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1185年 壇の浦の戦いが起こる [年号のゴロ合わせ]

前回に続いて、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)を見ていきましょう!

今日は、↓ このまとめプリントの…
鎌倉1.jpg

↓ 青色の部分を埋めつつ、ゴロ合わせも紹介していきますね~!!
1185-1.jpg
(黄色の部分は平安時代(20)をご覧ください)

ちょっとほんとに文章長いですけど(スイマセン…)、
イラスト多めにしますので頑張ってついてきてくださいね☆



以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵をきっかけに、
平氏への反発がはじけることを恐れた平清盛(たいらのきよもり)は、
1180年6月、大寺院や貴族たちの反対を押し切って、
摂津国(せっつのくに)の福原(ふくはら、現在の神戸市)に都を遷(うつ)します。
大輪田泊(おおわだのとまり)に近い福原は、平氏の瀬戸内海支配の拠点となる場所であり、
また平清盛にとっては、サナダムシの攻撃から復活したあと別荘を築いたほどお気に入りの土地です。
(詳しくは平安時代(17)を読んでください)

福原に遷都(せんと)後、
源頼朝(みなもとのよりとも)や源義仲(みなもとのよしなか)らの挙兵を知った平清盛は、
孫の平維盛(たいらのこれもり、超イケメンらしいよ!)に大軍を託して東国へ派遣します。
しかし平維盛は、富士川の戦い(ふじがわのたたかい)で源頼朝に敗れてしまうのです。

すると、近江国(おうみのくに)の園城寺(おんじょうじ、または、三井寺(みいでら))や奈良の興福寺(こうふくじ)が、反平氏の動きを強めます。
なんてったって、以仁王が挙兵前に身を寄せたのが園城寺で、そのあと向かおうとしたのが興福寺ですからね。
園城寺も興福寺も、もともと反平氏の立場にあったわけです。
(詳しくは1180年のゴロ合わせを読んでください)

このような反平氏勢力に京都を制圧されないように、
また高倉上皇(たかくらじょうこう)や平氏一門からも還都(かんと、都を元の場所に還(かえ)すこと)を求める声が高まっていたこともあり、
1180年11月、平清盛は都を京都に戻します。

翌月、京都に近い近江国で源氏軍が蜂起します。
平氏はこれを鎮圧し、さらに源氏軍に加担した園城寺を焼き払います。
さらに、平清盛の息子である平重衡(たいらのしげひら)が南都焼打ち(なんとやきうち)をおこない、
興福寺のほとんどを焼き尽くします。
このとき、お隣の東大寺も伽藍(がらん)の多くを失い、
大仏も頭と手が焼け落ちてしまったんだとか…

その後、1181年閏(うるう)2月、平清盛が満63歳でこの世を去ります。
とてつもない高熱に苦しみながらの最期だったようで、
当時の人々は、「お寺をいっぱい焼き払ったからバチが当たったんだ!」とウワサしたようです…

1185-2.jpg

平氏一門を率いるのは、平清盛の息子である平宗盛(たいらのむねもり)ですが、
平清盛という強烈なリーダーを失った平氏に、次々とピンチが訪れます。

1181年、前年の雨不足の影響により養和の飢饉(ようわのききん)が発生し、
西日本は深刻な食料不足に陥ります。
西国(さいごく)を経済的基盤とする平氏は、大打撃を受けてしまいます。

さらに、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、または砺波山の戦い(となみやまのたたかい))で平維盛が源義仲に敗れ、源義仲の入京を許してしまいます。

そして1183年7月、安徳天皇(あんとくてんのう)を奉じて都落ち(みやこおち)をするのです。
このとき、三種の神器(さんしゅのじんぎ)も一緒に持ってゆきます。

三種の神器とは、鏡(かがみ)・剣(つるぎ)・玉(ぎょく)の3種類の宝物をさします。
古来より天皇が受け継いできたもので、即位の際に新しい天皇へと継承されます。
三種の神器を所有することが、正当な天皇である証なのです。

令和元年5月1日に、剣璽等承継の儀(けんじとうけいしょうのぎ)がおこなわれましたよね。
剣璽(けんじ)とは、三種の神器の剣と玉のことで(鏡は動かせないそうです)、
それらを継承する様子は、現在も首相官邸が配信する動画で拝見することができます。

動画の7:00を過ぎたあたり、3番目に入ってきた人が持っている細長い箱に剣が、
次に入ってきた人が持っている四角い箱に玉が入っているそうです。
歴史を目の当たりにするようで感動しますね…

ちなみに、三種の神器は絶対に人の目にふれてはいけないそうで、
誰一人として実物を見たことがないんですって!

話を平安時代に戻しましょう。

京都では、正当な天皇の証である三種の神器のないまま、
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)が即位します。
このことは、彼にとって大きなコンプレックスとなるのですが、それについてはまた後日!

都落ちした平氏の追討と三種の神器の奪還に向かうのは、
源頼朝の弟である源義経(みなもとのよしつね)です。

*   *   *

源義経がまだ幼く、牛若丸(うしわかまる)という名で呼ばれていたころ、
お父さんの源義朝(みなもとのよしとも)が平治の乱(へいじのらん)で敗れてしまい、
彼は京都の山奥にある鞍馬寺(くらまでら)というお寺に預けられます。
ここで牛若丸を鍛えたのは、なんと天狗(てんぐ)だった!!…とゆー伝説が残っています。
なんだか、いま大流行している某漫画の主人公みたいですね!(笑)

その牛若丸と出会うのが、弁慶(べんけい)という僧兵(そうへい)です。
腕に自信のある荒くれ者の弁慶は、
京都の町で太刀(たち)を携えた人に戦いを挑んでは、勝ってその太刀を奪う、
という行為を繰り返しており、気づけば手に入れた太刀の数は999本になっていました。

ある夜、いよいよ1000本目!と意気込んで五条大橋(ごじょうおおはし)で待ち構えていたところ、
前から立派な太刀を腰に帯びた若者が、横笛を吹きながらこちらに向かって歩いてくるではないですか!
「1000本目はコイツの太刀に決定~ ♪」とばかりに、弁慶が勢いよく攻撃をしかけたところ…

その若者はなんと!
弁慶の攻撃をひらりとかわし、橋の手すりに着地したのです!!

驚いた弁慶ですが、その後も攻撃を繰り返します。
しかし、どれだけ攻撃しても、若者は手すりの上をひらりひらりと飛んでかわすばかり。
すっかり参ってしまった弁慶は、若者の家来にしてもらうのです。

この若者こそが牛若丸、のちの源義経です。
そりゃ天狗に修行してもらったんだから、運動神経ハンパないよね(笑)

1185-3.jpg

天狗に修行をつけてもらった話も、弁慶との出会いの話も、
どこまで真実か分かりませんが(そもそも真実の部分はあるのだろうか…笑)、
とにもかくにも弁慶という僧兵が源義経に仕えたことは確かなようです。

やがて、自分が源義朝の息子であることを知った牛若丸は、
僧侶になることを拒んで鞍馬寺を抜け出します。
そして、元服(げんぷく)して名を源義経と改め、
奥州(おうしゅう)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに身を寄せるのです。

奥州の藤原氏といえば…
そうです、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)です。

初代の藤原清衡(ふじわらのきよひら)、
2代目の藤原基衡(ふじわらのもとひら)、
3代目の藤原秀衡と、
およそ100年にわたって平泉(ひらいずみ、現在の岩手県)を拠点に繁栄した、
奥羽(おうう、陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)のこと)の一族です。

奥州は金(中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)を見れば一目瞭然!)や良質な馬の産地であり、
奥州藤原氏はこれらを献上することで、朝廷や藤原摂関家と良好な関係を保ちます。
また中国の北宋(ほくそう)やアイヌなど、北方の地との交易もおこない、独自の文化を築きます。

そんな奥州藤原氏のもとで暮らす源義経は、
あるとき、お兄ちゃんである源頼朝の挙兵を耳にします。
いてもたってもいられなくなった源義経は、平泉を抜け出し、
富士川の戦いで勝利した源頼朝のもとに駆けつけて感動の再会を果たすのです。

そして、鎌倉にとどまって東国の経営に専念したい源頼朝から
もう一人のお兄ちゃんである源範頼(みなもとののりより)とともに軍勢の指揮を任されます。
いよいよ源義経が、歴史の表舞台に立つのです。
ちなみに、源頼朝は源義朝の三男、源範頼は六男、源義経は九男です。

*   *   *

さて当時の京都はというと、
養和の飢饉による食料不足にあえいでいるなか、源義仲が大軍を率いて入ってきたため、
治安は乱れ、食料事情はさらにめちゃくちゃになっています。

後白河法皇は、源義仲に都落ちした平氏を追うよう命じて京都から厄介払いし、
かわって源頼朝に寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつせんじ)を出して接近します。
これに焦った源義仲は、急ぎ京都に戻って後白河法皇を幽閉したりしますが、
宇治川の戦い(うじがわのたたかい)で源範頼・源義経によって討たれてしまいます。

いやー、源氏めっちゃモメてますね~…

この隙に、なんと平氏は大復活!
一時は大宰府(だざいふ)まで都落ちしたにもかかわらず、
このころには京都を目指して福原に陣を構えるほど、平氏軍は態勢を立て直しています!!
そこで、源範頼と源義経が平氏の追討と三種の神器の奪還に向かうのです。

こうして1184年2月に摂津国で起こるのが、一の谷の戦い(いちのたにのたたかい)です。
一ノ谷の戦いと表記してもOKです。

正面からの攻撃は源範頼に任せ、源義経はわずか70騎を率いて一の谷の裏側にまわります。
そこは鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれるガケで、とても降りられるような場所ではありません。
平氏軍はこれを背にして、守りの堅い陣を構えているわけです。

おもむろに、源義経はガケから馬を2頭落とします。

な、なんてことを!!

1頭は途中で足をくじいて落っこちてしまいますが(かわいそう…涙)、
もう1頭はそろそろと降りることに成功します。

それを見た源義経は「イケる!!!」と判断します。

え?
なにが??

イヤイヤ、成功率50%ですやん!
絶対ケガするやつやん!!

しかし!
源義経の軍勢は、ガケを馬で駆け降りて平氏軍の背後を衝くのです!!

パニック!
いやもう平氏軍パニックですよ!!
絶対安全だと思いこんでた後ろのガケから敵が降ってくるんですからね!!!

てんやわんやになった平氏軍は、
平清盛の甥っ子にあたる平敦盛(たいらのあつもり、古典の授業で習いました?)をはじめ、
たくさんの犠牲者を出すにいたり、
船で瀬戸内海を渡って讃岐国(さぬきのくに)の屋島(やしま)などに逃れるのです。

*   *   *

瀬戸内海の制海権を有する平氏軍に対し、
水軍(すいぐん、海上で戦う武士団のこと)をもたない源氏軍は手出しできない状態が続きます。
その間、源範頼は山陽道や九州で平氏軍との戦いを続けますが、
進むことも退くこともできない状況に陥ってしまいます。

そこで1185年2月、源義経はいくつかの水軍を味方につけ、
暴風雨のなか、淡路島の南を船ですすんで阿波国(あわのくに)に上陸します。
そして、瀬戸内海に向けた守りを重点的にしている平氏軍を背後から襲うのです。

また背後から!
平氏軍これまたパニックです!!

両者の間で激しい戦いが繰り広げられ、やがて日が暮れ始めて休戦状態となります。
すると、源氏軍のまえに、平氏の小舟が1隻あらわれます。
小舟には、先っちょに扇がつけられた竿(さお)と美女が乗っており、
美女は「この扇の的(まと)を弓で射てみろ、失敗したら源氏の恥だ」なんて言うのです。

いやー、これはやりたくなーい!
めっちゃ責任重大ですやーん!!

源氏軍のなかで、誰が矢を射るかでタライ回しがおこり、
最終的に那須与一(なすのよいち)という人物に決まります。

もし失敗したら切腹する、という覚悟のもと、
那須与一がいろんな神々に祈りまくって1本の矢を放ったところ…

1185-4.jpg

なんと見事に的中!
美しい夕日を背景に、扇は空を舞い、波の上に落ちたのです!!

このエピソード、古典の授業で習いましたか?
『平家物語』に収録されている「扇の的」(おうぎのまと)という有名なものです。

これで源氏軍のテンションは一気に上がります。
さらに源氏の援軍がくることを知った平氏軍は、そそくさと壇の浦(だんのうら)へと逃れるのです。

*   *   *

1185年3月、長門国(ながとのくに)で壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)が起こります。
壇ノ浦の戦いと表記してもOKです。
あと、「壇」の漢字、右下のパーツは「且」ではなくて「旦」ですからね!
書き間違えが多発する漢字なので、何回も書いてしっかり覚えてくださいね!!

潮の流れの激しい関門海峡(かんもんかいきょう)で、
平氏の水軍と、源義経が率いる水軍が激突します。
また、ピンチを切り抜けた源範頼も、陸から応戦します。

はじめは船の扱いに詳しい平氏軍が圧倒的に優勢で、どんどん源氏軍を追い詰めます。
しかしこの戦い、数時間後には源氏の勝利に終わるのです。

その理由は、
潮の流れがかわったから、とか、
平氏軍のなかで寝返った者が多数いたから、とか
源義経が非戦闘員である平氏軍の船の漕ぎ手たちを殺害する許可を出したから、とか、
さまざまな説があるようです。

源義経は、船から船へと飛び移って戦うなど鮮やかな活躍を見せ、
(この技、のちに八艘飛び(はっそうとび)と名付けられたそうな…さすが天狗の教え子…)、
平氏軍はみるみるうちに劣勢となり、
平清盛の息子である平知盛(たいらのとももり)は平氏の敗北を悟ります。

すると平知盛は、安徳天皇のもとにゆき、ホウキを手に船の掃除を始めます。
安徳天皇の船が汚かったとあっては、あとあと笑いものになるかもしれない…と思い、
美しい最期にすべくお片付けを始めたというわけです。

そんな息子の様子を見て、平清盛の奥さんである平時子(たいらのときこ)は自害の道を選びます。
「おばあちゃん、どこに行くの?」と訪ねる孫の安徳天皇(このとき満6歳ですよ…涙)に、
「極楽浄土です。海の下にも都があるのですよ」と答え、ともに海に身を投げて亡くなります。
このとき、三種の神器も海に沈んだとされています(鏡と玉は回収できたんだとか)。

1185-5.jpg

平氏の人々は、これにならって次々と海に沈みます。
そして、平氏の滅亡を見届けた平知盛も、
「見るべきものはすべて見た」という言葉を遺(のこ)して入水(じゅすい)します。

このとき、自らの遺体が源氏にわたらないよう、
鎧(よろい)を二重に着込んだとも、碇(いかり、船のおもり)を抱いたとも伝わっています。
壇の浦にある平知盛の銅像はこの通り、碇をかかげて綱を体に巻きつけております。
DSC06820.JPG

ちなみに、総大将である平宗盛は、水泳が得意だったんですねー。
入水してみたものの、得意なもんだから、つい泳いじゃうんですよ!
で、すいすい泳いでいるところを、源氏軍に捕まってしまったんですねー。
壇の浦の戦いから3ヶ月が経とうというころ、子ども達とともに斬首されてしまいます。

長くなりました…
ほんとに長くなりました…
ゴメンナサイ…

最後に、プリントの青色のところを埋めた回答を載せておきますね。

1185-7.jpg

そして、壇の浦の戦いのゴロ合わせも載せておきましょう!

1185年.jpg

いよいよ次回から鎌倉時代です。
残りを埋めて、まとめプリントを完成させてしまいましょう!!



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nice!(8)  コメント(2) 
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コメント 2

みみみ

面白かったです!
平宗盛泳いじゃうんですね…笑
こんなに細かくて面白い記事を書くのは大変だと思います
今回もありがとうございました[わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)]
by みみみ (2021-02-13 10:38) 

春之助

みみみ様

いつもコメントありがとうございます!
励みになります!!
平宗盛、泳いじゃったんですねー…
太っちょで浮いちゃったという説もあるようです。
by 春之助 (2021-02-18 14:04) 

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