607年 遣隋使として小野妹子を派遣する [年号のゴロ合わせ]
前回に引き続き、推古天皇の時代を見ていきましょう。
エライ中国に使者を派遣して貢ぎ物を献上し(朝貢、ちょうこう)、エライ皇帝から返礼をもらう。
このいわゆる冊封体制(さくほうたいせい)は、紀元前から日本と中国の間で脈々と続けられてきました。
これを踏まえて、今日はまず史料から遣隋使の様子を見てみましょう。
エライ中国に対し、日本は一体どんな態度で挑んだのでしょうか!
大業(たいぎょう)三年(〔1 〕年のこと)、其の王多利思比孤(たりしひこ)、使(〔2 〕のこと)を遣して朝貢(ちょうこう)す。使者曰く、「聞くならく、海西(かいさい)の菩薩天子(〔3 〕のこと)、重ねて仏法を興(おこ)すと。故(かれ)、遣して朝拝(ちょうはい)せしめ、兼(か)ねて沙門(しゃもん、僧侶のこと)数十人、来(きた)りて仏法を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出(い)づる処の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云云(うんぬん)」と。帝、之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい、外国に関する事務、朝貢のことなどを取り扱う官)に謂(い)ひて曰く、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる有らば、復(ま)た以て聞(ぶん)する勿(なか)れ」と。明年、上(しょう、〔3 〕のこと)、文林郎(ぶんりんろう、文史を撰録する秘書省の属官)の裴清(はいせい、〔4 〕のこと)を遣して倭国に使(つかい)せしむ。
この史料の出典は、隋の歴史書ですが分かりますか?
唐の時代に魏徴(ぎちょう)が著した『隋書』倭国伝ですよ。
では、空欄にあてはまる語句を見ていきましょう。
1…607
2…小野妹子(オトコですよ!オトコ!!)
3…煬帝(ようだい、隋の第2代皇帝、このころ高句麗遠征を画策中)
4…裴世清(はいせいせい、唐の第2代皇帝太宗(李世民)の漢字とかぶるため、史料では畏れ多くて「世」を省略)
607年、倭の王であるタリシヒコが小野妹子を使者として隋に派遣しました。
このタリシヒコが誰だか分からない。
「王」という肩書きなので、推古天皇のことかと思いきや、
「たらしひこ(足彦)」は男性の天皇に付けられる呼び名なのでもしや厩戸王?とも考えられます。
でも厩戸王は倭の王(天皇)ではないわけです…
ということで、ここは説が定まっていないので、入試で問われることはまずないでしょう。
さて、小野妹子が持参した国書ですが、その内容がとっても有名。
「太陽ののぼるところの天子が、太陽の沈むところの天子に手紙を差し上げます。元気?」です。
地理的に見て、日本は中国の東、中国は日本の西ですからね、
確かに日本は太陽がのぼる方角で、中国は太陽が沈む方角です。
しかし…しかしですよ…
中国からしたらめっちゃ気ぃ悪いじゃないですか!これ!!
なんか「日本はこれからのぼり調子だけど、中国はこれからくだる一方ですよ」って感じがするじゃないですか。
案の定、煬帝は激ギレします。
「蛮夷の国からの手紙でこんなに無礼なものがあったら、二度と見せるな!」。
だいぶお怒りでらっしゃいますね、分かります。
しかし…しかしですよ…
翌年、答礼使(とうれいし)として裴世清が日本に派遣されます。
激ギレした煬帝は、なぜきちんと日本に返礼の使者を派遣したのか。
それは当時の隋が置かれた国際情勢によるものと考えられます。
当時の隋は、前述したとおり朝鮮半島へと領土を拡大すべく高句麗遠征を画策していました。
この状況で、日本を無下に扱うと…中国に腹をたてた日本が高句麗と手を組んでしまうかもしれないのです。
ただでさえ高句麗は手強い国なのに、そこに日本がバックアップするようなことになれば大変です。
怒り狂った煬帝でしたが、冷静に外交を考え、きちんと日本に答礼使を派遣したのですね。
日本は、これまで完全に格下扱いされてきた中国との関係に、革命をもたらしたのです。
国書を書いたとされる厩戸王にとって、想定通りの結果がもたらされたというわけです。
ちなみに、煬帝による日本への返事の国書は、小野妹子が帰国途中に紛失してしまいました。
百済で奪われたと主張しているようですが…いやいや、国書の紛失なんて絶対にありえないことですよね…
ところが、小野妹子はそんなに厳罰を受けていません。
翌年には裴世清を隋に送り届ける使者として、再び隋へと渡っています。
しかもその後とても出世しています。
あ、怪しい…
ひょっとすると煬帝の国書は怒りにまかせて書かれた内容で、
とてもじゃないけど推古天皇に見せられるものではなかったのかもしれません…
そうすると、さきほど述べた論理とは齟齬が生じますけどね。
どちらが正しいのかは分かりません。
なお、608年に小野妹子が再び隋へと渡る際、3名がこれに随行しましたよね。
誰か覚えていますか?
留学生の高向玄理(たかむこのげんり)、留学僧の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・旻(みん)です。
高向玄理ってお坊さんっぽい名前ですが、彼だけが留学生です、ご注意を。
彼らの帰国後の活躍は、また後日語ることにしましょう。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
次回は最後の遣隋使としても活躍した犬上御田鍬を取りあげます。
エライ中国に使者を派遣して貢ぎ物を献上し(朝貢、ちょうこう)、エライ皇帝から返礼をもらう。
このいわゆる冊封体制(さくほうたいせい)は、紀元前から日本と中国の間で脈々と続けられてきました。
これを踏まえて、今日はまず史料から遣隋使の様子を見てみましょう。
エライ中国に対し、日本は一体どんな態度で挑んだのでしょうか!
大業(たいぎょう)三年(〔1 〕年のこと)、其の王多利思比孤(たりしひこ)、使(〔2 〕のこと)を遣して朝貢(ちょうこう)す。使者曰く、「聞くならく、海西(かいさい)の菩薩天子(〔3 〕のこと)、重ねて仏法を興(おこ)すと。故(かれ)、遣して朝拝(ちょうはい)せしめ、兼(か)ねて沙門(しゃもん、僧侶のこと)数十人、来(きた)りて仏法を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出(い)づる処の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云云(うんぬん)」と。帝、之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい、外国に関する事務、朝貢のことなどを取り扱う官)に謂(い)ひて曰く、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる有らば、復(ま)た以て聞(ぶん)する勿(なか)れ」と。明年、上(しょう、〔3 〕のこと)、文林郎(ぶんりんろう、文史を撰録する秘書省の属官)の裴清(はいせい、〔4 〕のこと)を遣して倭国に使(つかい)せしむ。
この史料の出典は、隋の歴史書ですが分かりますか?
唐の時代に魏徴(ぎちょう)が著した『隋書』倭国伝ですよ。
では、空欄にあてはまる語句を見ていきましょう。
1…607
2…小野妹子(オトコですよ!オトコ!!)
3…煬帝(ようだい、隋の第2代皇帝、このころ高句麗遠征を画策中)
4…裴世清(はいせいせい、唐の第2代皇帝太宗(李世民)の漢字とかぶるため、史料では畏れ多くて「世」を省略)
607年、倭の王であるタリシヒコが小野妹子を使者として隋に派遣しました。
このタリシヒコが誰だか分からない。
「王」という肩書きなので、推古天皇のことかと思いきや、
「たらしひこ(足彦)」は男性の天皇に付けられる呼び名なのでもしや厩戸王?とも考えられます。
でも厩戸王は倭の王(天皇)ではないわけです…
ということで、ここは説が定まっていないので、入試で問われることはまずないでしょう。
さて、小野妹子が持参した国書ですが、その内容がとっても有名。
「太陽ののぼるところの天子が、太陽の沈むところの天子に手紙を差し上げます。元気?」です。
地理的に見て、日本は中国の東、中国は日本の西ですからね、
確かに日本は太陽がのぼる方角で、中国は太陽が沈む方角です。
しかし…しかしですよ…
中国からしたらめっちゃ気ぃ悪いじゃないですか!これ!!
なんか「日本はこれからのぼり調子だけど、中国はこれからくだる一方ですよ」って感じがするじゃないですか。
案の定、煬帝は激ギレします。
「蛮夷の国からの手紙でこんなに無礼なものがあったら、二度と見せるな!」。
だいぶお怒りでらっしゃいますね、分かります。
しかし…しかしですよ…
翌年、答礼使(とうれいし)として裴世清が日本に派遣されます。
激ギレした煬帝は、なぜきちんと日本に返礼の使者を派遣したのか。
それは当時の隋が置かれた国際情勢によるものと考えられます。
当時の隋は、前述したとおり朝鮮半島へと領土を拡大すべく高句麗遠征を画策していました。
この状況で、日本を無下に扱うと…中国に腹をたてた日本が高句麗と手を組んでしまうかもしれないのです。
ただでさえ高句麗は手強い国なのに、そこに日本がバックアップするようなことになれば大変です。
怒り狂った煬帝でしたが、冷静に外交を考え、きちんと日本に答礼使を派遣したのですね。
日本は、これまで完全に格下扱いされてきた中国との関係に、革命をもたらしたのです。
国書を書いたとされる厩戸王にとって、想定通りの結果がもたらされたというわけです。
ちなみに、煬帝による日本への返事の国書は、小野妹子が帰国途中に紛失してしまいました。
百済で奪われたと主張しているようですが…いやいや、国書の紛失なんて絶対にありえないことですよね…
ところが、小野妹子はそんなに厳罰を受けていません。
翌年には裴世清を隋に送り届ける使者として、再び隋へと渡っています。
しかもその後とても出世しています。
あ、怪しい…
ひょっとすると煬帝の国書は怒りにまかせて書かれた内容で、
とてもじゃないけど推古天皇に見せられるものではなかったのかもしれません…
そうすると、さきほど述べた論理とは齟齬が生じますけどね。
どちらが正しいのかは分かりません。
なお、608年に小野妹子が再び隋へと渡る際、3名がこれに随行しましたよね。
誰か覚えていますか?
留学生の高向玄理(たかむこのげんり)、留学僧の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・旻(みん)です。
高向玄理ってお坊さんっぽい名前ですが、彼だけが留学生です、ご注意を。
彼らの帰国後の活躍は、また後日語ることにしましょう。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
次回は最後の遣隋使としても活躍した犬上御田鍬を取りあげます。
分かりやすかったです!
有難うございます
by お名前(必須) (2017-07-05 13:12)
嬉しいコメントありがとうございます!
by 春之助 (2017-07-05 22:28)
このイラストめっちゃ好きです!
小野妹子さん、本当怖かっただろうな
by えみり (2023-05-08 09:42)
えみり様
嬉しいコメントありがとうございます☆
小野妹子さん、ほんとめっちゃ怖かったと思います…(笑)
by 春之助 (2023-05-25 12:13)
絵柄好きです
by だえましかた (2023-10-08 11:48)
だえましかた様
ありがとうございます!
by 春之助 (2023-10-12 13:41)