飛鳥時代(1) [まとめプリント]
飛鳥時代とは、飛鳥(現在の奈良県明日香村)の地に王宮がおかれた時代です。
一般には、推古天皇の時代から平城京遷都までの592年~710年をさすことが多いです。
では、飛鳥時代のまとめプリント、1枚目を見ていきましょう。
最初に、大連(おおむらじ)の2人を覚えましょう。
大伴金村(おおとものかなむら)と物部麁鹿火(もののべのあらかひ)です。
大伴金村は、武烈(ぶれつ)天皇から欽明(きんめい)天皇の5代にわたって大連をつとめました。
武烈天皇の死後、越前から継体(けいたい)天皇を迎えた人物でもあります。
512年に「任那四県」(加耶西部の4つの国)を百済に割譲(かつじょう)し、どうやら賄賂を受け取ったようです。
物部麁鹿火は、527年のゴロ合わせでちらっと登場した人物です。
この年、筑紫国造磐井が新羅と結んで起こした大規模な反乱を、1年半後にやっとこさ鎮圧したんでしたね。
とにかく「麁」の漢字がややこしいので注意して下さいね。
物部麁鹿火ののち、大連に就任したのが物部尾輿(もののべのおこし)です。
彼は、大伴金村が百済から賄賂を受け取ったことを責めて失脚に追い込み、大連の座を独占しました。
そして、物部尾輿といえば仏教の排斥です。
欽明天皇の時代、538年(または552年)に仏教が伝来し、
大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は崇仏派(すうぶつは)の立場をとり、
大連の物部尾輿は排仏派(はいぶつは)の立場をとりました。
この両者の争いを崇仏論争(すうぶつろんそう)と呼びましたね。
詳しくは、552年のゴロ合わせを参考にしてください。
そうして、蘇我稲目は実際に仏像を拝みはじめました。
すると、みるみるうちに疫病が発生して死者がたくさん発生したのです。
なんというバッドタイミング…
排仏派の物部尾輿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)とともに「仏像なんか拝むからだ!神様が怒っているのだ!!」と主張します。
そして、欽明天皇の許可を得た彼らは、仏像をつぶして難波の堀江(アメリカ村のあたり)に流し、
さらにお寺を焼き払ってしまいます。
なんと過激な…
これで排仏派の勝利!!と思いきや、この論争は息子の代になっても続くこととなります。
物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)の対立です。
彼らは、敏達(びだつ)天皇の即位にともない、それぞれ大連と大臣に就任しました。
大連の物部守屋は排仏派、大臣の蘇我馬子は崇仏派です。
あるとき病にかかった蘇我馬子は、仏教に救いを求めました。
すると、そのころからそこかしこで疫病が流行しはじめたのです。
物部守屋からすれば、「まただよ!仏教に救いを求めるから神様が怒ってるんだよ!!」です。
そして、敏達天皇の許可を得た彼らは、仏像を海に投げ込み、お寺を焼き払い、
尼さんを3人捕らえて全裸にし、公衆の面前でムチをもってしばきたおします。
守屋ったら…お父さんよりだいぶ過激です…
そんななか、敏達天皇も病にかかり亡くなってしまいました…
かわって即位したのが用明(ようめい)天皇ですが、ほどなくして病の床についてしまいます。
そのとき、彼はまさかまさかで「仏教に救いを求めたい」と言い出したのです。
用明天皇のお母さんは蘇我馬子のお姉さんということもあり、彼は崇物派だったようです。
もちろん物部守屋は怒ります、「なんで日本の神さまではなくて、仏教に救いを求めるんですか!」と。
そりゃそうだ。
一方、蘇我馬子からすれば大チャンスです、「詔に従いましょう!」と言って早速お坊さんを連れてきます。
しかし、残念ながら用明天皇の病は癒えることなく、この世を去ってしまいました…
次の天皇をたてなければなりませんが、蘇我馬子と物部守屋が推薦する皇子はまったく別人でした。
崇物論争にこの皇位継承争いもからみ、ついに両者は全面対決となります。
蘇我馬子には、用明天皇の息子である厩戸王(聖徳太子)が味方しました。
この戦い、どちらが有利かというと、断然これまで軍事を職務としてきた物部氏です。
物部軍にたくさんの矢を放たれ、蘇我馬子と厩戸王はかなり厳しい状況におかれます…
そこで二人は仏教に救いを求めました。
蘇我馬子は、「この戦いに勝利できたら立派なお寺を作ります!」と約束します。
14歳の厩戸王(聖徳太子)は白膠木(ぬるで)の木を切って、それで4体の仏像、すなわち四天王像を彫り、
「この戦いに勝利したら四天王さまのために立派なお寺を作ります!」と約束し、
それらを頭にぶっさして戦いました。
するとどうでしょう!!
味方の矢が物部守屋に命中し、亡くなったのです!!!
この戦い、大逆転で蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)が勝利しました。
蘇我馬子はすぐさま飛鳥に法興寺(ほうこうじ、飛鳥寺とも)を建立し、
厩戸王(聖徳太子)も593年に大坂に四天王寺を建立しました。
その四天王像って、どんなクオリティーだったんでしょうね…残念ながら現存していないようです。
てゆーか、白膠木って漆の一種なのによくもまぁ手がカブれなかったもんですね…まぁいいか…
その後、蘇我馬子の妹の子である崇峻(すしゅん)天皇が即位します。
馬子おじさんが推薦してくれたおかげで天皇になれたので、崇峻天皇はおじさんの言いなりです。
最初はそれでよかったんですが、日に日に自分の意見が通らないことに不満がわくようになりました。
あるとき、ついうっかり本音が出てしまいます。
新嘗祭のさい、献上されたイノシシを見た崇峻天皇は、
「いつかこのイノシシの首を斬るように、私が憎いと思っている者を斬りたいものだ…」とポロリ…
いやいや、うっかりにしてはポロリしすぎでしょ!!
すかさず蘇我馬子は聞きつけ、「崇峻天皇は自分のことを邪魔だと思っているのか…」と知ることになります。
そうして、蘇我馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)という人物を雇い、崇峻天皇を暗殺してしまいます。
この、駒さん。
誰の子孫か分かりますか?
東漢氏ですよ??
そう、阿知使主ですね。
駒さんは、崇峻天皇を暗殺したのち、蘇我馬子の娘と通じた罪によって処刑されています。
おそらく、蘇我馬子がいちゃもんをつけて口封じに消し去ったのでしょうね…
それでは、最後に解答を載せておきましょう。
崇峻天皇の死後、崇峻天皇の異母兄弟である推古天皇が即位します。
用明天皇の実の妹ですので、お母さんは蘇我馬子の姉です。
またもや、馬子おじさんが権力をふるう時代がやってきます。
次回はこの推古天皇の時代を取りあげます。
一般には、推古天皇の時代から平城京遷都までの592年~710年をさすことが多いです。
では、飛鳥時代のまとめプリント、1枚目を見ていきましょう。
最初に、大連(おおむらじ)の2人を覚えましょう。
大伴金村(おおとものかなむら)と物部麁鹿火(もののべのあらかひ)です。
大伴金村は、武烈(ぶれつ)天皇から欽明(きんめい)天皇の5代にわたって大連をつとめました。
武烈天皇の死後、越前から継体(けいたい)天皇を迎えた人物でもあります。
512年に「任那四県」(加耶西部の4つの国)を百済に割譲(かつじょう)し、どうやら賄賂を受け取ったようです。
物部麁鹿火は、527年のゴロ合わせでちらっと登場した人物です。
この年、筑紫国造磐井が新羅と結んで起こした大規模な反乱を、1年半後にやっとこさ鎮圧したんでしたね。
とにかく「麁」の漢字がややこしいので注意して下さいね。
物部麁鹿火ののち、大連に就任したのが物部尾輿(もののべのおこし)です。
彼は、大伴金村が百済から賄賂を受け取ったことを責めて失脚に追い込み、大連の座を独占しました。
そして、物部尾輿といえば仏教の排斥です。
欽明天皇の時代、538年(または552年)に仏教が伝来し、
大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は崇仏派(すうぶつは)の立場をとり、
大連の物部尾輿は排仏派(はいぶつは)の立場をとりました。
この両者の争いを崇仏論争(すうぶつろんそう)と呼びましたね。
詳しくは、552年のゴロ合わせを参考にしてください。
そうして、蘇我稲目は実際に仏像を拝みはじめました。
すると、みるみるうちに疫病が発生して死者がたくさん発生したのです。
なんというバッドタイミング…
排仏派の物部尾輿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)とともに「仏像なんか拝むからだ!神様が怒っているのだ!!」と主張します。
そして、欽明天皇の許可を得た彼らは、仏像をつぶして難波の堀江(アメリカ村のあたり)に流し、
さらにお寺を焼き払ってしまいます。
なんと過激な…
これで排仏派の勝利!!と思いきや、この論争は息子の代になっても続くこととなります。
物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)の対立です。
彼らは、敏達(びだつ)天皇の即位にともない、それぞれ大連と大臣に就任しました。
大連の物部守屋は排仏派、大臣の蘇我馬子は崇仏派です。
あるとき病にかかった蘇我馬子は、仏教に救いを求めました。
すると、そのころからそこかしこで疫病が流行しはじめたのです。
物部守屋からすれば、「まただよ!仏教に救いを求めるから神様が怒ってるんだよ!!」です。
そして、敏達天皇の許可を得た彼らは、仏像を海に投げ込み、お寺を焼き払い、
尼さんを3人捕らえて全裸にし、公衆の面前でムチをもってしばきたおします。
守屋ったら…お父さんよりだいぶ過激です…
そんななか、敏達天皇も病にかかり亡くなってしまいました…
かわって即位したのが用明(ようめい)天皇ですが、ほどなくして病の床についてしまいます。
そのとき、彼はまさかまさかで「仏教に救いを求めたい」と言い出したのです。
用明天皇のお母さんは蘇我馬子のお姉さんということもあり、彼は崇物派だったようです。
もちろん物部守屋は怒ります、「なんで日本の神さまではなくて、仏教に救いを求めるんですか!」と。
そりゃそうだ。
一方、蘇我馬子からすれば大チャンスです、「詔に従いましょう!」と言って早速お坊さんを連れてきます。
しかし、残念ながら用明天皇の病は癒えることなく、この世を去ってしまいました…
次の天皇をたてなければなりませんが、蘇我馬子と物部守屋が推薦する皇子はまったく別人でした。
崇物論争にこの皇位継承争いもからみ、ついに両者は全面対決となります。
蘇我馬子には、用明天皇の息子である厩戸王(聖徳太子)が味方しました。
この戦い、どちらが有利かというと、断然これまで軍事を職務としてきた物部氏です。
物部軍にたくさんの矢を放たれ、蘇我馬子と厩戸王はかなり厳しい状況におかれます…
そこで二人は仏教に救いを求めました。
蘇我馬子は、「この戦いに勝利できたら立派なお寺を作ります!」と約束します。
14歳の厩戸王(聖徳太子)は白膠木(ぬるで)の木を切って、それで4体の仏像、すなわち四天王像を彫り、
「この戦いに勝利したら四天王さまのために立派なお寺を作ります!」と約束し、
それらを頭にぶっさして戦いました。
するとどうでしょう!!
味方の矢が物部守屋に命中し、亡くなったのです!!!
この戦い、大逆転で蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)が勝利しました。
蘇我馬子はすぐさま飛鳥に法興寺(ほうこうじ、飛鳥寺とも)を建立し、
厩戸王(聖徳太子)も593年に大坂に四天王寺を建立しました。
その四天王像って、どんなクオリティーだったんでしょうね…残念ながら現存していないようです。
てゆーか、白膠木って漆の一種なのによくもまぁ手がカブれなかったもんですね…まぁいいか…
その後、蘇我馬子の妹の子である崇峻(すしゅん)天皇が即位します。
馬子おじさんが推薦してくれたおかげで天皇になれたので、崇峻天皇はおじさんの言いなりです。
最初はそれでよかったんですが、日に日に自分の意見が通らないことに不満がわくようになりました。
あるとき、ついうっかり本音が出てしまいます。
新嘗祭のさい、献上されたイノシシを見た崇峻天皇は、
「いつかこのイノシシの首を斬るように、私が憎いと思っている者を斬りたいものだ…」とポロリ…
いやいや、うっかりにしてはポロリしすぎでしょ!!
すかさず蘇我馬子は聞きつけ、「崇峻天皇は自分のことを邪魔だと思っているのか…」と知ることになります。
そうして、蘇我馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)という人物を雇い、崇峻天皇を暗殺してしまいます。
この、駒さん。
誰の子孫か分かりますか?
東漢氏ですよ??
そう、阿知使主ですね。
駒さんは、崇峻天皇を暗殺したのち、蘇我馬子の娘と通じた罪によって処刑されています。
おそらく、蘇我馬子がいちゃもんをつけて口封じに消し去ったのでしょうね…
それでは、最後に解答を載せておきましょう。
崇峻天皇の死後、崇峻天皇の異母兄弟である推古天皇が即位します。
用明天皇の実の妹ですので、お母さんは蘇我馬子の姉です。
またもや、馬子おじさんが権力をふるう時代がやってきます。
次回はこの推古天皇の時代を取りあげます。
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