1083年 後三年合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]
前回は、東北地方で起きた、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を取り上げました。
前九年合戦とは、
1051年に陸奥国(むつのくに)の安倍氏(あべし)が陸奥守(むつのかみ)と衝突し、
その後、かわって陸奥守となった源頼義(みなもとのよりよし)が、
出羽国(でわのくに)の清原氏(きよはらし)の協力を得て、安倍氏を平定した、
という出来事でしたね。
前九年合戦で陸奥国の安倍氏が滅亡すると、出羽国の清原氏は、陸奥国にも勢力を広げます。
質のよい馬が育ち、砂金がたくさんとれる、
そんな豊かな東北地方一帯を、清原氏は支配することになるのです。
今日取り上げるのは、その清原氏のなかで起きる相続争いです。
後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)といいます。
では、詳しく見ていきましょう。
はじめ、前九年合戦で安倍氏を率いたのは誰だったか、覚えていますか?
答えは、陸奥国のリーダー安倍頼時(あべのよりとき)です。
その安倍頼時には、娘がいます。
彼女は、陸奥国の豪族である藤原氏と結婚し、
藤原清衡(ふじわらのきよひら)という息子をもうけます。
しかし、前九年合戦で彼女の実家にあたる安倍氏は滅亡し、
さらに、旦那さんである藤原氏も処刑されてしまいます。
その後、彼女は幼い息子をともなって、清原氏と再婚します。
息子は清原氏の養子となり、清原清衡(きよはらのきよひら)と名乗ります。
彼女にとって、父や兄、そして夫の敵(かたき)との再婚は、
とてもツラいことだったでしょうね…
でも、清原氏が安倍氏にかわって陸奥国を支配するには、
安倍氏との血のつながりが必要だったのです。
やがて彼女は、清原氏の子どもを出産します。
名を、清原家衡(きよはらのいえひら)といいます。
安倍氏と清原氏の血をひく男の子です。
とはいえ、清原氏を継ぐのは、
清原真衡(きよはらのさねひら)という人物に決まっていました。
みんなヒラヒラしていてややこしいので(笑)、ここで系図を確認しておきましょう。
清原真衡・清衡・家衡の関係、整理できましたか?
では、話を続けましょう。
清原氏の跡継ぎである清原真衡は、なかなか偉そうなヤツだったようです。
あるときモメゴトが起こり、清原清衡と清原家衡は、清原真衡を討とうとします。
1083年、後三年合戦の始まりです。
しかし、清原真衡に圧倒され、2人は戦うことなく逃げ帰ってしまいます。
その後、清原清衡と清原家衡が、再び清原真衡を討とうとした矢先、
清原真衡が病気で急死してしまいます。
このときの陸奥守は、源頼義の息子である源義家(みなもとのよしいえ)です。
源義家は、清原真衡の土地を、清原清衡と清原家衡の2人で半分こするよう命じます。
ところが、清原家衡はこの命令に不満があったようで、
清原清衡の屋敷を襲撃し、奥さんや子どもを皆殺しにしてしまいます!
ちょ…一緒に清原真衡を討とうとした兄弟なのに!ひどいよ家衡!!
清原清衡は命からがらなんとか逃げのび、源義家に助けを求めます。
源義家としても、自分の命令に刃向かった清原家衡を許すわけにはいかないので、
清原清衡に協力します。
結果、清原清衡と源義家の連合軍が、清原家衡を破り、後三年合戦は終結します。
* * *
さて、この後三年合戦。
朝廷は、源義家に清原家衡を討てとの命令は出していません。
だって、清原氏の内部で起きた相続争いですもんね、
別に清原家衡が朝廷に対して反乱を起こしたわけじゃないですもんね。
陸奥守の源義家が、勝手に清原氏のモメゴトに首を突っ込んだだけの話です。
よって朝廷は、後三年合戦を源義家の私戦(しせん)と見なします。
もちろん、源義家に恩賞も出しません。
てゆーかですよ、そもそも後三年合戦の間、
源義家は朝廷への税を滞納し、それを戦争の費用や食料にまわしていたようなのです。
源義家は陸奥守を解任され、ながらく出世コースから外れてしまいます。
まぁ…しゃーないことですわな。
でもね、実際に東北地方で大きな戦争があったんですよ!
源義家のもとに、関東からたくさんの兵士が集まってくれたんですよ!!
源義家としては、「朝廷から恩賞が出ないので、君たちの給料は払えません」では済ませられないんですよ!!!
そこで源義家は、一緒に戦ってくれた兵士たちに、自分の財布から給料を支払います。
こうするしか方法がありませんもんね…
するとですよ…
兵士たちは感動するわけです!
「義家さん、自分も貧乏なのに俺たちのために…超カッケー!」となるのです!!
またまたマワシ姿ですんません(笑)
このイラストで、源義家は兵士たちに私財で給料を支払い、すってんてんになってしまったんだと覚えてください(笑)
源義家の男気(おとこぎ)にふれた兵士たちは、フィーバーします。
これによって、源氏の名はすっかり関東に知れ渡ることになるのです。
源義家が鎌倉幕府の基盤をつくった、と言っても過言ではないのです。
* * *
ちなみに、東北地方はというと、
後三年合戦ののち、清原清衡は清原氏の土地をすべて手に入れることになります。
そして彼は、本当のお父さんの姓に戻し、藤原清衡と名乗るようになります。
そう、彼こそが、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代になるのです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
2回連続マワシなゴロ合わせですんません…
次回は、時間をちょっと巻き戻して、末法元年(まっぽうがんねん)を取り上げます。
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前九年合戦とは、
1051年に陸奥国(むつのくに)の安倍氏(あべし)が陸奥守(むつのかみ)と衝突し、
その後、かわって陸奥守となった源頼義(みなもとのよりよし)が、
出羽国(でわのくに)の清原氏(きよはらし)の協力を得て、安倍氏を平定した、
という出来事でしたね。
前九年合戦で陸奥国の安倍氏が滅亡すると、出羽国の清原氏は、陸奥国にも勢力を広げます。
質のよい馬が育ち、砂金がたくさんとれる、
そんな豊かな東北地方一帯を、清原氏は支配することになるのです。
今日取り上げるのは、その清原氏のなかで起きる相続争いです。
後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)といいます。
では、詳しく見ていきましょう。
はじめ、前九年合戦で安倍氏を率いたのは誰だったか、覚えていますか?
答えは、陸奥国のリーダー安倍頼時(あべのよりとき)です。
その安倍頼時には、娘がいます。
彼女は、陸奥国の豪族である藤原氏と結婚し、
藤原清衡(ふじわらのきよひら)という息子をもうけます。
しかし、前九年合戦で彼女の実家にあたる安倍氏は滅亡し、
さらに、旦那さんである藤原氏も処刑されてしまいます。
その後、彼女は幼い息子をともなって、清原氏と再婚します。
息子は清原氏の養子となり、清原清衡(きよはらのきよひら)と名乗ります。
彼女にとって、父や兄、そして夫の敵(かたき)との再婚は、
とてもツラいことだったでしょうね…
でも、清原氏が安倍氏にかわって陸奥国を支配するには、
安倍氏との血のつながりが必要だったのです。
やがて彼女は、清原氏の子どもを出産します。
名を、清原家衡(きよはらのいえひら)といいます。
安倍氏と清原氏の血をひく男の子です。
とはいえ、清原氏を継ぐのは、
清原真衡(きよはらのさねひら)という人物に決まっていました。
みんなヒラヒラしていてややこしいので(笑)、ここで系図を確認しておきましょう。
清原真衡・清衡・家衡の関係、整理できましたか?
では、話を続けましょう。
清原氏の跡継ぎである清原真衡は、なかなか偉そうなヤツだったようです。
あるときモメゴトが起こり、清原清衡と清原家衡は、清原真衡を討とうとします。
1083年、後三年合戦の始まりです。
しかし、清原真衡に圧倒され、2人は戦うことなく逃げ帰ってしまいます。
その後、清原清衡と清原家衡が、再び清原真衡を討とうとした矢先、
清原真衡が病気で急死してしまいます。
このときの陸奥守は、源頼義の息子である源義家(みなもとのよしいえ)です。
源義家は、清原真衡の土地を、清原清衡と清原家衡の2人で半分こするよう命じます。
ところが、清原家衡はこの命令に不満があったようで、
清原清衡の屋敷を襲撃し、奥さんや子どもを皆殺しにしてしまいます!
ちょ…一緒に清原真衡を討とうとした兄弟なのに!ひどいよ家衡!!
清原清衡は命からがらなんとか逃げのび、源義家に助けを求めます。
源義家としても、自分の命令に刃向かった清原家衡を許すわけにはいかないので、
清原清衡に協力します。
結果、清原清衡と源義家の連合軍が、清原家衡を破り、後三年合戦は終結します。
* * *
さて、この後三年合戦。
朝廷は、源義家に清原家衡を討てとの命令は出していません。
だって、清原氏の内部で起きた相続争いですもんね、
別に清原家衡が朝廷に対して反乱を起こしたわけじゃないですもんね。
陸奥守の源義家が、勝手に清原氏のモメゴトに首を突っ込んだだけの話です。
よって朝廷は、後三年合戦を源義家の私戦(しせん)と見なします。
もちろん、源義家に恩賞も出しません。
てゆーかですよ、そもそも後三年合戦の間、
源義家は朝廷への税を滞納し、それを戦争の費用や食料にまわしていたようなのです。
源義家は陸奥守を解任され、ながらく出世コースから外れてしまいます。
まぁ…しゃーないことですわな。
でもね、実際に東北地方で大きな戦争があったんですよ!
源義家のもとに、関東からたくさんの兵士が集まってくれたんですよ!!
源義家としては、「朝廷から恩賞が出ないので、君たちの給料は払えません」では済ませられないんですよ!!!
そこで源義家は、一緒に戦ってくれた兵士たちに、自分の財布から給料を支払います。
こうするしか方法がありませんもんね…
するとですよ…
兵士たちは感動するわけです!
「義家さん、自分も貧乏なのに俺たちのために…超カッケー!」となるのです!!
またまたマワシ姿ですんません(笑)
このイラストで、源義家は兵士たちに私財で給料を支払い、すってんてんになってしまったんだと覚えてください(笑)
源義家の男気(おとこぎ)にふれた兵士たちは、フィーバーします。
これによって、源氏の名はすっかり関東に知れ渡ることになるのです。
源義家が鎌倉幕府の基盤をつくった、と言っても過言ではないのです。
* * *
ちなみに、東北地方はというと、
後三年合戦ののち、清原清衡は清原氏の土地をすべて手に入れることになります。
そして彼は、本当のお父さんの姓に戻し、藤原清衡と名乗るようになります。
そう、彼こそが、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代になるのです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
2回連続マワシなゴロ合わせですんません…
次回は、時間をちょっと巻き戻して、末法元年(まっぽうがんねん)を取り上げます。
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