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1247年 宝治合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、三浦泰村(みうらやすむら)が滅ぼされる宝治合戦(ほうじがっせん)を取り上げます。
宝治合戦でキーとなるのは、三浦氏(みうらし)・安達氏(あだちし)・北条氏(ほうじょうし)の3つの一族です。
では、順番に見ていきましょう~。



まずは三浦氏です。

三浦泰村のおじいちゃんである三浦義澄(みうらよしずみ)は、
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で功績をあげるなど、
古くから源頼朝(みなもとのよりとも)と主従関係を結んでいた人物です。
源頼朝の死後は、十三人の合議制のメンバーにも選ばれています。
鎌倉時代(3)のプリントで確認してみてください、いますよ!)

三浦泰村のお父さんは、
娘が北条泰時(ほうじょうやすとき)と結婚して長男を産んだため、
北条氏の外戚(がいせき)となって力をのばします。
梶原景時(かじわらかげとき)・畠山重忠(はたけやましげただ)・和田義盛(わだよしもり)などなど、
有力御家人の死にもことごとく関わっている人物です。

このように、三浦氏は代々鎌倉幕府の有力御家人として活躍しており、
三浦泰村もまた、1225年に設置される評定衆(ひょうじょうしゅう)のメンバーに選ばれます。
さらに、4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)、または九条頼経(くじょうよりつね)とも親密な関係を築き、北条氏に匹敵しうる一族として存在感を高めてゆきます。

*   *   *

次に安達氏です。

安達景盛(あだちかげもり)も、古くから源頼朝と主従関係を結んでいた人物です。
3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の死をきっかけに、出家して高野山(こうやさん)に入るものの、
ことあるごとに鎌倉幕府にがっつり顔を出してくるおじいちゃんです。

承久の乱(じょうきゅうのらん)のときも、わざわざ鎌倉にやって来て、
あの北条政子(ほうじょうまさこ)の演説を代読した、とも伝わっています。

宝治合戦のきっかけをつくった人物ですが、
教科書的には覚えなくてよい名前なので、ここでは“安達おじいちゃん”と呼んでおきます。

安達氏も有力御家人の一族ですが、三浦氏には及ばない、といったところです。
安達おじいちゃんは、そんな三浦氏をライバル視しています。

*   *   *

ラストはご存知、北条氏です。

このころの執権(しっけん)は、3代執権・北条泰時の孫である、
5代目の北条時頼(ほうじょうときより)です。

北条時頼は、北条泰時の孫という点が注目されがちですが、
彼のお母さんは安達おじいちゃんの娘なので、実は安達おじいちゃんの孫でもあります。

しかも、お母さん側のおじいちゃんなので…

そうです!
安達おじいちゃんは北条時頼の外戚なのです!!
それなのに、安達氏は三浦氏より格下扱いされていて、安達おじいちゃんはご立腹です。

さて、そんなおじいちゃんズをもつ北条時頼は、
お兄ちゃんである先代の執権・北条経時(ほうじょうつねとき)の死を受けて、
1246年に満18歳という若さで5代目の執権に就任します。

するとねー、ワカゾーだからってナメられるんですよ!

お兄ちゃんが満19歳で4代執権になったときも、それはそれはもうナメられました。
執権がワカゾーであるのをいいことに、
反北条の御家人たちが、4代将軍・藤原頼経のもとに集うようになったのです。

よって1244年、北条経時は藤原頼経を将軍の座から引きずり下ろし、
わずか満4歳の息子、藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)、または九条頼嗣(くじょうよりつぐ)を5代将軍としたのです。

ワカゾーだからってナメんなよ!って話です。

しかし、その2年後にワカゾー執権の北条経時がこの世を去り、
またもやワカゾーの北条時頼が執権に就任します。

すると、鎌倉で“大殿(おおとの)”なんて呼ばれて慕われていた前将軍・藤原頼経は、
再び反北条のシンボルとしてかつがれるようになるのです。

これに気付いた北条時頼は、なんと藤原頼経を京都に強制送還し、
彼の周辺にいた反北条の御家人たちも処分してしまいます。

ワカゾーブラザーズをなめんなよ!って話です。

ただし、このとき北条時頼は三浦氏を処分していません。
三浦泰村は古くから藤原頼経と親密な関係にあり、
また彼の弟も、反北条のリーダー的存在として藤原頼経のそばにいたのに…です。

北条時頼は、古参の有力御家人である三浦氏とモメたくなかったのかもしれません。

とにもかくにも、これによって反北条勢力のほとんどが排除されたため、
北条氏は執権としての地位を確固たるものとするのです。

*   *   *

さぁ、ではこの3つの一族によって引き起こされる宝治合戦を見ていきましょう。

1247年、宝治元年(ほうじがんねん)になると、怪異(かいい)が頻発します。
怪異とは、よからぬことが起きる前触れとも捉えられる怪奇現象のことなのですが、
このときは、鎌倉でアリとか黄色いチョウチョとかが大量発生したり、
謎の飛行物体が目撃されたり、海が赤く染まったりします。

なにかが起こりそうでみんながソワソワするなか、
安達おじいちゃんが久しぶりに高野山をおりて鎌倉にやってきます。

安達おじいちゃんは、孫の北条時頼や、安達家の息子や孫たちが、
三浦氏に気を遣ってそこそこ仲良くしているのが許せなくって、彼らを叱りに来たようです。

でもネー…
全然響かなかったんですネー…

だって、北条時頼も安達家の人たちも、三浦氏とモメたくないんですもん。

するとあるとき、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に、
「三浦泰村は近いうちに討たれるであろう~~~」
なんてゆー予言めいた看板が立てられます。

この看板、一体ダレが立てたのでしょうか…

えっ?
安達おじいちゃんじゃないの??

イヤイヤ、ウン、真相は不明です。

看板のこともあって三浦泰村との関係は一時不穏になりかけますが、
北条時頼はなんとか丸くおさめます。

それなのにぃーーーーーーッッ!

そんな孫の態度に業を煮やした安達おじいちゃんは、
ついに安達氏の孫である安達泰盛(あだちやすもり)に、三浦泰村の屋敷を襲撃させてしまいます!!

こうなったら北条時頼も引くに引けません。
やむなく三浦泰村討伐の命を出すのです。

屋敷のまわりに火をかけられた三浦泰村は、
三浦氏の一族や前将軍・藤原頼経をしたう者たちとともに、源頼朝のお墓までのがれます。
そこに、反北条のリーダー的存在として抵抗を続けていた弟も合流し、みんなで自害します。
その数は500名を超えたのだとか…

1247-1.jpg

このとき、三浦泰村の弟は、自分の首が北条氏や三浦氏の手にわたらないよう、
誰か分からなくなるまで自らの顔を切り刻んだと伝わっています。
三浦泰村からは、「源頼朝のお墓にあるものに血が飛ぶからやめなさい!」とたしなめられたそうな。

そんな三浦泰村は、
「代々鎌倉幕府に仕えてきた三浦氏なのに、事実ではない事柄によって滅ぼされるという辱めを受け、恨みと悲しみは深い。父は有力御家人の死にことごとく関わり、罪業(ざうごう)を負ったため、これはその報いなのであろう。これから死にゆく身なので、もはや北条氏に恨みはない」
などと言い残したそうです。

イヤ、恨んでるよね…
ウン、まぁ恨むよね、フツーね。

この1247年の宝治合戦によって、三浦氏の一族と将軍家をしたう反北条の御家人たちが一掃され、
北条時頼の独裁体制が確立するのです。

それでは、今日のゴロ合わせ。

1247年.jpg

法事(ほうじ)と宝治(ほうじ)をかけてみましたが、
漢字、間違えて覚えないでくださいね!!

北条時頼は丸くおさめようとしているのに、
安達おじいちゃんが2DAYS法事という挑発をしてきて苦しむ三浦泰村、ってな感じです。
なんじゃそりゃ!!(笑)



次回は、1249年に設置される引付衆(ひきつけしゅう)を、
ゴロ合わせとともにお届けします。

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たかっち

ご無沙汰いたしております。
最近、仕事がくそ忙しく、久し振りに拝見させていただくと、御成敗式目と宝治合戦がアップされていました(笑)
宝治合戦は事件名と結果位しか知りませんでしたので、経緯などを詳しく教えて下さりありがとうございます。
三浦泰村の父は来年の大河(鎌倉殿の13人)で義時の盟友となっているので、そんなに親密なのかとも思っていましたが、縁戚でもあるんですね。
北条の縁戚は安達というイメージしかなかったです。(これも大河の北条時宗からのイメージですが。)
by たかっち (2021-10-31 13:30) 

春之助

たかっち様
ご無沙汰しております、くそ忙しくされているとのこと、お察しいたします…
大河ドラマ「北条時宗」、懐かしいです…いまだに北条時頼イコール丸坊主の渡辺謙のイメージが離れません。かっこよかった…
来年の大河ドラマも楽しみですね!
by 春之助 (2021-11-22 14:05) 

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