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902年 延喜の荘園整理令を出す [年号のゴロ合わせ]

前回は、醍醐天皇の時代に菅原道真が左遷される様子を取り上げました。
今日は、その醍醐天皇の政治を見ていきます。



醍醐天皇は、父である宇多天皇にならい、摂政・関白をおかずに政治をおこないます。
これを、親政とか天皇親政というんでしたね。
901年に右大臣の菅原道真を左遷したのちは、
左大臣の藤原時平とともに、くずれつつある律令体制の復興をめざします。

まずは、班田収授のたてなおしです。

班田は、6年に1度のペースでスタートしましたが、
時代とともにだんだんくずれてゆき、
桓武天皇の時代には、せめて12年に1度のペースでいいからやろう!と決まったのでしたね。
(ナニそれ?という方は、平安時代(1)を復習してください)

ところが、醍醐天皇の時代には、浮浪・逃亡・偽籍なども横行しており、
班田はすっかりおこなわれないようになっていたのです。
これではもちろん、口分田にかかる租は徴収できません。
国家としては、財政難です。

そこで902年、醍醐天皇は久しぶりに班田を実施します。
さらに同じ年、初めて荘園整理令を発令します。
以降、荘園整理令は、天皇がかわるタイミングでたびたび出されるので、
とくに醍醐天皇が出したものを、当時の元号をとって、
延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)と呼びます。

では、延喜の荘園整理令を史料から見てみましょう。

太政官符す(ふす、上級官庁から下級官庁に命令を下すこと)
 応(まさ)に勅旨開田(ちょくしかいでん、勅旨田のこと)并(なら)びに諸院諸宮(皇后や皇族のこと)及び五位以上の、百姓の田地舎宅(しゃたく、住宅のこと)を買ひ取り、閑地荒田を占請(せんせい)するを停止(ちょうじ)すべきの事
 右、案内(あない)を検ずるに(過去の記録を調べること)、頃年(このごろ)勅旨開田遍(あまね)く諸国に在(あ)り。空閑荒廃の地を占むと雖(いえど)も、是(こ)れ黎元(れいげん、人民のこと)の産業の便を奪ふなり。加之(しかのみならず)、新たに庄家を立て、多く苛法(かほう)を施す。課責(かせき、課役の負担のこと)尤(もっと)も繁く、威脅耐へ難し。且つ諸国の奸濫(かんらん、よこしまで不法であること)の百姓、課役を遁(のが)れんが為(た)め、動(やや)もすれば京師(けいし、都のこと)に赴(おもむ)き、好みて豪家(ごうか、有力な家のこと)に属し、或(あるい)は田地を以て詐(いつわ)りて寄進と称し、或は舎宅を以て巧(たく)みに売与と号し、遂に使(豪家の使者のこと)に請(こ)ひて牒(ちょう、公文書の一種のこと)を取り、封(他人がみだりに入れないようにすること)を加へ、牓(ぼう、境界を示す標識のこと)を立つ。国吏(こくり、国の役人のこと)矯餝(きょうしょく、偽りのこと)の計と知ると雖も、而(しか)も権貴(けんき、豪家に同じ)の勢を憚(はばか)りて口を鉗(つぐ)み舌を巻き敢(あえ)て禁制せず。茲(これ)に因(よ)りて、出挙(すいこ)の日、事を権門に託して正税を請(う)けず。収納の時、穀を私宅に蓄へて官倉に運ばず。賦税の済(な)し難き、斯(ここ)に由(よ)らざるは莫(な)し。(中略)宜(よろ)しく当代(〔1  〕天皇の時代のこと)以後、勅旨開田は皆悉(ことごと)く停止して民をして負作(ふさく、土地を貸して耕作させ、レンタル料をとること)せしめ、其の寺社百姓の田地は、各(おのおの)公験(くげん、土地などに関する証明書のこと)に任せて本主(本来の持ち主のこと)に還(かえ)し与ふべし。(中略)但(ただ)し、元来相伝(そうでん、相続のこと)して庄家たること券契(けんけい、公験に同じ)分明にして、国務に妨げ無き者は此(こ)の限りに在らず。(中略)
 〔2  〕二年(902年のこと)三月十三日
(出典『類従三代格』)

長いですね…
入試では、冒頭の「応に…」の一文だけがよく出題されます。

空欄にあてはまる語句は分かりますか?
 1…醍醐(天皇)
 2…延喜
ですよ!

延喜の荘園整理令の内容を簡単にまとめると、
 ①醍醐天皇が即位した897年以降に成立した勅旨田を廃止
 ②農民たちが、有力な貴族や寺社に土地を寄進することを禁止
 ③有力な貴族や寺社が、未開の山野を不法に占拠することを禁止
となります。

743年の墾田永年私財法で土地の私有が認められた結果、各地で荘園が成立します。
なかでも有力な貴族や寺社は、近くに住む農民はもちろん、
浮浪・逃亡している農民までも労働力として取り込み、どんどん荘園をひろげます。
そして、浮浪・逃亡などで持ち主のいなくなった口分田も、彼らの荘園としてしまうのです。

このままでは国の土地は荘園に圧迫され、国家財政は破綻してしまいます。

そこで醍醐天皇は、公地公民制を根本とする律令体制の再興を目指します。
まずは皇室の財源を確保するためにつくった、皇室の荘園とも言うべき勅旨田を自ら廃止します。
そして、有力な貴族や寺社の大土地所有を禁止することで、国の土地を確保しようとしたのです。

902.jpg

ただし、史料中の下線部分にあるように、
券契がはっきりしている荘園、すなわち由来がはっきりしている荘園で、
かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外としているので、
延喜の荘園整理令は不徹底に終わります。

班田も、902年以降に実施されたという史料は今のところ見つかっておらず、
これがおそらく最後の班田になったのであろうと考えられています。

そのほかの醍醐天皇の功績としては、
紀貫之(きのつらゆき)らに『古今和歌集』の編纂を命じたことがあげられます。
また、六国史の6番目にあたる『日本三代実録』や、
三代格式の1つである『延喜格式』も、醍醐天皇の時代に成立しています。

そんな醍醐天皇の親政はのちのち理想とされ、「延喜の治」(えんぎのち)と呼ばれるようになります。

とくに醍醐天皇を理想とした天皇は誰か分かりますか?

イラストにも描きましたが、正解は後醍醐天皇です。
名前を見ても明らかですもんね(笑)
本来、天皇の名前(厳密には諡号(しごう)といいます)は亡くなったあとにおくられるのですが、
醍醐天皇をリスペクトしまくりの彼は、
「俺が死んだら後醍醐って名前にしてね!」と自分で決めていたようです。
後醍醐天皇がなぜそこまで醍醐天皇をリスペクトしたのかについては、のちのちお話ししようと思います。

のちに理想とされた時代ではありますが、財政難と地方政治の混乱はおさまらず、
醍醐天皇は、三善清行(みよしきよゆき)という学者に意見を求めます。
彼はかつて国司として地方政治をになったことがあり、
その経験をもとに、中央や地方の政治改革、経費節減などについての対策を12か条にまとめ、
914年に醍醐天皇に提出します。
これが、三善清行の「意見封事十二箇条」(いけんふうじじゅうにかじょう)です。

いよいよ中央政府は、税制の大改革を余儀なくされるのです。
これについては、またのちほどプリントにまとめようと思います。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

902年.jpg



次回は、平将門の乱と藤原純友の乱を取り上げます。
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ひっつん

初めまして。いつも勉強の参考にさせていただいております。
現代まで道のりは長いですが完走される事を楽しみにしております。
頑張って下さいませ。
by ひっつん (2017-08-09 01:30) 

春之助

ひっつん様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
のろのろ更新ではありますが、現代まで完走できるよう頑張ります。
これからも、ひっつん様の勉強のご参考になれば幸いです!
by 春之助 (2017-08-09 13:01) 

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