平安時代(6) [まとめプリント]
前回に引き続き、藤原北家(ふじわらほっけ)による政治をまとめていきます。
平安時代(5)では、
①藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
②藤原良房(ふじわらのよしふさ)
③藤原基経(ふじわらのもとつね)
の3人を順番に取り上げましたので、その続きを見ていきましょう!

④藤原時平(ふじわらのときひら)-藤原基経の子ども
藤原基経の死後、宇多天皇(うだてんのう)はまだ若い藤原時平を関白(かんぱく)に任命せず、
寛平の治(かんぴょうのち)と呼ばれる親政(しんせい)を開始します。
親政とは、摂政(せっしょう)・関白をおかず、天皇自らが政治をおこなうことで、
天皇親政(てんのうしんせい)とも呼びます。
このころ宇多天皇が重用したのは、学者の菅原道真(すがわらのみちざね)です。
894年、宇多天皇は彼を遣唐大使(けんとうたいし、遣唐使のリーダー)に任命します。
しかし、菅原道真は、唐の衰退や航海の危険などを理由に、遣唐使の派遣の取りやめを建議し、
宇多天皇は遣唐使の派遣を停止することとします。
その後、宇多天皇は、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位します。
このとき、左大臣には藤原時平が、右大臣には菅原道真が任命されます。
やがて、菅原道真について、黒いウワサが流れるようになります。
菅原道真は、娘の旦那さんである斉世親王(ときよしんのう)を天皇にしようといている、というのです。
このウワサを信じた若い醍醐天皇は、
901年に菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)に左遷(させん)します。
2年後、菅原道真は大宰府で亡くなります。
すると、ほどなく藤原時平がこの世を去り、
ほかにも醍醐天皇のまわりでバタバタと人が亡くなるのです!
さらに、朝廷に雷が落ちて、たくさんの死傷者が出てしまうのです!!
コッワー!!!
よって、人々は菅原道真を怨霊(おんりょう)として恐れ、
京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう、明治時代から一時期、北野神社と改称)や、
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)にお祀(まつ)りし、彼の祟(たた)りを鎮(しず)めようとします。
いまでは学問の神さまとして広く信仰されているので、
受験前にお参りに行こうと考えている人もいるかもしれませんね。
さて、醍醐天皇はというと、延喜の治という親政をおこないます。
902年には久しぶりに班田を実施し、
延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)も出して、律令体制の復興をめざします。
しかし、時すでに遅し…
浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などの横行もあって、
結果としてこれが最後の班田となってしまいます。
三善清行(みよしのきよゆき)が「意見封事十二箇条」(いけんふうじじゅうにかじょう)を提出したのは、
このころのことです。
⑤藤原忠平(ふじわらのただひら)-藤原時平の弟
醍醐天皇にかわって、8歳の朱雀天皇(すざくてんのう)が即位し、
藤原忠平は摂政に任命されます。
このころ起きたのが、平将門の乱と藤原純友の乱、
まとめて承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)です。
藤原忠平は、朱雀天皇の成人にともない関白となり、
かわって即位した村上天皇(むらかみてんのう)を、引き続き関白として補佐してゆきます。
ただし、藤原忠平の死後、村上天皇は、天暦の治(てんりゃくのち)という親政を開始します。
ここでは、本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、または、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の最後である
乾元大宝(けんげんたいほう)の鋳造を覚えておきましょう。

なお、醍醐天皇の延喜の治、村上天皇の天暦の治は、のちのち理想とされ、
まとめて「延喜・天暦の治」(えんぎ・てんりゃくのち)と呼ばれます。
⑥藤原実頼(ふじわらのさねより)-藤原忠平の子ども
村上天皇にかわって即位した冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、
精神的な病をかかえていたようで、藤原実頼を関白に任命します。
ここで、最後の他氏排斥事件である安和の変が起こるのです。
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)は、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を天皇にしようとしている、
と源満仲(みなもとのみつなか)という人物がリークし、
源高明は大宰権帥に左遷されてしまうのです。
これにて藤原北家による他氏排斥は完了し、
以降、藤原忠平の子孫が摂政・関白に就任することがきまりとなります。
では、藤原時平・藤原忠平・藤原実頼、この3人をまとめておきましょう。

最後に、プリントの右側にある、東アジアの様子を見ておきましょう。
このあたりは1019年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらもご覧ください。
まずは中国です。
907年に唐が滅亡し、五代十国時代(ごだいじっこくじだい)に突入します。
これを960年に統一するのが、宋(北宋)です。
ただし、日本は宋と正式な国交をひらいていません。
といっても、博多に宋の商人がたびたびやってきて、さかんに私貿易(しぼうえき)がおこなわれていたようです。
朝鮮半島はというと、
918年におこった高麗(こうらい)が、936年に朝鮮半島を統一します。
その北方では、日本と古くから交流のあった渤海(ぼっかい)という国が、
遼(りょう)、または、契丹(きったん)という国に滅ぼされています。
それでは、解答を載せて終わりにしましょう。

次回は、いよいよ藤原北家の全盛期、
藤原道長(ふじわらのみちなが)と藤原頼通(ふじわらのよりみち)の時代をまとめていきます。

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平安時代(5)では、
①藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
②藤原良房(ふじわらのよしふさ)
③藤原基経(ふじわらのもとつね)
の3人を順番に取り上げましたので、その続きを見ていきましょう!

④藤原時平(ふじわらのときひら)-藤原基経の子ども
藤原基経の死後、宇多天皇(うだてんのう)はまだ若い藤原時平を関白(かんぱく)に任命せず、
寛平の治(かんぴょうのち)と呼ばれる親政(しんせい)を開始します。
親政とは、摂政(せっしょう)・関白をおかず、天皇自らが政治をおこなうことで、
天皇親政(てんのうしんせい)とも呼びます。
このころ宇多天皇が重用したのは、学者の菅原道真(すがわらのみちざね)です。
894年、宇多天皇は彼を遣唐大使(けんとうたいし、遣唐使のリーダー)に任命します。
しかし、菅原道真は、唐の衰退や航海の危険などを理由に、遣唐使の派遣の取りやめを建議し、
宇多天皇は遣唐使の派遣を停止することとします。
その後、宇多天皇は、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位します。
このとき、左大臣には藤原時平が、右大臣には菅原道真が任命されます。
やがて、菅原道真について、黒いウワサが流れるようになります。
菅原道真は、娘の旦那さんである斉世親王(ときよしんのう)を天皇にしようといている、というのです。
このウワサを信じた若い醍醐天皇は、
901年に菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)に左遷(させん)します。
2年後、菅原道真は大宰府で亡くなります。
すると、ほどなく藤原時平がこの世を去り、
ほかにも醍醐天皇のまわりでバタバタと人が亡くなるのです!
さらに、朝廷に雷が落ちて、たくさんの死傷者が出てしまうのです!!
コッワー!!!
よって、人々は菅原道真を怨霊(おんりょう)として恐れ、
京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう、明治時代から一時期、北野神社と改称)や、
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)にお祀(まつ)りし、彼の祟(たた)りを鎮(しず)めようとします。
いまでは学問の神さまとして広く信仰されているので、
受験前にお参りに行こうと考えている人もいるかもしれませんね。
さて、醍醐天皇はというと、延喜の治という親政をおこないます。
902年には久しぶりに班田を実施し、
延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)も出して、律令体制の復興をめざします。
しかし、時すでに遅し…
浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などの横行もあって、
結果としてこれが最後の班田となってしまいます。
三善清行(みよしのきよゆき)が「意見封事十二箇条」(いけんふうじじゅうにかじょう)を提出したのは、
このころのことです。
⑤藤原忠平(ふじわらのただひら)-藤原時平の弟
醍醐天皇にかわって、8歳の朱雀天皇(すざくてんのう)が即位し、
藤原忠平は摂政に任命されます。
このころ起きたのが、平将門の乱と藤原純友の乱、
まとめて承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)です。
藤原忠平は、朱雀天皇の成人にともない関白となり、
かわって即位した村上天皇(むらかみてんのう)を、引き続き関白として補佐してゆきます。
ただし、藤原忠平の死後、村上天皇は、天暦の治(てんりゃくのち)という親政を開始します。
ここでは、本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、または、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の最後である
乾元大宝(けんげんたいほう)の鋳造を覚えておきましょう。

なお、醍醐天皇の延喜の治、村上天皇の天暦の治は、のちのち理想とされ、
まとめて「延喜・天暦の治」(えんぎ・てんりゃくのち)と呼ばれます。
⑥藤原実頼(ふじわらのさねより)-藤原忠平の子ども
村上天皇にかわって即位した冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、
精神的な病をかかえていたようで、藤原実頼を関白に任命します。
ここで、最後の他氏排斥事件である安和の変が起こるのです。
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)は、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を天皇にしようとしている、
と源満仲(みなもとのみつなか)という人物がリークし、
源高明は大宰権帥に左遷されてしまうのです。
これにて藤原北家による他氏排斥は完了し、
以降、藤原忠平の子孫が摂政・関白に就任することがきまりとなります。
では、藤原時平・藤原忠平・藤原実頼、この3人をまとめておきましょう。

最後に、プリントの右側にある、東アジアの様子を見ておきましょう。
このあたりは1019年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらもご覧ください。
まずは中国です。
907年に唐が滅亡し、五代十国時代(ごだいじっこくじだい)に突入します。
これを960年に統一するのが、宋(北宋)です。
ただし、日本は宋と正式な国交をひらいていません。
といっても、博多に宋の商人がたびたびやってきて、さかんに私貿易(しぼうえき)がおこなわれていたようです。
朝鮮半島はというと、
918年におこった高麗(こうらい)が、936年に朝鮮半島を統一します。
その北方では、日本と古くから交流のあった渤海(ぼっかい)という国が、
遼(りょう)、または、契丹(きったん)という国に滅ぼされています。
それでは、解答を載せて終わりにしましょう。

次回は、いよいよ藤原北家の全盛期、
藤原道長(ふじわらのみちなが)と藤原頼通(ふじわらのよりみち)の時代をまとめていきます。

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すごくわかりやすい、かつ、絵が可愛く面白くて超ためになってます!ありがとうございます。日本史好きになれそう、、!!
by 絶賛試験前日の高校2年生 (2022-07-05 21:19)
絶賛試験前日の高校2年生様
たいへんななかコメント書いて頂きありがとうございます!
明日の試験、無事に乗り切ってください!!
応援しています☆
by 春之助 (2022-07-05 22:18)