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784年 長岡京に遷都する [年号のゴロ合わせ]

今回から平安時代のゴロ合わせに入ります。



平安時代は、平安京に都がおかれた794年から400年近く続いた、ながーいながーい時代です。
今日取り上げるのは、その平安京に都がおかれる前のお話。
つまりまだ奈良時代のゴロ合わせです。
しかしながら、便宜上 平安時代の区分でご紹介します。

781年、桓武(かんむ)天皇が即位します。
天武天皇・文武天皇・聖武天皇・桓武天皇…と、「武」がつく天皇は重要なので、
それぞれしっかり整理しておきましょう!

桓武天皇は、お父さんである光仁天皇から天皇の位を譲りうけます。
光仁天皇、覚えていますか?
忘れたな~…という人は、宇佐八幡宮神託事件奈良時代(3)で復習しておいてくださいね!
称徳天皇の死後、久々に即位した天智天皇系の血をひく天皇です。
その光仁天皇の奥さんの1人に、渡来系氏族の女性がいます。
高野新笠(たかののにいがさ)という人物なのですが、彼女が桓武天皇のお母さんです。

さて、その桓武天皇。

心機一転、新しい都をつくろうとします。
遷都の理由としては、
・久しぶりに皇統が天智天皇系に戻ったため
・都の一本化(このころ平城京だけでなく、外交の窓口である難波宮がサブの都として機能中)
・お母さんの血筋をふまえ、渡来系の人々との関係の強化
・政治に口出しをする仏教勢力と距離をおきたい
などがあったと考えられます。

桓武天皇が新しい都をつくるのにどこかいい場所はないかなー…と探していたところ、
藤原式家の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、平城京から約40kmほど北の土地を提案します。
近くに大きな川がいくつか流れていて、交通の便は抜群です。
さらに、周辺には渡来系の人がたくさん住んでいるなど、桓武天皇の理想とする条件が揃っていたのです。

桓武天皇は藤原種継を遷都の責任者に任命し、784年に平城京からこの地に都をうつします。
これが長岡京(ながおかきょう)です。

ところが……

翌785年のある夜のこと。
藤原種継が暗殺されてしまうのです。

この事件の首謀者として捕らえられたのは、桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)です。
彼はかつてお坊さんだったという過去をもっており、
仏教勢力と距離をおこうとする長岡京に不満をもち、犯行におよんだのではないかと疑われたのです。

当時、早良親王は皇太弟(こうたいてい)でしたが、
すぐさまその座を廃され、淡路島への流罪が決定します。

いったん長岡京の近くにあるお寺に幽閉(ゆうへい、閉じ込められること)された早良親王は、
食事をとらないという方法で自らの無実を訴え続けます。
しかし、彼の訴えは一切聞き入れられず、いよいよ淡路島へ流されることとなります。
食事を絶ってすでに10日以上……早良親王は移送中にこの世を去ってしまいます。
遺体はそのまま淡路島まで運ばれ、埋葬されました。

なぜ桓武天皇は、弟である早良親王の訴えを聞いてあげなかったのでしょうか…

桓武天皇は、45歳というなかなかええトシで即位しました。
桓武天皇には安殿親王(あてしんのう)という息子がいるのですが、
皇太子にするにはまだちょっと幼かったのです。
そこで、父である光仁天皇の提案により、弟の早良親王がお坊さんをやめて皇太弟となりました。

天皇は即位する際、「次の天皇はこの人です!」と、たいてい息子を指名します。
それが皇太子です。
皇太弟は、その弟バージョンということです。

天皇が桓武、皇太弟が早良と決まったわけですが、
桓武天皇としてはやっぱりかわいい息子に天皇の座を譲りたいわけですよ。
息子が大きく成長するにつれ、次第に早良親王が邪魔になってゆくのです…

あれ?
なんか聞いたことある話ですよね…
そう、壬申の乱と同じパターンなのです。

そんなおり、藤原種継の暗殺事件が起こります。
桓武天皇的にグッドタイミング。
すぐさま早良親王を首謀者として逮捕し、皇太弟の座を廃し、流罪を決定します。
そして、早良親王の死後、息子の安殿親王を皇太子としたのです。
もう桓武天皇の思い通りです!!

ところが…

ところがですよ……

その後、桓武天皇の奥さんの1人が亡くなります…まだ30歳という若さでした。
さらに、彼女の死から2年も経たないうちに、母親の高野新笠もこの世を去ります。
さらにさらに、桓武天皇の奥さんの1人で、安殿親王のお母さんにあたる女性が31歳という若さで亡くなるのです…

桓武天皇に近い女性が3人もバタバタバタと死んでしまったのです!!
そのうえ、疫病が流行したり、洪水がおこったり、大変なことが相次ぎ、
なんと安殿親王まで病にかかってしまいます…

784.jpg

神祇官はこれを早良親王の祟り(たたり)であると判断します。
早良親王はやはり無実だったのでしょうかね…

桓武天皇は、弟の怨霊から逃げるように平安京へと遷都します。
長岡京に都がおかれた期間は、わずか10年でした。

平安京にうつった桓武天皇は、早良親王に崇道(すどう)天皇という称号を贈り、
改めて奈良にお墓をつくったと伝わっています。
なんとか弟の祟りを鎮めようと、必死だったのでしょうね。
のちのち平安京には、早良親王を祀る上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)がたてられます。
「あなたを神様だと思っています、だからもう祟らないでくださいー!」ってことです。
これを御霊信仰(ごりょうしんこう)といいますが、詳しくは国風文化で述べたいと思います。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

784年.jpg



次回は、長岡京の時代につくられた健児の制をとりあげます。
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コメント 6

お名前(必須)1111

分かりやすい

by お名前(必須)1111 (2016-10-04 21:45) 

春之助

コメントありがとうございます!
励みになります(*^_^*)
by 春之助 (2016-10-04 23:48) 

こうた

めちゃわかりやすいです!
by こうた (2019-04-27 20:42) 

春之助

こうた様

嬉しいコメントありがとうございます!
これからもよろしくお願いします☆
by 春之助 (2019-04-27 21:56) 

mimi

どの参考書よりもわかりやすいです、、!!
テストでも助かってます
by mimi (2020-07-21 19:06) 

春之助

mimi様
嬉しいコメントありがとうございます!
これからもよろしくお願いいたします☆
by 春之助 (2020-07-21 20:54) 

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