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弥生時代(6) [まとめプリント]

前回に引き続き、「魏志」倭人伝を見ていきましょう。



弥生6.jpg

さぁいよいよ卑弥呼(ひみこ・ひめこ)の登場です。

大学入試などでよく出題されるのが「鬼道(きどう)を事とし」の「鬼道」です。
鬼の道…なんじゃそりゃって感じですよね。
しかもそのあと続くのが「能(よ)く衆を惑はす」ですよ。
卑弥呼はなんかワケのわからん鬼の道に精通していて、人々を惑わせている…
そのまんま読むと、とんでもない女王じゃないか!と思ってしまいます。

そこはうまいこと訳すんですね~…
鬼道とは呪術のこと。
卑弥呼は呪術にたけていて、人々をうまいこと統治していた、というのです。

その卑弥呼、なかなかいい年ではあったようですが、夫はいなかったようです。
彼女の補佐は、男弟(だんてい)という者が担っていたとのこと。
男弟は卑弥呼の実の弟なのかどうか、ここでサラっと書いてあるだけなのでよく分かりません。

さて、景初3年(239年)に卑弥呼は帯方郡経由で魏に使者を派遣しました。
大夫(たいふ)の難升米(なしめ)という者です。
朝貢の結果、魏から返礼として「親魏倭王」、魏と親しい倭の王、という称号を授かります。
そして金印紫綬と多数の銅鏡も賜った、と書かれています。

この金印がどこかから出土すれば、邪馬台国の所在地もハッキリするんですけどね。
果たしてどこにあるのでしょう…

その後、卑弥呼は南の狗奴国(くなこく)と争います。
狗奴国は男性がおさめる国でした。
王の名は、卑弥弓呼(ひみここ)。

えっ…

ひみここ?

めっちゃ適当やん…って思いません?
本当の名前なのか何なのかは分かりませんが、とにかくヒミコvsヒミココの争いがあったようです。

そののち、卑弥呼は亡くなりました。
大きな墳丘墓をつくって埋葬し、殉死する奴隷が100人余りいた、というのです。
卑弥呼が埋葬された墳丘墓こそが箸墓古墳なのではないか…と言われています。
これが本当なら、箸墓古墳のどこかに金印が埋まっているのかも知れませんが、
宮内庁の所轄ですので、考古学者は発掘することが許されていません。
掘ればいいのになぁ~ってつい思ってしまいますけどね、ダメなものはダメなのです。

卑弥呼の死後、男性の王をたてたのですが邪馬台国は荒れに荒れました。
そこで卑弥呼の親戚筋の娘さんに白羽の矢が立ちます。
13才の壱与(いよ)ちゃんです。

どうも「魏志」は、ちょいちょい臺(台の古い字)と壹(壱の古い字)を間違えているようで、
壹与(壱与)ではなくて臺与(台与)の誤りではないか、という説もあります。

この壱与ちゃんが女王になった結果、邪馬台国は静まったのだそうです。

「魏志」倭人伝の記述はここまで、このあと壱与ちゃんがどうなったのかは分かりません。
しかし、『晋書』には266年に邪馬台国の女王が朝貢に来た、と記されているので、
いい年になった壱与が中国へ使者を派遣したのかもしれませんね。

このあたり、239年のゴロ合わせも一緒に読んで下さい。

弥生6解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



卑弥呼が大きい墳丘墓に埋葬された…ということで、弥生時代の次は古墳時代ですね。
次回からいよいよ古墳時代に入ります。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1
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