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平安時代(17) [まとめプリント]

保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱(へいじのらん)を経て勢いを強める平清盛(たいらのきよもり)が、ついに政権を獲得します。
日本史史上はじめての武家政権である、平氏政権(へいしせいけん)の誕生です。
そのあらましと特徴をまとめてゆきましょう!

平安17.jpg

保元の乱平治の乱、この2つの中央抗争を解決したのは、
武士の力、とくに平清盛の軍事力です。

そんな圧倒的な軍事力をもつ平清盛は、
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の院近臣(いんのきんしん)という立場と、
奥さんが二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)であるという立場を活かし、
院政と親政をめぐって対立する両者と、それぞれよい関係を築くことにも成功します。

こうして、平清盛は武士としてはじめて公卿(くぎょう)となり、
その後も大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)と異例の出世を遂げ、
ついに1167年、太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されるのです。

皇族か貴族しか任命されないはずの太政大臣に、武士である平清盛が就任する、という、
あまりにも信じられない出来事に、
当時の人々は「平清盛が白河法皇(しらかわほうおう)の子どもだからだ」なんてウワサしたんだとか。

とはいえ、このころ太政大臣はただの名誉職にすぎなかったので、
平清盛はわずか3か月で辞職しています。
「前太政大臣」という肩書きさえあれば充分だったのでしょう!

ちなみに、武士で太政大臣に任命されたのは、
・平清盛
・足利義満(あしかがよしみつ、室町幕府 第3代将軍)
・豊臣秀吉(とよとみひでよし)
・徳川家康(とくがわいえやす、江戸幕府 初代将軍)
・徳川秀忠(とくがわひでただ、江戸幕府 第2代将軍)
・徳川家斉(とくがわいえなり、江戸幕府 第11代将軍)
以上の6人だけです。

翌1168年、平清盛はひどい高熱にうかされ、危篤に陥ります。
平清盛が病気になったことで政情は不安定となり、
後白河上皇はその安定化をはかるため、高倉天皇(たかくらてんのう)を即位させます。
平清盛の影響力、ハンパない…

で。
その平清盛の病気なんですが…

なっがぁぁぁーーーい虫がおしりから出てきて治ったんだそうです。

おしり?
えぇ、おしりです…
おしり。

おそらくサナダムシです。
知ってますか?サナダムシ。
人間のおなかにすみつく寄生虫の一種です。

東京に目黒寄生虫館という博物館がありまして、
大学院生だったころ、ディズニーランドへ遊びに行った帰りに立ち寄りました。
ホルマリン漬けのビンがズラリと並んだ館内には、
約8.8mもあるサナダムシが展示されておりました。
「こ…こんな長いものがお腹のなかに…!平清盛、めっちゃ痛かったやろな!!」
と、心底思いました。
なんだか色んなところがかゆ~くなる気がする博物館ですが、ご興味ありましたらゼヒどうぞ。

平安17-1.jpg

病気の影響により出家した平清盛は、一命をとりとめたのち、
福原(ふくはら、現在の神戸市)にたてた別荘に移り住みます。
政界から引退したのかと思いきや、
そこで厳島神社(いつくしまじんじゃ)の整備や、
日宋貿易(にっそうぼうえき)の拡大に乗り出します。

さらに1172年、平清盛は娘の平徳子(たいらのとくこ)を高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)とします。
(のち平徳子には、建礼門院(けんれいもんいん)という女院(にょいん)の称号が贈られます)
平徳子からすれば、お母さんの妹の息子、すなわちイトコとの結婚です。
もし平徳子が男の子を産んで、その子が即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれるわけですから、
彼女のプレッシャーはものすごいものだったでしょう…

平徳子のプレッシャーはさておき、
日宋貿易による莫大な利益と、おびただしい数の荘園・知行国を所有するようになった平氏は、
さらに天皇の外戚になれるかもしれないという可能性を手にしたのです。
そりゃ平時忠(たいらのときただ)が「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうワケです。

そんなときに起こるのが、1177年の鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)です。
「鹿ヶ谷(ししがたに)にある山荘で、後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の近臣である藤原成親(ふじわらのなりちか)・俊寛(しゅんかん)などが平氏打倒をくわだてている」との密告があり、
藤原成親は備前(びぜん)に、俊寛は薩摩(さつま)に流罪となった事件です。
この事件により、後白河法皇は政治的な権力を低下させ、高倉天皇は親政を強く願うようになります。
平清盛は後白河法皇との距離をとり、高倉天皇との関係をより一層強めてゆくのです。

その翌年、平徳子が待望の男の子を出産します。
ホントに…ホントによく頑張ったよ、徳子…(涙)
この赤ちゃんを生後1ヶ月で皇太子とし、皇太子の外戚としてますます力を伸ばす平清盛は、
後白河法皇との関係をさらに悪化させてゆきます。

そして1179年、ついに平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、院政を停止させてしまうのです。

奪い取った官職は、平氏の一族はもちろんのこと、平氏に好意的な貴族たちにも与え、
また知行国の入れ替えなどもおこなって、
平氏の権力が全国におよぶような軍事的支配体制を確立します。

ここでいよいよ、わずか満1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位します。
即位にともない、お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政を開始しますが、
もちろん政界の主導権を握るのは、安徳天皇の外戚である平清盛です。

こうして平氏政権という武家政権が成立するのですが、ながくは続きません。
しかし武家政権は、1867年の大政奉還(たいせいほうかん)まで、700年近く続いてゆくのです。



プリントの右側にうつります。
平氏政権の特徴をまとめてゆきましょう。

①貴族的性格
平氏政権には、摂関家とよく似た部分が見受けられます。

○ 高位高官の独占
平清盛の太政大臣就任をはじめ、一族で高位高官(こういこうかん)にのぼります。
高位高官とは、高い位階(いかい)と高い官職(かんしょく)のことですよ。
位階と官職については、飛鳥時代(8)のプリント右上の表を参考にしてください。

○ 外戚関係の利用
平清盛は、娘の平徳子を高倉天皇の中宮とし、
2人の間に生まれた満1歳の安徳天皇を即位させ、天皇の外戚として権力を握ります。

○ 多くの荘園・知行国を経済的基盤とする
平氏の所有する荘園は全国に500余ヶ所、知行国は約30ヶ国にのぼります。
1179年以降の平氏の知行国は次の通りです。
平安17-3.jpg
数えてみると32ヶ国もありますね~。
このころ全国は約70ヶ国に分かれているので、
日本のほぼ半分が平氏の知行国、ということになります。

②武士的性格
保元の乱平治の乱を制圧したうえに成立した平氏政権には、
もちろん武士らしい面が見受けられます。

○ 武力を背景に、天皇や院の勢力と対抗
圧倒的な軍事力をもつ平氏は、クーデターによって後白河院政を停止させ、
安徳天皇を即位させて高倉院政を開始させます。
安徳天皇の外戚として権力を握るのはもちろんのこと、
平氏の軍事力なしには成立し得なかった高倉院政においても実質的な権力者となるのです。

○ 各地で成長する武士を、荘園や公領(国衙領)の地頭(じとう)に任命
地頭といえば、鎌倉幕府が置いた守護(しゅご)・地頭のセットを思い浮かべることと思いますが、
このころすでに地頭というものは存在していたようです。
残された史料が少なくて、詳しいことは明らかにされていないみたいですが、
平氏政権は各地の武士を地頭に任命することで、
彼らを家人(けにん、貴族や武士に仕える家来のこと)として組織していたんだとか。

分かります?
ちょっとナニ言ってるか分かんないですよね…

武士のおこりについては平安時代(12)で書きましたが、
地方豪族や有力農民が自分の土地を守るために武装したパターンや、
押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)に任命された中級・下級貴族が、とある土地に定着したパターンなどがあるんでしたね。

平氏政権は、様々なパターンで成立し、成長してきた武士たちを、
それぞれの土地の地頭に任命することで、彼らがその土地の支配者であることを認めたのです。
そして、平氏政権から地頭に任命されたことで、その土地の支配者であることを認められた武士は、
平氏に仕える家来、すなわち平氏の家人となったのです。

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こうして平氏は、とくに西国一帯の武士を家人として組織してゆくのです。

ちなみに、鎌倉幕府に仕える家人のことを何と呼ぶか分かりますか?
答えは、御家人(ごけにん)です。
鎌倉幕府の将軍に対するリスペクトをこめて、家人に御の字がついておるのです。

③経済活動
11世紀後半以降、日本は朝鮮半島の高麗(こうらい)や中国の宋(そう)との間で、
積極的に商船を往来させるようになります。
といっても、あくまで私貿易です。
国と国の正式な貿易ではありません。

12世紀、宋は女真族(じょしんぞく)が建てた金(きん)という国に皇帝を連れ去られて滅んでしまうのですが、このとき難を逃れた皇帝の弟が、南にうつって宋を再興します。
もともとの宋を北宋(ほくそう)、再興した後の宋を南宋(なんそう)と呼んで両者を区別するのですが、
平氏がおこなった日宋貿易の相手国は南宋です。

そもそも南宋との私貿易に注目したのは、平忠盛(たいらのただもり)です。
彼は瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐して貿易ルートを確保し、日宋貿易を活発におこないます。
平忠盛は、これによって莫大な富を得るだけでなく、
輸入した珍しい品々を白河法皇や鳥羽上皇に献上して、両者からかわいがられるようにもなるのです。

平忠盛の息子である平清盛も、積極的に日宋貿易に取り組みます。
摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の兵庫県神戸市)という港を修築したり、
音戸の瀬戸(おんどのせと、現在の広島県呉市)という海峡を開削したりするなど、
よりスムーズに商船の往来ができるよう尽力します。

ちなみに、音戸の瀬戸の開削工事については、次のような伝説が残されています。

いよいよ今日で開削工事が完成するぞ!という日。
太陽が沈んでしまって、残念ながらその日のうちに工事は終わりませんでした。
すると、平清盛はおもむろに岩の上に立ち、
沈んだ太陽に向かい、金ピカの扇を広げて「かえせ、もどせ」と叫びます。

そしたらですよ!

太陽が再び昇り、その日のうちに工事は完成したんだとか!!

平安17-2.jpg

ウッソーん!!って感じですが、
太陽を従えることができた、なんてゆー伝説を残しているあたり、
平清盛の影響力の大きさを知ることができますね。
まぁ…ウソだろけどね!!

日宋貿易の貿易品は以下の通りです。

【輸出品】金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器・扇など
【輸入品】宋銭(そうせん)・陶磁器・書籍・香料・薬品など

銅銭(銅でできたお金のこと)である宋銭の輸入は、日本に貨幣経済をもたらします。
また、書籍のうち、仏教経典は鎌倉仏教に影響を与えることになります。

では最後に解答を載せておきましょう。

平安17解答.jpg



次回から2回にわたって、院政期の文化をまとめてゆきます。

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nassi

分かりやすすぎるし、イラスト可愛すぎるし、、これ無料でみていいんですか140;1034
by nassi (2020-08-20 15:56) 

春之助

nassi様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
どうぞ無料でご覧くださいませ(笑)

by 春之助 (2020-08-21 21:13) 

さくらさくら

いつも助かっています!すべての記事を拝見させて頂いているのですが、とくに文化史の回が本当に素晴らしいので、鎌倉文化のまとめを作っていただきたいです!楽しみにしています❣️
by さくらさくら (2020-08-23 12:18) 

春之助

さくらさくら様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
専門は政治史なのですが、実は文化史が大好きです。
毎回文化には力を入れてしまうので、素晴らしいと評価して頂き嬉しい限りです!
まとめプリントは順番に作っているので(いまは一番好きな院政期の文化を執筆中です…)、申し訳ありませんが鎌倉文化はまだまだ先になりそうです…もうしばらくお待ちくださいませ!
by 春之助 (2020-08-23 14:13) 

親子で楽しみにしています

1177年のページで中1の息子が「学校の授業よりも判りやすく、面白い」と楽しみに拝読していると書いたものです。
毎回充実した内容の更新ありがとうございます。
無料でこんなに素晴らしいものを拝読させて頂いて、いつも申し訳ないなと思います。

春之助様は文化史もお好きだと他の方のコメントで拝読しました。
我が家は桃山文化や元禄文化が大好きなので、そのまとめができるのを今から心待ちにしております。
by 親子で楽しみにしています (2020-08-27 23:29) 

春之助

親子で楽しみにしています様
再びのコメント、ありがとうございます!
ブログだとなかなか読者様の反応が分からないので、とても励みになります!!

桃山文化や元禄文化を書く日は一体いつになることか分かりませんが、地道に書き進めて参ります。
息子さんの大学受験までには…間に合いますように…
by 春之助 (2020-08-28 11:09) 

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