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753年 鑑真が来日する [年号のゴロ合わせ]

前回・前々回と、聖武天皇(聖武太上天皇)が仏教をあつく信仰したことについて述べたように、
奈良時代の仏教は、国家の保護をうけて発展しました。
国家によってたくさんの寺院が建立され、そこでは鎮護国家の法要がおこなわれたのです。



お坊さんたちは、国家のためにその法要をつとめ、国家からお給料をもらう、いわば国家公務員です。
さらに軍役などの税も免除されたというから、お坊さんってなかなかヨイご身分だったわけです。

そうなると、お坊さんになりたくなりませんか?

お坊さんになるには、まず国家の認める得度(とくど)という儀式を受けねばなりません。
得度を受ける者は年間10人ほどしか許されなかった、というから超狭き門です。

ところが、勝手に「オレ、今日からお坊さん!」と名乗る自称僧侶があらわれます。
これを、ワタクシに得度したと宣言する僧侶、ということで、「私度僧(しどそう)」といいます。

得度して修行し、さらに戒律(かいりつ)を受けてこそ正式なお坊さんです。
それなのに、脱税目的で私度僧がわんさか増えてしまうのはゆゆしき事態です。

ところで、戒律を受ける、とは何なんでしょうか?

戒(かい)は自分自身を律する道徳的なルール、律(りつ)は集団における社会的なルールのようなものです。
まとめて戒律といい、これを受けることを受戒(じゅかい、授戒とも)と呼びます。
また、受戒をおこなう場所のことを、戒壇(かいだん)とか戒壇院(かいだんいん)と呼びます。

当時の日本には、不完全な戒律しかなかったようで、
私度僧が増えゆくこのタイミングで、戒律をきちんと整備する必要がでてきたというわけです。

そこで聖武天皇は、唐に使者を派遣します。
使者たちは、戒律の権威である鑑真(がんじん)のもとを訪れ、
日本に来て正式な戒律を教えてくれるお坊さんを誰か紹介してください、とお願いしたのです。

さっそく鑑真は弟子たちに問います。

「日本へ行って戒律を伝えようという者はおらぬか!」と。

……………………。

まさかの全員拒否ですよ。
いや~、ショックですね…そんなに日本がイヤですかと。
日本がイヤというより、日本ヘの道のりが危ないからイヤという方が正確かもしれません。
それぐらい、当時の航海は危険だったのです。

しかし、鑑真としては頼まれた以上、誰かを派遣せねばなりません。

「みんなが行かないなら、私が行くしかないな…」

エー…まさかの師匠みずから?

そうなると弟子たちは「師匠、いってらっしゃ~い★」じゃ済みません。
では我々もご一緒しましょう…ということで、しぶしぶ21人が同行することとなりました。

743年の夏、鑑真一行は日本ヘ渡ろうとします。
ところが、これを快く思わない弟子たちに阻まれ、失敗してしまいます。
翌年、再チャレンジしますが暴風にあって断念。
再々チャレンジも、
再々々チャレンジも弟子たちに阻まれ失敗。
再々々々チャレンジはこれまた暴風にあって、なんとベトナムあたりまで流されてしまいます。

753.jpg

こ…心おれそう…

それでも鑑真はあきらめず、753年、6度目のチャレンジでついに日本ヘ到達します。
鑑真、65歳。
たびかさなる苦労の末、目が見えなくなっていたようです。

翌年、鑑真はさっそく東大寺に戒壇を築き、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇たちに受戒をおこないます。
その後、遠方の受戒者のために、九州と東国にも戒壇を築きます。
筑紫国(つくしのくに、現在の福岡県のこと)の観世音寺(かんぜおんじ)と
下野国(しもつけのくに、現在の栃木県のこと)の薬師寺です。
東大寺・筑紫観世音寺・下野薬師寺の戒壇をまとめて「本朝三戒壇(ほんちょうさんかいだん)」と呼びます。

763年、鑑真は奈良にみずから建立した唐招提寺(とうしょうだいじ)で亡くなります。
鑑真は生前ここにも戒壇をつくっており、現在もその石壇を見ることができます。

師匠の死を悲しむ弟子によって有名な鑑真の像がつくられますが、
これについては後日、天平文化でご紹介します。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

753年.jpg



次回は、橘奈良麻呂の変を取りあげます。
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