1167年 平清盛が太政大臣になる [年号のゴロ合わせ]
今日は、平清盛(たいらのきよもり)について、
1167年に太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されたことを中心にお届けします。
では問題!
平氏って、誰の子孫でしょうか?
ハイ、答えは桓武天皇(かんむてんのう)です。
なので、桓武平氏(かんむへいし)というんでしたね!
忘れたわー…という方は、平安時代(13)を復習してください。
平氏の多くは関東地方を基盤とするのですが、
平貞盛(たいらのさだもり、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)で登場した人ですよ!)の子孫は、
伊勢国(いせのくに)に移り住みます。
この一族を、とくに伊勢平氏(いせへいし)と呼びます。
伊勢平氏の存在を世に知らしめたのは、平正盛(たいらのまさもり)です。
北面の武士(ほくめんのぶし、詳細は平安時代(15)で)として白河法皇(しらかわほうおう)につかえ、
また、12世紀のはじめに起きた源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定したのです。
その息子である平忠盛(たいらのただもり)も、白河法皇にかわいがられます。
瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐し、
白河法皇亡きあとも、鳥羽上皇(とばじょうこう)から重用されます。
さらに日宋貿易(にっそうぼうえき)にも着手し、莫大な富をたくわえます。
そんな平忠盛の長男として生まれたのが、平清盛です。
うーん、それにしても平氏はみんな名前がモリモリしててややこしいですねー…
平盛子(たいらのもりこ)って女性までいるぐらいですからねー…
とにもかくにも、
平正盛 ー 平忠盛 ー 平清盛
の順番ですよ。
まじモリモリですね。
* * *
平清盛は、保元の乱(ほうげんのらん)で後白河天皇(ごしらかわてんのう)サイドを勝利に導き、
さらに平治の乱(へいじのらん)でも大活躍し、もんのすごいスピードで力を伸ばしてゆきます。
しかも、奥さんである平時子(たいらのときこ)は、
二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)だというんだから、
ますます絶好調です!
(乳母については、1159年のゴロ合わせを参照してください)
それだけではありません。
平清盛は、後白河上皇の院庁(いんのちょう)にもつかえ、
奥さんの妹にあたる平滋子(たいらのしげこ)を後白河上皇と結婚させます。
さらに、蓮華王院(れんげおういん、院政期の文化で解説予定)という立派なお寺をつくって、
後白河上皇にプレゼントしちゃいます。
このころ、親政を志す二条天皇と、院政をおこなう後白河上皇は対立しているのですが、
平清盛は両方といい関係を築いてるわけですよ!
いや~…揺るぎないわ~…
そんな折、二条天皇が亡くなります。
かわって即位したのは、二条天皇の息子である六条天皇(ろくじょうてんのう)です。
このとき、まさかの生後7か月。
7か月ったらアナタ、1人でちゃんとおすわりもできない状態ですよ。
即位式なんて、途中で泣いちゃっておっぱい(もちろん乳母の)飲んだんだとか。
そりゃそーですよ、だって赤ちゃんだもん…
六条天皇の時代、皇太子に任命されたのは、
後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王(のりひとしんのう)です。
彼にとって平清盛は、お母さんのお姉ちゃんの旦那さんです。
ん?あぁ、一応オジサンだね、うん。
ということで、平清盛がお世話係を仰せつかることになります。
そんなこんなで平清盛はどんどん出世し、
1167年には太政大臣に任命されるにいたります。
このとき、彼は50歳です。
本来、太政大臣に任命されるのは、皇族か貴族だけなのですが、
平清盛は武士でありながらこれに就任しちゃったのです!
太政大臣に任命された武士は、日本史史上6名だけです。
そうなんです、平清盛が最初なんですよ!
「最初の」とか「最後の」ってのは重要なので、しっかり覚えておきましょう。
* * *
ところで、そもそも太政大臣ってナニか分かってますか?
ちょっとここで飛鳥時代(8)のプリントで律令制度(りつりょうせいど)を振り返ってみましょう。
このように、律令にはいろんな官職(かんしょく)が定められていますが、
なかでも一番エライのが太政大臣です。
ただし、ふさわしい人物がいないときは任命されない則闕の官(そっけつのかん)です。
(太政大臣不在のとき、一番エライのは左大臣です)
「ん?摂政とか関白が一番エライんじゃないの??」と疑問に思いましたか?
そうなんですよ、このへんややこしいんですよねー…
思い出してください、摂政も関白も令外官(りょうげのかん)です!
どちらも律令に定められていない官職です!!
だからこの律令の表には載っていないのです!!!
なのでねー、このころの太政大臣はただの名誉職になってしまっていて、
たいした権限はありません。
平清盛は、わずか3か月で辞職してしまいます。
とはいえ、皇族か貴族しか就任できなかったものに任命されたのですよ!
すごいことじゃないですか!!
考えられないことですよ!!!
ってなワケで、こんなウワサがあるのです。
平清盛は、白河法皇の子どもだ
ギャーーー!!
また出た白河法皇ーーーーー!!!
(なぜ鳥羽天皇が背後にいるのかは、1156年のゴロ合わせを復習してください)
実は、平清盛のお母さんが誰かというのは、明らかになっていません。
お父さんである平忠盛は、白河法皇に仕えた女性と結婚しているのですが、
彼女がお腹に白河法皇の子を宿していて、その子を平清盛として出産した…のかもしれません。
ウワサはウワサ。
ホントのところは分かりません。
ただ、このウワサは当時もそこそこ広まっていたようです。
白河法皇の子どもだから、平清盛は武士なのに太政大臣になれたんだ、的な感じでね。
そんなウワサがたっちゃうぐらい、考えられないような大出世を遂げたということです。
いや~…
それにしても白河法皇…
すごいわ…
それでは、今日のゴロ合わせ。
いやーん、平清盛ったらいい胸毛してますね☆
「ダイジョーブ?」から、ダイジョー大臣を思い出してくださいね!
次回は、1177年に起きた鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)をお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…
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1167年に太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されたことを中心にお届けします。
では問題!
平氏って、誰の子孫でしょうか?
ハイ、答えは桓武天皇(かんむてんのう)です。
なので、桓武平氏(かんむへいし)というんでしたね!
忘れたわー…という方は、平安時代(13)を復習してください。
平氏の多くは関東地方を基盤とするのですが、
平貞盛(たいらのさだもり、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)で登場した人ですよ!)の子孫は、
伊勢国(いせのくに)に移り住みます。
この一族を、とくに伊勢平氏(いせへいし)と呼びます。
伊勢平氏の存在を世に知らしめたのは、平正盛(たいらのまさもり)です。
北面の武士(ほくめんのぶし、詳細は平安時代(15)で)として白河法皇(しらかわほうおう)につかえ、
また、12世紀のはじめに起きた源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定したのです。
その息子である平忠盛(たいらのただもり)も、白河法皇にかわいがられます。
瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐し、
白河法皇亡きあとも、鳥羽上皇(とばじょうこう)から重用されます。
さらに日宋貿易(にっそうぼうえき)にも着手し、莫大な富をたくわえます。
そんな平忠盛の長男として生まれたのが、平清盛です。
うーん、それにしても平氏はみんな名前がモリモリしててややこしいですねー…
平盛子(たいらのもりこ)って女性までいるぐらいですからねー…
とにもかくにも、
平正盛 ー 平忠盛 ー 平清盛
の順番ですよ。
まじモリモリですね。
* * *
平清盛は、保元の乱(ほうげんのらん)で後白河天皇(ごしらかわてんのう)サイドを勝利に導き、
さらに平治の乱(へいじのらん)でも大活躍し、もんのすごいスピードで力を伸ばしてゆきます。
しかも、奥さんである平時子(たいらのときこ)は、
二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)だというんだから、
ますます絶好調です!
(乳母については、1159年のゴロ合わせを参照してください)
それだけではありません。
平清盛は、後白河上皇の院庁(いんのちょう)にもつかえ、
奥さんの妹にあたる平滋子(たいらのしげこ)を後白河上皇と結婚させます。
さらに、蓮華王院(れんげおういん、院政期の文化で解説予定)という立派なお寺をつくって、
後白河上皇にプレゼントしちゃいます。
このころ、親政を志す二条天皇と、院政をおこなう後白河上皇は対立しているのですが、
平清盛は両方といい関係を築いてるわけですよ!
いや~…揺るぎないわ~…
そんな折、二条天皇が亡くなります。
かわって即位したのは、二条天皇の息子である六条天皇(ろくじょうてんのう)です。
このとき、まさかの生後7か月。
7か月ったらアナタ、1人でちゃんとおすわりもできない状態ですよ。
即位式なんて、途中で泣いちゃっておっぱい(もちろん乳母の)飲んだんだとか。
そりゃそーですよ、だって赤ちゃんだもん…
六条天皇の時代、皇太子に任命されたのは、
後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王(のりひとしんのう)です。
彼にとって平清盛は、お母さんのお姉ちゃんの旦那さんです。
ん?あぁ、一応オジサンだね、うん。
ということで、平清盛がお世話係を仰せつかることになります。
そんなこんなで平清盛はどんどん出世し、
1167年には太政大臣に任命されるにいたります。
このとき、彼は50歳です。
本来、太政大臣に任命されるのは、皇族か貴族だけなのですが、
平清盛は武士でありながらこれに就任しちゃったのです!
太政大臣に任命された武士は、日本史史上6名だけです。
そうなんです、平清盛が最初なんですよ!
「最初の」とか「最後の」ってのは重要なので、しっかり覚えておきましょう。
* * *
ところで、そもそも太政大臣ってナニか分かってますか?
ちょっとここで飛鳥時代(8)のプリントで律令制度(りつりょうせいど)を振り返ってみましょう。
このように、律令にはいろんな官職(かんしょく)が定められていますが、
なかでも一番エライのが太政大臣です。
ただし、ふさわしい人物がいないときは任命されない則闕の官(そっけつのかん)です。
(太政大臣不在のとき、一番エライのは左大臣です)
「ん?摂政とか関白が一番エライんじゃないの??」と疑問に思いましたか?
そうなんですよ、このへんややこしいんですよねー…
思い出してください、摂政も関白も令外官(りょうげのかん)です!
どちらも律令に定められていない官職です!!
だからこの律令の表には載っていないのです!!!
なのでねー、このころの太政大臣はただの名誉職になってしまっていて、
たいした権限はありません。
平清盛は、わずか3か月で辞職してしまいます。
とはいえ、皇族か貴族しか就任できなかったものに任命されたのですよ!
すごいことじゃないですか!!
考えられないことですよ!!!
ってなワケで、こんなウワサがあるのです。
平清盛は、白河法皇の子どもだ
ギャーーー!!
また出た白河法皇ーーーーー!!!
(なぜ鳥羽天皇が背後にいるのかは、1156年のゴロ合わせを復習してください)
実は、平清盛のお母さんが誰かというのは、明らかになっていません。
お父さんである平忠盛は、白河法皇に仕えた女性と結婚しているのですが、
彼女がお腹に白河法皇の子を宿していて、その子を平清盛として出産した…のかもしれません。
ウワサはウワサ。
ホントのところは分かりません。
ただ、このウワサは当時もそこそこ広まっていたようです。
白河法皇の子どもだから、平清盛は武士なのに太政大臣になれたんだ、的な感じでね。
そんなウワサがたっちゃうぐらい、考えられないような大出世を遂げたということです。
いや~…
それにしても白河法皇…
すごいわ…
それでは、今日のゴロ合わせ。
いやーん、平清盛ったらいい胸毛してますね☆
「ダイジョーブ?」から、ダイジョー大臣を思い出してくださいね!
次回は、1177年に起きた鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)をお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…
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高2です!
平安時代が学校の授業では全然理解できず困っていたところでこのブログを見つけました!語呂合わせとさ小話とかで頭にも入ってきやすくて、何よりもプリントが感動するぐらいに分かりやすいです( ;__; )
今日が日本史のテストだったのですが、おかげさまで今までにないぐらいバッチリできました!!!!!
本当にありがとうございます!新しい投稿楽しみにしてます!
by り (2019-10-15 11:47)
り様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
テストお疲れさまでした★
り様のテスト勉強のお役に立てて光栄です!
のろのろ更新で、授業がブログを追い越してしまうとは思いますが、これからもよろしくお願いします(*^-^*)
by 春之助 (2019-10-23 23:11)