1203年 北条時政が執権に就任する [年号のゴロ合わせ]
前回は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の支配機構をプリントにまとめました。
今日は、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝(みなもとのよりとも)の死後、
1203年に北条時政(ほうじょうときまさ)が執権(しっけん)に就任する過程を見てゆきます。
1199年、源頼朝が満51歳で急死します。
なんでも、源頼朝の乗っていた馬が、平氏の亡霊を見て驚き、
源頼朝を落っことしてしまったことが死につながったんだとか。
あとを継ぐのは、
源頼朝と北条政子(ほうじょうまさこ)の間に生まれた嫡男(ちゃくなん、跡取りとなる長男のこと)、
源頼家(みなもとのよりいえ)です。
幼いころから鎌倉殿(かまくらどの)になる将来が約束されていた彼は、このとき満18歳。
鎌倉殿にふさわしい、武芸に秀でた立派な青年に成長しています。
そんな源頼家が信頼するのは、比企能員(ひきよしかず)という御家人です。
比企氏は、源頼朝の乳母(うば)を輩出した家柄で、
源頼家の乳母(複数人います)も、比企能員の妻をはじめ、ほとんどが比企氏から選ばれます。
乳母の夫である比企能員は、養育係として幼いころから源頼家を支えます。
また、娘の若狭局(わかさのつぼね)を源頼家のもとに嫁がせ、
2人の間には一幡(いちまん)という男の子が誕生します。
源頼家と比企能員の絆は、深まってゆくばかりです。

これに不満を抱くのが、北条時政です。
北条時政は源頼家の外戚(がいせき、お母さん側の親戚のこと)にあたるのに、
源頼家は比企能員ばっかり頼りにするもんだから、全然オモシロくありません。
しかも、このタイミングで源頼朝が急死し、源頼家が鎌倉殿となったのです。
のちのち、その地位を一幡が継ぐことになれば、
比企能員が鎌倉殿の外戚としてますます権勢を誇ることは明らかです。
このままだと北条氏はダメになってしまいます。
北条時政は焦ります。
めちゃくちゃ焦ります。
そんななか、鎌倉幕府の政治体制が大きく変わります。
源頼朝という絶大な権力者を失った鎌倉幕府は、
若くて政治経験の乏(とぼ)しい源頼家に政治を主導させるのではなく、
有力御家人13人の合議(ごうぎ、複数人による話し合いのこと)によって政治をすすめる体制を発足させるのです。
これを、十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)とか、十三名の合議制(じゅうさんめいのごうぎせい)と呼びます。
すごくそのまんまの名称なのがありがたい!(笑)
ちなみに、2022年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、これを題材とするのだそうですよ。
楽しみですね~♪
十三人の合議制の構成メンバーはというと、北条時政や比企能員はもちろんのこと、
大江広元(おおえのひろもと、政所初代別当)、
三善康信(みよしのやすのぶ、問注所初代執事)、
和田義盛(わだよしもり、侍所初代別当)といった、みなさんご存知の人物も名を連ねます。
そのほか、梶原景時(かじわらかげとき)・三浦義澄(みうらよしずみ)・畠山重忠(はたけやましげただ)といった源頼朝の重臣たちも選ばれます。
(13人全員をここでは紹介しませんし、覚える必要もありませんので安心してください☆)
あれよあれよという間に鎌倉殿としての専制を制限されてしまう源頼家ですが、
1202年、朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、鎌倉幕府第2代将軍となります。
* * *
ところが翌1203年になると、源頼家はしばしば体調不良をおこすようになり、
8月末には容態が急変して危篤(きとく)状態に陥ってしまいます。
焦る北条時政にとって、これは絶好の機会です(おじいちゃんヒドい!!)。
この隙に源頼家とべったりな比企能員と一幡の力をそいで、
源頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも)を推して、北条氏の勢いを盛り返そうとします。
(源実朝のお母さんは北条時政の娘である北条政子で、乳母も北条時政の娘がつとめています)
そんな北条時政のたくらみを、比企能員は源頼家にリークします。
すると、源頼家は比企能員を病床に招き、北条時政を討つよう命じるのです。
9月2日の朝のことです。
この2人のやりとりをこっそり立ち聞きしていた人物がいます。
北条政子です。
彼女は、身の危険が迫っていることを、いそぎ父親である北条時政に知らせます。

その日の昼ごろ、比企能員は北条時政から「相談したいことがあるからウチに来て☆」と誘われます。
怪しい!
めっちゃ怪しい!!
ぜったい怪しい!!!
あまりにも怪しいので、一族のみんなは武装して行くよう勧めるのですが、
比企能員は「そんなことしたら、逆に怪しまれるではないか!」と、平服のまま出かけます。
そして、北条時政のウチに入るやいなや、武装した北条氏の家来たちに刺し殺されてしまうのです!
ホラーーーッ!
言わんこっちゃないーーーーッッ!!(泣)
比企能員が殺害されたことを知った比企氏の一族は、いそぎ一幡の屋敷に集まりますが、
すぐさま北条氏の大軍によって包囲されてしまいます。
そして、激しい戦いのすえ、比企氏は屋敷に火を放ち、一幡とともに自害して果てるのです。
これを比企能員の乱(ひきよしかずのらん)とか、比企能員の変(ひきよしかずのへん)といいます。
(一幡は若狭局とともに逃れたものの、のちに殺害された…とも伝わっています)
その3日後の9月5日、体調がよくなった源頼家は、一幡の死と比企氏の滅亡を知ります。
怒り狂った源頼家は、北条時政の追討を命じますが、従う者はすでになく、
9月7日には北条政子の命によって出家させられてしまうのです。
以上の流れは、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』(あずまかがみ)という歴史書に拠っています。
『吾妻鏡』については、のちのち鎌倉文化(かまくらぶんか)のところで紹介しますね!
* * *
このころ、朝廷に一通の手紙が届きます。
それは、「9月1日に源頼家が死んだので、源実朝を将軍に任命してください」という内容の、
鎌倉幕府からの手紙です。
え?
ちょっと待って!!
源頼家死んでない!
死んでないよォォォォーーーーッッッ!!
それなのに、死んだって手紙が朝廷に届いてるんです。
エッ、なんかめっちゃ怖い!
9月1日に源頼家が死ぬこと前提でコレ書いてるってことでしょ!?
病気で死にそうだったから?
いやでも死んでないよね??
まさか殺すつもりだったの???
なんかもう「?」がいっぱいですよ!
一体どのタイミングで書いたんでしょうね!!
しかもなんと!
この手紙、『吾妻鏡』には記録されていないんです。
鎌倉幕府の歴史書なのにですよ??
一体どこに記録されているのかというと、京都に住むお公家さんの日記です。
といっても、これを記録しているお公家さんは一人じゃないんですよ。
複数人の日記で確認できるのだそうです。
となると、この手紙の信憑性はかなり高いと考えられます。
ではなぜ『吾妻鏡』はこの手紙を記録していないのでしょうか…
実は、『吾妻鏡』は北条氏バンザイ的スタンスで編纂された歴史書なんです。
北条氏を正当化するため、北条氏にとって都合が悪い部分はいろいろカットしてあるっぽいのです。
つまり、『吾妻鏡』がこの手紙を記録していないのは…
北条氏にとって都合が悪いものだからだと考えられませんか…
源実朝を将軍に就任させたい北条氏の筆によるものだと考えられませんか…
この手紙が朝廷に届くころ、死ななかった源頼家が出家させられたのも納得がいきませんか…
となると、比企能員の乱もなんかすんごく怪しく見えてきますよね。
だって、朝から源頼家と比企能員がコソコソバナシしてるのをオカンが立ち聞きしてて、
お昼には北条時政が比企能員を自宅に誘い込んで殺して一族まで滅ぼすとか段取りよすぎません?
そもそも危篤の源頼家が、比企能員とコソコソバナシなんてできたのかね??
「?」は募るばかりです…
歴史はつねに勝者によって語られます。
その語りがおかしくても、敗者はなかなか異を唱えることはできません。
歴史を見るときは、ぜひ敗者の目線も気にしてもらいたいな…と思います。
(あわせて663年のゴロ合わせも読んでくださいね)
* * *
そんなワケで、1203年9月、源実朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府第3代将軍となります。
これと同時に、北条時政は大江広元とともに政所別当をつとめることになり、
さらに初代執権(しっけん)にも任命され、権力をほしいままにするのです。
失意の源頼家は、伊豆国(いずのくに)の修禅寺(しゅぜんじ)というお寺に幽閉され、
翌1204年、満21歳の若さでこの世を去ります。
お風呂に入っているところを襲撃され、暗殺されたんだそうです。
この時代のお風呂は、浴衣(ゆかた)を一枚着て蒸気を浴びるサウナみたいなものなので、
源頼家は浴衣一枚のところを襲われたことになります。
丸腰とはいえ、さすが武芸に秀でた源頼家は激しく抵抗します。
しかし、最後は首にヒモを巻き付けられ、
男性のダイジナトコロを取られうえで刺し殺されたと伝わっています。
すごいトコロで終わってしまいますが、最後に今日のゴロ合わせを見ておきましょう。

梶原景時も畠山重忠も十三人の合議制のメンバーです。
梶原景時は、有力御家人たちと対立して失脚し、謀叛をくわだてたとして1200年に討たれます。
畠山重忠も1205年に討たれています。
北条氏、絶好調ですね~!
次回は、和田合戦(わだがっせん)をゴロ合わせとともにお届けします。
ちなみに、系図のなかにいる、源頼家の息子である公暁(くぎょう)の名前、
次回登場するので覚えておいてくださいね!

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今日は、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝(みなもとのよりとも)の死後、
1203年に北条時政(ほうじょうときまさ)が執権(しっけん)に就任する過程を見てゆきます。
1199年、源頼朝が満51歳で急死します。
なんでも、源頼朝の乗っていた馬が、平氏の亡霊を見て驚き、
源頼朝を落っことしてしまったことが死につながったんだとか。
あとを継ぐのは、
源頼朝と北条政子(ほうじょうまさこ)の間に生まれた嫡男(ちゃくなん、跡取りとなる長男のこと)、
源頼家(みなもとのよりいえ)です。
幼いころから鎌倉殿(かまくらどの)になる将来が約束されていた彼は、このとき満18歳。
鎌倉殿にふさわしい、武芸に秀でた立派な青年に成長しています。
そんな源頼家が信頼するのは、比企能員(ひきよしかず)という御家人です。
比企氏は、源頼朝の乳母(うば)を輩出した家柄で、
源頼家の乳母(複数人います)も、比企能員の妻をはじめ、ほとんどが比企氏から選ばれます。
乳母の夫である比企能員は、養育係として幼いころから源頼家を支えます。
また、娘の若狭局(わかさのつぼね)を源頼家のもとに嫁がせ、
2人の間には一幡(いちまん)という男の子が誕生します。
源頼家と比企能員の絆は、深まってゆくばかりです。

これに不満を抱くのが、北条時政です。
北条時政は源頼家の外戚(がいせき、お母さん側の親戚のこと)にあたるのに、
源頼家は比企能員ばっかり頼りにするもんだから、全然オモシロくありません。
しかも、このタイミングで源頼朝が急死し、源頼家が鎌倉殿となったのです。
のちのち、その地位を一幡が継ぐことになれば、
比企能員が鎌倉殿の外戚としてますます権勢を誇ることは明らかです。
このままだと北条氏はダメになってしまいます。
北条時政は焦ります。
めちゃくちゃ焦ります。
そんななか、鎌倉幕府の政治体制が大きく変わります。
源頼朝という絶大な権力者を失った鎌倉幕府は、
若くて政治経験の乏(とぼ)しい源頼家に政治を主導させるのではなく、
有力御家人13人の合議(ごうぎ、複数人による話し合いのこと)によって政治をすすめる体制を発足させるのです。
これを、十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)とか、十三名の合議制(じゅうさんめいのごうぎせい)と呼びます。
すごくそのまんまの名称なのがありがたい!(笑)
ちなみに、2022年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、これを題材とするのだそうですよ。
楽しみですね~♪
十三人の合議制の構成メンバーはというと、北条時政や比企能員はもちろんのこと、
大江広元(おおえのひろもと、政所初代別当)、
三善康信(みよしのやすのぶ、問注所初代執事)、
和田義盛(わだよしもり、侍所初代別当)といった、みなさんご存知の人物も名を連ねます。
そのほか、梶原景時(かじわらかげとき)・三浦義澄(みうらよしずみ)・畠山重忠(はたけやましげただ)といった源頼朝の重臣たちも選ばれます。
(13人全員をここでは紹介しませんし、覚える必要もありませんので安心してください☆)
あれよあれよという間に鎌倉殿としての専制を制限されてしまう源頼家ですが、
1202年、朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、鎌倉幕府第2代将軍となります。
* * *
ところが翌1203年になると、源頼家はしばしば体調不良をおこすようになり、
8月末には容態が急変して危篤(きとく)状態に陥ってしまいます。
焦る北条時政にとって、これは絶好の機会です(おじいちゃんヒドい!!)。
この隙に源頼家とべったりな比企能員と一幡の力をそいで、
源頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも)を推して、北条氏の勢いを盛り返そうとします。
(源実朝のお母さんは北条時政の娘である北条政子で、乳母も北条時政の娘がつとめています)
そんな北条時政のたくらみを、比企能員は源頼家にリークします。
すると、源頼家は比企能員を病床に招き、北条時政を討つよう命じるのです。
9月2日の朝のことです。
この2人のやりとりをこっそり立ち聞きしていた人物がいます。
北条政子です。
彼女は、身の危険が迫っていることを、いそぎ父親である北条時政に知らせます。

その日の昼ごろ、比企能員は北条時政から「相談したいことがあるからウチに来て☆」と誘われます。
怪しい!
めっちゃ怪しい!!
ぜったい怪しい!!!
あまりにも怪しいので、一族のみんなは武装して行くよう勧めるのですが、
比企能員は「そんなことしたら、逆に怪しまれるではないか!」と、平服のまま出かけます。
そして、北条時政のウチに入るやいなや、武装した北条氏の家来たちに刺し殺されてしまうのです!
ホラーーーッ!
言わんこっちゃないーーーーッッ!!(泣)
比企能員が殺害されたことを知った比企氏の一族は、いそぎ一幡の屋敷に集まりますが、
すぐさま北条氏の大軍によって包囲されてしまいます。
そして、激しい戦いのすえ、比企氏は屋敷に火を放ち、一幡とともに自害して果てるのです。
これを比企能員の乱(ひきよしかずのらん)とか、比企能員の変(ひきよしかずのへん)といいます。
(一幡は若狭局とともに逃れたものの、のちに殺害された…とも伝わっています)
その3日後の9月5日、体調がよくなった源頼家は、一幡の死と比企氏の滅亡を知ります。
怒り狂った源頼家は、北条時政の追討を命じますが、従う者はすでになく、
9月7日には北条政子の命によって出家させられてしまうのです。
以上の流れは、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』(あずまかがみ)という歴史書に拠っています。
『吾妻鏡』については、のちのち鎌倉文化(かまくらぶんか)のところで紹介しますね!
* * *
このころ、朝廷に一通の手紙が届きます。
それは、「9月1日に源頼家が死んだので、源実朝を将軍に任命してください」という内容の、
鎌倉幕府からの手紙です。
え?
ちょっと待って!!
源頼家死んでない!
死んでないよォォォォーーーーッッッ!!
それなのに、死んだって手紙が朝廷に届いてるんです。
エッ、なんかめっちゃ怖い!
9月1日に源頼家が死ぬこと前提でコレ書いてるってことでしょ!?
病気で死にそうだったから?
いやでも死んでないよね??
まさか殺すつもりだったの???
なんかもう「?」がいっぱいですよ!
一体どのタイミングで書いたんでしょうね!!
しかもなんと!
この手紙、『吾妻鏡』には記録されていないんです。
鎌倉幕府の歴史書なのにですよ??
一体どこに記録されているのかというと、京都に住むお公家さんの日記です。
といっても、これを記録しているお公家さんは一人じゃないんですよ。
複数人の日記で確認できるのだそうです。
となると、この手紙の信憑性はかなり高いと考えられます。
ではなぜ『吾妻鏡』はこの手紙を記録していないのでしょうか…
実は、『吾妻鏡』は北条氏バンザイ的スタンスで編纂された歴史書なんです。
北条氏を正当化するため、北条氏にとって都合が悪い部分はいろいろカットしてあるっぽいのです。
つまり、『吾妻鏡』がこの手紙を記録していないのは…
北条氏にとって都合が悪いものだからだと考えられませんか…
源実朝を将軍に就任させたい北条氏の筆によるものだと考えられませんか…
この手紙が朝廷に届くころ、死ななかった源頼家が出家させられたのも納得がいきませんか…
となると、比企能員の乱もなんかすんごく怪しく見えてきますよね。
だって、朝から源頼家と比企能員がコソコソバナシしてるのをオカンが立ち聞きしてて、
お昼には北条時政が比企能員を自宅に誘い込んで殺して一族まで滅ぼすとか段取りよすぎません?
そもそも危篤の源頼家が、比企能員とコソコソバナシなんてできたのかね??
「?」は募るばかりです…
歴史はつねに勝者によって語られます。
その語りがおかしくても、敗者はなかなか異を唱えることはできません。
歴史を見るときは、ぜひ敗者の目線も気にしてもらいたいな…と思います。
(あわせて663年のゴロ合わせも読んでくださいね)
* * *
そんなワケで、1203年9月、源実朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府第3代将軍となります。
これと同時に、北条時政は大江広元とともに政所別当をつとめることになり、
さらに初代執権(しっけん)にも任命され、権力をほしいままにするのです。
失意の源頼家は、伊豆国(いずのくに)の修禅寺(しゅぜんじ)というお寺に幽閉され、
翌1204年、満21歳の若さでこの世を去ります。
お風呂に入っているところを襲撃され、暗殺されたんだそうです。
この時代のお風呂は、浴衣(ゆかた)を一枚着て蒸気を浴びるサウナみたいなものなので、
源頼家は浴衣一枚のところを襲われたことになります。
丸腰とはいえ、さすが武芸に秀でた源頼家は激しく抵抗します。
しかし、最後は首にヒモを巻き付けられ、
男性のダイジナトコロを取られうえで刺し殺されたと伝わっています。
すごいトコロで終わってしまいますが、最後に今日のゴロ合わせを見ておきましょう。

梶原景時も畠山重忠も十三人の合議制のメンバーです。
梶原景時は、有力御家人たちと対立して失脚し、謀叛をくわだてたとして1200年に討たれます。
畠山重忠も1205年に討たれています。
北条氏、絶好調ですね~!
次回は、和田合戦(わだがっせん)をゴロ合わせとともにお届けします。
ちなみに、系図のなかにいる、源頼家の息子である公暁(くぎょう)の名前、
次回登場するので覚えておいてくださいね!

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いつもながら分かりやすく面白く歴史をまとめられて大変感心しています。春之助さんのブログが教科書になれば日本史も楽しく学べるのではないかと思います!!^^
by tomi_tomi (2021-06-01 15:37)
tomi_tomi様
いつもありがとうございます!
複雑な歴史を分かりやすくまとめられているか、面白く書けているか、ちゃんと史実が伝わっているか、不安を抱えながらのブログですが、今後ともよろしくお願いいたします☆
by 春之助 (2021-06-01 22:12)
今回も楽しく読むことができました。ありがとうございます。
by ハマコウ (2021-06-02 13:37)
ハマコウ様
いつもありがとうございます!
これからもよろしくお願いいたします!!
by 春之助 (2021-06-02 14:19)
以前メールで許可を頂き、今もイラストを高校の授業スライドのなかで活用させてもらっています。生徒たちにも大変好評で、授業で習った内容を自宅で復習するときにブログを見ている生徒もいるようです。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
by Blossom (2021-06-11 09:28)
Blossom様
いつもありがとうございます!
教壇に立っているときと違って、ブログは相手の反応が見えないので、生徒さんの反応を教えて頂くことはとても励みになります☆
のろのろ更新のブログですが、これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2021-06-14 14:30)
旧石器時代から勉強し始めた「年寄り」です。
たらればです、山川の教科書で勉強したA高と、春之助さんのプリントで勉強したB高が模試を受けました。結果は、驚くなかれ、、、
日本史に興味がないという生徒は、春之助さんブログにハマると思いますが、教科書にハマる生徒はいるのかなぁ。
by 大鳥圭介 (2021-07-01 14:12)