになります。
しかし…
『日本書紀』ですからね…
国が編纂した歴史書が間違っている…とも言い難いので、
現在は、戊午説の方が有力ではあるけれど、壬申説も捨てがたいよね、という結論になっています。
では、ここで今日のゴロ合わせ。
いずれにせよ仏教は、欽明天皇の時代、6世紀に百済から伝来したようです。
なお、仏教の伝来には、実はもう1つ説があります。
『扶桑略記』(ふそうりゃっき)という歴史書の中に、
継体天皇の時代、522年に司馬達等(しばたっと)が奈良で仏教を信仰していた、と書かれているのです。
司馬達等は、飛鳥文化を代表する仏師である鞍作鳥(止利仏師)の祖父にあたる人物です。
これについては、個人的に信仰していた、ということで、
戊午説や壬申説が仏教の公伝というのに対して、私伝という扱いになっています。
それでは、今日はここまで☆
わかりやすくてイラストも可愛くて、頭にスルスル入ってきました。助かりました。
by 大学受験生 (2016-08-24 12:46)
大学受験生さん
コメントありがとうございます!
更新が遅くて申し訳ありませんが、このブログが少しでも大学受験生さんの勉強の助けになれば幸いです…
受験勉強は苦しいでしょうけど、頑張ってくださいね★
by 春之助 (2016-08-24 15:35)