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1156年 保元の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、保元元年(ほうげんがんねん)、西暦1156年に起きた
保元の乱(ほうげんのらん)を取り上げます。

保元の乱とは、
兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に、
兄・藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立が重なり、
それぞれに武士である平氏・源氏が加わって大規模な武力衝突に発展してしまった、
壮絶な兄弟ゲンカです。

最初に、対立関係を表にまとめておきましょう。

1156-1.jpg

う~ん、登場人物が多くてすでにややこしいですね…
なので、今回は天皇家の対立に焦点をしぼって、保元の乱を見ることにしましょう。
崇徳上皇と後白河天皇、この2人の対立の原点は、
どうやら彼らのお父さんである鳥羽天皇(とばてんのう)にあるようです。



鳥羽天皇は、1107年にお父さんである堀河天皇(ほりかわてんのう)の死去にともない即位します。
このときわずか5歳。
よって、おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう、1096年ごろ出家)が院政(いんせい)をおこないます。

それから16年後、鳥羽天皇は息子に天皇の位を譲ります。
即位した崇徳天皇(すとくてんのう)は、これまた5歳。
もちろん院政が敷かれます。
院政をおこなったのは、崇徳天皇のお父さんである鳥羽上皇(とばじょうこう)ではなく、
これまた白河法皇です。
崇徳天皇にとっては、ひいおじいちゃんにあたる人物です。

こんな風に白河法皇がずぅぅーーーっと君臨し続けるので、
鳥羽上皇は、天皇としても、上皇としても、まったく権力を握れない日々を送ります。
ちょっとじいさん!いい加減 引退してくれよ!!って感じですよね。

といっても、じいさんの時代がいつまでも続くわけではありません。
1129年、白河法皇は77歳でこの世を去るのです。

さぁ!
ついに鳥羽上皇が権力を握る日がやって来ましたよ!!

てなわけで、鳥羽上皇はさっそく院政を敷き、白河法皇の側近たちを次々と排除します。
そして、1141年には崇徳天皇に譲位を迫り、息子の近衛天皇(このえてんのう)を即位させます。
近衛天皇は、このとき3歳。
院政をおこなうのは、もちろん近衛天皇のお父さんである鳥羽上皇です。

ところが…
1155年、近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます…

次に即位したのは、近衛天皇のお兄ちゃんにあたる後白河天皇です。
鳥羽法皇(とばほうおう、1142年に出家して法皇となる)としては、
孫(後白河天皇の息子、のちの二条天皇(にじょうてんのう))を天皇にしたかったのですが、
さすがに天皇になったことのないお父さんを差し置いて即位しちゃいかんだろ…ということで、
急遽、即位することになったのです。
そんな後白河天皇は、このとき29歳。
かなりイイトシなのですが、鳥羽法皇は院政を継続します。

うーん、なんだか人間関係がややこしくなってきたので、
ここでちょっと系図を確認するとしましょう。

1156-1-2.jpg

崇徳上皇・近衛天皇・後白河天皇は、みーんな鳥羽法皇の息子とゆーことですよ。
いや~、ややこしいですね~…

ここまでの流れは理解できましたか?
では、続きを見ていきましょう。

*   *   *

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなります。

この直前、息子である崇徳上皇は、鳥羽法皇のお見舞いに出かけます。
ところが、お父さんに面会を拒否されてしまうのです!
しかも、「私が死んでも崇徳上皇に遺体は見せるな」という遺言つき!!

なにそれ!
ちょっとヒドくないですか!!

実は、鳥羽法皇と崇徳上皇の関係は、かなり前からギスギスしていたのです。
ここで、崇徳上皇が天皇の位を譲ったときに話を戻してみましょう。

*   *   *

崇徳天皇は、白河法皇の死後、鳥羽上皇から譲位を迫られ、
かわって近衛天皇が即位したんでしたよね。

近衛天皇は崇徳上皇の弟ですが、崇徳上皇の奥さんの養子になっていたので、
ながらく「皇太子」のポジションにありました。
ところが実際、近衛天皇が即位したときには、
「皇太弟」のポジションから天皇になった、という風に変わっていたのです!
崇徳上皇の弟、つまり鳥羽上皇の息子として即位した、ということです。
結果、院政は天皇のお父さんである鳥羽上皇がおこなうこととなり、
天皇のお兄ちゃんである崇徳上皇は、権力を手にすることはできませんでした。

その後、近衛天皇は若くして亡くなったのでしたね。
次の天皇として有力視されたのは、崇徳上皇の息子でした。
もし彼が即位すれば、崇徳上皇は天皇のお父さんなので、院政をおこなえる可能性がでてきます。

ところが鳥羽法皇は、崇徳上皇の弟である後白河天皇を即位させたのでしたね。
さらに、後白河天皇の息子(のちの二条天皇)を皇太子にたて、
次の天皇とすることも決定しました。

鳥羽法皇によって、
崇徳上皇の息子が天皇になること、
そして崇徳上皇が院政をおこなう可能性は完全に絶たれてしまったのです。
そこに死の間際の面会拒否とあの遺言ですよ。

いやぁ~…崇徳上皇マジでかわいそすぎます…
鳥羽法皇は、崇徳上皇のナニが気にいらないとゆーのでしょう!

1156-3.jpg

ここで1つ、なんとも怪しいウワサ話を紹介しましょう…
(以降、便宜上、「崇徳上皇」で名称を統一します)

崇徳上皇のお母さんは、
待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし、または、たいけんもんいんたまこ)といいます。
白河法皇に育てられた女性で、1117年に鳥羽天皇と結婚し、7人の子を産みます。
崇徳上皇は、その最初の子どもです。

ところが。
ところがですよ。

崇徳上皇のほんとうのお父さんは白河法皇である。

なんてゆーウワサがたつのです!
鳥羽天皇からすると、奥さんと、自分のおじいちゃんとの間にできた子です。
うぅぅぅーん、ちょっと相当キモいですよね…

1156-4.jpg

そんな息子に譲位した鳥羽上皇は、
やがて美福門院得子(びふくもんいんなりこ)という別の奥さんを愛するようになります。
そして、彼女が産んだカワイイ我が子を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫ったというわけです。

このウワサは、鎌倉時代に成立した『古事談(こじだん)』という本にしか載っていないので、
真偽のほどは分かりませんし、当時どれだけ広まったのかも分かりません。
でも、鳥羽法皇の崇徳上皇に対する態度を見ると、
「ウワサは本当なのかも…」と思ってしまいますね…

*   *   *

鳥羽法皇が亡くなったところに話を戻しましょう。

鳥羽法皇が亡くなり、なんかもういろいろショックを受けている崇徳上皇に、
さらなる追い打ちがかかります。

崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている。

というウワサが流れるのです。

藤原頼長とは、お兄ちゃんである関白の藤原忠通と対立している左大臣です。
(この兄弟の対立については、平安時代(16)のまとめプリントで詳しく述べる予定です)
またウワサかぃ!と突っ込みたくなりますが、ウワサほど怖いものはありません…
これにより、藤原頼長は財産を没収されてしまうのです。
もはや謀反人(むほんにん)扱いです。

このままでは自分も危ないと悟った崇徳上皇は、自宅を脱出します。
藤原頼長はそんな崇徳上皇と合流し、
ここに平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためよし)・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士が加わります。

こうした崇徳上皇側の動きに、後白河天皇と藤原忠通もすかさず
平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士を集めます。

そして1156年7月11日の未明、両勢力は激突するのです。
世にいう保元の乱です。

勝敗は、わずか数時間で決します。
勝利したのは、後白河天皇側です。

敗北した崇徳上皇は、投降のすえ讃岐国(さぬきのくに)に流罪となり、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。
なお、藤原頼長は戦いのさなかに命を落としています。

1156-5.png

ちなみに、
天皇・上皇の流罪は、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)以来(淳仁天皇が淡路島に流罪)、
死刑の執行は薬子の変(くすこのへん)以来(藤原仲成が処刑)のことです。

ここで、保元の乱についての史料を見ておきましょう。

保元元年(1156年)七月二日、〔1   〕院失セサセ給(たまひ)テ後、日本国ノ乱逆(〔2   〕のこと)ト云(いう)コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ
(出典:慈円(じえん)『〔3   〕』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…鳥羽(鳥羽法皇の死去→保元の乱の勃発、この順序を押さえておけば答えられますね)
 2…保元の乱
 3…愚管抄(ぐかんしょう、鎌倉文化で紹介する歴史書)

この史料のなかで重要なのは、「ムサノ世」という言葉です。
中央政界における争いを、武士の力で解決した保元の乱は、
貴族の無力さと武士の実力を世に広め、武士が政界に進出するきっかけを与えました。
つまり日本は、保元の乱によって武士が政権をとる「武者の世」となったのです。

*   *   *

余談ではありますが、最後に崇徳上皇の讃岐国での様子を見ておきましょう…

ところで、讃岐国ってどこか分かりますか?
讃岐と言えば…
そう!うどんで有名ですよね!!さぬきうどん!!!
「それでも分からん!」という人は、飛鳥時代(11)を復習してください。

讃岐国に流罪となった崇徳上皇は、仏教を深く信仰するようになり、
たくさんの写経(しゃきょう、お経を書写すること)をおこないます。
そして、保元の乱で亡くなった人々の供養(くよう)と、自身の反省の証にしてほしい…と、
それらをまとめて朝廷に送ります。

ところが!
ところがですよ!!

後白河天皇は、「これ、呪い(のろい)が込められてるんちゃうの!」とキモがり、
ぜんぶまとめて崇徳上皇のもとに送り返すよう命じるのです!!!

ちょ!
後白河!!

あかん!
それは絶対にあかん!!

でもホントに送り返しちゃったんですよねー…

もちろん崇徳上皇は怒り狂います。
その怒りはすさまじく、舌を噛み切り、その血でもって
「大魔王になって、天皇を没落させ、民をこの国の王にしてやる」
というような内容を、送り返されてきたお経に書いたほどだったとか。

その後、崇徳上皇は讃岐国で生涯を閉じるのですが、
亡くなるまで髪の毛や爪を伸ばし続けて天狗になった、とか、
崇徳上皇の遺体をいれた棺(ひつぎ)から血があふれ出した、とか、
なんとも怖いウワサが残っています。
やがて崇徳上皇は、怨霊(おんりょう)として人々からおそれられるようになるのです。

崇徳上皇の魂が京都に戻るのは、明治時代の直前のことです。
明治天皇が即位する際、京都に神社を建てて崇徳上皇を祀(まつ)ったのです。
平安時代末期に天皇が武士に政権を奪われたのは、崇徳上皇の呪いによるものだ、
という考えが幕末期まで続いていたのでしょう…
大政奉還によって政権が天皇(朝廷)に返上されたタイミングで、
崇徳上皇はようやく京都に帰ることができたのです。

なお、崇徳上皇は讃岐国で2人の子どもに恵まれた、
というほっこりエピソードも残っています。
幸せな面もあったんだね…ホントに良かった……(涙)

長くなりました。
最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1156年.jpg

キレていい、キレていいよね、崇徳上皇…

すみっこにいるマッスルキャラについては、平安時代(16)をご覧ください。



次回は、平治の乱(へいじのらん)をゴロ合わせとともにお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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新受験生

はじめまして!

分かりやすいイラストと丁寧な説明でいつも受験勉強に役立てています!なんなら学校の授業よりも分かりやすいです(笑)

これからも拝見させて頂きます(^_^*)
by 新受験生 (2019-03-15 21:48) 

春之助

新受験生さま

嬉しいコメント、ありがとうございます☆
育児真っ最中につき、なかなか更新できない状況にありますが、このブログが新受験生さまのお役に立つならば幸いです。
これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2019-03-17 14:14) 

おこめ

今年受験の者です…(>_<)
とってもわかりやすい説明、イラストなど本当にありがたいです!!ありがとうございます!まとめプリントなど印刷し、何度も反復して春之助さんが投稿して下さったところまで完璧にしました。お陰でこの範囲までは絶対にできる!と自信を持てるようになり、あまり好きではなかった日本史も鎌倉…室町…などと次へ次へ進められるようになりました。本当にありがとうございます!!
by おこめ (2019-04-03 02:33) 

春之助

おこめさま

嬉しいコメント、ありがとうございます★
教壇に立っていた時代と違って、このブログが一体どんな風にみなさんのお役に立てているのか分からない状況なのですが、まとめプリントも使っていただいているとのこと、とても嬉しく思います!!
毎日育児の合間をぬって、細々と書き進めてはいるのですが、なかなか更新できずにいます…これからもよろしくお願いします。
受験、頑張ってくださいね!!!

by 春之助 (2019-04-03 21:12) 

えりん

はじめまして!講師ですが、教壇に立って2年目です。
日本史をどう面白く伝えていこうかという模索の中、こちらのブログに辿り着きました。読んでいるうちに楽しくなる面白可笑しいイラストや内容で、とても学ばせて頂いています!
(私自身、絵心がないので、絵をうまくなりたいと強く思いました…!笑)

育児等でお忙しいとは思いますが、今後のブログ更新楽しみにしております。
by えりん (2019-04-17 18:04) 

春之助

えりん様

嬉しいコメント、ありがとうございます★
受験勉強に苦しむ子どもたちのちょっとした救いになれば…と思って始めたブログですが、教員の方々にも読んでいただけているとのこと、ありがたいです。
教壇に立って2年目ですか…いろいろと悩みが尽きませんよね…
このブログが、えりん様の授業作りにほんの少しでもお役に立てているなら幸いです。
ながらく更新が滞っている状態ですが、これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2019-04-23 22:49) 

reina

はじめまして!今年受験する者です
小学校の頃から日本史がものすごく好きで、今日本史選択で学校の授業プリントのまとめのためにこのブログを使わせてもらってますが、日本史ってここまで面白く伝えられるんだ!と感動しました!
得意教科なのになかなか目標点まで取れずに悩んだり、進路で迷ったりしてますが、これからも日本史を楽しく学んでいけたらなと思っています!これからもブログ楽しみにしています!あ、無理だけはなさらないでください…
by reina (2019-08-27 23:42) 

春之助

reina様

嬉しいコメント、ありがとうございます!
このブログが、日本史の面白さを少しでも伝えられているなら光栄です。
得意教科なのに点数につながらない…ありますよね、あるある。私もありました。もどかしいですよね…
心折れそうなときは、日本史のおもしろいところだけ見て「やっぱ好きだわ~!」って心をリセットしてください!
どうせ学ぶなら、楽しく学びたいですもんね☆
のろのろ更新で申し訳ありませんが、これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2019-09-06 22:56) 

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