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平安時代(5) [まとめプリント]

今日見ていくのは、平安時代(4)の続きにあたる、平安時代5枚目のまとめプリントです。
3回にわたって藤原北家(ふじわらほっけ)による政治をとりあげます。



藤原北家の祖って、誰でしたか?
答えは、藤原房前(ふじわらのふささき)です。

藤原房前にはじまる藤原北家は、
9世紀ごろから勢力を拡大させ、11世紀ごろに最盛期を迎えます。
その手法は、
 ・他氏排斥(たしはいせき、他の有力な貴族を退けること)
 ・外戚関係(がいせきかんけい、娘を天皇の奥さんとし、その娘が生んだ子を天皇にすること)
の2つです。

では、藤原北家のリーダーたちを、順番に見ていきましょう。

平安5.jpg

①藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)

810年、嵯峨天皇から蔵人頭(くろうどのとう)に任命されます。
その後、薬子の変(平城太上天皇の変)が起こり、
藤原式家の兄妹、藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(ふじわらのくすこ)がこの世を去ります。
この事件をきっかけに、藤原式家は没落し、かわって藤原北家が台頭するようになるのです。
ただし、同じ藤原氏なので、これを他氏排斥と呼ぶかどうかは微妙なところです…

②藤原良房(ふじわらのよしふさ)-藤原冬嗣の子ども

妹の藤原順子(ふじわらのじゅんし、または、ふじわらののぶこ)を仁明天皇(にんみょうてんのう)と結婚させ、
天皇家と姻戚関係(いんせきかんけい)を結びます。
2人の間に生まれた道康親王(みちやすしんのう)を皇太子にするべく、
842年に承和の変を起こします。
これにより、伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)は流罪(るざい)となります。
その後、娘の藤原明子(ふじわらのあきらけいこ、または、ふじわらのめいし)を道康親王と結婚させ、
2人の間に生まれた子を清和天皇(せいわてんのう)とします。
外戚関係の成立です!
866-1.jpg
藤原良房は、清和天皇の外祖父(がいそふ)という立場を利用し、
臣下(しんか)ではじめて実質的な摂政となり、政務をとります。
866年には謎だらけの応天門の変が起こり、
伴善男(とものよしお)や紀豊城(きのとよき)などを流罪とし、
自らは正式に摂政に就任します。

③藤原基経(ふじわらのもとつね)-藤原良房の養子
884年、なかなかご高齢の光孝天皇(こうこうてんのう)が即位し、関白に任命されます。
884-2.jpg
光孝天皇の死後、息子の宇多天皇が即位しますが、
その際、阿衡の紛議(阿衡事件)が起こります。
宇多天皇は、藤原基経の要求通りに勅書を撤回し、橘広相(たちばなのひろみ)は処罰されます。
この事件によって、関白の政治的地位が確立し、藤原北家の勢力が急速に強大化してゆくのです。

藤原冬嗣・藤原良房・藤原基経、まずはこの3人を整理しておいてください。

平安5-1.jpg

最後に解答を載せておきましょう。

平安5解答.jpg

次回も引き続き、摂関政治をとりあげます。



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