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1221年 承久の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、有力御家人が次々と消えてゆくなか、北条氏が権力を独占してゆく流れをまとめました。
今日は、そんな北条氏に対して後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が起こした承久の乱(じょうきゅうのらん)を、ゴロ合わせとともにお届けします。



後鳥羽上皇が天皇の座についたのは、
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のまっただなかである1183年のことです。

天皇の即位には、正当な天皇の証である三種の神器(さんしゅのじんぎ)を必要とするのですが、
このとき、平氏&安徳天皇(あんとくてんのう)とともに都落ち(みやこおち)の真っ最中。
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、やむなく三種の神器なしで即位します。

朝廷がとくに伝統と儀式を重んじる世界であるがゆえに、
このことは後鳥羽天皇にとって強烈なコンプレックスになったと考えられます。
壇の浦の戦いで海に沈んだとされる剣(三種の神器の1つ)の捜索も再三おこなっています。

1198年、息子の土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲位した後鳥羽上皇は、
院政(いんせい)を開始し、朝廷をパワーアップさせるべく改革に乗り出します。

たとえば、さまざまな皇族がそれぞれに所有していた荘園を、
後鳥羽上皇やその子どもたちのもとに集め、経済的基盤の強化をはかります。

また、これまでの北面の武士(ほくめんのぶし)にくわえ、
あらたに西面の武士(さいめんのぶし、西面武士と書いてもOK!)を創設し、
朝廷の軍事力の強化にもつとめます。

どちらも上皇や院御所(いんのごしょ)の警備に当たるガードマンで、
院御所の北側に組織されたのが北面の武士、西側に組織されたのが西面の武士です。
西面の武士の多くは、御家人(ごけにん)であったようです。

三種の神器なしで即位した、というコンプレックスを克服するかのように、
後鳥羽上皇は朝廷勢力の挽回(ばんかい)をめざして奔走するのです。

*   *   *

清和源氏(せいわげんじ)の源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉で武家政権を樹立して以来、
東国では鎌倉幕府による支配が浸透してゆきます。
とはいえ、畿内(きない)・西国ではまだまだ朝廷の勢力が根強く、
西日本は朝廷が、東日本は鎌倉幕府が、それぞれ支配するよーな体制が続きます。

とはいえ、
清和天皇(せいわてんのう)の血をひく将軍が鎌倉幕府を率いている、ということもあってか、
両者はなかなかイイカンジの関係を築きます。
鎌倉幕府第3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)なんて、
後鳥羽上皇から「実朝」の名前を決めてもらってるくらいですからねー。

ところが!
1219年、その源実朝が亡くなります!!

雪が降り積もる鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、
第2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)の息子である公暁(くぎょう)によって暗殺されるのです。

そういえば、源頼家ってヒドい亡くなり方をしましたもんね…(詳しくはコチラ
公暁が父の仇(かたき)を討とうと考えるのも、無理ないことかもしれません…

1221-1.jpg

このとき公暁は、源実朝と一緒にいた執権(しっけん)の北条義時(ほうじょうよしとき)も殺害します。

ところが!
なんとその人物は北条義時ではなかったのです!!
北条義時は直前に体調不良をおこしたため、別の人物が源実朝に付き添っていたんだとか!!!

すっごいタイミングで体調不良おこしたもんだよネー…
おかげで北条義時は命拾いします。

源実朝には子どもがいなかったため、
北条義時は、後鳥羽上皇の息子を鎌倉幕府の第4代将軍に迎えようとします。

これを!
後鳥羽上皇は!!
拒否するのです!!!

エェッ!?
いままでイイカンジの関係だったのにッッ!!??

仕方なく、鎌倉幕府は源氏と血のつながりがあって、しかもヨイ家柄にある将軍候補者を探します。
その結果、摂関家のなかから源実朝のすんごーーーーい遠い親戚にあたる、
藤原頼経(ふじわらのよりつね)という人物を見つけ出すのです。
姓だと藤原頼経で、名字だと九条頼経(くじょうよりつね)です(姓と名字の違いはコチラ)。

でもね…
彼、まだ満1歳なんですよ…

そこで鎌倉幕府は、藤原頼経を未来の将軍として鎌倉に迎えつつ、
彼が元服(げんぷく)するまでは北条政子(ほうじょうまさこ)がその代役をつとめ、
北条政子の弟である執権の北条義時が補佐することにしたのです。
北条政子が尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれるのはこのためです。

尼(あま)とは、出家(しゅっけ)した女性を意味します。
このころ、旦那さんが亡くなると、奥さんは出家することが多く、
北条政子も旦那さんである源頼朝の死にともない出家して、尼さんになっています。

ちなみに、北条政子って白い頭巾(ずきん)をかぶっているイメージがありませんか?
あれは、出家する際に短くした髪を隠すようにかぶるものなんだそうです。
今後、ブログに白い頭巾をかぶった女性が登場したら、尼さんだと思ってくださいね~!

*   *   *

将軍の跡継ぎ問題を1つのきっかけに、朝廷と鎌倉幕府の関係はどんどん悪化してゆきます。

やがて後鳥羽上皇は、天皇の血をひくでもないのに鎌倉幕府を支配する北条氏をたおし、
(北条氏は、桓武平氏(かんむへいし)の流れを汲む、と自称してはおりますが…)
朝廷を本来の姿、すなわち全国を支配する統一政権に戻したいと考えるようになります。
これも例のコンプレックスが影響しているのでしょうかねぇ…

後鳥羽上皇の息子である順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、これに賛同します。
なんてったって彼は、『禁秘抄』(きんぴしょう)という本に朝廷の儀式などを詳しくまとめたりして、
朝廷のスゴさを熱心にアピールしてきた人物です。
さっそく息子の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、満3歳)に譲位して、来たるべき日に備えます。

しかし、土御門上皇(つちみかどじょうこう)をはじめ、
朝廷では後鳥羽上皇の考えに反対する意見も多く見られます。

土御門上皇は、お父さんの後鳥羽上皇とはちがって、すごくのほほんとした性格だったようです。
天皇だったころ、後鳥羽上皇から「そんな性格では鎌倉幕府にナメられる!」と怒られ、
弟の順徳天皇に譲位させられた、という過去をもつほどです。

そんな土御門上皇に二人を止められるハズがなく、
後鳥羽上皇&順徳上皇(じゅんとくじょうこう)親子はついに立ち上がります!

1221年5月、北面の武士・西面の武士をはじめ、たくさんの兵を集めたうえで、
北条義時追討の院宣(いんぜん)を出すのです!!

これにより、北条義時は朝廷から追われる身、すなわち朝敵(ちょうてき)となります。

日本史史上、朝敵になるというのは本当にもうドえらいことなんですよ!
朝廷から敵認定されるなんて、人生においてあってはならんことなんですよ!!

とゆーわけで、

朝敵の北条義時に味方するヤツなんて誰もいないんじゃね?
いやもう北条義時なんて一瞬で追討されちゃうんじゃね??

と、後鳥羽上皇はドーンと構えます。

一方、鎌倉の御家人たちは超パニックです。

「いざ鎌倉!」って鎌倉幕府のもとに駆けつけたら自分も朝敵になっちゃうかもしれないし、
かといって、恩のある鎌倉幕府を見捨てて朝廷に駆けつけるのもどうかと思うし…
もうマジでどうしたらいいんか分からん!と、みんなうろたえます。

すると!
そんな御家人たちの前に!!
尼将軍・北条政子が立ち塞がります!!!

そして、

亡き源頼朝さまのおかげで、あなたたちの地位は上がり、土地も増えました。
あなたたちが源頼朝さまからうけた御恩は、山よりも高く、海よりも深いのです。

と、源頼朝から施された恩のスゴさを説き、
いまこそそれに報いるべきであることを涙ながらに訴えるのです!!!!

1221-2.jpg

てゆーか、朝敵になったの北条義時だよね?源頼朝の恩と関係なくね??と突っ込みたくなりますが、
鎌倉の御家人たちは、北条政子の演説に心を動かされ、立ち上がります!

北条義時の息子である北条泰時(ほうじょうやすとき)と、
北条義時の弟である北条時房(ほうじょうときふさ)によって率られた軍勢は、
およそ19万騎にもふくれあがり、京へと押し寄せるのです!!

んもう後鳥羽上皇チョービックリですよ!
院宣を無視して大軍が京に攻めのぼってくるなんて、まったくの想定外です!!

あわてて迎撃の準備をするものの、もちろん間に合うワケがありません。
朝廷は大敗を喫し、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を取り消すのです。

*   *   *

では、承久の乱の結果をみていきましょう。

①3人の上皇の配流(はいる)・天皇の廃位(はいい)

後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま)に、順徳上皇は佐渡島(さどがしま)に、
土御門上皇は土佐国(とさのくに)に流罪(るざい)となり、
仲恭天皇は廃位、すなわち天皇の座を追われます。
即位からわずか81日…歴代天皇のなかで最短の在位期間です。

ん?
てゆーか土御門上皇??

そーなんです!
土御門上皇は承久の乱にこれっぽっちも関わっていないのに、
「お父さんや弟が島流しになるのに、自分だけのほほんと京にはいられない!」と、
自ら志願して流罪になったのです!!

いやいや、アナタむしろ承久の乱に反対してたんやから、流されんでもエエやん!(涙)

さすがに鎌倉幕府もなんかちょっといたたまれなくなったのか、
のちに土佐国よりも京に近い阿波国(あわのくに)にうつしてあげています。

②後鳥羽上皇に味方した者の所領の没収

鎌倉幕府は、後鳥羽上皇に味方した貴族や武士の所領およそ3000ヶ所を没収し、
鎌倉幕府のために頑張ってくれた御家人たちに御恩(ごおん)として与えます。
もちろん、その所領の地頭に任命する新恩給与(しんおんきゅうよ)の形でです。

没収した所領の多くは畿内・西国にあったため、
これにより鎌倉幕府の支配が西日本にも及ぶようになるのです。

このとき新しく補任(ぶにん、任命されること)された地頭を新補地頭(しんぽじとう)と呼び、
それ以前から補任されていた本補地頭(ほんぽじとう)と区別しますが、
両者の違いについては、次回のまとめプリントで詳しく触れたいと思います。

③六波羅探題(ろくはらたんだい)の設置

北条政子の演説のあと、大軍を率いて京にのぼった北条泰時と北条時房は、
そのまま六波羅(ろくはら)の北と南にとどまって、承久の乱の戦後処理をおこないます。
これが、京都守護(きょうとしゅご)にかわって組織される六波羅探題となるのです。

北条泰時が北方の、北条時房が南方の初代六波羅探題に任命されますが、
これは執権や連署(れんしょ)に次ぐ重要なポストとして、北条氏が世襲してゆきます。
職務内容は、朝廷の監視・京都内外の警備・西国の統轄です。

ちなみに、六波羅探題が置かれた場所は、
かつて六波羅殿(ろくはらどの)こと平清盛(たいらのきよもり)のウチがあったところなんですよ~。

*   *   *

朝廷が西日本を、鎌倉幕府が東日本を支配する体制は、承久の乱によって一気に崩れ、
鎌倉幕府の支配権は全国におよぶようになります。

さらに、鎌倉幕府は六波羅探題を設置して朝廷を監視し、
皇位の継承や朝廷の政治にも口をはさむようになるなど、
朝廷より優位にたつことに成功するのです。

では最後に、ゴロ合わせをのせておきましょう。

1221年.jpg



次回は、源頼朝が将軍に就任してから、承久の乱までの流れをまとめプリントで復習します。

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コメント 4

はな

こんなに細かく書いてあるのに本当に分かりやすく、とても助かっています。有難うございます[涙]
次の更新を楽しみに待っています[わーい(嬉しい顔)]
by はな (2021-08-03 18:26) 

春之助

はな様
コメントありがとうございます!
なるべく簡潔に、でも詳しくおもしろさを伝えることを目標にしているので、嬉しいです!!
のろのろ更新のブログですが、これからもよろしくお願いします☆
by 春之助 (2021-08-05 22:20) 

たかっち

はじめまして。こっそりと拝見させていただいております。
子どもの頃から日本史は大好きですが、好きな時代以外は、教科書内容を覚えた程度でした。
なので、こんなに色んな背景などを知らないことが多く、楽しく読ませていただいております。
読んでいて、おそらく春之助さんと同年代位(2〜3歳ほど私が上でしょうか。)かなとは思いますが、「日本史において、知らないことは無いのかな?」と感心するばかり。
お忙しいとは思いますが、頑張って更新をよろしくお願いいたします。
by たかっち (2021-08-16 20:01) 

春之助

たかっち様
コメントありがとうございます!
同年代(私はアラフォーです…)の方にも読んで頂けているとのこと、たいへん嬉しく思います!
のろのろ更新のブログですが、これからもよろしくお願いします★
by 春之助 (2021-08-20 22:58) 

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