1177年 鹿ケ谷の陰謀が起こる [年号のゴロ合わせ]
今日は、鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)についてお届けします。
シシガタニ ノ インボウ…
一体それなんやねん!って突っ込みたくなりますよね。
鹿ヶ谷(ししがたに)というのは、京都の地名です。
現在も、銀閣寺(ぎんかくじ)のちょっと南のあたりで住所として使われています。
1177年、その鹿ケ谷にある山荘で、なにやら陰謀がくわだてられたようです!
詳しく見ていきましょう!!
前回は、1167年に平清盛(たいらのきよもり)が
太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に就任したことを紹介しましたが、
出世したのは平清盛だけではありません。
平氏の多くが高位高官(こういこうかん、高い位階と高い官職のこと)にのぼりつめたのです。
もうね、平氏の勢いハンパないのです!
そのハンパなさをあらわす史料を、ここで見ておきましょう。
六波羅殿(ろくはらどの、京都の六波羅に邸宅をかまえる〔1 〕のこと)の御一家の君達(きんだち、上流貴族の子弟のこと)といひてしかば、花族(かしょく)も英耀(えいゆう、英雄の誤り、花族と同じく摂家につぐ貴族の家格のこと)も面(おもて)をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国(にゅうどうしょうこく、〔1 〕のこと、入道は出家した人を指し、相国は太政大臣を指す)のこじうと(配偶者の兄弟のこと)平大納言(へいだいなごん)〔2 〕卿(きょう)ののたまひけるは、「此(この)一門にあらざらむ人は皆人非人(にんぴにん)なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構(あいかま)へて其(その)ゆかりにむすぼゝれむとぞしける。(中略)日本秋津嶋(あきつしま)は纔(わずか)に六十六箇国、平家知行(ちぎょう)の国卅余箇国(1180年には平氏の知行国が30国をこえる)、既(すで)に半国にこえたり。其外(そのほか)庄園田畠いくらといふ数を知(しら)ず。綺羅(きら、美しい服のこと)充満して、堂上(とうしょう)花の如(ごと)し。軒騎(けんき、車や馬のこと)群集して、門前市(もんぜんいち)をなす。揚州(ようしゅう)の金(こがね)、荊州(けいしゅう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しょっこう)の錦(にしき、揚州・荊州・呉郡・蜀江はいずれの中国の地名で、それぞれの物品の名産地を羅列)、七珍万宝(しっちんまんぽう、多種多様な宝物のこと)一(ひとつ)として闕(かけ)たる事なし。(後略)
空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
1…平清盛(六波羅殿・入道相国などと呼ばれる)
2…時忠(ときただ)
3…平家物語(へいけものがたり)
とっても有名なセリフが出てきましたね~!
下線部分、よく「平家にあらずんば人にあらず」って訳されますね。
「平氏じゃないヤツは人間じゃないのダ!」ってことです。
ちょっとひどくなーい?
ダレよ!?
こんなセリフ言っっちゃったの!
え?
平時忠??
平清盛じゃなくって?
んじゃアンタ誰??
って感じですよね。
そこで、前回登場した系図をもう一度見てみましょう。

あーーーー…
いるね!
いるいる!!
えーっと…
平清盛の…奥さんの…弟…だね、ウン。
いやぁ~…アンタがこのセリフ言っちゃう!?って感じですよね~。
でもですよ!
系図をよく見てください!!
お姉ちゃんの平時子(たいらのときこ)は、アノ平清盛の奥さんで、
妹の平滋子(たいらのしげこ)は、アノ後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の奥さんではないですか!
しかもですよ!
平滋子の産んだ憲仁親王(のりひとしんのう)は、
1168年に即位して高倉天皇(たかくらてんのう)となるのです!!
さらにですよ!
その高倉天皇と結婚したのは、平時子の産んだ平徳子(たいらのとくこ)なのです!!

あんたの周り、すごい人だらけじゃん!
そりゃ「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうわけだ!!
とにもかくにも、そんなセリフを生み出してしまうほど、平氏の勢いはものすごかったのです。
こののち、もしも高倉天皇と平徳子の間に子どもが生まれて即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれちゃうわけですからね!
これを快く思わないのが、後白河法皇とその側近たちです。
1176年に、平清盛と後白河法皇の間を取り持ってきた平滋子がこの世を去ることで、
両者の関係はどんどん悪化してゆきます。
後白河法皇の周辺からは、
まるで藤原氏のようなやり方で勢力を伸ばす平氏に対する不満の声が、
ちらほら聞こえるようになります。
そんなときに起こるのが、鹿ケ谷の陰謀なのです。
* * *
1177年のある日、
鹿ケ谷にある俊寛(しゅんかん)というお坊さんの山荘(別の人物の山荘という説もアリ)で、
後白河法皇が院近臣(いんのきんしん)たちと飲み会をしておりました。
院近臣とは、院政をおこなう上皇(法皇)の側近のことで、
俊寛もその1人です。
いい感じにお酒もまわっていたのでしょうか、
飲み会メンバーの1人である藤原成親(ふじわらのなりちか)は、
立ち上がったときにうっかり瓶子(へいし、お酒を入れる壺のこと)を倒してしまいます。
それを見た後白河法皇が「あれはいかに」と尋ねると、
藤原成親は「ヘイシが倒れましたー!」と答えます。
瓶子と平氏をかけたわけですね!
まさかのオヤジギャグ!!
次に、俊寛が「それをどうするのー?」とあおると、
西光(さいこう)というお坊さんが、
「クビをとるっきゃないでしょー!」と瓶子の首をボキっと折ったそうな。

以上の様子は、『平家物語』に描かれています。
物騒ですけど、なかなか盛り上がった飲み会ではありませんか。
でもね。
これをね。
平清盛にチクった人がいたのです。
源行綱(みなもとのゆきつな)です。
多田源氏(ただげんじ)なので多田行綱(ただゆきつな)とも呼びます。
(そういや昔、源(多田)満仲(みなもとの(ただ)みつなか)もなにやらチクってましたよね…
覚えてますか?詳しくはコチラ!!)
彼の「鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の院近臣たちがなんかくわだててるっぽい」という密告により、
平清盛はすぐさま飲み会のメンバーを捕らえます。
そして、俊寛を薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流罪とし、
藤原成親を備前国(びぜんのくに)に流したうえ、食べ物を与えず崖から落として殺害します。
瓶子の首を折った西光は、ほとんど教科書に登場しないマイナーな人物ですが、
ひどい拷問のすえ、口を切り裂かれ、首を斬り落とされるという悲惨な最期を遂げます。
ちょ…
飲み会の席でのことですやん…
怖すぎますやん…
後白河法皇自身は罪には問われなかったものの、
このような形で側近たちを失ったことは、
後白河法皇に精神的なショックを与え、また政治的な権力の低下をもたらします。
後白河法皇の院政が弱体化するなかで、
いいオトナに成長した息子の高倉天皇は、親政を願うようになるのです。
* * *
鹿ケ谷の陰謀の翌年、平徳子が男の子を出産します。
この赤ちゃん、なんと生後1か月で皇太子となります!
平清盛は、皇太子の外戚としてますます力を伸ばし、
後白河法皇との関係を悪化させてゆきます。
そして1179年、平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
かわって平氏に好意的なものたちに与えます。
さらに、後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、
院政を停止してしまいます。
ここで、わずか1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位するのです。
お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政をしきますが、
もちろん安徳天皇の外戚である平清盛が政界の主導権を握ります。
また、平氏の知行国(詳しくは平安時代(15)をどうぞ!)も30ヶ国をこえ、
さきほど読んだ史料の太字部分、
日本秋津嶋は纔に六十六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国にこえたり。
という状況になります。
いやー…
平清盛、とてつもない…
平清盛の権力はとてつもないものになりますが、
多くの人々の反感を買うことにもなるのです。
* * *
それでは、最後にゴロあわせを。

ワンワンニャアニャアではありません(1122年になっちゃいますから…)!
ワンワンナァナァで1177年です!!
次回からは、まとめプリントをお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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シシガタニ ノ インボウ…
一体それなんやねん!って突っ込みたくなりますよね。
鹿ヶ谷(ししがたに)というのは、京都の地名です。
現在も、銀閣寺(ぎんかくじ)のちょっと南のあたりで住所として使われています。
1177年、その鹿ケ谷にある山荘で、なにやら陰謀がくわだてられたようです!
詳しく見ていきましょう!!
前回は、1167年に平清盛(たいらのきよもり)が
太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に就任したことを紹介しましたが、
出世したのは平清盛だけではありません。
平氏の多くが高位高官(こういこうかん、高い位階と高い官職のこと)にのぼりつめたのです。
もうね、平氏の勢いハンパないのです!
そのハンパなさをあらわす史料を、ここで見ておきましょう。
六波羅殿(ろくはらどの、京都の六波羅に邸宅をかまえる〔1 〕のこと)の御一家の君達(きんだち、上流貴族の子弟のこと)といひてしかば、花族(かしょく)も英耀(えいゆう、英雄の誤り、花族と同じく摂家につぐ貴族の家格のこと)も面(おもて)をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国(にゅうどうしょうこく、〔1 〕のこと、入道は出家した人を指し、相国は太政大臣を指す)のこじうと(配偶者の兄弟のこと)平大納言(へいだいなごん)〔2 〕卿(きょう)ののたまひけるは、「此(この)一門にあらざらむ人は皆人非人(にんぴにん)なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構(あいかま)へて其(その)ゆかりにむすぼゝれむとぞしける。(中略)日本秋津嶋(あきつしま)は纔(わずか)に六十六箇国、平家知行(ちぎょう)の国卅余箇国(1180年には平氏の知行国が30国をこえる)、既(すで)に半国にこえたり。其外(そのほか)庄園田畠いくらといふ数を知(しら)ず。綺羅(きら、美しい服のこと)充満して、堂上(とうしょう)花の如(ごと)し。軒騎(けんき、車や馬のこと)群集して、門前市(もんぜんいち)をなす。揚州(ようしゅう)の金(こがね)、荊州(けいしゅう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しょっこう)の錦(にしき、揚州・荊州・呉郡・蜀江はいずれの中国の地名で、それぞれの物品の名産地を羅列)、七珍万宝(しっちんまんぽう、多種多様な宝物のこと)一(ひとつ)として闕(かけ)たる事なし。(後略)
(出典『3 』)
空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
1…平清盛(六波羅殿・入道相国などと呼ばれる)
2…時忠(ときただ)
3…平家物語(へいけものがたり)
とっても有名なセリフが出てきましたね~!
下線部分、よく「平家にあらずんば人にあらず」って訳されますね。
「平氏じゃないヤツは人間じゃないのダ!」ってことです。
ちょっとひどくなーい?
ダレよ!?
こんなセリフ言っっちゃったの!
え?
平時忠??
平清盛じゃなくって?
んじゃアンタ誰??
って感じですよね。
そこで、前回登場した系図をもう一度見てみましょう。

あーーーー…
いるね!
いるいる!!
えーっと…
平清盛の…奥さんの…弟…だね、ウン。
いやぁ~…アンタがこのセリフ言っちゃう!?って感じですよね~。
でもですよ!
系図をよく見てください!!
お姉ちゃんの平時子(たいらのときこ)は、アノ平清盛の奥さんで、
妹の平滋子(たいらのしげこ)は、アノ後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の奥さんではないですか!
しかもですよ!
平滋子の産んだ憲仁親王(のりひとしんのう)は、
1168年に即位して高倉天皇(たかくらてんのう)となるのです!!
さらにですよ!
その高倉天皇と結婚したのは、平時子の産んだ平徳子(たいらのとくこ)なのです!!

あんたの周り、すごい人だらけじゃん!
そりゃ「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうわけだ!!
とにもかくにも、そんなセリフを生み出してしまうほど、平氏の勢いはものすごかったのです。
こののち、もしも高倉天皇と平徳子の間に子どもが生まれて即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれちゃうわけですからね!
これを快く思わないのが、後白河法皇とその側近たちです。
1176年に、平清盛と後白河法皇の間を取り持ってきた平滋子がこの世を去ることで、
両者の関係はどんどん悪化してゆきます。
後白河法皇の周辺からは、
まるで藤原氏のようなやり方で勢力を伸ばす平氏に対する不満の声が、
ちらほら聞こえるようになります。
そんなときに起こるのが、鹿ケ谷の陰謀なのです。
* * *
1177年のある日、
鹿ケ谷にある俊寛(しゅんかん)というお坊さんの山荘(別の人物の山荘という説もアリ)で、
後白河法皇が院近臣(いんのきんしん)たちと飲み会をしておりました。
院近臣とは、院政をおこなう上皇(法皇)の側近のことで、
俊寛もその1人です。
いい感じにお酒もまわっていたのでしょうか、
飲み会メンバーの1人である藤原成親(ふじわらのなりちか)は、
立ち上がったときにうっかり瓶子(へいし、お酒を入れる壺のこと)を倒してしまいます。
それを見た後白河法皇が「あれはいかに」と尋ねると、
藤原成親は「ヘイシが倒れましたー!」と答えます。
瓶子と平氏をかけたわけですね!
まさかのオヤジギャグ!!
次に、俊寛が「それをどうするのー?」とあおると、
西光(さいこう)というお坊さんが、
「クビをとるっきゃないでしょー!」と瓶子の首をボキっと折ったそうな。

以上の様子は、『平家物語』に描かれています。
物騒ですけど、なかなか盛り上がった飲み会ではありませんか。
でもね。
これをね。
平清盛にチクった人がいたのです。
源行綱(みなもとのゆきつな)です。
多田源氏(ただげんじ)なので多田行綱(ただゆきつな)とも呼びます。
(そういや昔、源(多田)満仲(みなもとの(ただ)みつなか)もなにやらチクってましたよね…
覚えてますか?詳しくはコチラ!!)
彼の「鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の院近臣たちがなんかくわだててるっぽい」という密告により、
平清盛はすぐさま飲み会のメンバーを捕らえます。
そして、俊寛を薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流罪とし、
藤原成親を備前国(びぜんのくに)に流したうえ、食べ物を与えず崖から落として殺害します。
瓶子の首を折った西光は、ほとんど教科書に登場しないマイナーな人物ですが、
ひどい拷問のすえ、口を切り裂かれ、首を斬り落とされるという悲惨な最期を遂げます。
ちょ…
飲み会の席でのことですやん…
怖すぎますやん…
後白河法皇自身は罪には問われなかったものの、
このような形で側近たちを失ったことは、
後白河法皇に精神的なショックを与え、また政治的な権力の低下をもたらします。
後白河法皇の院政が弱体化するなかで、
いいオトナに成長した息子の高倉天皇は、親政を願うようになるのです。
* * *
鹿ケ谷の陰謀の翌年、平徳子が男の子を出産します。
この赤ちゃん、なんと生後1か月で皇太子となります!
平清盛は、皇太子の外戚としてますます力を伸ばし、
後白河法皇との関係を悪化させてゆきます。
そして1179年、平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
かわって平氏に好意的なものたちに与えます。
さらに、後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、
院政を停止してしまいます。
ここで、わずか1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位するのです。
お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政をしきますが、
もちろん安徳天皇の外戚である平清盛が政界の主導権を握ります。
また、平氏の知行国(詳しくは平安時代(15)をどうぞ!)も30ヶ国をこえ、
さきほど読んだ史料の太字部分、
日本秋津嶋は纔に六十六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国にこえたり。
という状況になります。
いやー…
平清盛、とてつもない…
平清盛の権力はとてつもないものになりますが、
多くの人々の反感を買うことにもなるのです。
* * *
それでは、最後にゴロあわせを。

ワンワンニャアニャアではありません(1122年になっちゃいますから…)!
ワンワンナァナァで1177年です!!
次回からは、まとめプリントをお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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いつも楽しみにしています!
お忙しいと思いますが、
頑張って更新して下さいね♪
by 愛読者 (2019-12-11 16:42)
愛読者さま
嬉しいコメント、ありがとうございます!
これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2019-12-25 22:44)
歴史好きの中1の愚息といつも楽しみに拝読させて頂いております。
ちょうど授業で習っているところを詳しく解説してくださるので
教科書や先生の教え以上に深く歴史について学べて、本人も更新を心待ちにしているところです。
今現在授業で元寇をやっているので、「元寇の解説、楽しみだな~」と待っている愚息です。
1つ更新するのにとても時間と気力を要するかと思いますが
更新を心待ちにしているファンがおりますので、是非とも頑張ってください。
by 親子で楽しみにしています (2020-01-18 19:34)
親子で楽しみにしています様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
内容を大学受験レベルに設定しているので、息子さんにはなかなか難しい部分もあるかもしれませんが、親子で読んでくださっている方がいるとは感激です!!
育児におわれ、パソコンに向かう時間がほとんど取れない日々ですが、なんとか合間合間を見つけて筆を進めております。
元寇まではまだまだ時間がかかりそうですが…これからもよろしくお願いいたします!!
by 春之助 (2020-01-19 14:10)
日本史選択の従兄弟に勧めたのですが、とても楽しく読んでいるみたいです。
市販の参考書とは違って感覚的に頭に入ってくるので、こんな授業が聞けたら面白いなと思います。
日本史が苦手な人にもっと広まって欲しいです!お忙しいかとは思いますが、更新を楽しみにしています。
by 崖っぷちのポニョ (2020-02-22 01:56)
崖っぷちのポニョ様
嬉しいコメント、ありがとうございます。
従兄弟さんの勉強のお役に立てているなら幸いです!
書きたいこと、描きたいことは、頭のなかにいっぱいあるのですが、なかなかパソコンに向かう時間が取れず更新が滞っております…
間もなく更新予定ですので、いましばらくお待ちくださいませ!
これからもよろしくお願いいたします☆
by 春之助 (2020-02-23 22:55)