1019年 刀伊の入寇が起こる [年号のゴロ合わせ]
今日は、1019年に起きた刀伊の入寇(といのにゅうこう)を取り上げます。
この出来事、刀伊の来寇(といのらいこう)、と呼ぶ場合もあります。
入寇と来寇に共通する「寇」の漢字には、外から攻めてくる、という意味があります。
つまり、この漢字が使われている出来事は、すべて外国から攻められたものである、ということです。
元寇(げんこう)もそうですよね!
ちなみに、「寇」の漢字の部首はウカンムリです、ワカンムリにしないよう気をつけてください。
それでは、刀伊(とい)とは一体ナニモノなのでしょうか。
見ていきましょう!
まずは、10~11世紀ごろの東アジアの様子を確認しておきましょう。
(CraftMAPより作成)
中国では、907年に唐が滅び、
北部と南部で王朝が乱立する五代十国時代(ごだいじっこくじだい)に突入します。
それを960年に統一したのが、趙 匡胤(ちょう きょういん)が建てた宋(そう)という国です。
のちに宋は、北方に成立する金(きん)という国に皇帝を連れ去られ、滅んでしまいます。
このとき、たまたま実家にいた皇帝の弟は難を逃れており、南の方で宋を再興します。
便宜上、両者を区別するため、もとの宋を北宋(ほくそう)、再興した後の宋を南宋(なんそう)と呼びます。
今日見ていくのは、北宋の時代です。
次に、中国のさらに北の地域を見ていきましょう。
このあたりには、かつて遼(りょう)と渤海(ぼっかい)という国がありました。
遼は、時代によって契丹(きったん)と名乗ったりします。
奈良時代(5)のまとめプリントにある地図で、それぞれの位置関係を確認しておいてください。
926年、遼が渤海を滅ぼします。
こののち、もともと渤海があったあたりで、遼の支配を受けながら生活するようになるのが、
女真族(じょしんぞく)と呼ばれる人々です。
彼らはやがて遼に対して反乱を起こし、12世紀には金という国を建てます。
そして、北宋と手を組んで遼を滅ぼし、
さらに前述のとおり、皇帝を連れ去ることで、北宋をも滅ぼしてしまうのです。
おそるべし女真族。
このころ、新羅(しらぎ)にかわって朝鮮半島を支配していた高麗(こうらい)は、
女真族のことを「トイ」と呼んでいて、
日本では、これに「刀伊」という漢字をあてたようです。
そう、刀伊の正体は、女真族なのです!
* * *
1019年のことです。
海の向こうから刀伊の船がやってきて、対馬(つしま)を襲撃します。
船の数は50以上。
突然のことに為(な)すすべもなく、
対馬では36人が殺害され、346人がさらわれたと記録されています。
続いて、彼らは壱岐(いき)を襲撃します。
ここでも殺人、拉致(らち)が繰り返され、
壱岐に残った人は、わずかに35人だけだった…と伝わっています。
次に、刀伊の船が向かった先は、九州北部です。
(CraftMAPより作成)
これを迎え撃つのは、
大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)です。
彼は、刀伊が博多に上陸しようとするのを阻止し、船の撃退に成功するのです!
この出来事を、刀伊の入寇、または、刀伊の来寇、といいます。
朝廷が刀伊の入寇を知ったのは、藤原隆家がすっかり船を撃退したあとのことでした。
通信手段が整っている現代ならば、すぐに情報を手に入れられるのでしょうが、
そうはいかない時代ですからね…
とはいえ、こうして平将門の乱・藤原純友の乱に引き続き、
危機的状況に何も対応できない朝廷の姿と、地方武士の実力が世に知れ渡ってゆくのです。
* * *
ところで、藤原隆家とはどんな人物なのでしょうか。
995年ごろ、まだまだ藤原道長(ふじわらのみちなが)がヒヨッコだった時代の系図で確認してみましょう。
いますね、藤原隆家。
彼は、藤原道長の前に絶大な権力をほこった藤原道隆(ふじわらのみちたか)の息子です。
ちなみにお姉ちゃんは、一条天皇の中宮藤原定子(ふじわらのていし、または、ふじわらのさだこ)です。
かなりのエリートファミリー出身であることが分かりますね。
ではなぜ、藤原隆家は中央で出世せず、大宰府で刀伊を迎え撃つことになったのでしょうか…
まずは、藤原隆家のお兄ちゃんである、藤原伊周(ふじわらのこれちか)という人物を紹介しましょう。
藤原伊周は、絶大な権力をほこる藤原道隆の息子です。
彼は、父親の権力によって、どんどん出世してゆきます。
完全に親の七光りです。
まわりはおもしろくないですよね…
そんなおり、995年に藤原道隆が亡くなります。
藤原伊周は、父親という最大の後ろ盾を失ってしまうのです!
この隙に権力をのばそうとするのが、藤原道長です。
藤原伊周は、おじさんである藤原道長と、醜いまでの勢力争いを繰り広げます。
外に聞こえるほどの大声で、怒鳴りあいのケンカをすることもあったんだとか…
さぁ藤原道長と藤原伊周、どちらが勝利するのでしょうか…
ところで、このころの藤原伊周には、好きな人がいました。
とある公卿(くぎょう)の三女です。
平安時代は、彼氏が彼女の家に夜な夜な通うものなので、
藤原伊周もせっせと彼女に家に通っていました。
ところがです!
どうやら他の男もその家に通っているようなのです!!
浮気?
略奪愛??
藤原伊周としては、その男を許すわけにはいきません!
調べたところ、その男は花山法皇(かざんほうおう)でした。
なんと、先代の天皇だったのです!(当時は一条天皇の時代です)
藤原伊周は、弟の藤原隆家にこのことを相談します。
すると、男気あふれる藤原隆家は、家来を引き連れて、なんと花山法皇を襲撃したのです!
このとき、花山法皇は、衣の袖(そで)を弓で射抜かれてしまいます。
先代の天皇が襲撃されるなんて、とんでもない大事件なのですが…
花山法皇としてはね、コレ恥ずかしすぎて他人様(ひとさま)に言えないわけですよ。
だって法皇(出家した上皇のこと)なんですよ?
出家した身なんですよ??
それなのに、女のもとに夜な夜な通っているなんてバレたら超恥ずかしいじゃないですか!
なので黙っていたのです…
でもね…
こういうおもしろい話って、どこからともなく漏れるんですよ……
「内緒の話なんだけどね…」という言葉が頭についていながら、どんどん広まっちゃうわけですよ………
結果、この事件は人々の知るところになり、
藤原伊周は大宰権帥に、藤原隆家は出雲国の国司に左遷されてしまいます。
これによって、藤原道長と藤原伊周の権力闘争は、藤原道長の勝利に終わります。
なんともオマヌケな話です。
ちなみに、花山法皇のお目当ては、藤原伊周の彼女ではなく、その妹だったようです。
同じ家に住んでたからね、勘違いしちゃったんですね!
藤原伊周…つくづくオマヌケすぎる…
ということで、藤原隆家は、兄想いの男気あふれる人物だったようです。
しかし、花山法皇を襲撃したことにより、中央での出世コースからはずれてしまいます。
左遷先の出雲から一度は都に戻ったものの、
やがて目の病気を患い、自ら大宰府への転勤を申し出たようです。
そこで刀伊の入寇にでくわしたのですね。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
無理矢理ですが、これで藤原タカイエの名前も覚えてしまってくださいね!(笑)
次回は、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を取り上げます。
画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
この出来事、刀伊の来寇(といのらいこう)、と呼ぶ場合もあります。
入寇と来寇に共通する「寇」の漢字には、外から攻めてくる、という意味があります。
つまり、この漢字が使われている出来事は、すべて外国から攻められたものである、ということです。
元寇(げんこう)もそうですよね!
ちなみに、「寇」の漢字の部首はウカンムリです、ワカンムリにしないよう気をつけてください。
それでは、刀伊(とい)とは一体ナニモノなのでしょうか。
見ていきましょう!
まずは、10~11世紀ごろの東アジアの様子を確認しておきましょう。
(CraftMAPより作成)
中国では、907年に唐が滅び、
北部と南部で王朝が乱立する五代十国時代(ごだいじっこくじだい)に突入します。
それを960年に統一したのが、趙 匡胤(ちょう きょういん)が建てた宋(そう)という国です。
のちに宋は、北方に成立する金(きん)という国に皇帝を連れ去られ、滅んでしまいます。
このとき、たまたま実家にいた皇帝の弟は難を逃れており、南の方で宋を再興します。
便宜上、両者を区別するため、もとの宋を北宋(ほくそう)、再興した後の宋を南宋(なんそう)と呼びます。
今日見ていくのは、北宋の時代です。
次に、中国のさらに北の地域を見ていきましょう。
このあたりには、かつて遼(りょう)と渤海(ぼっかい)という国がありました。
遼は、時代によって契丹(きったん)と名乗ったりします。
奈良時代(5)のまとめプリントにある地図で、それぞれの位置関係を確認しておいてください。
926年、遼が渤海を滅ぼします。
こののち、もともと渤海があったあたりで、遼の支配を受けながら生活するようになるのが、
女真族(じょしんぞく)と呼ばれる人々です。
彼らはやがて遼に対して反乱を起こし、12世紀には金という国を建てます。
そして、北宋と手を組んで遼を滅ぼし、
さらに前述のとおり、皇帝を連れ去ることで、北宋をも滅ぼしてしまうのです。
おそるべし女真族。
このころ、新羅(しらぎ)にかわって朝鮮半島を支配していた高麗(こうらい)は、
女真族のことを「トイ」と呼んでいて、
日本では、これに「刀伊」という漢字をあてたようです。
そう、刀伊の正体は、女真族なのです!
* * *
1019年のことです。
海の向こうから刀伊の船がやってきて、対馬(つしま)を襲撃します。
船の数は50以上。
突然のことに為(な)すすべもなく、
対馬では36人が殺害され、346人がさらわれたと記録されています。
続いて、彼らは壱岐(いき)を襲撃します。
ここでも殺人、拉致(らち)が繰り返され、
壱岐に残った人は、わずかに35人だけだった…と伝わっています。
次に、刀伊の船が向かった先は、九州北部です。
(CraftMAPより作成)
これを迎え撃つのは、
大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)です。
彼は、刀伊が博多に上陸しようとするのを阻止し、船の撃退に成功するのです!
この出来事を、刀伊の入寇、または、刀伊の来寇、といいます。
朝廷が刀伊の入寇を知ったのは、藤原隆家がすっかり船を撃退したあとのことでした。
通信手段が整っている現代ならば、すぐに情報を手に入れられるのでしょうが、
そうはいかない時代ですからね…
とはいえ、こうして平将門の乱・藤原純友の乱に引き続き、
危機的状況に何も対応できない朝廷の姿と、地方武士の実力が世に知れ渡ってゆくのです。
* * *
ところで、藤原隆家とはどんな人物なのでしょうか。
995年ごろ、まだまだ藤原道長(ふじわらのみちなが)がヒヨッコだった時代の系図で確認してみましょう。
いますね、藤原隆家。
彼は、藤原道長の前に絶大な権力をほこった藤原道隆(ふじわらのみちたか)の息子です。
ちなみにお姉ちゃんは、一条天皇の中宮藤原定子(ふじわらのていし、または、ふじわらのさだこ)です。
かなりのエリートファミリー出身であることが分かりますね。
ではなぜ、藤原隆家は中央で出世せず、大宰府で刀伊を迎え撃つことになったのでしょうか…
まずは、藤原隆家のお兄ちゃんである、藤原伊周(ふじわらのこれちか)という人物を紹介しましょう。
藤原伊周は、絶大な権力をほこる藤原道隆の息子です。
彼は、父親の権力によって、どんどん出世してゆきます。
完全に親の七光りです。
まわりはおもしろくないですよね…
そんなおり、995年に藤原道隆が亡くなります。
藤原伊周は、父親という最大の後ろ盾を失ってしまうのです!
この隙に権力をのばそうとするのが、藤原道長です。
藤原伊周は、おじさんである藤原道長と、醜いまでの勢力争いを繰り広げます。
外に聞こえるほどの大声で、怒鳴りあいのケンカをすることもあったんだとか…
さぁ藤原道長と藤原伊周、どちらが勝利するのでしょうか…
ところで、このころの藤原伊周には、好きな人がいました。
とある公卿(くぎょう)の三女です。
平安時代は、彼氏が彼女の家に夜な夜な通うものなので、
藤原伊周もせっせと彼女に家に通っていました。
ところがです!
どうやら他の男もその家に通っているようなのです!!
浮気?
略奪愛??
藤原伊周としては、その男を許すわけにはいきません!
調べたところ、その男は花山法皇(かざんほうおう)でした。
なんと、先代の天皇だったのです!(当時は一条天皇の時代です)
藤原伊周は、弟の藤原隆家にこのことを相談します。
すると、男気あふれる藤原隆家は、家来を引き連れて、なんと花山法皇を襲撃したのです!
このとき、花山法皇は、衣の袖(そで)を弓で射抜かれてしまいます。
先代の天皇が襲撃されるなんて、とんでもない大事件なのですが…
花山法皇としてはね、コレ恥ずかしすぎて他人様(ひとさま)に言えないわけですよ。
だって法皇(出家した上皇のこと)なんですよ?
出家した身なんですよ??
それなのに、女のもとに夜な夜な通っているなんてバレたら超恥ずかしいじゃないですか!
なので黙っていたのです…
でもね…
こういうおもしろい話って、どこからともなく漏れるんですよ……
「内緒の話なんだけどね…」という言葉が頭についていながら、どんどん広まっちゃうわけですよ………
結果、この事件は人々の知るところになり、
藤原伊周は大宰権帥に、藤原隆家は出雲国の国司に左遷されてしまいます。
これによって、藤原道長と藤原伊周の権力闘争は、藤原道長の勝利に終わります。
なんともオマヌケな話です。
ちなみに、花山法皇のお目当ては、藤原伊周の彼女ではなく、その妹だったようです。
同じ家に住んでたからね、勘違いしちゃったんですね!
藤原伊周…つくづくオマヌケすぎる…
ということで、藤原隆家は、兄想いの男気あふれる人物だったようです。
しかし、花山法皇を襲撃したことにより、中央での出世コースからはずれてしまいます。
左遷先の出雲から一度は都に戻ったものの、
やがて目の病気を患い、自ら大宰府への転勤を申し出たようです。
そこで刀伊の入寇にでくわしたのですね。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
無理矢理ですが、これで藤原タカイエの名前も覚えてしまってくださいね!(笑)
次回は、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を取り上げます。
画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
毎回わかりやすい解説でいつも見ていて、
受験勉強に活用させていただいております!
おかげ様で、今回の模試では偏差値が60を超えました!
春之助さん、お体にお気をつけて、
これからもタメになる日本史を教えてください!!
p.s.ただ…
一つだけ改善点を挙げるとすれば…
更新時期を上げてほしいです…
自分勝手ではありますが、
テストの範囲が追いついてしまいます…
勝手なお願い、ご無礼をお許しください
m(_ _)m
by @名無しさん (2017-11-05 15:32)
@名無し様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
模試で偏差値アップされたとのこと、おめでとうございます。
努力の結果ですね☆
このブログが、ほんの少しでも勉強のお役に立っているのなら光栄です!
更新ペースについては…
本当に申し訳ありません…
頑張って更新を続けますので、今後ともよろしくお願いいたします!
by 春之助 (2017-11-06 15:51)
平安時代にも日本の危機があった事知り、調べたらこのサイトに行きつきました
常に日本を守る人が出る不思議さと縄文時代の思想が日本人魂で当時の中国撃退をもした事を知り、そこから武士の時代へと移行した事本当に日本の不思議さ思いました
by 下澤寛子 (2023-01-21 03:50)