694年 藤原京に遷都する [年号のゴロ合わせ]
前回、持統天皇の時代に庚寅年籍が作成されたお話をしました。
持統天皇は、鸕野讚良(うののさらら)という名前であったことも触れましたね。
鸕野讚良は、父が天智天皇、母が蘇我倉山田石川麻呂の娘、夫が天武天皇、というロイヤルな女性ですが、
自分が天皇になろうなんて思っていなかった人のようです。
天武天皇との間にもうけた草壁皇子(くさかべのみこ)を、早々に皇太子としていました。
ちなみに、彼女のお姉さんである大田皇女(おおたのひめみこ)も天武天皇に嫁いでいました。
なんと、天智天皇は弟の天武天皇に4人の娘を嫁がせていたのです。
現在ではとても考えられませんねぇ…
その大田皇女と天武天皇の間には大津皇子(おおつのみこ)という子がいました。
彼はたいへん優秀で人気者、『万葉集』や『懐風藻(かいふうそう)』に作品をのこすなど文武両道の人物でした。
大田皇女は早くにこの世を去ったため鸕野讚良が天武天皇の皇后となり、草壁皇子を皇太子にしたけど、
彼女にとって気がかりな存在はこの大津皇子です。
かわいいかわいい我が子の草壁皇子が活躍するには、人気者の大津皇子は邪魔な存在です。
そんななか、天武天皇が病気にかかります…
鸕野讚良は草壁皇子とともに政務にあたることとなります。
そう、称制です。
ほどなくして天武天皇がこの世を去りました。
さらに、その翌月には大津皇子がこの世を去りました。
どうやら大津皇子には謀反(むほん)の疑いがあり、自殺に追い込まれてしまったようです。
一体彼がどんな謀反を企てたのか、記録には残っていません。
そういえば、天智天皇って「邪魔者は消す」ってタイプだったじゃないですか…
鸕野讚良は天智天皇の娘なので…もしかしたら…という気がしないではないですね…
真相は分かりません。
なんにせよ、これで大津皇子というライバルがこの世を去ったので、草壁皇子が晴れて天皇に…
と思った矢先、草壁皇子が病気でこの世を去ってしまいます。
鸕野讚良にとって、どれほどつらいことだったでしょう…
鸕野讚良は、草壁皇子の子、すなわち彼女の孫にあたる軽皇子(かるのみこ)を皇太子に…と考えますが、
彼はまだ7才です。
とてもじゃないけど皇太子、ましてや天皇になるには若すぎます。
そこで、鸕野讚良がついに天皇に即位することになりました。
持統天皇の誕生です。
持統天皇の功績としては、2つのことを覚えて下さい。
まず1つは、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行です。
夫の天武天皇が編集を開始し、彼女の称制中に施行されました。
これ以前に中臣鎌足が編集したとされる「近江令(おうみりょう)」は、完成・施行が疑われているので、
最初に施行された令と考えられますが、律の完成は疑問視されています。
もう1つは、藤原京遷都です。
畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・香具山(かぐやま)の大和三山に囲まれた地に遷都しました。
これも夫の天武天皇が造営を開始し、持統天皇の時代に完成したようです。
そういえば、持統天皇の歌として百人一首には、
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」とあります。
藤原京を歌ったものですね。
さて、藤原京の前はどこに都がおかれたか覚えていますか?
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)ですね。
その前は?
近江大津宮(おうみおおつのみや)です。
これまでは「○○宮」だったのに、藤原京から「○○京」と呼ばれるようになります。
この違いは説明できますか?
「○○宮」というのは、天皇の住居である内裏(だいり)と、
その周囲につくられた大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)などの官庁一帯をさします。
対して、「○○京」というのは、「宮」だけでなく一般人が住む町並みも造営した都一帯をさします。
藤原京は、最初の本格的な都城(とじょう)です。
「宮」の周囲には碁盤の目のように道路を走らせた条坊制(じょうぼうせい)をもつ「京」をつくりました。
これまでの「宮」は、原則として天皇一代ごとに造営しましたが、
藤原京は持統天皇・文武天皇・元明天皇の3代にわたって都とされました。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
次回からまとめプリントをアップしていきます。
持統天皇は、鸕野讚良(うののさらら)という名前であったことも触れましたね。
鸕野讚良は、父が天智天皇、母が蘇我倉山田石川麻呂の娘、夫が天武天皇、というロイヤルな女性ですが、
自分が天皇になろうなんて思っていなかった人のようです。
天武天皇との間にもうけた草壁皇子(くさかべのみこ)を、早々に皇太子としていました。
ちなみに、彼女のお姉さんである大田皇女(おおたのひめみこ)も天武天皇に嫁いでいました。
なんと、天智天皇は弟の天武天皇に4人の娘を嫁がせていたのです。
現在ではとても考えられませんねぇ…
その大田皇女と天武天皇の間には大津皇子(おおつのみこ)という子がいました。
彼はたいへん優秀で人気者、『万葉集』や『懐風藻(かいふうそう)』に作品をのこすなど文武両道の人物でした。
大田皇女は早くにこの世を去ったため鸕野讚良が天武天皇の皇后となり、草壁皇子を皇太子にしたけど、
彼女にとって気がかりな存在はこの大津皇子です。
かわいいかわいい我が子の草壁皇子が活躍するには、人気者の大津皇子は邪魔な存在です。
そんななか、天武天皇が病気にかかります…
鸕野讚良は草壁皇子とともに政務にあたることとなります。
そう、称制です。
ほどなくして天武天皇がこの世を去りました。
さらに、その翌月には大津皇子がこの世を去りました。
どうやら大津皇子には謀反(むほん)の疑いがあり、自殺に追い込まれてしまったようです。
一体彼がどんな謀反を企てたのか、記録には残っていません。
そういえば、天智天皇って「邪魔者は消す」ってタイプだったじゃないですか…
鸕野讚良は天智天皇の娘なので…もしかしたら…という気がしないではないですね…
真相は分かりません。
なんにせよ、これで大津皇子というライバルがこの世を去ったので、草壁皇子が晴れて天皇に…
と思った矢先、草壁皇子が病気でこの世を去ってしまいます。
鸕野讚良にとって、どれほどつらいことだったでしょう…
鸕野讚良は、草壁皇子の子、すなわち彼女の孫にあたる軽皇子(かるのみこ)を皇太子に…と考えますが、
彼はまだ7才です。
とてもじゃないけど皇太子、ましてや天皇になるには若すぎます。
そこで、鸕野讚良がついに天皇に即位することになりました。
持統天皇の誕生です。
持統天皇の功績としては、2つのことを覚えて下さい。
まず1つは、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行です。
夫の天武天皇が編集を開始し、彼女の称制中に施行されました。
これ以前に中臣鎌足が編集したとされる「近江令(おうみりょう)」は、完成・施行が疑われているので、
最初に施行された令と考えられますが、律の完成は疑問視されています。
もう1つは、藤原京遷都です。
畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・香具山(かぐやま)の大和三山に囲まれた地に遷都しました。
これも夫の天武天皇が造営を開始し、持統天皇の時代に完成したようです。
そういえば、持統天皇の歌として百人一首には、
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」とあります。
藤原京を歌ったものですね。
さて、藤原京の前はどこに都がおかれたか覚えていますか?
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)ですね。
その前は?
近江大津宮(おうみおおつのみや)です。
これまでは「○○宮」だったのに、藤原京から「○○京」と呼ばれるようになります。
この違いは説明できますか?
「○○宮」というのは、天皇の住居である内裏(だいり)と、
その周囲につくられた大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)などの官庁一帯をさします。
対して、「○○京」というのは、「宮」だけでなく一般人が住む町並みも造営した都一帯をさします。
藤原京は、最初の本格的な都城(とじょう)です。
「宮」の周囲には碁盤の目のように道路を走らせた条坊制(じょうぼうせい)をもつ「京」をつくりました。
これまでの「宮」は、原則として天皇一代ごとに造営しましたが、
藤原京は持統天皇・文武天皇・元明天皇の3代にわたって都とされました。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
次回からまとめプリントをアップしていきます。
今受験際真っ最中で日本史勉強していて、
たまたまわからないことがあって検索してこのページヒットしました!!!!!!
ちょっともう最強ページを見つけてしまったなと思ってにやけてます!!!
重宝させていただきます!!!!!
面白くて可愛くて最強です!
by のちゅ (2018-12-13 14:10)
のちゅ様
嬉しいコメント、ありがとうございます。
のちゅ様の受験勉強に、このブログがほんの少しでもお役に立てているのなら幸いです!
受験真っ最中とのこと、がんばってください!!
応援しています☆
by 春之助 (2018-12-15 23:41)
大津皇子かわいそう...万葉集や懐風藻にも載ったんですね!文化の内容も政治史に入れてもらってありがたいです。
イラストも可愛くて最高です。
近江大津宮→飛鳥浄御原宮→藤原京!
by よいやま (2021-09-29 01:32)
大津皇子、かわいそうですよね…ゆえに人気のある人物でもあります。
都と天皇はセットで覚えると理解しやすいですよ☆
by 春之助 (2021-09-30 10:29)