866年 応天門の変が起こる [年号のゴロ合わせ]
前回に続いて、藤原氏による他氏排斥事件を見ていきます。
今日は、866年に起きた応天門の変(おうてんもんのへん)を取り上げます。
842年に起きた承和の変によって、藤原良房の甥っ子である道康親王が皇太子となります。
藤原良房は、すかさず娘の藤原明子(ふじわらのめいし、または、ふじわらのあきらけいこ)を、
道康親王の奥さんにします。
イトコとの結婚ですからね、藤原良房、なかなか必死です…
850年、道康親王は即位し、文徳天皇(もんとくてんのう)となります。
そのわずか4日後、藤原明子は男の子を出産します。
さて、この赤ちゃん。
どこで生まれたかわかりますか?
前回もお話ししましたが、当時の出産・育児は、基本的にお母さんの実家でおこなわれます。
ということで、赤ちゃんは藤原良房の家で生まれ、育てられるのです。
藤原良房としては、この赤ちゃんに、どうしても天皇になってもらいたいのです。
なんてったって、一緒に暮らすかわいいかわいい孫ですからね。
もし天皇になったら、大好きな良房おじいちゃんの願いを何でも叶えてくれそうじゃないですか!
ちなみに、お母さん側の親戚を、外戚(がいせき)といいます。
藤原良房は、娘を天皇と結婚させ、その間に生まれた孫(外孫・がいそん)を天皇とし、
自らは天皇のお母さん側のおじいちゃん(外祖父・がいそふ)として権力を握ろうとしているのです。
文徳天皇には、すでに3人の息子がいるのですが、
藤原良房はあらゆる手段を駆使しまくって、藤原明子が産んだ孫を皇太子とします。
このとき孫は生後8ヶ月。
8ヶ月って、ハイハイできるようになったかな~…ぐらいの月齢ですよ。
そんな赤ちゃんが皇太子って!
とんでもないゴリ押し!!
まわりはドン引きだったでしょうねぇ…
でも藤原良房は、そんなことはお構いなしです。
念願かなって、孫が次の天皇になることが決まったわけですからね。
8年後、文徳天皇が急死し、皇太子である藤原良房の孫が清和天皇(せいわてんのう)となります。
清和天皇、何歳か分かりますよね?
9歳ですよ、9歳!
小学生です!!
もちろん政治なんてできるわけがありませんので、天皇の補佐官が必要になります。
さて問題。
天皇が幼少のときに置かれる補佐官は何ですか?
簡単ですよね?
答えは摂政です。
ではもう1つ問題。
清和天皇の摂政には誰が就任するでしょうか?
答えは、大好きな藤原良房おじいちゃんです。
と!言いたいところですが!!
そう簡単にはいきません。
なぜなら、摂政に就任できるのは皇族だけだからです。
藤原良房は、娘を天皇と結婚させたりしていますが、自らは天皇の血をひいていません。
そもそも藤原氏は中臣鎌足の子孫ですので、天皇の臣下(しんか)の家柄です。
天皇の親戚である皇族ではありません。
つまり、藤原良房は摂政にはなれないのです。
ところが、清和天皇の外祖父である藤原良房は、太政大臣としてかわいい孫を補佐し、
摂政の役割を実質的に果たしてゆくのです。
それにしても、文徳天皇はどうして突然亡くなってしまったのでしょうね…
脳卒中だったと伝わっていますが、
ひょっとして…!
藤原良房が……!!
なんてつい考えちゃいますが、真相は分かりません。
* * *
清和天皇の即位から8年後に起きるのが、応天門の変です。
おもな登場人物は、大納言の伴善男(とものよしお)と左大臣の源信(みなもとのまこと)です。
さてこの2人、どちらがエラいか分かりますか?
分からない人は、飛鳥時代(8)のプリントで確認してくださいね。
大納言より左大臣の方がエラいので、伴善男より源信の方がエラいです。
このころ、左大臣である源信は、太政大臣の藤原良房に次いで政界のナンバー2なのです。
出世したい伴善男は、そんな源信のことをどうやらすごく嫌っていて、
なんやかんやと源信のよくないウワサを流したりしていたようです。
* * *
866年のある春の日の夜、朝廷でたいへんなことが起こります。
朝堂院の正門である応天門が、突如として炎上したのです。
応天門といえば、平安時代(4)で登場しましたね。
空海の豪腕伝説の舞台となった、あの門です。
火の気のないところから出火したこと、しかも朝廷にある門が炎上したこと、
これらは世間に大きな衝撃を与えます。
なかでもとくにショックを受けたのが、伴善男です。
なぜなら、応天門は伴氏が造営したものだからです。
伴氏がもともと大伴氏であったことは、承和の変のところで紹介しましたね。
大伴氏が作った門なので
オオトモモン→オオ○モモン→オオテ×モン→オオテンモン→応天門という名前になったんだとか。
なんか途中だいぶ無理があるように思いますけど(笑)、これが由来なのだそうです。
というわけで、応天門は伴氏にとって特別なものなのです。
それが燃えたわけですから、伴善男のショックは相当です。
伴善男は、源信が応天門に放火したに違いない!と訴えます。
まぁね、伴善男は源信のこと嫌っていますしね。
源信も、伴善男からあることないこと言われて嫌っていたでしょうしね。
伴善男の告発によって、源信は放火の容疑者となり、
彼の屋敷は朝廷の兵によって取り囲まれてしまいます。
ところが、ほどなくしてこの包囲は解かれます。
どうやら藤原良房が、伴善男の告発には証拠がない、と清和天皇に訴えたようです。
では一体誰が応天門に火をつけたのでしょうか。
犯人が分からないまま、時間が過ぎてゆきます……
* * *
応天門の炎上から、5ヶ月が経ったある日のこと。
大宅鷹取(おおやけのたかとり)という人物が、重要な証言をします。
応天門が炎上したとき、伴善男と息子の伴中庸(とものなかつね)、そして紀豊城(きのとよき)の3人が
現場から走り去るのを見たと言うのです。
この証言により、伴善男らは捕らえられ、厳しい取り調べを受けます。
なかなか罪を認めない伴善男ですが、ついには自白したようで、伊豆国に流罪となります。
また、息子の伴中庸のほか、紀豊城や兄の紀夏井(きのなつい)らもそれぞれ流罪となってしまいます。
これが応天門の変です。
応天門の変によって、伴氏や紀氏といった有力者が政界を去り、
藤原良房は朝廷でますます大きな力を得ることになります。
事件のさなか、藤原良房は清和天皇から正式に摂政に任命されるのです。
臣下で摂政に任命されるのはもちろん初めてのことで、
以降、藤原北家がこの役職を担うことになります。
外戚関係、おそるべし…
ちなみに、源信はこの事件によって人間不信となり、誰とも会わない日々を送ります。
3年後、いつまでも引きこもっていてはいけない!と一大決心をして狩りに出かけてみたところ、
馬から落ちて泥の中にはまってしまい、命を落としてしまいます…
か…かわいそすぎる……
大納言の伴善男が流罪となり、左大臣の源信がこんな形で亡くなり、
右大臣の藤原良相もほどなくして亡くなっているので(838年のゴロ合わせで登場した、小野篁に一度命を救われた人です)、
摂政となった藤原良房は向かうところ敵なしです!
藤原良房、そして藤原北家はますます力をつけてゆくのです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
ちなみに、応天門の変の様子を描いたのが、
院政期に成立する「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」です。
伴大納言とは、大納言の伴善男をさします。
詳しくは、のちのち院政期の文化のところでご紹介します。
それにしても、一族にとって大切な応天門に火をつけたのは本当に伴善男なのでしょうか…
なぜ事件から5ヶ月も経ってから目撃証言が出たのか。
なぜ事件から300年も経った院政期に立派な絵巻が描かれたのか。
謎は深まるばかりです…
次回は、藤原良房の養子である藤原基経が関白に就任する様子を、
ゴロ合わせとともにお届けします。
今日は、866年に起きた応天門の変(おうてんもんのへん)を取り上げます。
842年に起きた承和の変によって、藤原良房の甥っ子である道康親王が皇太子となります。
藤原良房は、すかさず娘の藤原明子(ふじわらのめいし、または、ふじわらのあきらけいこ)を、
道康親王の奥さんにします。
イトコとの結婚ですからね、藤原良房、なかなか必死です…
850年、道康親王は即位し、文徳天皇(もんとくてんのう)となります。
そのわずか4日後、藤原明子は男の子を出産します。
さて、この赤ちゃん。
どこで生まれたかわかりますか?
前回もお話ししましたが、当時の出産・育児は、基本的にお母さんの実家でおこなわれます。
ということで、赤ちゃんは藤原良房の家で生まれ、育てられるのです。
藤原良房としては、この赤ちゃんに、どうしても天皇になってもらいたいのです。
なんてったって、一緒に暮らすかわいいかわいい孫ですからね。
もし天皇になったら、大好きな良房おじいちゃんの願いを何でも叶えてくれそうじゃないですか!
ちなみに、お母さん側の親戚を、外戚(がいせき)といいます。
藤原良房は、娘を天皇と結婚させ、その間に生まれた孫(外孫・がいそん)を天皇とし、
自らは天皇のお母さん側のおじいちゃん(外祖父・がいそふ)として権力を握ろうとしているのです。
文徳天皇には、すでに3人の息子がいるのですが、
藤原良房はあらゆる手段を駆使しまくって、藤原明子が産んだ孫を皇太子とします。
このとき孫は生後8ヶ月。
8ヶ月って、ハイハイできるようになったかな~…ぐらいの月齢ですよ。
そんな赤ちゃんが皇太子って!
とんでもないゴリ押し!!
まわりはドン引きだったでしょうねぇ…
でも藤原良房は、そんなことはお構いなしです。
念願かなって、孫が次の天皇になることが決まったわけですからね。
8年後、文徳天皇が急死し、皇太子である藤原良房の孫が清和天皇(せいわてんのう)となります。
清和天皇、何歳か分かりますよね?
9歳ですよ、9歳!
小学生です!!
もちろん政治なんてできるわけがありませんので、天皇の補佐官が必要になります。
さて問題。
天皇が幼少のときに置かれる補佐官は何ですか?
簡単ですよね?
答えは摂政です。
ではもう1つ問題。
清和天皇の摂政には誰が就任するでしょうか?
答えは、大好きな藤原良房おじいちゃんです。
と!言いたいところですが!!
そう簡単にはいきません。
なぜなら、摂政に就任できるのは皇族だけだからです。
藤原良房は、娘を天皇と結婚させたりしていますが、自らは天皇の血をひいていません。
そもそも藤原氏は中臣鎌足の子孫ですので、天皇の臣下(しんか)の家柄です。
天皇の親戚である皇族ではありません。
つまり、藤原良房は摂政にはなれないのです。
ところが、清和天皇の外祖父である藤原良房は、太政大臣としてかわいい孫を補佐し、
摂政の役割を実質的に果たしてゆくのです。
それにしても、文徳天皇はどうして突然亡くなってしまったのでしょうね…
脳卒中だったと伝わっていますが、
ひょっとして…!
藤原良房が……!!
なんてつい考えちゃいますが、真相は分かりません。
* * *
清和天皇の即位から8年後に起きるのが、応天門の変です。
おもな登場人物は、大納言の伴善男(とものよしお)と左大臣の源信(みなもとのまこと)です。
さてこの2人、どちらがエラいか分かりますか?
分からない人は、飛鳥時代(8)のプリントで確認してくださいね。
大納言より左大臣の方がエラいので、伴善男より源信の方がエラいです。
このころ、左大臣である源信は、太政大臣の藤原良房に次いで政界のナンバー2なのです。
出世したい伴善男は、そんな源信のことをどうやらすごく嫌っていて、
なんやかんやと源信のよくないウワサを流したりしていたようです。
* * *
866年のある春の日の夜、朝廷でたいへんなことが起こります。
朝堂院の正門である応天門が、突如として炎上したのです。
応天門といえば、平安時代(4)で登場しましたね。
空海の豪腕伝説の舞台となった、あの門です。
火の気のないところから出火したこと、しかも朝廷にある門が炎上したこと、
これらは世間に大きな衝撃を与えます。
なかでもとくにショックを受けたのが、伴善男です。
なぜなら、応天門は伴氏が造営したものだからです。
伴氏がもともと大伴氏であったことは、承和の変のところで紹介しましたね。
大伴氏が作った門なので
オオトモモン→オオ○モモン→オオテ×モン→オオテンモン→応天門という名前になったんだとか。
なんか途中だいぶ無理があるように思いますけど(笑)、これが由来なのだそうです。
というわけで、応天門は伴氏にとって特別なものなのです。
それが燃えたわけですから、伴善男のショックは相当です。
伴善男は、源信が応天門に放火したに違いない!と訴えます。
まぁね、伴善男は源信のこと嫌っていますしね。
源信も、伴善男からあることないこと言われて嫌っていたでしょうしね。
伴善男の告発によって、源信は放火の容疑者となり、
彼の屋敷は朝廷の兵によって取り囲まれてしまいます。
ところが、ほどなくしてこの包囲は解かれます。
どうやら藤原良房が、伴善男の告発には証拠がない、と清和天皇に訴えたようです。
では一体誰が応天門に火をつけたのでしょうか。
犯人が分からないまま、時間が過ぎてゆきます……
* * *
応天門の炎上から、5ヶ月が経ったある日のこと。
大宅鷹取(おおやけのたかとり)という人物が、重要な証言をします。
応天門が炎上したとき、伴善男と息子の伴中庸(とものなかつね)、そして紀豊城(きのとよき)の3人が
現場から走り去るのを見たと言うのです。
この証言により、伴善男らは捕らえられ、厳しい取り調べを受けます。
なかなか罪を認めない伴善男ですが、ついには自白したようで、伊豆国に流罪となります。
また、息子の伴中庸のほか、紀豊城や兄の紀夏井(きのなつい)らもそれぞれ流罪となってしまいます。
これが応天門の変です。
応天門の変によって、伴氏や紀氏といった有力者が政界を去り、
藤原良房は朝廷でますます大きな力を得ることになります。
事件のさなか、藤原良房は清和天皇から正式に摂政に任命されるのです。
臣下で摂政に任命されるのはもちろん初めてのことで、
以降、藤原北家がこの役職を担うことになります。
外戚関係、おそるべし…
ちなみに、源信はこの事件によって人間不信となり、誰とも会わない日々を送ります。
3年後、いつまでも引きこもっていてはいけない!と一大決心をして狩りに出かけてみたところ、
馬から落ちて泥の中にはまってしまい、命を落としてしまいます…
か…かわいそすぎる……
大納言の伴善男が流罪となり、左大臣の源信がこんな形で亡くなり、
右大臣の藤原良相もほどなくして亡くなっているので(838年のゴロ合わせで登場した、小野篁に一度命を救われた人です)、
摂政となった藤原良房は向かうところ敵なしです!
藤原良房、そして藤原北家はますます力をつけてゆくのです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
ちなみに、応天門の変の様子を描いたのが、
院政期に成立する「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」です。
伴大納言とは、大納言の伴善男をさします。
詳しくは、のちのち院政期の文化のところでご紹介します。
それにしても、一族にとって大切な応天門に火をつけたのは本当に伴善男なのでしょうか…
なぜ事件から5ヶ月も経ってから目撃証言が出たのか。
なぜ事件から300年も経った院政期に立派な絵巻が描かれたのか。
謎は深まるばかりです…
次回は、藤原良房の養子である藤原基経が関白に就任する様子を、
ゴロ合わせとともにお届けします。
とても分かりやすかったです!!
参考になりましたm(__)m
by 転生うっちー (2017-11-28 21:23)
転生うっちーさま
嬉しいコメント、ありがとうございます!
励みになります!!
これからも、よろしくお願いいたします。
by 春之助 (2017-11-29 11:57)
応天門の変を調べていたのですが、これが一番わかりやすく、おもしろかったです(笑)。
参考にさせていただきます。
by ラスカル (2017-12-24 16:39)
ラスカルさま
嬉しいコメント、ありがとうございます!
ご参考にしていただけて幸いです!!
これからも、よろしくお願いいたします。
by 春之助 (2017-12-25 22:36)
少し前「応天門の変」の犯人は誰だろうと調べたことがあります。
一般的には、この事件で利益を得たかという観点に立てば、藤原良房になりますよね。ところが、伴善男は過去に多くの人を陥れているから伴善男だという説、wikiを読むと、鈴木琢郎さんは、伴中庸説です。他にも、國學院大學の教授の論文では「三代実録」や「吏部王記」、「宇治拾遺物語」、「伴大納言絵巻」という資料から検証されていましたが、決定打はないようです。ただ、当時、犯人は誰であるかを疑う人はいなかったと書いてありました。犯人は、〇〇が怪しいと教えてほしかったです。
入試で、「応天門の変」で放火をしたのは誰か、という問題は出ることはないでしょう。弘法(に)も筆の誤りということわざがあります。最澄が忘れたテンは、最初のテンであるという説と最後のテンとする説がありますね。門の篇額は「応天門」でなく、「應天門」とか。
とりとめもないことを書いて申し訳ありません。
by 大鳥圭介 (2021-06-28 11:09)
読み返して間違いを発見しました。
最澄は、空海の誤りです。
by 大鳥圭介 (2021-06-28 13:59)
応天門の変の犯人は一体誰なんでしょうね…
ハッキリ知りたいところですけど、ハッキリ分からないのもまたおもしろいのかもしれませんね…
by 春之助 (2021-07-07 10:25)
応天の門という菅原道真が主人公の面白いマンガがあって、そろそろ応天門の変が起こるころなので予習しにきました!とっても分かりやすかったです。イラストも可愛い。
by よいやま (2021-09-29 01:05)
よいやま様
コメントありがとうございます。
『応天の門』、私も最初のころ読んでおりました!すごく絵がきれいですよね…
マンガではそろそろ応天門の変が起こるのですね…当ブログで予習して頂きありがとうございました☆
by 春之助 (2021-09-30 10:21)
日本史苦手だと思ってたけど、こうやってイラストつきで簡単に分かりやすく教えてくれると苦手意識なくなるのでほんとに助かります!!
源信とからへんの小話とかも内容を思い出すきっかけにもなるしありがたい、、、!
学校の授業とかでは、先生がただただ教科書読むだけなので、一向に日本史の苦手意識は消せず、、笑笑
ですが、こうやって面白く内容説明してくれて日本史の勉強意欲も高まりました!
ありがとうございます!!
by さく (2023-08-08 22:52)
さく様
コメントありがとうございます!
日本史に対する苦手意識がなくなったとのこと、さく様の努力のたまものですね!!
小話、あんまり書きすぎると長くなるから読むの大変かなぁ…なんて思いながら書いていますが、「内容を思い出すきっかけになる」とのコメントをいただきハッと気づかされました。ありがとうございます。
のろのろ更新のブログですが、これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2023-10-12 13:49)