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1281年 弘安の役が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、1274年の文永の役(ぶんえいのえき)を、ゴロ合わせとともにお届けしました。

元(げん)のフビライ=ハンが、日本に服属を求める国書を何度送るも既読スルーの連続。
1274年、ついにキレたフビライ=ハンは、およそ3万人(諸説アリマス)の軍勢を日本に送りこみます。
元と高麗(こうらい、元に服属中)の連合軍は、まず対馬(つしま)と壱岐(いき)を襲い、
さらに博多(はかた)に上陸して集団戦法(しゅうだんせんぽう)や「てつはう」とよばれる火薬を使った武器などで御家人たちを苦しめます。
ところが、元・高麗連合軍は一晩のうちに消えてしまい…なんか分かんないけど日本勝っちゃった!!
というのが文永の役でしたね。

今日はその続き、1281年に起こる弘安の役(こうあんのえき)を見ていきましょう。
文永の役と弘安の役、2つまとめて元寇(げんこう)とか、蒙古襲来(もうこしゅうらい)と呼ぶんでしたよね☆



文永の役の翌年、フビライ=ハンの使者がまたもや日本にやってきます〔7回目〕。

やばい!
フビライ=ハンまだ諦めてない!!
こりゃまた服属求めて日本に大軍を派遣してくるかもしんない!!!

というワケで、8代執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)は、
使者を殺害し(エッ!)、元・高麗連合軍の再来に備えて2つのことをおこないます。

①異国警固番役(いこくけいごばんやく)の強化
文永の役に先だって編成されていた異国警固番役を強化するため、
九州の御家人たちを4つのグループに分け、3ヶ月交代で北九州沿岸の防備に当たるよう整備しなおします
異国警固番役を課せられる御家人は、京都大番役(きょうとおおばんやく)と鎌倉番役(かまくらばんやく)は免除されます(異国警固番役だけでも大変ですからね)
なお、鎌倉幕府と主従関係を結んでいない非御家人(ひごけにん)も動員されたようです

ちなみに、長門国(ながとのくに、現在の山口県)を防備する長門警固番役(ながとけいごばんやく)も編成され、長門探題(ながとたんだい)が指揮したんだとか

②石塁(せきるい)、または石築地(いしついじ)の築造
博多湾の沿岸およそ20kmにわたって、高さ2mほどの防塁(ぼうるい、防御用のカベ)を築かせます
石を積みあげてつくったこのカベを、石塁とか石築地と呼びます

こうして日本が九州北部の防御力を高めているころ、元は日本再征計画を中断しています。
元の南に位置する南宋(なんそう)との戦いが、最終局面を迎えているためです。

1276年、元は南宋の首都をついに陥落(かんらく)させ、
幼い皇帝をたてて抵抗を続ける南宋を1279年に滅ぼしてしまいます。
これにより、フビライ=ハンの矛先は再び日本に向けられるようになるのです。

滅ぼされてしまった南宋(以下、旧南宋(きゅうなんそう)と呼びます)と日本は、
古くから日宋貿易(にっそうぼうえき)などで交流を重ねてきました。
そこでフビライ=ハンは、旧南宋に「ウチは元に滅ぼされてしまいました…オタクはいまのうちに元に服属したほがいいんじゃないですか?」的な手紙を書かせ、使者に託して日本へ向かわせます〔8回目〕。
オトモダチから服属を説得してもらう作戦です!

しかし、オトモダチ作戦は功を奏さず、
鎌倉幕府はこれまた使者を殺害してしまいます(エェッ!!)。

そのころ、フビライ=ハンはようやく7回目の使者が殺害されたことを知り(8回目の使者の殺害はまだ知らない)、日本再征の準備を進めます。

そしていよいよ1281年、元・高麗・旧南宋の兵およそ14万人(人数については諸説アリマス)が、
2つのルートに分かれて日本を目指します。
文永の役はおよそ3万人だったので、今回はとんでもない軍勢です。

1281-1.jpg

元・高麗連合軍を主力とするおよそ4万人の東路軍(とうろぐん)は、
5月3日に朝鮮半島南部の合浦(がっぽ)を出発します。
旧南宋の兵を主力とするおよそ10万人の江南軍(こうなんぐん)とは壱岐で合流する計画ですが、
ちょっと色々モメてて江南軍は出発が遅れている状況です。
ちなみに、長(ちょうこう)のから出撃するから江南軍、と覚えてください☆

よって、東路軍は江南軍の到着を待たず、先に対馬・壱岐、そして長門国を襲います。
さらに文永の役のときと同じように博多湾から上陸しようとするのですが…

なんと!
そこには!!
文永の役のときにはなかったカベがあるのです!!!

そうです!
石塁(石築地)です!!
それが立派に役割を果たして東路軍の博多上陸を阻(はば)んだのです!!!

頑張ってつくった甲斐があったヨネー!(泣)

博多上陸を諦めた東路軍は、志賀島(しかのしま)を占領して船を停泊させることとします。

志賀島…
なんか聞いたことのある地名ですよね?
なにかが見つかった場所ですよね??
覚えてますかどーですか???
答えはコチラ

ここで東路軍は竹崎季長(たけざきすえなが)をはじめとする御家人たちの猛攻を受け、
壱岐まで後退して江南軍の到着を待つことにします。

ところが、江南軍は合流の期限である6月15日を過ぎても壱岐に現れず、
さらに東路軍の船の中では病気が蔓延(まんえん)し、多数の死者が出てしまいます。

そのころ江南軍はどこにいるのかというと…
ようやく長江の南にある慶元(けいげん)を出たところです。
なんてこった!

ちなみに、慶元はのちに寧波(ニンポー)という地名に改められるんですけど、
ここで戦国時代に寧波の乱(ニンポーのらん)という事件が起こります。

あとすっごい余談なんですけど、江南軍のリーダーは范文虎(はんぶんこ)という名前です。
あ、覚えなくていいですよ!

でも…でもでも…はんぶんこって…超かわいくないですか?
なにかと半分わけてくれそうですもんねー。
あ、ホント覚えなくていいですからね!!

さて、はんぶんこ率いる江南軍はどこを目指しているのかというと、
東路軍との待ち合わせ場所である壱岐ではありません!
なんてこった!!

なんでも、日本を攻めるなら壱岐より平戸島(ひらどじま)からの方が絶対イイ!という情報を得たらしいのです。

そこで江南軍は、平戸島で合流する案を壱岐の東路軍に知らせるのですが…
そのころ東路軍は壱岐でも日本の総攻撃を受けており、もはやボロボロです。
でもなんとか江南軍と合流しようと平戸島に向かいます。

そして7月下旬、東路軍は平戸島と壱岐の間にある鷹島(たかしま)という島でようやく江南軍と合流するのです。

ところが!
7月30日の夜!!
九州北部を台風が襲います!!!

海は荒れ狂い、船同士の衝突は避けられず、たくさんの兵が海に投げ出されて溺死してしまいます。

台風シーズンだもんね!
これは避けられない!!

結局、はんぶんこの主張によって軍の撤退が決まります。
エラい人たちは、たくさんの兵や馬を置き去りにして、
台風を耐え抜いた頑丈な船に乗ってそそくさと帰ってしまったんだとか。

見捨てられた兵たちに対して、御家人たちは攻撃をくわえて追い払い、
弘安の役も日本の勝利で終わります。

フビライ=ハンはというと、3回目の日本侵攻を本気で考えていたようですが、
弘安の役による被害は甚大で、国内からの反発も多く、
日本を服属させるという夢を実現することなく1294年にこの世を去ってしまいます。

とはいえ、日本は北九州の防備を解くことはできません。
異国警固番役は鎌倉時代を通して継続されることになります。
もう元が攻めて来ないことを現代人は知っているけど、当時の人は知りませんもんね。

御家人たちはまたもや恩賞をろくにもらえず、それでも異国警固番役は続き、
ますます疲弊することになるのです。
このあたりのことは次回、鎌倉時代(6)でまとめてゆきたいと思います!

では、ゴロ合わせを載せて終わりとしましょう。

1281年.jpg

文永の役の「往(い)になよ(帰って!)」を受けて、「往ぬわい(帰るわ!)」です。
セットで覚えてくださいね☆

あと、チンギス=ハンなのかフビライ=ハンなのか、まだこんがらがる人のために…
今回は「不憫(フビん)」ってことでフビライ=ハンを記憶に刻んでください!!

ただし!
フビライ=ハンは日本には来てません!!
間違えないでくださいね~(汗)



画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞

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