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1232年 御成敗式目を制定する [年号のゴロ合わせ]

1224年、2代執権(しっけん)の北条義時(ほうじょうよしとき)が急死し、
かわって息子の北条泰時(ほうじょうやすとき)が執権に就任します。
彼こそが、1232年に御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定する人物です。

いつも思うんですけど…
ゴセイバイシキモクって…
なんかカッコイイ響きですよね☆(笑)

今日は、そのなんかカッコイイ御成敗式目を解説してゆきます。
史料もいっぱいで大変ですが、頑張っていきましょー!
最後にゴロ合わせもありますよ ♪

*   *   *

日本史史上はじめての武家政権である鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、
源頼朝(みなもとのよりとも)によって相模国(さがみのくに)の鎌倉にひらかれます。

といっても、最初は鎌倉を中心とする東日本にしか、その支配権は及びません。
遠く離れた西日本には、まだまだ朝廷の支配権が根強く残っているからです。

しかし1221年、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が起こした承久の乱(じょうきゅうのらん)に勝利した鎌倉幕府は、その支配権を全国へと広げることに成功します。

するとねー、色んなところでモメゴトが起きまくるんですよ!
このころヒドい飢饉(ききん)も起きちゃって、ホントにモメゴトが起きまくるんですよ!!

それらを解決するには、きちんとした法律が必要なんですけど…

ないんです!

法律が!!

鎌倉幕府が成立してから50年が経とうというのに…

ないんです!!!

これまでは、京都から招いたお公家さん、
たとえば大江広元(おおえのひろもと)とか三善康信(みよしのやすのぶ)とかから、
律令や朝廷におけるルールなんかを教えてもらいつつ、
「武士的にはこうだから!」みたいな感じで、なんやかんやを片付けてきたようなのですが…

もうそれじゃアカンのです!
ちゃんとした成文法(せいぶんほう、文章化された法律のこと)をつくって、
ちゃんとモメゴトを解決してゆかんとアカン時期にきているのです!!

1232-1.jpg

そんなワケで1232年、3代執権の北条泰時が御成敗式目を制定します。
1232年は貞永元年(じょうえいがんねん)なので、貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼びます。

全51ヶ条からなるこの鎌倉幕府の基本法は、日本ではじめてつくられた武家法(ぶけほう)です。
武士がつくったはじめてのちゃんとした法律、とゆーことです。

内容は、御家人の権利・義務や所領にまつわる規定がほとんどです。
つまり、このころそういうことでモメゴトが起きまくっていて、
それらを解決するために御成敗式目が制定されたというワケです。

ちなみに御成敗式目は、室町幕府も基本法とするなど、長いあいだ継承されます。
時代が進むにつれて足りない部分が出てきた場合は、
式目追加(しきもくついか)などの追加法を出して補っています。

*   *   *

北条泰時は、このころ六波羅探題(ろくはらたんだい)である弟の北条重時(ほうじょうしげとき)に送った手紙のなかで、御成敗式目制定の目的なんかを語っています。

ではその手紙を史料で見てみましょう!
今日はたくさん史料をみてゆくので、
史料(紺色の文字)→空欄にあてはまる語句→口語訳→ちょっとした解説
の順で書いていきますね☆

(前略)さてこの式目(〔1   〕のこと)をつくられ候(そうろう)事は、なにを本説(根拠となるもののこと)として注(ちゅう)し載(の)せらるるの由(よし)、人(とくに朝廷の人々をさす)さだめて謗難(ぼうなん、非難すること)を加ふる事候か。ま事(まこと)にさせる本文(漢籍などで典拠となった文章のこと)にすがりたる事候はねども、たゞどうり(〔2   〕のこと)のおすところを記され候者也。(中略)この式目は只かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人へのはからひ(考慮すること)のためばかりに候。これによりて、京都の御沙汰、律令のおきて、聊(いささか)もあらたまるべきにあらず候也(以下略) (貞永元年九月十一日付 北条重時宛て北条泰時書状)
  1…御成敗式目(貞永式目)
  2…道理(どうり、武家社会の慣習や道徳のこと)
さて、この御成敗式目(貞永式目)をつくったことについて、なにを根拠として書いたのかと、人々(とくに朝廷の人々)はきっと非難するだろう。確かにこれといった典拠はないが、ただ武家社会の慣習である道理でおしはかるところを書いたのだ。(中略)この式目は、ただ仮名だけを知っているだけの者が世間には多いので、ひろく人々に理解しやすいように、そうした武家の人々への考慮のためにつくったのである。この御成敗式目によって、京都の朝廷の命令や律令の規定は少しも変更されるものではない。(以下略)

この手紙から、御成敗式目は「武士的にはこうだから!」(これを道理と呼びます)ってのを、
分かりやすく文章化した法律だってことが分かりますね。

あと、下線部分から、朝廷の命令や律令の規定はそのまんまでオッケー◎ということも分かります。
公家法(くげほう、朝廷の定めた法律のこと、律令の規定を引き継ぐものが多い)や、
本所法(ほんじょほう、不輸・不入の権(ふゆ・ふにゅうのけん)によって国司の支配から独立した荘園が、独自に制定した法のこと)を否定するのではなく、
それらの存在を認めたうえで、御成敗式目は制定されているのです。

つまり、
武士には御成敗式目という武家法が、
朝廷の支配下には公家法が、
荘園領主のもとではそれぞれの本所法が適用される、
というワケです。

ただし、武家政権が力をつけるにつれ、
公家法や本所法のおよぶ地域にも、やがて武家法が影響を与えるようになってゆきます。



次に、御成敗式目全51ヶ条のうち、その一部を史料で見ていきましょう!

【3条目】
一、諸国〔3   〕人奉行(ぶぎょう、職務・権限のこと)の事
右、右大将家(うだいしょうけ、〔4    〕のこと)の御時(おんとき)定め置かるる所は、大番催促(おおばんさいそく)・謀叛(むほん)・殺害人(せつがいにん)(下線部分をまとめて〔5   〕という)〈付(つ)けたり夜討・強盗・山賊・海賊〉等の事なり。而(しか)るに近年、代官を郡郷(ぐんごう)に分(わか)ち補(ほ)し、公事(くじ、年貢以外の雑税と夫役のこと)を庄保(しょうほ、荘園と公領の構成単位である保のこと)に充(あ)て課(おお)せ、〔6   〕に非(あら)ずして国務を妨(さまた)げ、〔7   〕に非ずして地利(ちり、その土地から生じる収益のこと)を貪(むさぼ)る。(以下略)
  3…守護
  4…源頼朝(1190年に右近衛大将(うこのえたいしょう)に就任)
  5…大犯三カ条(だいぼんさんかじょう、大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕のこと)
  6…国司
  7…地頭
一、諸国の守護の職掌の事
これについて、源頼朝の時代に定められたのは、大番催促、謀叛人・殺害人の逮捕〈夜討・強盗・山賊・海賊を付け加える〉などのことである。ところが近ごろ、守護は代官をそれぞれ郡や郷に配置し、公事を荘園や公領に割り当て、国司でもないのに国務の遂行をさまたげ、地頭でもないのに土地からの収益をむさぼっている。(以下略)

最近、国司みたいなことをしたり、地頭みたいなことをしている守護がいるけど、
源頼朝の時代に定められた通り、守護の任務は大犯三ヶ条だけだから!と定めています。

【5条目】
一、諸国〔7   〕、年貢所当(しょとう、年貢と同じこと)を抑留(よくりゅう)せしむる事
右、年貢を抑留するの由(よし)、本所(ほんじょ、荘園領主のこと)の訴訟(そしょう)有らば、即(すなわ)ち結解(けちげ、決算のこと)を遂(と)げ勘定(かんじょう、監査のこと)を請(う)くべし。(以下略)
一、諸国の地頭が年貢をおさえとどめている事
このように、地頭が農民からの年貢をおさえとどめているとのこと、本所から訴えがあれば、ただちに決算をして、本所の監査を受けよ。(以下略)

荘園領主である本所から、年貢の横領などにより地頭が訴えられた場合、
地頭はすぐに本所の監査をうけて問題を解決するように、と命じています。
ちなみに、これに応じない地頭は、地頭の権利を剥奪されてしまいます。
荘園領主のもとでは本所法が効力をもつ、ということがよく分かりますね~。

【8条目】
一、御下文(おんくだしぶみ、幕府が出す本領安堵(ほんりょうあんど)・新恩給与(しんおんきゅうよ)の下文のこと)を帯(お)ぶると雖(いえど)も知行(ちぎょう、事実上の支配のこと)せしめず、年序(ねんじょ、相当期間の年数のこと)を経(ふ)る所領の事
右、当知行の後、廿(20のこと)ヶ年を過ぐれば、大将家(だいしょうけ、〔4   〕のこと)の例に任せて理非を論ぜず改替(かいたい)に能(あた)はず。(以下略)
一、御下文を持っているにもかかわらず、事実上の支配をおこなわないまま所定の年数を経た所領の事
これについては、現実に支配したあと、20年を過ぎた場合には、源頼朝の時代の慣例により、権利の正当性にかかわらず、現在その所領を支配している者をやめさせることはない。(以下略)

ほったらかしにしていた土地は、たとえ本領安堵や新恩給与の下文を持っていても、
20年以上その土地を実効支配する人が別にいれば、その人のものになる、と定めています。
この20年という数字は、のちのち永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)で出てきますよ~!

【23条目】
一、女人(にょにん)〔8   〕の事
右、法意(ほうい、律令の規定・解釈のこと)の如(ごと)くばこれを許さずと雖(いえど)も、大将家(〔4   〕のこと)御時以来当世(とうせい)に至るまで、其の子無(な)きの女人等、所領を〔8   〕に譲り与ふる事、不易(ふえき)の法(後世に変わらぬ法のこと)勝計(しょうけい)すべからず(数えきれない)。(以下略)
  8…養子
一、女性が養子をとる事
これについては、律令の規定・解釈では許されないが、源頼朝のときから現在にいたるまで、子どものいない女性が所領を養子に譲り与えるという事例は、後世に変わらぬ法として数え切れないほどある。(以下略)

律令では認めていない、子どものいない女性が養子をとること、そしてその養子に所領を相続させることを認めています。
鎌倉時代は、女性も地頭に任命される時代ですからね~。

*   *   *

今日はたくさん史料を読みましたね~、お疲れさまでした!!

史料から読み取ることができますが、御成敗式目は、
 ◎源頼朝以来の先例(せんれい、昔からの慣習のこと)
 ◎武家社会の道理
この2点を基準につくられています。

「源頼朝の時代からこうだから!」「武士的にはこうだから!」ってのを成文化したとゆーことです。
先例と道理、この2つのキーワードはしっかりと覚えておきましょう☆

あと、とにかく史料中の「右大将家」・「大将家」はダレでしょう?という問題がよく出るので、
覚えておいてくださいね~!!

では最後にゴロ合わせを載せて終わりにしましょう。

1232年.jpg



次回は、1247年の宝治合戦(ほうじがっせん)を、ゴロ合わせとともにお届けします。

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