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古墳時代(3) [まとめプリント]

古墳時代の3回目、後期古墳を見ていきましょう。



古墳3.jpg

古墳時代中期は、近畿地方だけでなくほかの地域でも大規模な古墳が築かれました。
これは、その地域の豪族が力をもっていて、ヤマト政権という連合政権において活躍したことをあらわします。
しかし、古墳時代後期になると、大規模な古墳が築かれるのは近畿中央部に限られるようになります。
かつては力をほこった各地の豪族達が、ヤマト政権に服属したことを意味するのではないか、と考えられます。
そして、古墳時代後期のなかでもとくに終末期と呼ばれる7世紀になると、前方後円墳が作られなくなり、
やがて大王の墓は、八角形をした八角墳(はっかくふん)となります。

ちなみに、昭和天皇や大正天皇のお墓も古墳です。
上円下方墳(じょうえんかほうふん)という、上の段が円墳で下の段が方墳、という二重構造になっているそうです。

また古墳時代後期には、小さい古墳がたくさん集まった群集墳(ぐんしゅうふん)が爆発的に増加します。
いままでマイ古墳を作るなんて考えることさえできなかった農民たちのなかから、
力をつける者があらわれ、ついに夢のマイ古墳を作ったのでしょう。
群集墳の代表例は、奈良の新沢(にいざわ)千塚古墳群と、和歌山の岩橋(いわせ)千塚古墳群です。
プリントには、埼玉の吉見百穴(よしみひゃくあな)の様子を載せました。
アリの巣の入り口のような黒い穴が、それぞれ群集墳の古墳1つ1つの入り口です。

後期古墳の内部はというと、古墳時代中期に九州北部で見られるようになった横穴式石室、
これが全国に普及します。

横穴式石室が便利なのは、あとから追加で埋葬できるところです。
1人につき1つのお墓を作るのは大変ですが、
例えば一族で1つのお墓を作っておけば、死者が出るたびそこにどんどん追加で埋葬していけばいいのです。
これを追葬(ついそう)といいます。

現代のお墓も、1人につき1つではなくて、「○○家之墓」というように一族で1つ建てて追葬していきますよね。
なのでイメージはしやすいと思います。

後期古墳は、副葬品を見てもお茶碗などの日用品が含まれており、家族のお墓としての性格をもっています。

さて、この横穴式石室。

厄介なのが、色んな場所に名前がついているところです。

まず、棺が安置される部屋を玄室(げんしつ)と言います。
九州などでは、玄室の壁に色鮮やかな絵を描いた装飾古墳も見られます。
福岡の竹原古墳や、奈良の高松塚古墳・キトラ古墳などが有名ですね。

そして、入り口から玄室に至るまでの道を羨道(せんどう)と言います。

羨道の「羨」の漢字、大丈夫ですか?
「うらやましい」と読む字ですが、下のパーツをよく見て下さいね!
ニスイの「次」ではありません、サンズイです。
間違えないよう注意です!!!

さて、羨道がむきだしのままではいけませんのでフタをします。
その石を、閉塞石(へいそくせき)と言います。
閉塞石の上から土をかぶせ、葺石を並べれば完成です。
追葬したいな…という時は、葺石を取って、土を掘って、閉塞石を開けて、羨道を通って、玄室に至れば良いのです。
プリントにある吉見百穴の写真は、閉塞石がなくなってしまい、羨道がむきだしになった状態です。

古墳の内部構造は、竪穴式石室が先、横穴式石室が後です。

幼少のころに、砂場で山をつくった経験ってありますよね?

そのとき、てっぺんからズボっとタテに穴をあけることは簡単だったはず。
一方、その山に横からズボっと腕を突っ込んでトンネルを作るのってめっちゃ難しかったですよね?
山が無残に崩れてしまう。
タテに穴を掘るのは簡単ですが、ヨコにトンネルを掘るのはとても高度な技術が必要なのです。
だから、竪穴式が先、横穴式が後、覚えられますね?

表面の装飾は、葺石のほか、中期古墳と同じく円筒埴輪・形象埴輪がさかんに用いられます。
かつて卑弥呼が亡くなったとき、100人もの奴隷が古墳に埋められ殉死しました。
人間を生き埋めにしなくていいよう人間の形をした土人形をそえるようになった、それが埴輪だとも言われています。
福岡県の岩戸山古墳では、土ではなく石でつくられた人形や馬が確認されています。
石人(せきじん)や石馬(せきば)と言います。

終末期に向かうにつれ、埴輪は次第に減少していきます。
そして古墳を作るブーム自体、去ってしまいます。

なぜかというと、仏教が伝来したからです。

これまで有力者たちは立派な古墳を作ることでオノレの権力をアピールしてきましたが、
7世紀になると、立派な寺院をつくることが権力の象徴となってゆきます。

仏教伝来については、538年552年のゴロ合わせに詳述しましたので、そちらをご覧下さい。

古墳3解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



次回は、古墳時代の人々の生活を追いましょう。

画像出典
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0017546
http://yoshimi-kanko.net/kanko/hyakuana/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
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古墳時代(2) [まとめプリント]

古墳時代の2回目、中期古墳を見ていきましょう。



古墳2.jpg

前期古墳では近畿地方に集中していた大きな古墳が、他の地域でも見られるようになります。
他の地域の豪族達も力をつけていき、ヤマト政権において重要な位置を占めたことをあらわします。
そして、近畿地方の前方後円墳はというと、どんどん巨大化していきます。
まわりを何重もの濠でかこんだり、周囲に陪冢(ばいちょう)と呼ばれるプチ古墳がつくられたり様々です。

内部構造は、前期古墳と同じ竪穴式石室です。
九州北部では4世紀末頃に横穴式石室が出現しますが、これについては次回詳述します。

表面の装飾も前期と同じく円筒埴輪・形象埴輪ですが、より上手に埴輪を作るようになります。
人間の形をしたものや、キュートな動物の形をしたものまで本当に色々あります。
改めて、埴輪と土偶の混同には気をつけて下さいね!
埴輪は古墳時代、土偶は縄文時代ですからね!!

副葬品に甲冑や武器・馬具が見られることから、武人的性格をもつ者が埋葬されたと考えられます。
馬具が副葬品に入っているのは、好太王碑の碑文のところで書きましたが、
高句麗との戦いで騎馬技術のすごさを思い知った倭の人たちが、必死になってその技術を手にした結果でしょう。

中期古墳の代表例は、古墳の代表例といってもいいぐらい有名なものです。

まずは、大阪府堺市にある大仙陵(だいせんりょう)古墳。
地元の人たちは親しみをもって「仁徳さん」と呼びますが、仁徳天皇が埋葬されたかどうか定かではありませんので、
大仙陵古墳と表記する方が多いです。
大きさは80ha。
と言われてもピンときませんよね。
甲子園球場約12個分の広さです。
これでピンときます?

とりあえずめちゃくちゃでかい、世界最大のお墓です。
私は大仙陵古墳の近くで育ったので、この周りをジョギングとかしてましたが、そりゃ~広いです。
陪冢の数も、現在確認されているだけで15個です。
そのうちの1つなんて、最近まで釣り堀として地元の人に親しまれていましたけどね(笑)

次に大きいのが、大阪府羽曳野市にある誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳です。
応神(おうじん)天皇のお墓という説もありますが、これも定かではありません。
3位は、履中(りちゅう)天皇のお墓という説のある堺市のミサンザイ古墳です。
このように、大阪府に巨大な前方後円墳が集中しています。

大仙陵古墳を中心とする堺市の古墳群を百舌鳥(もず)古墳群、
誉田御廟山古墳を中心とする羽曳野市の古墳群を古市(ふるいち)古墳群といいます。
奇しくも今日、これらの古墳群は、2017年の世界文化遺産登録を目指す国内候補からはずれてしまいました…
堺市では百舌鳥古墳群を「サカイ遺産」なんて呼んでますからね…いやいや、もっと頑張って欲しいです。

ところで、古墳の大きさ第4位はというと、岡山県の造山(つくりやま)古墳です。
大阪府だけでなく、吉備(いまの岡山県)にも有力者がいた証しですね。

さて、応神天皇・仁徳天皇・履中天皇の名前が登場しました。
彼らはもしかしたら「倭の五王」のメンバーかもしれません。
「倭の五王」について、詳しくは478年のゴロ合わせに書きましたので、そちらをご覧下さい。

古墳2解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



次回は後期古墳を取りあげます。

画像出典
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0048291
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0001339
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0005769
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016893
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3
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古墳時代(1) [まとめプリント]

今日から古墳時代です。



弥生時代後期につくられた墳丘墓よりも、もっともっと大きな塚、すなわち古墳が築かれる時代ですね。
それだけ大きなお墓を作る力をもつ者が存在したということです。

ではその有力者とは誰か、というと、頂点は大王(おおきみ)です。
大和地方に成立した、大王を中心とする政権をヤマト政権(ヤマト王権・大和朝廷)といいます。

古墳1.jpg

このころの朝鮮半島は、北部に楽浪郡をも飲み込んだ高句麗(こうくり)が存在し、
南部は馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)という小国家がたくさん集まった3つの地域に分かれていました。

4世紀になると、鮮半島南部で国家が成立し始めます。

馬韓50余ヶ国を統一したのが百済(くだら・ひゃくさい)、辰韓12ヶ国を統一したのが新羅(しらぎ・しんら)です。
(バカはクダラん!で覚えるんでしたね★)
弁韓地域は小国家郡のままで、4世紀後半には加耶(伽耶・加羅)諸国と呼ばれるようになっていたようです。
この加耶諸国のどこかにヤマト政権が「日本府」というものを設置した、と言われていますが、真実かどうかは分かりません。
『日本書紀』では加耶諸国を任那(みまな)と表記しています。
朝鮮半島の地図もしっかり確認しておいてください、北が高句麗、西が百済、東が新羅、南が加耶諸国です。
日本と仲の良かった百済との関係、そして好太王碑の碑文については、391年のゴロ合わせを見て下さいね。

さて、このころ近畿地方を中心に築かれた古墳の様子を見ていきましょう。

古墳は3世紀中頃から7世紀にかけて築かれましたが、
3世紀中頃から4世紀後半にかけてを古墳時代前期と呼びます。
前期のなかでもとくに3世紀後半までを出現期と呼んだりもします。

前期の古墳は円墳(えんぷん、丸い古墳)や方墳(ほうふん、四角い古墳)のほか、大規模な前方後円墳もみられます。
なかには前方後方墳という、真ん中がくびれていて、両サイドが四角い古墳もあります。

前方後円墳、すなわち前が方形で後ろが円形、ということですね。
この名称、実は江戸時代につけられました。
19世紀の初め、蒲生君平(がもうくんぺい)という国学者が『山陵志』(さんりょうし)という本の中で名付けたのです。
意外と新しい名称なのです。
なので、古墳時代の人がどっちを前に、どっちを後ろに考えて作ったのか分かりません。
このころの日本には文字がないので、記録も設計図も残っていないのです。
ご遺体は円形の部分に埋葬されるので、丸い方が大事なんじゃない?とも思いますが、
現在は前方後円墳と呼ぶ以上、前が四角で後ろが丸、ということです。

さきほど、ご遺体は円形の部分に埋葬する、と話しました。
次に古墳の内部構造を見ていきましょう。

円形の高い部分の土をタテに掘り、そして壁の土が崩れてこないよう周りを石などで覆います。
その空間に遺体を入れた棺を安置します。
竪穴式石室です。
もうタテの漢字は大丈夫ですね?
ほかには、棺の周りを分厚く粘土でかためた粘土槨(ねんどかく)というのも見られます。

古墳の表面は、葺石(ふきいし)という白っぽい石で覆いました。
当時、古墳を遠くから眺めると、太陽の光を浴びてキラキラ光っていたんだとか。
私は大仙陵古墳のすぐ近くで育ったのですが、遠くから眺めると木が生い茂ってさながら巨大ブロッコリーのようでした。
長い年月をかけて植物が根付いて生い茂った結果です。
資料集なんかで見ても大半の古墳が緑色をしていますが、間違えないように!
なお、葺石の「葺く」とは、瓦などで屋根をおおう、という意味です。

ほかに古墳の表面には埴輪(はにわ)が並べられました。
埴輪は土でつくるので土偏ですよ!
前期古墳の表面には、円筒埴輪や形象埴輪が置かれたようです。
円筒埴輪はそのまんま、丸い筒状の埴輪で、古墳の領域をあらわす柵のように使われた、などと言われています。
形象埴輪とは、何かの形を象(かたど)った埴輪ということですね。
前期の古墳からは、家の形をした家形埴輪や、道具の形をした器財埴輪などが出土しています。
器財埴輪には、矢を入れる容器である靫(ゆき)、防御用の盾(たて)、えらい人にさしかける傘である蓋(きぬがさ)などが見られます。

遺体とともに埋葬された副葬品(ふくそうひん)は、銅鏡や玉類などです。
これらを必要とする呪術的・宗教的な役割を担った、卑弥呼のような司祭者が埋葬されたと考えられます。

前期古墳(出現期古墳)の代表例は、奈良県桜井市の箸墓古墳。
卑弥呼の墓かも知れない…という説がある大きな前方後円墳です。

古墳1解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



次回は古墳時代中期を見ていきます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024017
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010466
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0042736
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056721
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弥生時代(6) [まとめプリント]

前回に引き続き、「魏志」倭人伝を見ていきましょう。



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さぁいよいよ卑弥呼(ひみこ・ひめこ)の登場です。

大学入試などでよく出題されるのが「鬼道(きどう)を事とし」の「鬼道」です。
鬼の道…なんじゃそりゃって感じですよね。
しかもそのあと続くのが「能(よ)く衆を惑はす」ですよ。
卑弥呼はなんかワケのわからん鬼の道に精通していて、人々を惑わせている…
そのまんま読むと、とんでもない女王じゃないか!と思ってしまいます。

そこはうまいこと訳すんですね~…
鬼道とは呪術のこと。
卑弥呼は呪術にたけていて、人々をうまいこと統治していた、というのです。

その卑弥呼、なかなかいい年ではあったようですが、夫はいなかったようです。
彼女の補佐は、男弟(だんてい)という者が担っていたとのこと。
男弟は卑弥呼の実の弟なのかどうか、ここでサラっと書いてあるだけなのでよく分かりません。

さて、景初3年(239年)に卑弥呼は帯方郡経由で魏に使者を派遣しました。
大夫(たいふ)の難升米(なしめ)という者です。
朝貢の結果、魏から返礼として「親魏倭王」、魏と親しい倭の王、という称号を授かります。
そして金印紫綬と多数の銅鏡も賜った、と書かれています。

この金印がどこかから出土すれば、邪馬台国の所在地もハッキリするんですけどね。
果たしてどこにあるのでしょう…

その後、卑弥呼は南の狗奴国(くなこく)と争います。
狗奴国は男性がおさめる国でした。
王の名は、卑弥弓呼(ひみここ)。

えっ…

ひみここ?

めっちゃ適当やん…って思いません?
本当の名前なのか何なのかは分かりませんが、とにかくヒミコvsヒミココの争いがあったようです。

そののち、卑弥呼は亡くなりました。
大きな墳丘墓をつくって埋葬し、殉死する奴隷が100人余りいた、というのです。
卑弥呼が埋葬された墳丘墓こそが箸墓古墳なのではないか…と言われています。
これが本当なら、箸墓古墳のどこかに金印が埋まっているのかも知れませんが、
宮内庁の所轄ですので、考古学者は発掘することが許されていません。
掘ればいいのになぁ~ってつい思ってしまいますけどね、ダメなものはダメなのです。

卑弥呼の死後、男性の王をたてたのですが邪馬台国は荒れに荒れました。
そこで卑弥呼の親戚筋の娘さんに白羽の矢が立ちます。
13才の壱与(いよ)ちゃんです。

どうも「魏志」は、ちょいちょい臺(台の古い字)と壹(壱の古い字)を間違えているようで、
壹与(壱与)ではなくて臺与(台与)の誤りではないか、という説もあります。

この壱与ちゃんが女王になった結果、邪馬台国は静まったのだそうです。

「魏志」倭人伝の記述はここまで、このあと壱与ちゃんがどうなったのかは分かりません。
しかし、『晋書』には266年に邪馬台国の女王が朝貢に来た、と記されているので、
いい年になった壱与が中国へ使者を派遣したのかもしれませんね。

このあたり、239年のゴロ合わせも一緒に読んで下さい。

弥生6解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



卑弥呼が大きい墳丘墓に埋葬された…ということで、弥生時代の次は古墳時代ですね。
次回からいよいよ古墳時代に入ります。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1
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弥生時代(5) [まとめプリント]

前回に引き続き、弥生時代の文字史料を見ていきます。



晋の陳寿(ちんじゅ)が著した歴史書に『三国志』があります。
魏・呉・蜀の3つの国がせめぎあった三国時代を綴った歴史書です。

国ごとにそれぞれ『魏書』(ぎしょ)・『呉書』(ごしょ)・『蜀書』(しょくしょ)がまとめられており、
その『魏書』のなかにある東夷伝に、倭についての記録があります。
これを『魏書』東夷伝倭人条といい、日本では通称「魏志」倭人伝と呼びます。
本のタイトルは『三国志』または『魏書』なので、「魏志」は「」でくくることが多いです。

また東夷(とうい)という言葉が出てきました。
『後漢書』東夷伝でも登場しましたよね。
これは、中国に古くからある中華思想というものに基づく言葉です。

中華思想とはズバリ、中国は世界の中心である華やかな国なのだ!という思想です。
中国は神聖ですばらしい国だけど、それ以外の国はとんでもないところだ!!とまで考える。

いや~…中国、ポジティブですね~…

そして、中国の東西南北に住んでいるのはとんでもないヤツらだ!と勝手に決めつけ、
わざわざ東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)なんて名前までつけて蔑んじゃうわけです。

日本は中国から見て東なので、東夷です。
東夷のなかの倭人について書いてある部分、それが東夷伝倭人条です。
なんか気ぃ悪いですけど、たくさん記録してくれているので2回にわけて内容を見ていきましょう。

弥生5.jpg

陳寿は『漢書』地理志を参考に書いたのでしょうか、倭について漢の時代のことまで記録してくれています。
あとは魏とかかわりのあった邪馬台国について、そして女王卑弥呼について詳しく書いてくれています。
それぞれ邪(よこしま)や卑(いやしい)という漢字をあてているところに中華思想をヒシヒシと感じますね…

さて、このころ朝鮮半島にあった楽浪郡の南半分は、帯方郡(たいほうぐん)になっています。
遼東地方の太守(たいしゅ)という地位にあった公孫(こうそん)と名乗る氏族がつくったものです。
楽浪郡と帯方郡、混同しないよう気をつけて下さいね、『漢書』は楽浪郡、「魏志」は帯方郡です。

その帯方郡のはるか東の向こうにあったのが邪馬台国です。
所在地についてはまだまだ決着がつきそうにありません。
近畿にあったのか…はたまた九州にあったのか…

近畿にあったとするならば、現在の奈良県だと言われています。
奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳や纏向(まきむく)遺跡との関係が注目されています。
ちなみに、奈良県はかつて大和国(やまとのくに)と呼ばれました。
邪馬台国を「やまとこく」と読むのではないか…という説もあるので、このあたりも近畿説を有力にしています。
奈良にあった邪馬台国が、のちに九州北部にまで支配権を及ぼすヤマト政権に発展したのかもしれません。

一方、福岡県や熊本県といった九州にあったという説も根強いです。
邪馬台国が九州にあったのなら、のちのヤマト政権とは別の政治連合と考えます。
近畿でうまれたヤマト政権が九州にまで支配権をのばして、九州にあった邪馬台国を飲み込んだ、ということになります。
はたまた、九州にあった邪馬台国がお引っ越しをして近畿でヤマト政権に発展した、という説もあります。

いずれにせよ、今後の研究結果を待つしかありませんね。
どこにあったのかさえ分からないってのもロマンです。
海に沈んでしまった、なんていう説もありますからね…

「魏志」倭人伝には、邪馬台国の様子が克明に描かれています。
男子は年齢に関係なくみんな入れ墨をしていたそうです。
どうやって、そんな模様を入れていたのでしょうね…気になります。
税や刑罰の制度が整備され、市もひらかれていて、役人さんも色んな仕事をそれぞれ担当していたようです。
国としての仕組みがしっかりつくられていたのですね…

弥生5解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



次回はいよいよ卑弥呼の登場です。
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弥生時代(4) [まとめプリント]

いよいよ文字史料から日本史を見ていきます。



日本は当時、「倭(わ)」と呼ばれていたようですが、
その倭について、初めて文字で記録したのが『漢書』地理志です。

『漢書』は、前漢(B.C.206年~A.D.8年)にまつわる様々なことを記した歴史書です。
そのなかで前漢の地理について書いた部分、いわゆる地理志に、
前漢のお隣にあった倭のこともちょびっとだけ記してくれたのです。
紀元前の日本の様子を教えてくれる唯一の文字史料です、ちょびっとでも書いてくれたのはたいへんありがたい。

これを記したのは後漢の班固(はんこ)です。
昔の中国では、新たに成立した王朝が前に存在した王朝の歴史書を編纂(へんさん)したようです。
なので、前漢の歴史書である『漢書』の作者は後漢の人、ということになります。

いや、でもちょっと待てよ。

漢が前漢と後漢に分かれている、ということはこの間に1つ王朝が存在したということですよね?
何か覚えていますか?

王莽(おうもう)がたてた新(A.D.8年~23年)です。

この王朝、わずか15年ほどで滅んでしまったので、歴史書を編纂する時間などなかったのでしょう。
ということで、前漢の歴史書は後漢が編纂しています。

そして、後漢の歴史書である『後漢書』は、宋の范曄(はんよう)が記しています。
南北朝時代の宋です。
後漢の歴史書が編纂されるまで、ずいぶん間があいたようです。

ちなみに、参考書なんかによっては『漢書地理志』とか「漢書地理志」とか「漢書」地理志とか、色んな書き方が見られます。
どれで書いてもテストでバツになることはまぁありませんが、一番正しい書き方は『漢書』地理志です。
なぜかというと、大学などで日本史の研究をする際、書籍名は『』をつける、というのが鉄則なのです。
漢書は書籍名なので『』をつけ、地理志はその書籍の中の一部分なので『』も「」もつけません。
頭のかたすみに入れておくとよいでしょう。

では、この『漢書』と『後漢書』に見える倭の記述を見ていきましょう。

弥生4.jpg

この部分の説明は、57年239年のゴロ合わせで書きましたのでそちらを見て下さい。

ところで、中国の王朝って順番通りに言えますか?

最初から1つずつ時間をかけて真面目に真面目に覚えるのももちろん大切です。
でも、そんなことしていたら日本史にばかり時間をとられてしまって、他の教科を勉強する時間がなくなってしまいます。
もちろん遊ぶ時間もね…

日本史にかける勉強時間をできるだけ短くするために、アホみたいな方法を使いましょう。
ゴロ合わせもその一環です。
それで勉強時間を短縮できるなら最高じゃないですか!

ということで、中国の王朝の覚え方は「♪もしもしカメよ」のメロディーにのせて覚えてしまいましょう!

 殷  周  秦  漢  三国   晋
♪もし もし  カメ よ~ カメさん よ~
 南北朝   隋   唐   五代
♪世界のうち で~ おま えほど~
 宋   元  明   清   中華民国
♪あゆ みの のろ い~ ものはない~
 中華人民共和国
♪どうしてそんなにのろいのか~

どうです?覚えられそうですか??
楽しく楽しく歌いましょうね、最後なんて♪ちゅ~うっかじんみんきょ~わっこくぅ~♪てノリノリで。
最低限の王朝なので、新みたいに省略されてしまっているものもありますが、
日本史を学ぶうえではこれだけ押さえていれば充分です。

ちなみに、日本に王朝はいくつあったか分かりますか?

王朝とは、簡単に言えば王様の血筋のことです。
王様の一族が滅んでしまうとその王朝は滅び、新しい王朝が成立します。

つまり、日本の天皇家は滅んだことがないので、日本の王朝は現在でも1つです。
すなわち、日本は世界最古の国なんですよ。

では、最後に解答をのせておきましょう。

弥生4解答.jpg

それでは、今日はここまで☆
次回も文字史料をとりあげます。



画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
IPA「教育用画像素材集サイト」 https://www2.edu.ipa.go.jp/
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弥生時代(3) [まとめプリント]

弥生時代の3回目です。



弥生3.jpg

まずは、弥生人の信仰を取りあげましょう。

縄文人には死者を埋葬する習慣がありました。
集落近くの共同墓地に屈葬で埋葬する、というものでしたよね。

弥生人も死者を集落近くの共同墓地に埋葬しました。
手足を折り曲げた屈葬のほか、手足を伸ばした伸展葬が目立つようになります。

また、立派なお墓が作られるケースも出てきます。
弥生人のなかに、立派なお墓に葬られるほどのリーダーが現れたことを意味します。

地面に穴を掘っただけの簡単な土壙墓(どこうぼ)や、木で棺桶(かんおけ)を作る木棺墓(もっかんぼ)のほか、
九州北部では支石墓(しせきぼ)や甕棺墓(かめかんぼ)というものも見られました。
「甕」の漢字はもうマスターしましたか?

現代でも「ここに死者が埋葬されていますよ」ってことで、墓石がたてられますよね。
支石墓とはそんな感じ。
「ここに死者を埋葬したよ」って分かるように、目印として大きな石を埋葬場所の地表に置くのですが、
その際、大きな石をいくつかの小さな石で支えました。
支石墓は朝鮮半島に見られるので、朝鮮半島から九州北部に伝わったお墓の形態であると指摘されています。

支石墓の下で死者はどのように埋葬されているのかというと、多くは甕棺墓です。
大きな大きな甕を2つ作って、中に遺体をおさめてフタをした棺桶です。
甕は口の大きな弥生土器でしたよね、土器は死者の埋葬にも使用されました。
この2つの甕で作った棺桶を埋めたものが甕棺墓です。
支石墓と甕棺墓はセットで覚えておきましょう。
あとは、平べったい石を箱の形に組んで棺桶にした箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)もあります。

お墓の外観としては、支石墓のほか、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)というものも現れます。
長方形・正方形とあるように、方形とは四角のことです。
四角い丘をつくって、まわりに溝をめぐらせたものです。
これが大規模化していくと、墳丘墓(ふんきゅうぼ)となります。
なかには四隅が突出した四隅突出墳丘墓(よすみとっしゅつふんきゅうぼ)とか(そのまんま過ぎる名前…)、
丸い丘の両サイドが突出した楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)など、色んなバリエーションがあります。
さらにこれが巨大化すると、古墳になるわけです。
弥生時代の次は古墳時代ですもんね、流れで理解しておきましょう。

次に、農耕儀礼を見ていきます。
稲作がおこなわれている弥生時代、豊かな収穫を願ってお祭りがおこなわれたようです。
その際、用いられた道具は青銅製でした。
青銅とは、銅と錫(すず)の合金です。
銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈(どうか)など、色んな種類の祭器が発見されています。
銅鐸は中に舌と呼ばれるパーツをぶらさげて、風鈴のように使ったようです。
銅剣・銅矛・銅戈はもともと武器でした。
しかし、武器としては鉄製の方がじょうぶで使い勝手がいい、ということで、
青銅製のこれらはやがて祭器として用いられるようになったみたいです。
それぞれ、分布範囲などもしっかり理解しておきましょう。

なお、世界では青銅器が先に広まって、のちに鉄器が広まりました。
考古学でいうと青銅器時代ののちに鉄器時代がやってくる、というのが普通なのですが、
日本の場合は弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時期に伝わったようです。
世界ではとても珍しいケースです。
青銅器はお祭りの道具として、鉄器は実用品として使い分けられました。

最後に遺跡を取りあげます。
No.6と対応させて色分けをして見やすくなるよう工夫しましょう。

弥生時代の遺跡は、旧石器時代・縄文時代と異なり、北海道と南西諸島で確認されていません。
気候の問題もあってか、これらの地域では稲作がおこなわれなかったのです。
北海道ではサケやマスなどをとる漁労を中心とした続縄文文化が、
南西諸島では貝類の採取を中心とした貝塚文化が発達しました。

弥生3解答.jpg

これまで、考古学から日本史を見てきました。
次回からはいよいよ文字史料による日本史を取りあげていきます。



それでは、今日はここまで☆

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/cl/Zizouden-toha.htm
http://www13.plala.or.jp/adachiitami/newpage12.html
IPA「教育用画像素材集サイト」 https://www2.edu.ipa.go.jp/
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/31
http://www.saimaibun.or.jp/?attachment_id=4341
http://www.pref.tottori.lg.jp/44362.htm
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0010987
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0046183
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017681
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0029574
http://www.izumokanko.com/208
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弥生時代(2) [まとめプリント]

今日は弥生時代の2回目、彼らの生活を見ていきます。



弥生2.jpg

前回もお話しましたが、弥生時代がこれまでの時代と決定的に違うのは、食料生産の段階に入ったことです。
もちろんこれまでの狩猟・採集・漁労もおこなっていますが、
これに加えて水稲農耕、稲作が開始されました。

稲作の開始により、貧富・身分の差が発生し、争いも起こるようになりました。
すると、自衛のため環濠集落や高地性集落を営むようになったのです。

環濠集落とは、周囲をグルっと濠(ほり)で囲んだ集落のことでしたね。
濠をつくる、ということは土を大量に掘るわけです。
なかには深さ3m、幅5mにも及ぶ壮大なものも掘られたとか。
そんなに気合いの入った濠を作ると、不要なものが出てきますよね。

そう、大量の土です。

んじゃ、掘り起こしたこの不要な土を高く積み上げたらいいんじゃない?ってことで塀ができあがります。
これを土塁(どるい)と呼びます。

また、弥生時代中期になると高い山の上にも集落がきずかれるようになります。
高地性集落です。
高いところに集落を作っておくと、襲われにくいですし(山登って攻めるの大変ですもんね)、
また襲われるときは下から来るわけですから敵の様子もよく分かります。
瀬戸内海沿岸を中心に、こういった集落がたくさん築かれました。

稲作の開始・発達により、道具も進化しました。

稲穂の首を収穫するために用いられた石包丁、
湿田での作業のために用いられた田下駄、
田の表面をならすために用いられたえぶり、
脱穀するために用いられた木臼と竪杵などですね。

それぞれ形もよく見ておいてください。

そして、弥生時代といえばもちろん弥生土器。
明治時代に弥生町というところで発見されたことにより、この名前がつけられました。

縄文土器と弥生土器の特徴はしっかり整理しておきましょう。
縄文土器は、厚手・黒褐色・もろい・低温焼成、
弥生土器は、薄手・赤褐色・じょうぶ・高温焼成、ですね!

縄文時代はまだ技術が未熟なので、分厚くてもろい土器がほとんどです。
一方、弥生時代になると技術が進歩し、薄くてじょうぶな土器が作られるようになります。
ここまでは覚えやすいと思います。

ややこしいのが色ですね。

縄文土器って赤だっけ、黒だっけ…と頭がこんがらがりますよねー。
そんなとき、縄文土器は高い温度で焼き上げる技術がなかったため、
低温でじっくり焼かれたんだということを思い出してください。

朝、バタバタと身支度してたらトースターからパンを救出するタイミングを逃してしまい
せっかくのパンを黒焦げにしたこと、ありませんか?

パンはトースターの低温でじっくりじっくり焼くと、焦げて黒くなるのです。
そう、縄文土器はそのパンが如く、低温でじっくりじっくり焼かれたのです。
なので、縄文土器は黒褐色、弥生土器は赤褐色、自分の経験をいかして区別をつけてください!

さて、弥生土器のややこしいところは、縄文土器との区別だけではありません。
形によって名前が付けられているところです。

貯蔵用が壺、
煮炊き用が甕、
盛りつけ用が高杯(坏)です。

正直、壺と甕の違いって曖昧なんですけどね…
貯蔵するんだからホコリ入らない方がいいよねってことで口元がくびれているのが壺。
煮炊きした熱い料理は出しやすいほうが便利だよねってことで口が大きいのが甕。
そんな感じで覚えてください。
そしてなによりも漢字…しっかりよくみて書いてくださいね~。
解答の右下に大きく書いておきました、自分の覚えた字が間違ってはいないか、今一度確認をしましょう!

弥生2解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



弥生時代はまだまだ続きます。

画像出典
http://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/bunkazai/hiraideiseki/hiraideiseki.html
http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b011.html
http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~maizou/jiten/kamegata.htm
http://www1.town.oguchi.aichi.jp/digital/excavat/03/02.html
http://www.mogurin.or.jp/maibun/data/tainosako.htm
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057233
IPA「教育用画像素材集サイト」 https://www2.edu.ipa.go.jp/
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http://www.shizuoka-bunkazai.jp/blog/201508/6.html
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/12058
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/relics/art/details/13.html
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弥生時代(1) [まとめプリント]

今日から弥生時代に入ります。



弥生時代といえば、昔はB.C.3世紀からA.D.3世紀まで、ということでとても覚えやすかったのですが…
最近ではB.C.4世紀から、という説や、はたまたB.C.10世紀から、なんていう説もあってとても曖昧です。
それだけ研究が進化して多様化しているということですが、こうも諸説があると受験生としては厄介ですよねぇ…

いまのところ、教科書ではB.C.4世紀から、そして前期・中期・後期の3つに区分する、という説を採用しています。
数年後の教科書はどうなっているか分かりませんけどね…

ちなみに、B.C.というのは紀元前のことでしたよね。
Before Christ、イエス=キリストが生まれる前、ということです。
イエス=キリストが生まれた年を基準にしているので、これを西洋の暦ということで「西暦」といいます。
つまり、今年はイエス=キリストが生まれて2015年目です。
と思ってたら…なんかイエスってB.C.4年に生まれたとか言うじゃないですか…
てことは、今年は2019年!?
でもまぁ世界中に西暦は浸透していることですし、それはそれ、これはこれ、ということで…

なお、紀元後はA.D.でしたね。
これはanno Domini(アンノドミニ)の略です。
ラテン語で、イエス・キリストの年に、って意味だそうです。
いまももちろん紀元後なので、A.D.は基本省略されますが、
B.C.からA.D.の過渡期である弥生時代を扱うときは、区別が必要なのでA.D.も表記されることが多いです。

それから、世紀は英語でcenturyなので、cであらわします。

前置きが長くなりました、弥生時代のまとめプリントの1枚目です。

弥生1.jpg

弥生時代の特徴は3つ、水稲農耕のはじまり・金属器の使用・弥生土器の使用、です。
金属器と弥生土器については次回詳しくお話しするとして、今日は水稲農耕を取りあげます。

水稲農耕、いわゆる稲作は九州北部で始まりました。
縄文時代晩期のことですね。
これを証明する遺跡が2つありましたが…覚えていますか?

そう、福岡県の板付(いたづけ)遺跡と佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡です。

稲作が始まっているから、これを弥生時代前期に先駆けた時代だ、ということで、
弥生時代早期と考える研究者の方もおられるようですが、
まだ縄文土器を使っていますからね…縄文時代晩期と区分することがまだ有力みたいです。

稲作の伝来ルートについては、まだハッキリ分かっていません。
朝鮮半島南部を経由して九州北部に伝わったんじゃないかなぁー…という感じです。

稲作が本格化するのが弥生時代前期です。
このころの田んぼは湿田(しつでん)です。
磨製石器などでつくった木製農具を使って、天然の水分べちゃべちゃの土地を田んぼにしたものです。
べちゃべちゃなので水を排出する施設も必要ですし、稲も酸素不足になるようで、
あまり生産性は高くありませんでした。
収穫は稲作とともに日本にやってきた大陸系の磨製石器(打製もあり)である石包丁でおこないます。
現在、稲の収穫は根っこから刈り取りますよね。
収穫のあと、田んぼ残った数センチの稲穂の様子こそが、地図記号の田のマークです。
しかし、弥生時代前期・中期は石包丁を使って稲穂の首を刈り取る穂首刈りでした。
大学入試でちょこちょこ出題されますので、しっかり覚えておきましょう!

弥生時代中期・後期になると、鉄製の刃先をもつ農具、いわゆる鉄製農具が普及し始めます。
木製農具より断然、木の根っこを掘り起こしたり、土を掘ったり、土木工事がしやすくなります。
すると、べちゃべちゃの土地ではない日当たりのいいところに田んぼを作って、
さらに水路をつくって田んぼに水を引き込む、ということが可能になりました。
乾田(かんでん)の誕生です。
灌漑(かんがい・人工的に水を引き込むこと)と排水を繰り返して土は栄養満点となり、
これまでの湿田に比べて生産力は飛躍的にアップしました。
弥生時代後期には、鉄製の刃先をもつ鉄鎌によって、根刈りで収穫されました。

なお、現在は苗代(なわしろ)で10センチくらいに成長させた稲を田んぼに植える田植えが一般的です。
この田植え、弥生時代にもおこなわれていたようです。
しかし、これはかなり高等な技術を要したようで、大半は籾(もみ)を直接田んぼに播(ま)く直播(じきまき)でした。

稲作は、伝来とともにどんどん進化していきました。
すると、あそこの田んぼはめっちゃいいらしい、どんどこ収穫できるらしい、
倉には余った米がしこたま蓄えられているらしい…という噂もたつようになり、やがて争いが発生します。
より豊かな土地と、余剰生産物をめぐる争いです。

縄文時代にはなかった貧富の差・身分の差が、稲作によって生まれてしまったのです。

そうなると、何としてでも良い土地とあまった米を敵から守らなければなりません。
どうやって守るかというと、集落のまわりを濠(ほり)や高い壁でかこむのです。
環濠集落の誕生です。
弥生時代中期・後期になると、高い山の上に集落を築く高地性集落も登場します。
自分たちの集落を必死に防衛する者がいて、またそれを奪おうと必死に攻撃する者がいた、
それが弥生時代です。

次回は、彼らの生活を詳しくとりあげていきましょう。
最後に解答を載せておきます。

弥生1解答.jpg



それでは、今日はここまで☆

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縄文時代(3) [まとめプリント]

今日で縄文時代をまとめてしまいましょう!



縄文3.jpg

縄文人の信仰はアニミズムです。
アミニズムではありませんからね、こういう耳慣れないカタカナは本当に覚えにくい。
だからこそ、仏教伝来・壬申説のゴロ合わせでも書きましたが、「兄、水虫」で覚えるんですよ。
アホみたいな方法でも覚えたもん勝ちですからね!恥じらわない、恥じらわない。

精霊信仰とも訳されるアニミズムとは、とにかく色んなものに神様が宿っているんだ、という考えです。

幼いころ、ウソをついたら「雷の神様に舌を抜かれるぞ!」なんて叱られたことはありませんか?
いまの中高生にはそんな経験ないですかね…

実はこれもアニミズム。
雷という自然現象を神様と思っている。

ほかにも、神社で大きな岩や大きな木にシメ縄がかけられているのを見たことはありませんか?
岩や木といった自然物にも神様が宿っていると考える。

つまり、アニミズムって現代でも通用するものなんですよね。
縄文人から今も脈々と受け継がれている精神生活なのです。

そんな縄文人のなかに呪術的風習が広まります。
ジュジュツテキフウシュウ…授業で絶対に先生が噛むやつです、これは仕方ないから笑ってあげましょう。

まずは土偶。
土隅って書かないように!これではドスミですよ。
人をかたどっているんだからニンベン書く。
あと、同じ土の人形である埴輪と区別をつけること!
縄文時代が土偶、古墳時代が埴輪です。

土偶にはプリントにもあるように、色んな形のものが見られます。
一番有名なものは遮光器土偶。
幼い頃に見たドラえもんの映画「のび太の日本誕生」で、これがめっちゃ怖い役で出ていて戦慄走った記憶があります。
いまでも怖いと思えるほどトラウマとなりました…知ってます?
ほかにはハート型土偶や、〝縄文のヴィーナス〟なんて呼ばれる妊婦さんの土偶などがあります。
三内丸山遺跡には、「ネックレスをし、パンツをはいた土偶」なんていうドヘンタイみたいな名前の土偶もあります。

これらのほとんどが女性をかたどっています。
子どもが無事に生まれますように、たくさん生まれますように、なんていう意味がこめられたのでしょう。
また、体の一部が欠けたものもたくさん出土しています。
自分の体のなかで具合の悪いところを、土偶のその部分を壊すことで治るよう祈願したのかもしれません。

土偶は女性をかたどっていますが、石棒は男性器をあらわしたものです。
アラ恥ずかしい。

そして、有名な抜歯。
成人の通過儀礼として、14~16才でおこなったと考えられています。
みなさんは抜歯ってしたことありますか?

私は数年前に親不知の抜歯をしましてね…もう死ぬかと思いました。
奥歯の下に斜めで生えようとしていたヤツを抜こうとしたのですが…
上の歯は比較的簡単に抜けるようですが、これが下の歯でね…
レントゲンにも歯の根っこがぼんやりとしか写っておらず、とにもかくにも痛いから治療を始めたのですが…
見事に2時間半かかりました。
次の時間の予約客が帰らされていて、マジごめんなさいでした。
抜歯のあと5針も縫って、さらに1週間血と痛みが止まらず…
縄文人スゲーって改めて思いました。

まぁ現代人ほど健康な歯でもないでしょうし、奥歯でも、ましてや親不知でもないですけどね。
心の底から縄文人をリスペクトしました。
なお、最大14本抜歯した縄文人もいたそうです、ご飯食べられるん?ってめっちゃ思います。

抜歯のほかには叉状研歯という風習もあったようです。
三つ叉(みつまた)状に歯を研(と)ぐ、ということです。
これ、どうやるんでしょうね?
とがった磨製石器なんかでガガガガガっと高速で削ってくんでしょうか、絶対やりたくない…

屈葬は手足をボキボキにして埋葬する風習ですね。
これに対し、弥生時代には手足を伸ばした伸展葬という風習が見られるようになります。

では、最後に遺跡を確認しておきましょう。
No,3と同じ色ペンを使って色分けをすると、分かりやすくなりますよ!
自分のプリントは自分なりに工夫して見やすく仕上げていくように。

このなかで絶対に覚えておくべきは三内丸山遺跡・亀ヶ岡遺跡・大森貝塚。

三内丸山遺跡は、すでに江戸時代にこのへんに古い遺跡ありそうだな~って思われていた場所です。
1992年に野球場を作ろうと工事していたら…古そうなものが出るわ出るわで工事は中断、
発掘調査をおこない、いまは縄文時代を代表する遺跡として立派な博物館も整備されています。
その大きさを示すため、「東京ドーム7個分の大きさ」なんて書かれていますが、
関西人にはこれが想像できない…とりあえず大きいんだなってことは分かりますけどね。

それから、亀ヶ岡遺跡は縄文晩期のおしゃれ土器がたくさん出土している遺跡ですよね。

最後に、大森貝塚。
明治時代、カタツムリ博士であるエドワード=モースというアメリカ人が、
東京大学の教壇にたつため日本にやってきました。
当時は、横浜まで船でやってきて、そこから東京の新橋まで汽車に乗っての移動でした。

汽車で東京に向かうモース先生、車窓をながめていると…とつぜん窓の外がキラキラ光ったのです。
そう、汽車を通すためあらわになった地層の断面で、堆積した貝殻が日光を受けてきらめいたのです。
これに気付いたモース先生は、急いで汽車を降りて調査をおこない、縄文時代の貝塚だと発見したのです!
さすが貝博士!!晴れた日で貝がきらめいて良かった!!!

ちなみに、モース先生は大学を出ていません。
学歴はないけど、情熱でどんどん自分の世界を広げていった偉人なのですよ。

では、最後に解答を載せておきましょう。

縄文3解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



次回から弥生時代に入ります。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%AE%E5%85%89%E5%99%A8%E5%9C%9F%E5%81%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E5%BD%A2%E5%9C%9F%E5%81%B6
http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1446170903338/index.html
http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/2001/119_1.html
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/rminpaku.htm
http://www.yoshigo.gr.jp/cultural/yoshigo_kaiduka/index.html
http://www.saimaibun.or.jp/seika/shiryo-22/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B9
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