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805年 徳政論争をおこなう [年号のゴロ合わせ]

桓武天皇は、平城京から長岡京に遷都し、その10年後には平安京へと遷都します。
また、父である光仁天皇の時代に伊治呰麻呂の乱が起こるなど、蝦夷との関係を収拾する必要に迫られており、
東北地方へたびたび大軍を派遣します。

そんな桓武天皇は、晩年、「徳のある政治」とは一体どんなものか、
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道(すがののまみち)という2人の政治家に議論させました。
世に言う、徳政論争(とくせいろんそう)とか、徳政相論(とくせいそうろん)と呼ばれるものです。



では、久々に史料を見ていきましょう。

(延暦二十四年(805年のこと)十二月壬寅)是(こ)の日、中納言近衛大将(このえのだいしょう)従三位藤原朝臣(あそん)内麻呂(うちまろ)、殿上(てんじょう、内裏の殿舎のこと)に侍(じ)す。勅(ちょく)有りて、参議(さんぎ)右衛士督(うえじのかみ)従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁(さだいべん)正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政を相論(そうろん)せしむ。時に緒嗣、議して云(いわ)く、「方今(ほうこん、まさに今という意味)、天下の苦しむ所は軍事(ぐんじ、〔1   〕のこと)と造作(ぞうさく、〔2   〕のこと)となり、此(こ)の両事を停(とど)めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執(かくしつ)して肯(あ)えて聴かず。帝(〔3    〕のこと)、緒嗣の議を善(よ)しとし、即ち停廃に従ふ。(出典『日本後紀』)

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

1…蝦夷征討
2…平安京造営
3…桓武天皇

1と2は、同じ意味の言葉であればマルですよ!

805年、桓武天皇の側近の1人である藤原内麻呂という人物が内裏に仕えていました。
桓武天皇は命令を出して、藤原緒嗣と菅野真道の2人に、徳のある政治について議論させました。
藤原緒嗣は「現在、人々が苦しんでいるのは蝦夷征討と平安京造営です。この二大事業をやめたなら、人々はおおいに安心するでしょう」と主張しました。
一方、菅野真道は藤原緒嗣とは反対の意見を強く唱え、承服しませんでした。
結果、桓武天皇は藤原緒嗣の意見を採用し、二大事業を停止しました。

という内容です。

ただし、蝦夷征討は「戦争」ですからすぐに停止!というわけにはいかず、
810年代に平定が完了するまで継続されます。
蝦夷との戦いについては、のちのちまとめプリントで触れようと思います。

ちなみに、藤原緒嗣は藤原百川の子どもです。

ということは?

藤原式家の人ですよ~!
こちらの系図を参考に、しっかりと頭を整理しておいてください。

それでは、今日のゴロ合わせ。

805年.jpg



桓武天皇は、この徳政論争の翌年、この世を去ることとなります。

次回は、桓武天皇の息子たちによる薬子の変をとりあげます。
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高2女子

いつもこのブログで日本史の勉強をしています。
どの参考書より解りやすいです。
更進を楽しみにしています。もっと早く更新してほしいです。
ありがとうございます。
by 高2女子 (2017-07-12 11:46) 

春之助

高2女子様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
育児に時間をとられてなかなか更新がままならず、申し訳ありません…
おそらく、学校の授業の進度はブログを追い越してしまっていますよね。
これからも勉強のお役に立てるよう、できる限り更新しますので、
気長にお付き合いよろしくお願いします☆
by 春之助 (2017-07-12 13:06) 

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