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平安時代(16) [まとめプリント]

今日は、保元の乱(ほうげんのらん)と平治の乱(へいじのらん)をまとめてゆきます。

平安16.jpg

いよいよ源氏と平氏が中央政界で大活躍するので、これまでの流れをおさえておきましょう。

まずは源氏です。

1028年に房総半島で起きた平忠常の乱(たいらのただつねのらん)を、
源頼信(みなもとのよりのぶ)が平定し、源氏は東国進出のきっかけをつかみます。
そして、1051年に東北地方ではじまった前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を、
源頼義(みなもとのよりよし)・源義家(みなもとのよしいえ)親子が平定、
次いで1083年にはじまった後三年合戦(ごさんねんかっせん)を、源義家が平定し、
源氏は東国で武家の棟梁(とうりょう)としての地位を固め、勢力を拡大させてゆきます。

とくに、後三年合戦で恩賞を出さなかった朝廷にかわり、
自分の財布から家臣に恩賞を与えた源義家の人気はすさまじく、
東国では源義家に土地を寄進して保護を求める武士が増加し、
朝廷がその寄進を禁止するほどだったとか。

ここまでの流れは平安時代(13)にまとめているところです。

その後はというと、
源義家の息子である源義親(みなもとのよしちか)が朝廷に反乱を起こしたり、
一族のなかでの争いが続いたりと、
源氏は勢力をやや衰退させてしまいます。

次に平氏です。

このころ、伊勢(いせ)・伊賀(いが)を地盤とする伊勢平氏(いせへいし)が勢力を拡大させます。
白河法皇(しらかわほうおう)の命を受けた伊勢平氏の平正盛(たいらのまさもり)が、
源義親の乱の平定に成功したことがきっかけです。
その後、息子の平忠盛(たいらのただもり)も、
瀬戸内海の海賊を平定するなどして白河法皇、そして鳥羽上皇(とばじょうこう)からかわいがられ、
武士として、院近臣(いんのきんしん)として、重用されるようになります。

今日まとめてゆく保元の乱・平治の乱は、
源義親の子である源為義(みなもとのためよし)、その子である源義朝(みなもとのよしとも)、
平忠盛の子である平清盛(たいらのきよもり)の時代に起きる武力衝突です。



1156年に起こる保元の乱の対立関係は、以下の通りです。

1156-1.jpg

1156年のゴロ合わせでは、天皇家の2人を中心に保元の乱を書いたので、
今回は藤原氏の2人を中心に書くことにしましょう。

兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟の藤原頼長(ふじわらのよりなが)です。
この2人、20歳以上年の離れた異母兄弟(いぼきょうだい、お母さんが異なる兄弟のこと)です。

*   *   *

兄の藤原忠通は、鳥羽天皇(とばてんのう)・崇徳天皇(すとくてんのう)・近衛天皇(このえてんのう)・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の4代にわたって摂政・関白をつとめた権力者です。
跡継ぎに恵まれなかった彼は、あるとき弟の藤原頼長を養子とします。

ところが…
弟を養子にして20年が経とうというころ…

藤原忠通に息子が生まれるのです!
40歳を過ぎてからの跡継ぎ誕生!!
こりゃめっっっっちゃかわいいわけですよ!!!

てなわけで、藤原忠通は藤原頼長との養子関係を破棄し、
我が子に摂関家を継がせようとします。

デター!
弟を養子にしたあと息子生まれるパターン!!
カワイイ息子を守るために弟とモメるパターン!!!

その後、藤原忠通と藤原頼長はイロイロ対立するようになり、
もう仲直りなんて絶対無理!というレベルまで関係を悪化させてしまいます。

*   *   *

では、弟の藤原頼長とはどんな人物だったのでしょう。

藤原忠通の息子である僧侶の慈円(じえん)が、著書『愚管抄』(ぐかんしょう)のなかで、
「日本一の大学生(だいがくしょう、日本一のすごい学者、という意味)」と評するように、
藤原頼長は非常にすぐれた学者さんであったようです。
読んだ書物の数は1030巻を超えるという読書家で、
移動の時間を惜しんで牛車のなかでも書物を読んでいたんだとか。
また書物に対する敬意もすさまじく、
自宅に当時の最高技術を駆使した防火設備つきの書庫までつくっています。
とくに学んだのは明経道(みょうぎょうどう)、すなわち儒学だったようです。

また、20年近くにわたって『台記』(たいき)という日記を書いているのですが、
ここには朝廷における儀式のほか、政治情勢や人間関係などを克明に記録しており、
彼の学識と事務的能力の高さをいまに伝えています。
とにもかくにもメチャクチャ勉強熱心で、すんごいデキる人だったのです。

そんな藤原頼長が左大臣となったのは、30歳のときです。
律令にのっとった政治を復活させるべく、彼はとてつもなく厳しい改革に乗り出します。
ときには遅刻した貴族の家を焼き払うこともあったとか…
コ、コエー!!!
そのあまりに苛烈な性格から、
「悪左府」(あくさふ)というあだ名をつけられるほど、周囲の人々の反感を買ってしまいます。
(「左府」(さふ)は左大臣のこと。
 「悪」は単に悪いという意味だけでなく、モノスゴイという意味もあります)
裏を返せば、藤原頼長がそこまで厳しくしないといけないほど、
当時の貴族たちはゆるみきっていたのでしょうね…
でも家燃やしたらアカン。

平安16-1.jpg

*   *   *

1141年、崇徳天皇が譲位し、弟の近衛天皇が即位しますが、
ほどなく近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます。
かわって即位したのは、後白河天皇です。

近衛天皇は眼の病気が原因で亡くなったようなのですが、
「それは藤原頼長が天狗の像の目に釘を打って、近衛天皇を呪ったからだ!」というウワサが流れます。
これにより、近衛天皇をかわいがっていた鳥羽法皇(とばほうおう)の信頼を失った藤原頼長は、
崇徳上皇(すとくじょうこう)に近づいてゆくのです。

1156年7月2日に鳥羽法皇が亡くなると、
今度は「崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている!」というウワサが流れます。
藤原頼長は謀反人(むほんにん)として扱われ、財産を没収されてしまいます。

追い詰められた藤原頼長は、崇徳上皇のもとへゆき、
平忠正(たいらのただまさ)、源為義・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士を集めます。

一方、後白河天皇と藤原忠通は、
最大の兵力をほこる平清盛を味方につけることに成功し、ここに源義朝らも加わります。

兵力の差は歴然です。
崇徳上皇サイドがあまりにも不利な状況にあるため、源為朝は夜襲(やしゅう)を提案するのですが、
「そんな卑怯なことができるか!」と藤原頼長によって却下されてしまいます。

マジメか!

で、結局、7月11日の未明、後白河天皇サイドが夜襲をしかけ、
崇徳上皇サイドはわずか数時間で総崩れとなってしまうのです。

保元の乱の結果は以下の通りです。

1156-5.png

崇徳上皇は讃岐(さぬき)に流罪、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。

藤原頼長は、戦いの最中に首に矢を受けるという重傷を負いますが、
なんとか奈良に逃れているお父さんのもとまでたどり着きます。
40歳を過ぎてから生まれた息子である藤原頼長を溺愛してきたお父さんですが(どっかで聞いた話だな…)、
「謀反人となった息子に会うことはできない」と、藤原頼長との面会を拒否します。
最愛のパパから見放された藤原頼長は、絶望のなか37年の生涯を閉じるのです。
奈良に埋葬された遺体は、のち信西(しんぜい)によって掘り起こされた、とも伝わっています。

ここで、源為朝についてもチラっとお話ししておきましょう。
1156年のゴロ合わせを見てみると…
1156年.jpg
マッスルキャラとして登場していますね(笑)

源為朝は弓の名手で、なんと身長2mを超える大男だったんだとか。
しかもものすごい暴れん坊で、
お父さんである源為義が、九州に追放してしまうほどだったんだとか(よっぽどですね…)。
お父さんにそこまで怒られたんなら、さすがに反省するだろうな…と思いきや、
なんと源為朝はそこで仲間をつくって九州を平定してしまうのです。

都にもどったのち、保元の乱ではお父さんと一緒に崇徳上皇サイドについた源為朝は、
夜襲を提案するも藤原頼長に却下され、自慢の弓で後白河天皇サイドを迎え撃ちます。
その際、超極太の弓を放って、平清盛たちを震え上がらせたんだとか。
保元の乱ののち、弓を放てないよう肘をはずされた状態で伊豆大島に流されたというんだから、
よっぽど怖い思いをさせたんでしょうね…

でもねー、肘はずしたくらいじゃダメだったんですねー。
治っちゃったんですよ、ハイ。

その後、伊豆大島で暴れ回ったり、
鬼の子孫が棲むという鬼ヶ島に行って大男を連れて帰ってきたりともうメチャクチャです。
結果、そんな源為朝を討伐するため、朝廷の軍勢が船でやってくるのですが、
なんとその船も弓を放って沈めてしまいます。
しかし、ここまでと悟った源為朝は、帰宅したのち自害したと伝わっています。

が!
実は自害しておらず、なんとか琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄のこと)に逃れ、
そこで生まれた子どもが初代琉球国王になった、という伝説も残っています。
うーん、源為朝ならやりかねないカモ…
この話を題材にしたのが、化政文化(かせいぶんか)で登場する曲亭馬琴(きょくていばきん)の『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)です。

*   *   *

ここで、すんごく個人的なことを申し上げてよいですか?

私、大河ドラマのなかでは「平清盛」(2012年放送)が一番好きなんです。
なぜって、山本耕史さん演じる藤原頼長が抜群に良かったからです!
上品で、厳格で、非情で、酷薄で…そんな山本耕史版ライチョウが大好きでした。
(大学で日本史を専攻していたので、頼長のことは音読みで「ライチョウ」と呼んでいます)

保元の乱で藤原頼長が亡くなるシーンなんて、
テレビの前で「ライチョウーーーっっ!!」って大号泣しました。
オウムが…オウムがね…
(ライチョウやらオウムやら、ややこしくてすいません…笑)

で、その大河ドラマ「平清盛」にもありましたが、
彼の日記である『台記』には、子どもたちへの訓戒(くんかい)が記されています。
現代語訳すると、こんな感じです。

 いつか私が死んだ後、私を恋しく思ったなら朝廷に来るがよい。
 私の魂はきっとそこにとどまっている。
 豪華な衣服や家来の数を求めるな。
 忠勤に励み、それで人に嘲(あざけ)られても恥じるな。
 忠を尽くし、決して報いを求めるな。
 努めなさい。努めなさい。

藤原頼長が死んだ後、阿部サダヲさん演じる信西がこの部分を見つけて読むんですよ…
うあぁぁぁー、思い出しただけで泣けます…

機会がありましたら、ぜひ「平清盛」、ご覧ください。

*   *   *

ちなみに藤原頼長は、腐女子のなかでは結構有名人だったりするのです。

えぇ、腐女子です。

『台記』には、男色(だんしょく)の模様がそれはそれは詳細に描かれているからです。

えぇ、男色です。

BLです!
ボーイズラヴです!!

お相手は10人ほど確認できるのですが(プリントの系図にいる源義賢(みなもとのよしかた)もその1人です)、
一番のお気に入りは秦公春(はたのきみはる)という人物です。
『台記』には、彼とのやりとりがピュアに、そして生々しく記録されています。

平安16-2.jpg

一体どんな感じで書かれているのか気になりますよね…
では、ほんの一文だけ紹介しておきましょう。
秦公春ではなく、
「讃」という隠語でたびたび登場するお相手(讃岐国の受領とかかな)と会った日の記録です。

「遂倶漏精、希有事也、此人常有此事、感歎尤深」
(『台記』仁平二年(1152)8月24日条)

あえて白文で載せますので、内容が気になる人は頑張って漢文勉強して下さい(笑)
もうね、セキララすぎるからマジメ(?)な当ブログでは訳せません訳しません。

とはいえこの時代、男色は当たり前のことです。
フツーなんですよ、フツー。
だから藤原頼長がBLしていよーと、そのお相手が10人いよーとフツーです。

でもね、この時代の日記って、他人に読まれることが前提なんですよ(詳しくはコチラ)。
子孫が先例を学ぶために日記を読むのですが、そこにこんな生々しい記録があったら、ネェ?
ちょっと藤原頼長フツーじゃないのかもしれません(笑)



藤原頼長好きが高じて、保元の乱が長くなってしまいました…すいません…
平治の乱は1159年のゴロ合わせで詳述したので、ここではザックリ見ていきましょう!

平治の乱が起こるのは、保元の乱から3年後の1159年です。
対立関係は以下の通りです。

1159-1.jpg

保元の乱で謀反人(藤原頼長のこと)を出した摂関家は勢いを失い、
かわって後白河天皇のブレーンである藤原通憲(ふじわらのみちのり、出家して信西(しんぜい)と名乗る)が権力を手にします。
信西は平清盛と手を組み、平氏の軍事力を背景に政治改革を推し進めてゆきます。

1158年、二条天皇(にじょうてんのう)が即位します。
父親である後白河上皇は院政を開始し、
親政(しんせい)を望む二条天皇と対立してゆきます。

このころ後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が頼りにしたのは、
藤原信頼(ふじわらののぶより)という院近臣です。
彼、おそらく後白河上皇とデキてるんですよねー…
ちなみに藤原忠通は、藤原信頼とモメたために後白河上皇によって失脚させられています。
愛のチカラおそるべし…

一方、信西はというと、平清盛を味方につけているのをいいことに、
自分の身内をどんどん出世させてゆきます。
藤原信頼はじめ、周囲はそんな信西に不満を抱きますが、
平清盛が怖くて手が出せません…

が!
チャンス到来!!
1159年のある日、平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけたのです!!!

すかさず藤原信頼は、源義朝とともに立ち上がります。
彼らはまず後白河上皇の邸宅である三条殿(さんじょうどの)を襲撃して後白河上皇の身柄を確保し、
二条天皇とともに幽閉(ゆうへい)します。
そのうえで信西を自害に追い込み、政権を獲得するのです。
藤原信頼と源義朝のクーデターは大成功です。

が!
熊野詣に出かけたはずの平清盛が、とんでもないスピードで戻ってきたのです!!
そして、藤原信頼のやり方に不満をもつ二条天皇が、平清盛に藤原信頼と源義朝の追討を命じたのです!!!

一気に形勢逆転です。

息子の平重盛(たいらのしげもり)・弟の平頼盛(たいらのよりもり)らを率いる平清盛は、
息子の源義平(みなもとのよしひら)・源頼朝(みなもとのよりとも)らとともに戦う源義朝をあっさり打ち負かし、平治の乱は終息するのです。

平治の乱の結果は以下の通りです。

1159-5.jpg

源義朝は、尾張(おわり)まで逃れたものの謀殺(ぼうさつ)され、源義平も斬首されます。
藤原信頼も、信西を自害に追い込んだ罪などにより斬首されます。
当時13歳の源頼朝は、平清盛のママハハによって命を救われ、
伊豆(いず)に流罪となります。

こうして勢いを得た平清盛が、武士でありながら政権を獲得するに至るのです。

*   *   *

最後に、保元の乱と平治の乱の歴史的意義を2点確認しておきましょう。

①中央政界の抗争を武士の力のみで解決=貴族の無力化
②平清盛の地位と権力の高揚=平氏政権の成立

武力なしでは政権を維持できない時代の到来です。
これを慈円は、著書『愚管抄』のなかで「ムサノ世(武者の世)」と表現しています。

長くなりました。
解答を載せて終わりにしましょう。

平安16解答.jpg



次回は、平氏政権をまとめてゆきます。

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藤田 ニコル

イラストも分かりやすくてたまげたなぁ
by 藤田 ニコル (2020-08-06 18:21) 

河南美鈴

イラストがとてもわかりやすい!
解説が面白く、雑談を読むのも楽しんでます
これからもまとめプリント期待してます!
by 河南美鈴 (2020-08-07 14:38) 

春之助

藤田様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
励みになります!!
by 春之助 (2020-08-07 21:44) 

春之助

河南さま
嬉しいコメント、ありがとうございます!
のろのろ更新のブログですが、これからもよろしくお願いいたします☆
by 春之助 (2020-08-07 21:46) 

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