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764年 恵美押勝の乱がおこる [年号のゴロ合わせ]

前回は、藤原仲麻呂が光明皇太后と孝謙天皇の後押しをうけて権力を拡大させ、
さらに自分を「父」と慕う淳仁天皇を即位させるところまでお話をしました。



その後、権力の絶頂にいる藤原仲麻呂は、淳仁天皇からプレゼントをもらいます。
藤原の姓にくっつける「恵美」(えみ)と、「押勝」(おしかつ)という中国風の名前です。
以降、藤原仲麻呂は、藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)と名乗るようになります。

また、破格の経済的特権を与えられ、さらに太師(たいし)に任命されます。
太師とは、太政大臣の唐名(とうめい)です。
このころ、中国の文化に憧れを抱いていた藤原恵美押勝は、
日本の律令制度にある役職を、中国の役職にあてはめて呼ぶようにしていました。
それが唐名です。
つまり藤原恵美押勝は、皇族以外で初めて太政大臣に任命されたのです。

このように、すべて自分の思い通りに物事をすすめる藤原恵美押勝ですが、
突如としてその権力が揺らぎはじめます。

760年、偉大なおばさんである光明皇太后がこの世を去ってしまうのです。
さらに、いとこの孝謙太上天皇も病気になってしまいます。
これまで藤原恵美押勝を後押ししてきてくれた2人が、次々と倒れてしまうわけです。

しかも、病気の孝謙太上天皇に近づく人物があらわれます。

道鏡(どうきょう)です。

現在の大阪府八尾市(やおし)に生まれ、法相宗(ほっそうしゅう)を学ぶこのお坊さんは、
孝謙太上天皇のそばで看病にあたります。
すると、彼女の病気がみるみるうちに快方に向かったというのです。

教科書なんかでは、これにより道鏡は孝謙太上天皇の「寵愛(ちょうあい)をうけた」と表現されています。
う~ん…イミシン……
一体どんなカンケイだったのでしょうか………

ちなみにこの2人、勘違いされがちですが不倫ではありません。
孝謙太上天皇も道鏡も生涯独身ですからね。

ところで、孝謙太上天皇の病気とは一体なんだったのでしょうか…
光明皇太后という母親を失った悲しみや寂しさから心を病んでしまったのかもしれませんし、
40歳過ぎという年齢を考えれば、いわゆる更年期障害だったのかもしれません。

心にぽっかり開いた穴を埋めてくれたのが道鏡だったのでしょう。
また彼との出逢いが、崩れたホルモンバランスを整えたのかもしれません。

なんにせよ、道鏡のおかげで孝謙太上天皇の病気はすっかり良くなったのです。
孝謙太上天皇の道鏡に対する信頼は、並々ならぬものとなります。

764.jpg

これに藤原恵美押勝は焦ります。
淳仁天皇から孝謙太上天皇に「あまり道鏡をかわいがりすぎないように…」と注意してもらいます。
すると、孝謙太上天皇は激怒します。
そりゃそうだ、藤原恵美押勝はオンナゴコロというものが分かっていないようです。

孝謙太上天皇の怒りはハンパではありません。
なんと「これからは自分が政治をおこなう!」と宣言するに至ります。

追い詰められた藤原恵美押勝は、孝謙太上天皇と道鏡に軍事力で対抗しようとします。
これを知った孝謙太上天皇は、藤原恵美押勝の官位と藤原姓を剥奪し、全財産の没収を宣言します。
そして、吉備真備に恵美押勝の討伐を命じます。

藤原仲麻呂政権となってから吉備真備は活躍の場を奪われ、このときすでに70歳です。
しかし、唐で学んだ知識をかわれ、再び重責を担います。
さすがだ、吉備真備。

結果、恵美押勝は近江(現在の滋賀県)で捕まり、一族もろとも殺害されてしまします。
淳仁天皇は淡路島に流され、かわって孝謙天皇が重祚します。
称徳(しょうとく)天皇の誕生です、
これ以降、称徳天皇は道鏡とともに政権を動かすこととなります。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

764年.jpg



次回は、宇佐八幡神託事件を通して、その後の道鏡の動きをとりあげます。
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