1274年 文永の役が起こる [年号のゴロ合わせ]
たいへんご無沙汰しております!
ちょっと別件の仕事に追われておりまして、更新が滞ってしまいました…
では久々のゴロ合わせ、いっきますよーぅ☆
すんごい余談ですが、今回から本文途中のイラストはデジタルに移行しました(液タブ便利!!)。
ただ、ゴロ合わせのイラストは、従来のものとテイストを変えたくないので、
これからもアナログでお届けしていきたいと思いまーす☆
* * *
今日は、1274年に起こる文永の役(ぶんえいのえき)を取り上げます。
これは、1281年の弘安の役(こうあんのえき)とセットで覚えなきゃいけないヤツです。
どちらも、元(げん)と高麗(こうらい)を中心とする連合軍が日本を襲撃した事件ですよねー。
2つまとめて、蒙古襲来(もうこしゅうらい)とか、元寇(げんこう)とか呼んだりします。
ちなみに、蒙古ってのはモンゴルのことですよ、念のため。
このときの執権(しっけん)は、8代目の北条時宗(ほうじょうときむね)。
5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)の息子にあたる人物です。
まずは、北条時宗が執権に就任するまでの流れを見ておきましょう。
1256年、病にたおれた5代執権・北条時頼は、執権の座を降りることを決意します。
とはいえ、嫡子(ちゃくし)の北条時宗は、まだ満5歳です。
そこで、北条一族の人間が2代続けて執権をつとめることになるのですが…
彼らはあくまでも北条時宗がオトナになるまでのツナギです。
しかも、病から復活した北条時頼が執権を差し置いて実権を握っちゃうので、もう完全にお飾りです。
てなワケで、6代目と7代目の執権の名前は覚えなくて構いません!
なんか気の毒だけど…ほかに覚えることいっぱいあるんだから2人は覚えなくて構いません!!
(一応、鎌倉時代(3)のプリント右上にある系図のなかに名前は載っています)
そんなこんなで1268年、満16歳となった北条時宗が、ようやく8代執権に就任します。
このときすでに、モンゴル帝国の国書が日本に届いています。
送り主は、ご存知、フビライ=ハンです(ハンというのは、遊牧民の族長が名乗る称号なんだとか)。
* * *
1206年、チンギス=ハンがモンゴル高原の遊牧民を統一してつくったモンゴル帝国は、
やがてユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国へと発展します。
1260年、チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハンが即位し、
都を大都(だいと、現在の北京(ぺきん))に遷(うつ)します。
ちなみに、国号を中国風の元(げん)に改めるのは1271年なので、まだ少し先のことです。
このころ、モンゴル帝国は朝鮮半島の高麗(こうらい)をすでに服属させており、
フビライ=ハンはモンゴル帝国の南に位置する南宋(なんそう)の征服を目指しています。
そんなとき、フビライ=ハンに仕えたヴェネツィア(イタリア)の商人・マルコ=ポーロによると、
フビライ=ハンは次のようなウワサバナシを耳にしたんだとか。
「高麗の海の向こうには、屋根も床も窓もぜーんぶ金でできた宮殿があるほど、
めちゃくちゃ金がとれる島があるらしい」
なにそのウワサバナシ!
チョーー魅力的じゃん!!
その島とは…ハイ、日本です。
まぁ中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)とかあるし、あながちウソじゃないのかな…
(このころ金閣はまだありませんからね!金閣はのちのち室町時代の北山文化で紹介しまーす!!)
とにもかくにも、そんなウワサバナシを聞いちゃ放っておけません。
フビライ=ハンは、ゴールデンアイランド・日本も服属させたいと考えるようになるのです。
* * *
これから、文永の役にいたるまでのモンゴル帝国(元)と日本のやりとりを紹介するんですけど、
とにかく長くてややこしいうえに、まっっったく覚えなくてよい部分なので…
もうホントにサラッと読んじゃってください。
サラッと読むべきところは紫色の文字にしてありますので、
サラッといきましょー☆
1266年、フビライ=ハンは日本に宛てた国書を使者に託し、高麗に日本までの道案内を命じます〔1回目〕。
でもさー…のちのちモンゴル帝国が日本を攻めるとなるとさー…
高麗もイロイロ手伝わされそうじゃないですか?
高麗的にそれ、めっっっちゃ迷惑なのヨネー…
てなワケで、「海がすっごい荒れてて日本に渡れない!危ない!!」とかなんとか理由をつけて、
国書は海を渡ることなく、フビライ=ハンのもとに戻ってきます。
フビライ=ハン、ブチギレ。
「次はちゃんと日本に行って、ちゃんと返事をもらって来い!」とフビライ=ハンから念を押され、
国書を携えた高麗の使者は、1268年に大宰府(だざいふ)に到達します〔2回目〕。
国書はすぐさま鎌倉に送られますが、鎌倉幕府はそれを朝廷に転送します。
「古来から外交の窓口は朝廷じゃないか!」というワケです。
これをうけて、朝廷は国書に対する返事をどうするか一生懸命話し合いを続けるのですが…
なんと半年以上たっても答えを出すことができません。
待ちくたびれた高麗の使者は、返事をもらわずに帰ってしまいます。
日本征服という欲望を昂ぶらせるフビライ=ハンは、翌1269年にも使者を派遣します〔3回目〕。
使者たちはいったん対馬にたどり着くものの、島民の妨害にあって先には進めず、
島民の男性2人を拉致(らち)して帰ります。
同年、拉致した2人を日本に送り届けることを名目に、使者が大宰府にやってきます〔4回目〕。
このとき使者が持参した国書の内容は、モンゴル帝国への服属をハッキリと求めるものでした。
朝廷はもちろん服属を拒否する返事を作成しますが、それがどんなワザワイをもたらすか分からないため、鎌倉幕府は返事を使者に渡さないよう朝廷に求めます。
結局、使者たちはまたもや返事をもらえず、手ぶらで帰ってゆきます。
1271年、またまた使者が大宰府にやってきます〔5回目〕。
このときの国書の内容は、「期限までに返事がないなら軍事力にモノ言わすからな!!」という脅迫めいたものでした。
もうそろそろね…ホンマええ加減にしぃやってことですよね…
朝廷は、前回作成した返事にちょっと手直しを加えたものを使者に渡そうとするものの、
ホントにそれでいいのか不安が押し寄せてきて、やっぱり結論を出せません。
てなワケで、とりあえず返事はあとまわしにして、日本から使者を派遣することにします。
日本の使者たちは大都まで赴くものの、フビライ=ハンとの面会は許されず、帰ってきます。
1272年、フビライ=ハンはこれまた使者を派遣しますが〔6回目〕、
またもや返事を手にすることはできません。
ハイッ!
サラッと読むのはここまでです!!
以降はしっかりと読んでください!!!
要するに、フビライ=ハンは日本を服属させようと、6回もチャレンジしてるんですよ!
6回ですよ!6回!!
それなのに、のらりくらりと無視されてばっかなんですよ!!!
国書の既読スルー!!!!
そりゃフビライ=ハンも頭にくるよねーーーーッッ!!!!!

ところで、「元寇起こしたのって、フビライ=ハン?チンギス=ハン??ん?どっち??」って分かんなくなることありません?
ここは「不備」ってことで、フビライ=ハンだと覚えちゃいましょーう ♪
ちなみに、このころの東アジアの情勢はどうなっているのかというと…
高麗は元に服属中ですが、高麗の軍隊である三別抄(さんべつしょう)は抵抗を続けており、
1273年に三別抄の乱(さんべつしょうのらん)を起こすも元・高麗連合軍に鎮圧されています。
南宋は長きにわたる元との戦いに敗北し、もう抵抗する力はほとんど残っていません。
そんな状況です。
つまり!
フビライ=ハンにとって、日本征服に集中できるタイミングがやってきたのです!!
こうして文永11年(1274年)に起こるのが、文永の役です。
手始めに、フビライ=ハンは船を300隻つくるよう高麗に命じます。
ウワーッ!やっぱり手伝わされるんやーん!!ホンマ迷惑なんですけどぉー…て感じですが、
元に服属している以上、高麗は必死でそれを作り上げるしかないのです。
* * *
このような動きに対して、8代執権・北条時宗は防御体制の強化に乗り出します。
1271年、九州に所領をもつ御家人に対し、現地に行って非常事態に備えるよう命じます。
さらに翌1272年には、九州に住む御家人に対し、元が攻めてくるならココらへんだなと想定される地域、
すなわち筑前(ちくぜん)や肥前(ひぜん)、博多湾などを交代で警備するよう命じます。
これを異国警固番役(いこくけいごばんやく)といいます。
これ、漢字気をつけてくださいね!
「警護」ではありません、「警固」です!!
誰かを護(まも)るんじゃなくて、場所を固(かた)めるんですよー。
* * *
1274年10月3日、元と高麗の連合軍およそ3万人(人数については諸説アリマス)が、
高麗が作った例の船などに乗って朝鮮半島を出発します。
そして、10月5日に対馬を、10月14日に壱岐を襲います。
いずれの島でも島民は必死に抵抗しますが、たくさんの人が命を落としてしまいます。
なかには、手のひらに穴をあけられ、そこにヒモを通されて船に結びつけられる女性もいたんだとか。
また、生け捕りにされた人も多く、その人たちは捕虜(ほりょ)として大陸に連行され、
エラい人々に労働力として献上されたものと思われます。
壱岐をあとにした元・高麗連合軍は、九州の沿岸部やいくつかの島を攻撃しながら移動し、
ついに10月20日、博多に上陸します。
迎え撃つのは、九州に集結した御家人たちです。
当時の御家人は、開戦の合図としてものすごく音の出る鏑矢(かぶらや)を射るのをルールとしています。
ルールにのっとった戦いを美徳とする御家人は、上陸してきた元・高麗連合軍に対しても、もちろんこれをおこないます。
すると…
元・高麗連合軍、大爆笑!
元にも高麗にも、そんなルールはないのです!!
御家人たちは、なぜ笑われているのか分からず戸惑います。
そんななか、元・高麗連合軍がドラや太鼓を打ち鳴らして大きな声をあげるもんだから、
御家人たちも、御家人を乗せている馬たちも、超ビックリです!
あまりにも戦い方が違うんです!!
御家人たちの戦い方は、一騎打ち(いっきうち)が基本です。
まずは「やぁやぁ!我こそは○○国××に住む、姓は□□、名は△△…」的な感じで、
お互いに名前や家柄・身分などを声高らかに自己紹介してからタイマンをはるんだとか。
かたや、元・高麗連合軍の戦い方は、対象を大勢で攻撃する集団戦法(しゅうだんせんぽう)が基本です。
攻撃や退却などの指示は、遠くまで聞こえるようドラや太鼓の音でもっておこなうんだとか。
それはもちろん、御家人が自己紹介中でもお構いナシです!
日本の特撮モノとかって、ヒーローが変身してても、キメポーズしてても、ロボが合体してても、
一連の動作が終わるまで敵は律儀に待っててくれるじゃないですか!!
そんなこと、元・高麗連合軍は知らないんですよ!
だから待ってくんないんですよ!!
そもそも言葉が通じないから、自己紹介されてもナニ言うてるのか分かんないんですよ!!!

さらに元・高麗連合軍は、毒をぬった矢を射ってきたり、
「てつはう」と呼ばれる20cmほどのボール状の爆弾を投げてきたりします。
御家人たちからすると、もうオドロキの連続です!
それでも肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)をはじめ、
御家人たちは元・高麗連合軍に必死に立ち向かいます!!
(ただし、御家人たちも集団戦法をとっていた、という説も近年提唱されています)
その様子を描いたのが、教科書でもおなじみのこの場面です。
馬に乗った竹崎季長が、元・高麗連合軍相手に奮闘する様子が描かれています。
てつはうが爆発している様子も見て取れますねー。

「蒙古襲来絵巻」(もうこしゅうらいえまき)とか、
「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)と呼ばれるこの絵巻物については、
鎌倉時代(6)のまとめプリントと鎌倉文化のところで触れたいと思います。
やがて日が暮れたため、お互い戦闘を休止します。
そして夜が明けてみると…
なんと!
海に元・高麗連合軍の船がないのです!!
すっかり消えているのです!!!
これについて、
暴風雨に遭って元・高麗連合軍の船が沈んでしまった、とか、
元・高麗連合軍のなかで仲間割れが起こったため帰ってしまった、とか、
日本が想像以上に強くて、海の向こうから武器や援軍をすぐに補充できない元・高麗連合軍は、戦闘の継続を諦めた、とか、
御家人たちの実力をさぐるための威力偵察だった、とか、
さまざまな説が唱えられています。
なお、1274年10月20~21日は、いまのカレンダーだと11月末にあたるので、台風が原因という可能性は低そうです。
とにかく!
元・高麗連合軍が消えちゃったので!!
なんかよく分かんないけど!!!
文永の役は日本の勝利で終わったのですーーーッッ!!!!
ちなみに、この時代は情報の伝達にものっっすごい時間を要します。
文永の役に日本が勝利したころ、鎌倉幕府は対馬が襲撃されたことを知ったばかりで、
元・高麗連合軍の九州上陸に備えて、鎌倉から誰をリーダーにして軍勢を送るか、という議論をしておったようです。
いや、もう終わってるよーーーッ!
元・高麗連合軍に勝ったんよーーーーッッ!!
って、すっごい教えてあげたくなりますよね!!!
結局、鎌倉幕府が文永の役の勝利を知ったのは、11月に入ってからでした。
タイムラグハンパねぇーーーッッ!!(笑)
とにもかくにも日本が勝ったので、
鎌倉幕府は命懸けで戦ってくれた御家人たちにゴホウビを与えなければなりません。
でもねー…
これが正直キビシイのです…
普通はね、戦いに勝ったら相手の所領とかなんやかんやが手に入るので、
それを頑張った御家人たちにゴホウビとして与えられるんですよ。
しかし今回は…
元・高麗連合軍が海の向こうから攻めてきて、消えちゃったので…
勝利したとはいえ、御家人たちのゴホウビになるようなものを何も得られていないのです。
さらに、いつまた元・高麗連合軍が攻めてくるか分からないので、
異国警固番役をちゃんと制度化して強化し、
博多湾沿いに石を積んで防塁(ぼうるい、防御用のカベ)をつくるよう命じます。
このカベを石塁(せきるい)とか石築地(いしついじ)と呼びます。
さぁ果たして!
元・高麗連合軍は再び襲来するのか!!
来るよ!!!
てなわけで、次回は1281年の弘安の役をお届けします。
最後にゴロ合わせを載せておきますね-。

往ぬ(いぬ)って言葉、分かります?
関西では「立ち去れ!」って意味で「往ね!」という言葉を使ったりします(ワカモノは使わない)。
現代ではなじみのない言葉かもしれませんが、古典で習いますよね!
「な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね」って覚えるナ行変格活用!略してナ変!!それそれ。
「帰ってほしい!」ってことで「往になよ」と覚えてください。
あと、てつはう・集団戦法・毒をぬった矢、という元・高麗連合軍の情報も盛り込んでおきました☆
次回の更新は、なるべく早く!お届けできたらいいなぁ…
いつものろのろですみません…
参考文献
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)
画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞

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ちょっと別件の仕事に追われておりまして、更新が滞ってしまいました…
では久々のゴロ合わせ、いっきますよーぅ☆
すんごい余談ですが、今回から本文途中のイラストはデジタルに移行しました(液タブ便利!!)。
ただ、ゴロ合わせのイラストは、従来のものとテイストを変えたくないので、
これからもアナログでお届けしていきたいと思いまーす☆
* * *
今日は、1274年に起こる文永の役(ぶんえいのえき)を取り上げます。
これは、1281年の弘安の役(こうあんのえき)とセットで覚えなきゃいけないヤツです。
どちらも、元(げん)と高麗(こうらい)を中心とする連合軍が日本を襲撃した事件ですよねー。
2つまとめて、蒙古襲来(もうこしゅうらい)とか、元寇(げんこう)とか呼んだりします。
ちなみに、蒙古ってのはモンゴルのことですよ、念のため。
このときの執権(しっけん)は、8代目の北条時宗(ほうじょうときむね)。
5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)の息子にあたる人物です。
まずは、北条時宗が執権に就任するまでの流れを見ておきましょう。
1256年、病にたおれた5代執権・北条時頼は、執権の座を降りることを決意します。
とはいえ、嫡子(ちゃくし)の北条時宗は、まだ満5歳です。
そこで、北条一族の人間が2代続けて執権をつとめることになるのですが…
彼らはあくまでも北条時宗がオトナになるまでのツナギです。
しかも、病から復活した北条時頼が執権を差し置いて実権を握っちゃうので、もう完全にお飾りです。
てなワケで、6代目と7代目の執権の名前は覚えなくて構いません!
なんか気の毒だけど…ほかに覚えることいっぱいあるんだから2人は覚えなくて構いません!!
(一応、鎌倉時代(3)のプリント右上にある系図のなかに名前は載っています)
そんなこんなで1268年、満16歳となった北条時宗が、ようやく8代執権に就任します。
このときすでに、モンゴル帝国の国書が日本に届いています。
送り主は、ご存知、フビライ=ハンです(ハンというのは、遊牧民の族長が名乗る称号なんだとか)。
* * *
1206年、チンギス=ハンがモンゴル高原の遊牧民を統一してつくったモンゴル帝国は、
やがてユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国へと発展します。
1260年、チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハンが即位し、
都を大都(だいと、現在の北京(ぺきん))に遷(うつ)します。
ちなみに、国号を中国風の元(げん)に改めるのは1271年なので、まだ少し先のことです。
このころ、モンゴル帝国は朝鮮半島の高麗(こうらい)をすでに服属させており、
フビライ=ハンはモンゴル帝国の南に位置する南宋(なんそう)の征服を目指しています。
そんなとき、フビライ=ハンに仕えたヴェネツィア(イタリア)の商人・マルコ=ポーロによると、
フビライ=ハンは次のようなウワサバナシを耳にしたんだとか。
「高麗の海の向こうには、屋根も床も窓もぜーんぶ金でできた宮殿があるほど、
めちゃくちゃ金がとれる島があるらしい」
なにそのウワサバナシ!
チョーー魅力的じゃん!!
その島とは…ハイ、日本です。
まぁ中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)とかあるし、あながちウソじゃないのかな…
(このころ金閣はまだありませんからね!金閣はのちのち室町時代の北山文化で紹介しまーす!!)
とにもかくにも、そんなウワサバナシを聞いちゃ放っておけません。
フビライ=ハンは、ゴールデンアイランド・日本も服属させたいと考えるようになるのです。
* * *
これから、文永の役にいたるまでのモンゴル帝国(元)と日本のやりとりを紹介するんですけど、
とにかく長くてややこしいうえに、まっっったく覚えなくてよい部分なので…
もうホントにサラッと読んじゃってください。
サラッと読むべきところは紫色の文字にしてありますので、
サラッといきましょー☆
1266年、フビライ=ハンは日本に宛てた国書を使者に託し、高麗に日本までの道案内を命じます〔1回目〕。
でもさー…のちのちモンゴル帝国が日本を攻めるとなるとさー…
高麗もイロイロ手伝わされそうじゃないですか?
高麗的にそれ、めっっっちゃ迷惑なのヨネー…
てなワケで、「海がすっごい荒れてて日本に渡れない!危ない!!」とかなんとか理由をつけて、
国書は海を渡ることなく、フビライ=ハンのもとに戻ってきます。
フビライ=ハン、ブチギレ。
「次はちゃんと日本に行って、ちゃんと返事をもらって来い!」とフビライ=ハンから念を押され、
国書を携えた高麗の使者は、1268年に大宰府(だざいふ)に到達します〔2回目〕。
国書はすぐさま鎌倉に送られますが、鎌倉幕府はそれを朝廷に転送します。
「古来から外交の窓口は朝廷じゃないか!」というワケです。
これをうけて、朝廷は国書に対する返事をどうするか一生懸命話し合いを続けるのですが…
なんと半年以上たっても答えを出すことができません。
待ちくたびれた高麗の使者は、返事をもらわずに帰ってしまいます。
日本征服という欲望を昂ぶらせるフビライ=ハンは、翌1269年にも使者を派遣します〔3回目〕。
使者たちはいったん対馬にたどり着くものの、島民の妨害にあって先には進めず、
島民の男性2人を拉致(らち)して帰ります。
同年、拉致した2人を日本に送り届けることを名目に、使者が大宰府にやってきます〔4回目〕。
このとき使者が持参した国書の内容は、モンゴル帝国への服属をハッキリと求めるものでした。
朝廷はもちろん服属を拒否する返事を作成しますが、それがどんなワザワイをもたらすか分からないため、鎌倉幕府は返事を使者に渡さないよう朝廷に求めます。
結局、使者たちはまたもや返事をもらえず、手ぶらで帰ってゆきます。
1271年、またまた使者が大宰府にやってきます〔5回目〕。
このときの国書の内容は、「期限までに返事がないなら軍事力にモノ言わすからな!!」という脅迫めいたものでした。
もうそろそろね…ホンマええ加減にしぃやってことですよね…
朝廷は、前回作成した返事にちょっと手直しを加えたものを使者に渡そうとするものの、
ホントにそれでいいのか不安が押し寄せてきて、やっぱり結論を出せません。
てなワケで、とりあえず返事はあとまわしにして、日本から使者を派遣することにします。
日本の使者たちは大都まで赴くものの、フビライ=ハンとの面会は許されず、帰ってきます。
1272年、フビライ=ハンはこれまた使者を派遣しますが〔6回目〕、
またもや返事を手にすることはできません。
ハイッ!
サラッと読むのはここまでです!!
以降はしっかりと読んでください!!!
要するに、フビライ=ハンは日本を服属させようと、6回もチャレンジしてるんですよ!
6回ですよ!6回!!
それなのに、のらりくらりと無視されてばっかなんですよ!!!
国書の既読スルー!!!!
そりゃフビライ=ハンも頭にくるよねーーーーッッ!!!!!

ところで、「元寇起こしたのって、フビライ=ハン?チンギス=ハン??ん?どっち??」って分かんなくなることありません?
ここは「不備」ってことで、フビライ=ハンだと覚えちゃいましょーう ♪
ちなみに、このころの東アジアの情勢はどうなっているのかというと…
高麗は元に服属中ですが、高麗の軍隊である三別抄(さんべつしょう)は抵抗を続けており、
1273年に三別抄の乱(さんべつしょうのらん)を起こすも元・高麗連合軍に鎮圧されています。
南宋は長きにわたる元との戦いに敗北し、もう抵抗する力はほとんど残っていません。
そんな状況です。
つまり!
フビライ=ハンにとって、日本征服に集中できるタイミングがやってきたのです!!
こうして文永11年(1274年)に起こるのが、文永の役です。
手始めに、フビライ=ハンは船を300隻つくるよう高麗に命じます。
ウワーッ!やっぱり手伝わされるんやーん!!ホンマ迷惑なんですけどぉー…て感じですが、
元に服属している以上、高麗は必死でそれを作り上げるしかないのです。
* * *
このような動きに対して、8代執権・北条時宗は防御体制の強化に乗り出します。
1271年、九州に所領をもつ御家人に対し、現地に行って非常事態に備えるよう命じます。
さらに翌1272年には、九州に住む御家人に対し、元が攻めてくるならココらへんだなと想定される地域、
すなわち筑前(ちくぜん)や肥前(ひぜん)、博多湾などを交代で警備するよう命じます。
これを異国警固番役(いこくけいごばんやく)といいます。
これ、漢字気をつけてくださいね!
「警護」ではありません、「警固」です!!
誰かを護(まも)るんじゃなくて、場所を固(かた)めるんですよー。
* * *
1274年10月3日、元と高麗の連合軍およそ3万人(人数については諸説アリマス)が、
高麗が作った例の船などに乗って朝鮮半島を出発します。
そして、10月5日に対馬を、10月14日に壱岐を襲います。
いずれの島でも島民は必死に抵抗しますが、たくさんの人が命を落としてしまいます。
なかには、手のひらに穴をあけられ、そこにヒモを通されて船に結びつけられる女性もいたんだとか。
また、生け捕りにされた人も多く、その人たちは捕虜(ほりょ)として大陸に連行され、
エラい人々に労働力として献上されたものと思われます。
壱岐をあとにした元・高麗連合軍は、九州の沿岸部やいくつかの島を攻撃しながら移動し、
ついに10月20日、博多に上陸します。
迎え撃つのは、九州に集結した御家人たちです。
当時の御家人は、開戦の合図としてものすごく音の出る鏑矢(かぶらや)を射るのをルールとしています。
ルールにのっとった戦いを美徳とする御家人は、上陸してきた元・高麗連合軍に対しても、もちろんこれをおこないます。
すると…
元・高麗連合軍、大爆笑!
元にも高麗にも、そんなルールはないのです!!
御家人たちは、なぜ笑われているのか分からず戸惑います。
そんななか、元・高麗連合軍がドラや太鼓を打ち鳴らして大きな声をあげるもんだから、
御家人たちも、御家人を乗せている馬たちも、超ビックリです!
あまりにも戦い方が違うんです!!
御家人たちの戦い方は、一騎打ち(いっきうち)が基本です。
まずは「やぁやぁ!我こそは○○国××に住む、姓は□□、名は△△…」的な感じで、
お互いに名前や家柄・身分などを声高らかに自己紹介してからタイマンをはるんだとか。
かたや、元・高麗連合軍の戦い方は、対象を大勢で攻撃する集団戦法(しゅうだんせんぽう)が基本です。
攻撃や退却などの指示は、遠くまで聞こえるようドラや太鼓の音でもっておこなうんだとか。
それはもちろん、御家人が自己紹介中でもお構いナシです!
日本の特撮モノとかって、ヒーローが変身してても、キメポーズしてても、ロボが合体してても、
一連の動作が終わるまで敵は律儀に待っててくれるじゃないですか!!
そんなこと、元・高麗連合軍は知らないんですよ!
だから待ってくんないんですよ!!
そもそも言葉が通じないから、自己紹介されてもナニ言うてるのか分かんないんですよ!!!

さらに元・高麗連合軍は、毒をぬった矢を射ってきたり、
「てつはう」と呼ばれる20cmほどのボール状の爆弾を投げてきたりします。
御家人たちからすると、もうオドロキの連続です!
それでも肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)をはじめ、
御家人たちは元・高麗連合軍に必死に立ち向かいます!!
(ただし、御家人たちも集団戦法をとっていた、という説も近年提唱されています)
その様子を描いたのが、教科書でもおなじみのこの場面です。
馬に乗った竹崎季長が、元・高麗連合軍相手に奮闘する様子が描かれています。
てつはうが爆発している様子も見て取れますねー。

「蒙古襲来絵巻」(もうこしゅうらいえまき)とか、
「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)と呼ばれるこの絵巻物については、
鎌倉時代(6)のまとめプリントと鎌倉文化のところで触れたいと思います。
やがて日が暮れたため、お互い戦闘を休止します。
そして夜が明けてみると…
なんと!
海に元・高麗連合軍の船がないのです!!
すっかり消えているのです!!!
これについて、
暴風雨に遭って元・高麗連合軍の船が沈んでしまった、とか、
元・高麗連合軍のなかで仲間割れが起こったため帰ってしまった、とか、
日本が想像以上に強くて、海の向こうから武器や援軍をすぐに補充できない元・高麗連合軍は、戦闘の継続を諦めた、とか、
御家人たちの実力をさぐるための威力偵察だった、とか、
さまざまな説が唱えられています。
なお、1274年10月20~21日は、いまのカレンダーだと11月末にあたるので、台風が原因という可能性は低そうです。
とにかく!
元・高麗連合軍が消えちゃったので!!
なんかよく分かんないけど!!!
文永の役は日本の勝利で終わったのですーーーッッ!!!!
ちなみに、この時代は情報の伝達にものっっすごい時間を要します。
文永の役に日本が勝利したころ、鎌倉幕府は対馬が襲撃されたことを知ったばかりで、
元・高麗連合軍の九州上陸に備えて、鎌倉から誰をリーダーにして軍勢を送るか、という議論をしておったようです。
いや、もう終わってるよーーーッ!
元・高麗連合軍に勝ったんよーーーーッッ!!
って、すっごい教えてあげたくなりますよね!!!
結局、鎌倉幕府が文永の役の勝利を知ったのは、11月に入ってからでした。
タイムラグハンパねぇーーーッッ!!(笑)
とにもかくにも日本が勝ったので、
鎌倉幕府は命懸けで戦ってくれた御家人たちにゴホウビを与えなければなりません。
でもねー…
これが正直キビシイのです…
普通はね、戦いに勝ったら相手の所領とかなんやかんやが手に入るので、
それを頑張った御家人たちにゴホウビとして与えられるんですよ。
しかし今回は…
元・高麗連合軍が海の向こうから攻めてきて、消えちゃったので…
勝利したとはいえ、御家人たちのゴホウビになるようなものを何も得られていないのです。
さらに、いつまた元・高麗連合軍が攻めてくるか分からないので、
異国警固番役をちゃんと制度化して強化し、
博多湾沿いに石を積んで防塁(ぼうるい、防御用のカベ)をつくるよう命じます。
このカベを石塁(せきるい)とか石築地(いしついじ)と呼びます。
さぁ果たして!
元・高麗連合軍は再び襲来するのか!!
来るよ!!!
てなわけで、次回は1281年の弘安の役をお届けします。
最後にゴロ合わせを載せておきますね-。

往ぬ(いぬ)って言葉、分かります?
関西では「立ち去れ!」って意味で「往ね!」という言葉を使ったりします(ワカモノは使わない)。
現代ではなじみのない言葉かもしれませんが、古典で習いますよね!
「な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね」って覚えるナ行変格活用!略してナ変!!それそれ。
「帰ってほしい!」ってことで「往になよ」と覚えてください。
あと、てつはう・集団戦法・毒をぬった矢、という元・高麗連合軍の情報も盛り込んでおきました☆
次回の更新は、なるべく早く!お届けできたらいいなぁ…
いつものろのろですみません…
参考文献
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)
画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞

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