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平安時代(3) [まとめプリント]

2回にわたって、弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)を取り上げます。



嵯峨天皇(弘仁年間)と清和天皇(貞観年間)の時代、平安京を中心にさかえた文化です。

平安3.jpg

特徴を簡単にまとめると、
・貴族を中心とした文化
・貴族の間で漢文学が発達
・密教の伝来
・晩年の唐文化の影響をうけた文化、です。

*   *   *

まずは宗教から見てゆきましょう。

①平安仏教

平安時代、あらたに密教(みっきょう)という教えが日本に伝来します。
密教とは、大日如来(だいにちにょらい)という仏さまが説いた、
奥が深すぎて人間にはなかなか明らかにできない秘密の教え、なのだそうです。

密教には、加持祈禱(かじきとう、正しい漢字はプリントで確認してください)によって
現世利益(げんぜりやく)を求める、という面があり、
皇族や貴族たちによって支持されます。

って、難しすぎて意味が分かりませんね…

とてもとても簡単に言ってしまうと、
この世での幸せ(現世利益)を期待して、
呪文をとなえたり、火をたいたりして仏さまにお祈りする(加持祈禱)ので、
皇族や貴族たちが密教を支持した、となります。

呪文をとなえたり、火をたいたりして仏さまにお祈りする…といえば、
シーズンオフのたびに広島カープの新井選手がやってますね。
あんな感じだと思ってください(分かります?)。

これまでの宗教、たとえば南都六宗はというと、仏教を研究するグループでしたね。
お経などで顕(あきら)かにされているお釈迦さまの考えを学ぶので、
密教に対して、これを顕教(けんぎょう)と呼びます。

では、密教を日本に初めて伝えたのは誰なのでしょう。

答えは、最澄(さいちょう)です。
死後、清和天皇(せいわてんのう)から伝教大師(でんぎょうだいし)という名を賜った人物です。

幼いころから国分寺で修行した最澄は、785年に東大寺で受戒し、正式なお坊さんになります。
その後、比叡山(ひえいざん)に小さなお寺(のちの延暦寺(えんりゃくじ))を建てて修行していたところ、
唐への短期留学生に選ばれます。
804年、遣唐使の1人として中国に渡り、天台山というところで中国の天台宗の教えや密教などを学びます。
そして、翌805年に帰国したのち日本で天台宗をひらき、比叡山延暦寺を拠点に活動するのです。

最澄は、法華経(ほけきょう)にあるように、人は誰もが「仏性(ぶっしょう)」をもつ、と説きます。
「仏性」とは、仏さまになれる性質のことなのだそうです。
すなわち最澄は、みんな仏さまになれる可能性をもっているんだよ、と説いたわけです。

また最澄は、大乗戒壇(だいじょうかいだん)創設の必要性を説きます。
戒壇とは、戒律を受ける場所のことでしたね。
当時、戒壇は東大寺・筑紫観世音寺・下野薬師寺にありました。
3つまとめて本朝三戒壇というんですよ、復習しておきましょうね。
この3か所のうち、いずれかで受戒をしなければ、当時は正式なお坊さんになれなかったのです。
前述のとおり、最澄も東大寺の戒壇で受戒をしています。

ところが最澄は、鑑真が伝えた戒律とはちがう戒律(大乗戒というものです)を授けるための、
天台宗オリジナルの戒壇、いわゆる大乗戒壇を延暦寺につくろうとするのです。

すると、もちろん南都六宗などと激しく対立することになります。
最澄は、『顕戒論(けんかいろん)』という本を著して、彼らに論駁(ろんばく)します。

平安3-2.jpg

822年、朝廷は延暦寺に大乗戒壇を設立することを許可します。
日本に4つめの戒壇が設立されたのです。
それは、最澄の死後7日目のことでした…
ちょっと最澄!あと1週間がんばんなよー!!と言いたくなりますね…残念……

次に、空海(くうかい)を見ていきましょう。
死後、醍醐天皇から賜った弘法大師(こうぼうだいし)という名でも知られる人物です。
「弘法にも筆の誤り」の「弘法」ですね。

讃岐(さぬき、現在の香川県)に生まれた空海は、役人になるため上京し、大学で学んでいましたが、
やがて仏教の修行に身を投じるようになります。
そして804年、最澄と同じタイミングで留学僧として中国にわたります。

ちなみに、このとき派遣された遣唐使船は4隻です。
空海は1つ目の船に、最澄は2つ目の船に乗り、それぞれ中国へたどりつきます。
しかし、3つ目・4つ目の船は途中で遭難し、中国にたどりつくことはできませんでした。
実に生存率50%…
遣唐使たちは、本当に命がけで中国にわたったのです…

さて、空海。

途中、船が嵐にあいつつもなんとか中国にたどりつき、
長安にある青竜寺(せいりゅうじ)で、恵果(けいか)というお坊さんから密教をがっつり学びます。
そして2年後、空海は帰国し、日本で真言宗をひらきます。
816年には、嵯峨天皇にお願いして高野山(こうやさん)を賜り、
ここに金剛峰寺(こんごうぶじ、「峰」の漢字は「峯」でもOK)を建てるのです。

ところで、空海はなぜ高野山を選んだのでしょう…

こんなおはなしが伝わっています。

まだ空海が中国にいたころ、彼は悩んでいました…
日本に帰ったあと、一体どこを拠点に自分が学んだ密教を広めればよいのか…と。

悩みをかかえる空海は、あるとき、「三鈷杵(さんこしょ)」という密教で使う金ピカの道具を手にしながら、
海岸を歩いていました…

そして!
次の瞬間!!

「どこを拠点にしたらいいのか教えてくれーっ!!」と、空海はその三鈷杵を日本に向かって投げたのです!!!
亡き師匠、恵果からいただいた大切な道具をです!!!!

で、空海帰国。

相変わらず悩みをかかえたまんまの空海が、高野山の近くを歩いていると、
「夜になると光る松があるんだよね」というウワサを耳にします。
なにそれ不思議!

試しにウワサの松を見に行ってみると…

な、なんと!

空海が中国の海岸から投げた三鈷杵が引っかかっているではないですか!!

平安3-1.jpg

ここを拠点に密教を広めればいいよ!と、亡き師匠がくれた三鈷杵が空海に教えてくれたのです。

これが、空海が高野山を選んだ理由です(諸説アリマス)。
金剛峰寺には、今でもその松が「三鈷の松」として保存されています。
信じるか信じないかはアナタ次第。
それにしても空海さん、肩つよすぎでしょ!大谷翔平もビックリだわ!!

さてその後、空海は、嵯峨天皇から平安京にある東寺(とうじ)を賜ります。
正式名称は、教王護国寺(きょうおうごこくじ)です。
空海はここに住居を構え、密教の根本道場とします。
ゆえに、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」と呼ばれるようになるわけです。

「東密」に対して、天台宗の密教を「台密(たいみつ)」といいます。

最澄は中国で密教を学びましたが、実はそれはメジャーな密教ではなかったのです…
最澄は、メジャーな密教をすべて学んで帰ってきた空海の弟子となり、教えを請います。
しかし、空海にお経を借りることなどを繰り返した結果、二人の関係は壊れてしまいます…

最澄の死後、弟子の円仁(えんにん)と円珍(えんちん)が中国にわたって密教を学び、
天台宗に密教が本格的に取り入れられるようになります。
円仁は、中国での様子を『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』という日記にまとめています。

ところが、10世紀以降、円珍の弟子たちと円仁の弟子たちは対立するようになります。
円珍の弟子たちは比叡山をおりて、園城寺(おんじょうじ、または三井寺(みいでら))というお寺に入ります。
これを寺門派(じもんは)と呼びます。
一方、円仁の門流は比叡山にとどまりますので、これを山門派(さんもんは)と呼びます。
山門派か寺門派か、混同しないよう気をつけてくださいね。

②神仏習合(しんぶつしゅうごう)

神さま(神社)と仏さま(寺院)に対する信仰が、ごちゃまぜになってしまったものです。
天平文化でもちらっと出てきましたね。
このころになると神仏習合はさらに広まっており、
神社の中にお寺がつくられたり(これを神宮寺(じんぐうじ)と呼びます)、
お寺の中に神さまがまつられたり、
神さまの前でお経がとなえられたり…と、かなりごちゃまぜになっています。
まぁね、日本ってそうじゃないですか…
クリスマスを楽しんだ1週間後に神社へ初詣に行ったりね、
チャペルで結婚式あげて、お寺でお葬式したりね、
神仏習合は、そんな日本ならではのごちゃまぜの宗教観だと思ってください(笑)

③修験道(しゅげんどう)

山にこもって厳しい修行をして悟りをひらこうとする山岳信仰に、仏教が結びついた宗教です。
修験道を修行する人を、山伏(やまぶし)と呼びます。
天狗(てんぐ)みたいな格好をした人、といえばイメージわきますかね?

ちなみに私、数年前に1日修験道体験をしました…
ボンノーがうずまいていたので、ちょっときれいになろうかな、と(笑)

山伏さんと一緒に山をひたすら登り、ロープをつたって岩場を進み、
いざ山の頂上付近にある崖へ。
崖から上半身を出した状態で、うつぶせに寝かされ、
山伏さんから「真面目に仕事をするかァァァ!!」などと聞かれました。
もうね、「ウワー!ごめんなさーい!!しますしますしますー!!!」ですよ。
いや、仕事は真面目にしていましけどね。
なんてったって、崖から見えるふもとの人間がアリサイズでしたからね…怖かった……
そして最後は滝にうたれる…というフルコース。
マッパダカの上に、濡れてもそれなりに透けない白い衣をつけて、滝のある川に入ります。
(水着持参で行ってみましたが、ダメデスと言われました…そりゃそうか……)
数日前に大雨が降ったせいで、その滝が瀑布っておりまして、
滝にうたれている間、ずっと頭を力いっぱいどつかれてる感覚でした…
でもなんかすごく心が清められた気がしましたよ、うん。
これが修験道なのか…と、ちょっぴり分かった気分になりました。

*   *   *

続いて、教育を見ていきましょう。

①貴族の教育

このころ、貴族の子弟は、中央に置かれた大学で勉強しているのでしたね。
大学ではとくに、儒教を学ぶ明経道(みょうぎょうどう)や、
中国の歴史や文学を学ぶ紀伝道(きでんどう)が重視されています。

9世紀ごろ、貴族たちは大学で学ぶ子どもたちのために、大学別曹(だいがくべっそう)を設けます。
これは大学の近くにつくった寄宿舎です。
「別荘」ではありませんよ!「別曹」です。
一族の子どもたちをここに住まわせて、勉強しやすい環境をつくってあげるわけです。
和気(わけ)氏は弘文院(こうぶんいん)、
藤原氏は勧学院(かんがくいん)、
橘(たちばな)氏は学館院(がっかんいん)、
在原(ありわら)氏は奨学院(しょうがくいん)、という名前のものをつくります。

②庶民の教育

当時の教育機関である大学・国学は、貴族や郡司の子弟のためのものであり、
庶民が学ぶための場所ではありません。
そこで空海は、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を平安京につくります。
どこまで実現できたかは分かりませんが、
空海には、貧しい人も学べるよう無料で給食を出す構想もあったようです。

*   *   *

最後に学問を見ておきましょう。

①漢詩文集

このころ、「文学がさかえると国家の経営がうまくゆき、国家がさかえる」という文章経国(もんじょうけいこく)の思想から、
漢文学がさかんになります。
漢詩文をつくることが、貴族の教養とされたのです。

嵯峨天皇は、すぐれた漢詩文をあつめた本を編纂するよう、小野岑守(おののみねもり)らに命じます。
こうして、最初の勅撰漢詩文集(勅撰漢詩集でもOK)である『凌雲集(りょううんしゅう)』が成立します。
「凌」の字はサンズイではなく、ニスイですからね、気をつけてください。
続いて嵯峨天皇は、もう1冊、勅撰漢詩文集を編纂するよう命じ、
藤原冬嗣らによって『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が成立します。
のち、嵯峨天皇の弟である淳和天皇(じゅんなてんのう)が編纂を命じた『経国集(けいこくしゅう)』とあわせて、
3つの勅撰漢詩文集が成立します。

なお、勅撰というのは、天皇が編纂を命じたもの、ということですからね。
その本が漢詩文集なら勅撰漢詩文集、和歌集ならば勅撰和歌集、となるわけです。

勅撰ではないそのほかの漢詩文集としては、
空海の漢詩や書簡などを、弟子の真済(しんぜい)がまとめた『性霊集(しょうりょうしゅう)』、
菅原道真(すがわらのみちざね)が自らの漢詩を本にまとめて、醍醐天皇(だいごてんのう)にプレゼントした『菅家文草(かんけぶんそう)』などがあります。

ちなみに嵯峨天皇は、平安宮にある門や建物の名前を中国風に改めたり、
宮廷の儀式に中国風のテイストを取り入れたりするなど、唐風(とうふう)を重んじた天皇でもあります。

②詩論

詩論とは、詩についての評論のことです。
中国に留学したことのある空海が、『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』という本で、
漢詩文を作成するにあたっての評論をまとめています。

③史書

菅原道真は、六国史の内容を、部門別に分類し、
『類聚国史(るいじゅうこくし)』という本を著しています。
ちなみに「類聚」とは、同じ種類のものを聚(あつ)める、という意味です。

④説話集

822年ごろ、薬師寺のお坊さんである景戒(けいかい、または、きょうかい)によって、
現存する日本最古の説話集である『日本霊異記(にほんりょういき)』が成立します。
正式名称は『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』です。
善いことをしたら善い報(むく)いが、悪いことをしたら悪い報いがあるよ…という、
仏教の影響を受けた、いわゆる因果応報を説いたストーリーが多く収録されています。
いくつか古典の授業で習ったことがあるのではないでしょうか…?

⑤日記

前述しましたが、円仁の『入唐求法巡礼行記』がこのころ成立しています。

とてもとても長くなりました…
最後に解答を載せておきましょう。

平安3解答.jpg



次回は、弘仁・貞観文化の2回目、建築や美術を取り上げます。
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コメント 4

オーハシ

とてもわかりやすくて、参考になります。
by オーハシ (2017-02-18 11:17) 

KMI

綺麗にまとまってて重宝させてもらってます。次回作はいつ頃配信されますか?
by KMI (2017-02-19 16:21) 

春之助

オーハシ様
嬉しいコメントありがとうございます!
by 春之助 (2017-02-20 12:48) 

春之助

KMI様
ありがとうございます!
なかなか育児に時間がとられて更新がままならないのですが…
月に1~2回のペースを目標に配信しております。
次回作は、プリントも挿絵もできておりますので、
今しばらくお待ちくださいませ★
by 春之助 (2017-02-20 12:50) 

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