794年 平安京に遷都する [年号のゴロ合わせ]
弟である早良親王の怨霊から逃げるように長岡京をあとにした桓武天皇は、
794年、いよいよ山背国の平安京に都を遷します。
「平らかで安らかな都」、名前からも祟りから逃れたいという気持ちがあふれていますね…
なお、山背国は平安京遷都を契機に、山城国へと漢字を改めます。
この地を推薦したのは、宇佐八幡神託事件で活躍した和気清麻呂です。
すでに名前は「キタナマロ」から「キヨマロ」にちゃんと戻っています(笑)
長岡京からおよそ10km北東に位置する平安京は、2つの川に挟まれていて交通の便は抜群です。
さらに、風水(ふうすい)で最高の土地とされる「四神相応(しじんそうおう)の地」でもあります。
四神(しじん)とは、東西南北それぞれを守護する霊獣(れいじゅう)の総称で、
北の玄武(げんぶ、ヘビが巻きつたカメ)、南の朱雀(すざく、赤いトリ)、
西の白虎(びゃっこ、白いトラ)、東の青龍(せいりゅう、青いリュウ)をいいます。
いわば「方角の神様」です。
風水では、北に高い山、南に海などの水、西に大きな道、東に流れのある水が備わっていれば、
四神が好んで住んでくれる「四神相応の地」となり、その地は末永く繁栄する、と考えるそうです。
諸説ありますが、平安京は北に船岡山(ふなおかやま)、南に巨椋池(おぐらいけ)、西に山陰道(さんいんどう)、東に鴨川(かもがわ)があり、まさにパーフェクトな「四神相応の地」です。
弟の怨霊にビビりたおしている桓武天皇からすれば、これは願ってもない条件なわけです。
現在、巨椋池は埋め立てられて農地になっておりますが…
平安京は、南北約5.2km、東西約4.5kmのタテナガの都城で、大内裏は北のはしの真ん中におかれました。
中央にはメインストリートである朱雀大路が南北に走り、朱雀大路より西を右京、東を左京としました。
平城京と同じ形ですね。
平安京も、平城京と同じく長安をモデルにしたのだと考えられます。
平安京の朱雀大路は、道幅が約84mもあったそうですよ。
現代の一般的な道路にあてはめると、28車線くらいになります…
広すぎてまっったく想像つきませんね(笑)
人がたくさん住んでにぎやかだったのは、左京と洛東(らくとう、鴨川より東側)だったようです。
湿地帯であった右京は、住宅を建てるにはあまり適さず、また病気も発生しやすかったため、
早くにさびれてしまったようです。
10世紀に慶滋保胤(よししげのやすたね)という人物が記した『池亭記』(ちていき)にも、
右京の荒廃っぷりが描かれています。
朱雀大路の北のはしには大内裏の正門である朱雀門が、
また南のはしには平安京の正門である羅城門がつくられました。
これも平城京と同じです。
その羅城門をはさんで右京に西寺(さいじ)、左京に東寺(とうじ)というお寺が建てられました。
新幹線や電車で京都駅に着くと、南側に東寺の大きな五重塔が見えます。
いまも京都のシンボルとなっている東寺については、改めて弘仁・貞観文化で詳しく触れようと思います。
なお、朱雀門・羅城門・西寺は現存せず、今はそれぞれがあった場所に石碑がたつのみとなっています…
ちなみに…
四神に守られた平安京ですが、のちのちさらに守りがかためられます。
平安京の鬼門(きもん)を封じるため、比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)が建てられるのです。
鬼門とは、北東のことです。
古来より「鬼が入ってくる」と考えられ、よろしくない方角とされてきました。
いまも家の北東に南天(なんてん)という赤い実のつく木を植えておくと、
「難(なん)を転(てん)じてくれる」なんて言い伝えもあります(まさかのオヤジギャグ!!)
この鬼門、またの名を「艮(うしとら)の方角」といいます。
十二支をグルっと円状に書いて方角をあらわすことがあるのですが、
そうすると鬼門である北東は、丑と寅の間となります。
ゆえに別名「ウシトラの方角」なのです。
鬼はこの丑と寅の間からやってくるということで、
頭に牛のツノを生やしていて、虎柄のパンツをはいている、というビジュアルになったそうです…
「艮の方角」の向かいにいるのが、桃太郎と一緒に鬼退治に行ったメンバーだ!なんて解釈があります。
申と酉と戌、そう、サルとキジとイヌです。
うーん…でも上の表を見るなら、ヒツジさんをメンバーインさせたいところ…
当時の日本にヒツジはいなかったので、イヌになったんでしょうかね…
そうそう、地理で「子午線(しごせん)」って習いますよね。
あれは北を意味する「子」と、南を意味する「午」で「子午線」なのですよ。
なお、十二支を円状に書いたものは、方角だけでなく時間もあらわすことができます。
24時間を2時間ずつ12に分け、それぞれを十二支にあてはめるのです。
23時から1時の2時間が「子の刻(ねのこく)」です。
その真ん中である夜中の12時が「子の正刻(ねのしょうこく)」、1日のスタートです。
ここから2時間刻みで数えていくと、昼間の12時は「午の正刻(うまのしょうこく)」となります。
これが「正午(しょうご)」です。
そして「午」よりも前の時間が「午前」、「午」よりも後の時間が「午後」なのです。
いまも十二支は我々の生活にしっかりと根付いているんですね~。
「丑の刻参り(うしのこくまいり)」って言葉、ホラー番組とかで聞いたことありますか?
頭にロウソクを3本立てて、憎い相手をワラ人形にみたてて釘で木にうちつける…
というおそろしい呪いですが、
これは「丑の刻」、すなわち夜中の1~3時におこなうものなんだそうです。
京都にある清水寺に隣接する地主神社(じしゅじんじゃ)には、穴が無数にあいた木がたっています。
これ、「丑の刻参り」が実際におこなわた形跡なのです。
地主神社にお参りする際は、縁結びもイイですけど、ぜひこちらもお見逃しなく!
それから、2時間刻みで数えていくと、8つめの時間は「未の刻」ですよね。
午後3時ごろ、これがいわゆる「おやつの時間」なのです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
ウグイスだけでなく、怨霊にビビった桓武天皇も泣いてるよって覚えてくださいね~。
次回は徳政相論をとりあげます。
794年、いよいよ山背国の平安京に都を遷します。
「平らかで安らかな都」、名前からも祟りから逃れたいという気持ちがあふれていますね…
なお、山背国は平安京遷都を契機に、山城国へと漢字を改めます。
この地を推薦したのは、宇佐八幡神託事件で活躍した和気清麻呂です。
すでに名前は「キタナマロ」から「キヨマロ」にちゃんと戻っています(笑)
長岡京からおよそ10km北東に位置する平安京は、2つの川に挟まれていて交通の便は抜群です。
さらに、風水(ふうすい)で最高の土地とされる「四神相応(しじんそうおう)の地」でもあります。
四神(しじん)とは、東西南北それぞれを守護する霊獣(れいじゅう)の総称で、
北の玄武(げんぶ、ヘビが巻きつたカメ)、南の朱雀(すざく、赤いトリ)、
西の白虎(びゃっこ、白いトラ)、東の青龍(せいりゅう、青いリュウ)をいいます。
いわば「方角の神様」です。
風水では、北に高い山、南に海などの水、西に大きな道、東に流れのある水が備わっていれば、
四神が好んで住んでくれる「四神相応の地」となり、その地は末永く繁栄する、と考えるそうです。
諸説ありますが、平安京は北に船岡山(ふなおかやま)、南に巨椋池(おぐらいけ)、西に山陰道(さんいんどう)、東に鴨川(かもがわ)があり、まさにパーフェクトな「四神相応の地」です。
弟の怨霊にビビりたおしている桓武天皇からすれば、これは願ってもない条件なわけです。
現在、巨椋池は埋め立てられて農地になっておりますが…
平安京は、南北約5.2km、東西約4.5kmのタテナガの都城で、大内裏は北のはしの真ん中におかれました。
中央にはメインストリートである朱雀大路が南北に走り、朱雀大路より西を右京、東を左京としました。
平城京と同じ形ですね。
平安京も、平城京と同じく長安をモデルにしたのだと考えられます。
平安京の朱雀大路は、道幅が約84mもあったそうですよ。
現代の一般的な道路にあてはめると、28車線くらいになります…
広すぎてまっったく想像つきませんね(笑)
人がたくさん住んでにぎやかだったのは、左京と洛東(らくとう、鴨川より東側)だったようです。
湿地帯であった右京は、住宅を建てるにはあまり適さず、また病気も発生しやすかったため、
早くにさびれてしまったようです。
10世紀に慶滋保胤(よししげのやすたね)という人物が記した『池亭記』(ちていき)にも、
右京の荒廃っぷりが描かれています。
朱雀大路の北のはしには大内裏の正門である朱雀門が、
また南のはしには平安京の正門である羅城門がつくられました。
これも平城京と同じです。
その羅城門をはさんで右京に西寺(さいじ)、左京に東寺(とうじ)というお寺が建てられました。
新幹線や電車で京都駅に着くと、南側に東寺の大きな五重塔が見えます。
いまも京都のシンボルとなっている東寺については、改めて弘仁・貞観文化で詳しく触れようと思います。
なお、朱雀門・羅城門・西寺は現存せず、今はそれぞれがあった場所に石碑がたつのみとなっています…
ちなみに…
四神に守られた平安京ですが、のちのちさらに守りがかためられます。
平安京の鬼門(きもん)を封じるため、比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)が建てられるのです。
鬼門とは、北東のことです。
古来より「鬼が入ってくる」と考えられ、よろしくない方角とされてきました。
いまも家の北東に南天(なんてん)という赤い実のつく木を植えておくと、
「難(なん)を転(てん)じてくれる」なんて言い伝えもあります(まさかのオヤジギャグ!!)
この鬼門、またの名を「艮(うしとら)の方角」といいます。
十二支をグルっと円状に書いて方角をあらわすことがあるのですが、
そうすると鬼門である北東は、丑と寅の間となります。
ゆえに別名「ウシトラの方角」なのです。
鬼はこの丑と寅の間からやってくるということで、
頭に牛のツノを生やしていて、虎柄のパンツをはいている、というビジュアルになったそうです…
「艮の方角」の向かいにいるのが、桃太郎と一緒に鬼退治に行ったメンバーだ!なんて解釈があります。
申と酉と戌、そう、サルとキジとイヌです。
うーん…でも上の表を見るなら、ヒツジさんをメンバーインさせたいところ…
当時の日本にヒツジはいなかったので、イヌになったんでしょうかね…
そうそう、地理で「子午線(しごせん)」って習いますよね。
あれは北を意味する「子」と、南を意味する「午」で「子午線」なのですよ。
なお、十二支を円状に書いたものは、方角だけでなく時間もあらわすことができます。
24時間を2時間ずつ12に分け、それぞれを十二支にあてはめるのです。
23時から1時の2時間が「子の刻(ねのこく)」です。
その真ん中である夜中の12時が「子の正刻(ねのしょうこく)」、1日のスタートです。
ここから2時間刻みで数えていくと、昼間の12時は「午の正刻(うまのしょうこく)」となります。
これが「正午(しょうご)」です。
そして「午」よりも前の時間が「午前」、「午」よりも後の時間が「午後」なのです。
いまも十二支は我々の生活にしっかりと根付いているんですね~。
「丑の刻参り(うしのこくまいり)」って言葉、ホラー番組とかで聞いたことありますか?
頭にロウソクを3本立てて、憎い相手をワラ人形にみたてて釘で木にうちつける…
というおそろしい呪いですが、
これは「丑の刻」、すなわち夜中の1~3時におこなうものなんだそうです。
京都にある清水寺に隣接する地主神社(じしゅじんじゃ)には、穴が無数にあいた木がたっています。
これ、「丑の刻参り」が実際におこなわた形跡なのです。
地主神社にお参りする際は、縁結びもイイですけど、ぜひこちらもお見逃しなく!
それから、2時間刻みで数えていくと、8つめの時間は「未の刻」ですよね。
午後3時ごろ、これがいわゆる「おやつの時間」なのです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
ウグイスだけでなく、怨霊にビビった桓武天皇も泣いてるよって覚えてくださいね~。
次回は徳政相論をとりあげます。
最近になり日本史の勉強を始めたものです。
教えを乞える人も無く、事前知識にも乏しい私でしたので、単語の記憶に流れの追従…と参考書を前に無機質な勉強をしており、定着の度合いも良くないものでした。
そこで助けを求めましたところ、春之助さんのブログに行き着きました。
参考書では省かれがちな事の背景や外枠を埋めてくれるお話、また愛らしいイラストにも刺激され、今まで覚えてきた無味な知識が、だんだんと生き生きとしたものに感じられるようになってきました。
これからも拝見させていただきます。更新は大変な作業だと思われますが、お疲れの出ませんように。
日本史とはおもしろいものですね。
by bk (2016-07-12 17:26)
コメント、ありがとうございます!
学生さんが楽しく日本史を勉強できるように…と思って始めたブログですが、教壇に立っているときとは違って反応がなかなか分かりませんので、心が折れそうになることが多々あります…
そんなとき、嬉しいコメントを頂戴できて光栄です!
ありがとうございます!!
bk様のお勉強のお役に立てるよう、日本史のおもしろさを私なりに伝えられるよう、のろのろ更新ではありますが頑張って参りますので、これらかもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2016-07-13 13:15)