SSブログ

722年 百万町歩開墾計画を出す [年号のゴロ合わせ]

今回から3回にわたって、奈良時代の土地制度を取りあげます。



奈良時代の土地制度は、次の三段階で覚えましょう!

①722年 百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)
②723年 三世一身法(さんぜいっしんのほう)
③743年 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

まず、①の百万町歩開墾計画です。

このころ、班田収授(はんでんしゅうじゅ)がおこなわれていました。
朝廷が6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)という田んぼを与える制度で、
これによって租(そ)という税を徴収しました。

口分田を与える相手は「6歳以上」という制限があるため、朝廷は人々の年齢を把握しなければなりません。
ここで用いられるのが戸籍です。

班田収授という言葉が初めて登場するのは646年の「改新の詔」ですが、
全国的な戸籍が初めてつくられたのは670年の庚午年籍ですので、
班田収授はこれ以降に実施されたものと考えられます。

さて。

やがて人口が増加し、8世紀に入るころには口分田が不足してきました。
口分田が渡せないと大変です、租が徴収できません。

そこで出されたのが「百万町歩開墾計画」です。
朝廷は、農民に食料と道具を支給して10日間開墾に従事させ、良田を100万町歩開こうとしたのです。

町歩(ちょうぶ)は面積の単位で、約109m四方のことです。
(109m×109m)×100万ですよ…け、計算できます?(笑)
10世紀の初めごろでも全国で約88万町歩くらいしかなかったそうですので、
これはとんでもない数字です。
※以前、「1町歩=109㎡」と書いていましたが、お詫びして訂正いたします。
 ご指摘くださった方、ありがとうございました。(2018年6月2日)

722.jpg

当時の権力者は右大臣の長屋王(ながやおう)です。
後日まとめプリントで詳述しようと思いますが、天武天皇の孫にあたる人物です。

百万町歩というのがとんでもない数字であるため、
これはあくまでもスローガン、目標ではないか、と考えられています。
なんにせよ、残念ながら成果はあがらなかったようです。

それでは、今日のゴロ合わせ。

722年.jpg



百万町歩開墾計画が失敗に終わったということで、口分田はまだまだ不足した状態です。
これを打開すべく出されたのが、三世一身法です。
次回、詳しく述べたいと思います。
nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 6

お名前(必須)

めっちゃわかりやすいです!
ありがとうごさいます!
by お名前(必須) (2016-07-03 19:32) 

春之助

コメントありがとうございます!!
励みになります☆
by 春之助 (2016-07-03 19:38) 

wo

こんにちは。とてもわかりやすいイラストなので
学校の授業で使ってもよろしいでしょうか?
by wo (2017-06-14 19:48) 

春之助

wo様
嬉しいコメントありがとうございます。
教材への二次利用について、サイドバーにブログメールを設けましたので、ご面倒をおかけしますが、こちらから申請をお願いいたします。
by 春之助 (2017-06-14 22:46) 

み

わかりやすくてかわいいです![泣き顔]最高![泣き顔]
by み (2020-08-30 17:11) 

春之助

み様
コメントありがとうございます!
のろのろ更新のブログですが、これからもよろしくお願いします☆
by 春之助 (2020-08-30 20:23) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。