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鎌倉時代(3) [まとめプリント]

今日は、鎌倉時代(2)の続き、源頼朝(みなもとのよりとも)の将軍(しょうぐん)就任から、承久の乱(じょうきゅうのらん)までの流れをまとめてゆきます。

鎌倉3.jpg

1192年、源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任します。

初代将軍の源頼朝、
第2代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)、
第3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)、
この3人をまとめて源氏将軍(げんじしょうぐん)と呼びます。

ついでにここで、鎌倉幕府の将軍を全員紹介しておきましょう。

第4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)、または、九条頼経(くじょうよりつね)、
第5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)、または、九条頼嗣(くじょうよりつぐ)、
藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)から迎えられたこの2人を、
まとめて摂家将軍(せっけしょうぐん)とか、藤原将軍(ふじわらしょうぐん)と呼びます。
藤原が姓で、九条が名字ですからね~!(姓と名字の違いはコチラ

続いて、
第6代将軍の宗尊親王(むねたかしんのう)、
第7代将軍の惟康親王(これやすしんのう)、
第8代将軍の久明親王(ひさあきらしんのう、または、ひさあきしんのう)、
第9代将軍の守邦親王(もりくにしんのう)、
この4人をまとめて皇族将軍(こうぞくしょうぐん)と呼びます。
親王将軍(しんのうしょうぐん)とか、宮将軍(みやしょうぐん)と呼ぶこともあります。

今日取り上げるのは3代将軍までですので、
4代目以降の将軍については、とりあえずプリント右上の系図に「○○将軍」と書き込んでおいてください☆

*   *   *

1199年、源頼朝の死去にともない、嫡男(ちゃくなん)の源頼家が跡を継ぎますが、
源頼家の専制は制限され、有力御家人13人の合議(ごうぎ)による政治がはじまります。
これを、十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)とか、十三名の合議制(じゅうさんめいのごうぎせい)と呼びます。

1202年、源頼家は朝廷から第2代将軍に任命されるものの、
翌年になると、しばしば体調不良を起こすようになります。

この隙(すき)に、北条時政(ほうじょうときまさ)は、
源頼家とベッタリな関係にある有力御家人の比企能員(ひきよしかず)を滅ぼし、
さらに病み上がりの源頼家を伊豆国(いずのくに)の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉してしまいます。
これを比企能員の乱(ひきよしかずのらん)といいます(源頼家は、1204年に修禅寺で暗殺されます)。

1203年、北条時政は、第3代将軍となった孫の源実朝のもと、初代執権(しっけん)に就任し、
さらに政所別当(まんどころべっとう)も兼ねるようになります。

このころすでに、比企能員をはじめ、
梶原景時(かじわらかげとき)・畠山重忠(はたけやましげただ)といった有力御家人も消えており、
北条時政は権力をほしいままにするのです。
執権の北条氏が実権を握る政治を、執権政治(しっけんせいじ)と呼びます。

1205年、北条時政の息子である北条義時(ほうじょうよしとき)が、第2代執権と政所別当に就任します。
彼は、源頼朝の奥さんである北条政子(ほうじょうまさこ)の弟にあたる人物です。

北条義時は、1213年の和田合戦(わだがっせん)において、
侍所別当(さむらいどころべっとう)をつとめる有力御家人の和田義盛(わだよしもり)を滅ぼすと、
執権と政所別当に加え、なんと侍所別当も兼ねるようになります。

なんでもかんでも手に入れちゃいますねー、ホント…
そんなこんなで執権政治はますます本格化してゆきます。

北条氏の勢いはもう誰にも止められないのです!

ところが!!

それを止めてやろうという人物が現れます!!

ご存知、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)です!!!!



このころ、後鳥羽上皇は朝廷で院政(いんせい)をおこなっています。

朝廷勢力の挽回(ばんかい)をめざす後鳥羽上皇は、
分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめたり、
西面の武士(さいめんのぶし、西面武士と書いてもOK!)を新設して軍事力の増強をはかったりと、
様々な改革に乗り出します。

鎌倉幕府とは、なかなかいいカンジの関係を築きますが、
1219年に、源頼家の息子である公暁(くぎょう)によって第3代将軍の源実朝が暗殺されると、
その関係は狂い始めます。

源実朝には子どもがおらず、ここで源氏の正統が途絶えてしまうため、
北条義時は、後鳥羽上皇の息子を第4代将軍に迎えようとします。

北条氏の台頭を快く思わない後鳥羽上皇はこれを拒否し、
ついに1221年、承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こすに至ります。

後鳥羽上皇は、畿内(きない)・西国(さいごく)の武士や大寺院の僧兵(そうへい)、
そして北条氏の台頭に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて、
北条義時追討の院宣(いんぜん)を出すのです。

これに対し、東国武士の大多数は、北条政子の大演説もあって、鎌倉幕府のもとに結集します。
北条泰時(ほうじょうやすとき)と北条時房(ほうじょうときふさ)に率いられた鎌倉幕府の軍勢は、
およそ19万騎にもふくれあがり、京都になだれこんで圧倒的な勝利をおさめるのです!

後鳥羽上皇にも、北条氏の勢いは止められなかったんですねぇ…

敗北した後鳥羽上皇は隠岐(おき)に、順徳上皇(じゅんとくじょうこう)は佐渡(さど)に、
土御門上皇(つちみかどじょうこう)は土佐(とさ)、のち阿波(あわ)に流罪(るざい)となります。

即位したばかりの仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は廃位(はいい)となり、
かわって後堀河天皇(ごほりかわてんのう)が即位します。

そして、再び朝廷でこのような動きが起こらないかどうかを見張るため、
鎌倉幕府は京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置します。

これは、京都守護(きょうとしゅご)の流れをくむもので、
朝廷の監視・京都内外の警備・西国の統轄を職務とします。
初代六波羅探題には、北条義時の息子である北条泰時と、北条義時の弟である北条時房が就任します。
この甥っ子&おじさんコンビは、承久の乱で大軍を率いて京都に攻めのぼった2人です。

また鎌倉幕府は、後鳥羽上皇に味方した貴族や武士の所領3000ヶ所あまりを没収し、
鎌倉幕府のために頑張ってくれた御家人たちをその土地の地頭に任命します。
いわゆる新恩給与(しんおんきゅうよ)ってヤツです。

このとき新しく補任(ぶにん、官職に任命されること)された地頭を新補地頭(しんぽじとう)と呼び、
これまでの本補地頭(ほんぽじとう)と区別します。

ではここで、両者の違いをプリント右下の表で確認しておきましょう。

①本補地頭
● 平家滅亡のあと、1185年に設置
● 平家没官領(へいけもっかんりょう)や謀叛人(むほんにん)の所領などに配置
● 得分(とくぶん、収入のこと)は一律ではなく、その土地の先例にしたがう
 荘園の場合は先代の荘官の、公領の場合は先代の郷司などの得分にならう
● はじめ、1段(たん)あたり5升(しょう)の兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を認められる
 翌1186年廃止

②新補地頭
● 承久の乱のあと、1221年以降に設置
● 承久の乱後、後鳥羽上皇方についた者の没収地3000余ヶ所に配置
● 得分は、先例がなければ新補率法(しんぽりっぽう)に基いて一律に保障
(先例がある土地は、それにしたがう)
・田畑11町(ちょう)あたり1町の土地を免田(めんでん、税を免除される田畑のこと)とする
・1段あたり5升の加徴米(かちょうまい)の徴収を認められる
・山や川からの収益を、荘園領主や国司とはんぶんこする、など

畿内・西国を中心とする没収地に新補地頭が配置されたことにより、
鎌倉幕府の支配権は西日本の荘園・公領にも広くおよぶようになります。

承久の乱のビフォーアフターをイラストにまとめるとこんな感じです☆

鎌倉3-2.jpg

日本地図はヒジョーにざっくりですが…
東日本にしか及ばなかった鎌倉幕府の支配権が、全国にひろがっていることが分かりますよね~。

さらに、鎌倉幕府が朝廷より優位に立つことが明らかになり、
皇位の継承や朝廷の政治にも鎌倉幕府が干渉するようになるのです。

では、最後に解答を載せて終わりにしましょう~。

鎌倉3解答.jpg



次回は、1232年に制定される御成敗式目(ごせいばいしきもく)を、
ゴロ合わせとともにお届けします。

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