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1069年 延久の荘園整理令を出す [年号のゴロ合わせ]

私事ですが、先日第2子を出産しました。
ただでさえのろのろ更新のブログですが、さらに更新が滞るかもしれません…
申し訳ありませんが、何卒ご了承くださいませ。

*   *   *

今日は、1069年に後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が発令した、
延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を、ゴロ合わせとともに紹介します。

まずは、後三条天皇の外戚(がいせき)が誰なのか、系図で確認してみましょう。

1069-1.jpg

外戚とは、お母さん側のおじいちゃんのことでしたよね。
後三条天皇のお母さんは禎子内親王(ていしないしんのう)で、
彼女のお父さんは三条天皇ですので、
後三条天皇の外戚は三条天皇となります。

そうなんです!
後三条天皇の外戚は、藤原北家(ふじわらほっけ)ではないのです!!
摂関家(せっかんけ)と外戚関係にないのです!!!

といっても、禎子内親王のお母さんは、
藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)です。
後三条天皇は、摂関家と血のつながりがあるのです。
しかし、外戚関係ではありませんし、
なにより禎子内親王は、藤原北家とあまり仲がよろしくなかったようです。

摂関家を外戚としない天皇の即位は、
宇多天皇以来、なんと約170年ぶりのことです。
後三条天皇は、一体どのような経緯で即位することになったのでしょうか。

*   *   *

後三条天皇の前の天皇は、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
後冷泉天皇が即位するとき、まだ子どもがいなかったので、
弟である尊仁親王(たかひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)と定められます。

その後、藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、
一人娘の藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を後冷泉天皇と結婚させます。

2人の間に子どもが生まれれば、すぐさま尊仁親王を皇太弟の座から引きずりおろし、
その子ども(藤原頼通にとっては孫)を皇太子、そしてゆくゆくは天皇とし、
自らは天皇の外戚として絶大な権力を手に入れる…という計画のための政略結婚です。
そして、この計画が実現するものだと信じて疑わない藤原頼通は、
邪魔でしかない皇太弟を冷遇します。

ところが…

後冷泉天皇は、藤原寛子との間に子どもをもうけることなくこの世を去ってしまうのです。
父である藤原道長のように、藤原頼通は天皇と外戚関係を築くことができなかったのです。

結果、皇太弟の尊仁親王が即位します。
そう、藤原頼通に冷遇されてきた彼こそが、後三条天皇なのです!

こうして摂関家を外戚としない後三条天皇が誕生し、
彼は摂関家に遠慮することなく(冷遇されてきたんだしね!)、さまざまな改革に乗り出すのです。

藤原北家の栄華は、ここに終わりをつげることになるのです。



後三条天皇は、さっそく大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者を登用し、
親政(しんせい)を開始します。
そして1069年、延久元年(えんきゅうがんねん)に、荘園整理令を発令するのです。
これを、延久の荘園整理令と呼びます。

まずは、史料で見てみましょう。

コノ〔1   〕位(くらい)ノ御時(おんとき)、(中略)〔2   〕ノ〔3   〕(〔4   〕のこと)トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨(せんじ、官の命令を伝える文書のこと)・官符(かんぷ、太政官からくだす文書のこと)モナクテ公田(くでん)ヲカスムル(横領すること)事、一天四海(全世界のこと)ノ巨害(こがい)ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(うじどの、〔5   〕のこと)ノ時、一ノ所(いちのところ、摂関家のこと)ノ御領(ごりょう、摂関家領のこと)御領トノミ云(いい)テ、庄園諸国ニミチテ〔6   〕ノツトメタヘガタシナド云(いう)ヲ、キコシメシモチタリケル(聞き入れ、用いられたということ)ニコソ。(以下略)
(出典:慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…後三条
 2…延久
 3…記録所(きろくしょ)
 4…記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)
 5…藤原頼通(宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てたため、宇治殿と呼ばれる)
 6…受領(ずりょう)

大学入試では、この空欄にあてはまる語句を問うパターンと、
「宇治殿」から藤原頼通について問うパターンが非常に多いです。
しっかりと押さえておきましょう!

この史料を簡単に訳すと、

後三条天皇の時代、はじめて延久の記録所が設置されたのは、
全国の荘園が、宣旨や官符で認められたわけでもないのに公田を横領しているのは大いなる害であること、
また、藤原頼通の時に、「摂関家領だ!摂関家領だ!!」と言って諸国に荘園があふれ、
受領の任務が果たせないなどという不満の声があがっていることを、
後三条天皇が聞き入れられたからであろう。

となります。

つまり後三条天皇は、荘園の増加が公領(こうりょう、国衙領(こくがりょう)のこと)を圧迫していると考え、
延久の荘園整理令を発令したのです。

902年に発令された延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)をはじめ、
これまでも何度か荘園整理令は出されています。
しかし、いずれも券契(けんけい)と呼ばれる荘園の証拠書類の審査を国司に任せていたため、
不徹底に終わっています。

そこで後三条天皇は、中央にある太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)に
記録荘園券契所(記録所)を設置し、
ここで、荘園の所有者が提出する券契と国司の報告とをあわせて厳密に審査し、
年代の新しいもの(1045年以降につくられた新しい荘園、なぜ1045年なのかは平安時代(10)のプリント参照)や、
書類不備のものなど、
基準にあわない荘園を停止したのです。

1069-2.jpg

しかも、摂関家や大寺社の荘園も例外とせず、
たとえば京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という大きな神社の荘園は、
34か所のうち13か所の権利が停止されたと伝わっています。

延久の荘園整理令はかなりの成果をあげ、
これにより、
・ 貴族や寺社の支配する荘園
・ 国司の支配する公領(国衙領)
両者の区別が明確になります。

そして、荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立することになるのですが、
これはまたのちのち、まとめプリントでお話ししたいと思います。

*   *   *

後三条天皇は、このほか1072年に宣旨枡(せんじます)を制定し、
枡の大きさを統一しています。
これは、太閤検地(たいこうけんち)で京枡(きょうます)という新たなものがつくられるまで、
公定の枡として使用されることになります。

といっても、荘園ではいろんな枡が使われていたようですが…

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1069年.jpg

永久(えいきゅう)に…というゴロ合わせですが、
延久(えんきゅう)の荘園整理令ですのでね!
間違えて覚えないでくださいね!!



次回は、院政のゴロ合わせを見ていきます。

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