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645年 大化改新がはじまる [年号のゴロ合わせ]

「大化改新(たいかのかいしん)」を簡単に説明しなさい、と言われればどう答えますか?
「蘇我氏をたおした事件」と答えると…残念ながらバツです。
正しくは「蘇我氏をたおしたのちに始まる一連の政治改革」です。

では、「蘇我氏をたおした事件」は何という名前だったでしょう?
正解は「乙巳(いっし)の変」ですね。

「乙巳の変」を起こしたのは、中大兄皇子と中臣鎌足です。
舒明天皇を父に、さらに皇極天皇を母にもつ中大兄皇子と、一般人の中臣鎌足。
二人の出会いはどういうものだったのでしょうか…



遣隋使として中国へ渡った南淵請安は、帰国後、中国で学んできたことを教えるため塾をひらきました。
そこに通ったのが中臣鎌足です。
彼はメキメキと頭角をあらわし、塾でイチニを争う秀才となりました。
その天才中臣鎌足から見て、当時の日本の政治はおかしいものでした。
天皇を頂点とする中央集権国家をつくるべきなのに、蘇我氏がものすごい力をふるっているわけです。
蘇我蝦夷と入鹿…この親子は邪魔だな…と中臣鎌足は考えるようになります。

でも、中臣鎌足一人では如何ともしがたい。
そこで、彼は協力者を探し始めます。
目を付けたのが、当時の天皇(皇極天皇)の息子である中大兄皇子です。

中大兄皇子も南淵請安先生の塾に通っていたのですが、あまりに身分が違いすぎてお近づきになれません。
中臣鎌足は中大兄皇子とお知り合いになるチャンスを求めてストーカーになります。

あるとき、中大兄皇子が飛鳥寺で蹴鞠(けまり、サッカーのようなものです)をしていました。
これを木陰から見つめる中臣鎌足…

こ…怖い…

そんなおり、中大兄皇子がボールを蹴ったはずみで靴を飛ばしてしまいました。
木陰にいた中臣鎌足は猛烈ダッシュ!!!
すかさず中大兄皇子の靴を拾って渡します。
それが二人の出会いでした。

645.jpg

以後、中臣鎌足は中大兄皇子と政治について議論するようになり、蘇我親子が邪魔だということで意見が一致します。
さらに、蘇我親子のことをよく思っていない蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ、長いよ…)も味方に引き入れようとします。
中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂の長女と結婚することにしたのです。
政略結婚によって、蘇我氏の内部から崩壊させようという魂胆ですね。
ところが、結婚直前になって長女が行方不明になります。
もしかしたらこの結婚をよく思っていない者が、長女をさらってしまったのかもしれません…
長女を失って絶望する蘇我倉山田石川麻呂…
そこにそっと次女が近づいてきて一言、「お父さん、かわりに私が嫁ぎましょう」。

次女…すごい…

ということで、この政略結婚は無事に(?)成立し、蘇我倉山田石川麻呂が味方につきました。

そして、いよいよ645年6月14日、朝鮮からの使者を迎える儀式の日。
もちろんこれに大臣であった蘇我入鹿も参列するので、
中大兄皇子と中臣鎌足はスナイパーを雇って蘇我入鹿を暗殺する手はずを整えました。

このとき、皇極天皇の前で朝鮮からの上表文を読んでいたのは蘇我倉山田石川麻呂です。
もうすぐイトコの蘇我入鹿が目の前で殺されるんだ…そう思うと怖くなり、冷や汗だくだく、全身ぶるぶるになります。
それを心配した蘇我入鹿は「ちょ…石川麻呂、大丈夫か?」と聞きます。
なんだよ、入鹿!案外いいヤツじゃないかよ!!

ところが、スナイパーがまさかまさかでチキってしまい、まったく動く気配がありません。
そこで飛び出したのが中大兄皇子です。
自ら蘇我入鹿に斬りかかります。

Irukaansatsuzu.jpg
(「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」、談山(たんざん)神社蔵)

これは江戸時代に描かれたものなので、服装もろもろおかしいですが…
右側で刀を振り上げているのが中大兄皇子です。
そこに倒れ込んでいるのが蘇我入鹿、首が飛んでいるのが分かります。
この首、まさかまさかで600メートル飛んだそうです。
甲子園だったら特大の場外ホームランですよ、てゆーか屋根ぶちやぶったのかよ!ですね。
中大兄皇子さんにはぜひとも阪神の四番を任せたいところです。

話を元に戻しましょう。
奥に描かれた女性は皇極天皇です。
まさか実の息子が目の前で蘇我入鹿を殺害するなんてショックですよね…
彼女はこのあと弟に天皇の位を譲ることになります。
これが日本史史上はじめておこなわれた譲位(じょうい)例です。
今までは天皇が亡くなってから新たな天皇が即位していましたからね。

蘇我入鹿が暗殺された翌日、追い詰められた蘇我蝦夷は屋敷に火を放って自害します。
このとき、厩戸王(聖徳太子)と蘇我入鹿が編纂した『天皇記』と『国記』も燃えてしまいます。

これが「乙巳の変」です。
蘇我蝦夷の自害、蘇我入鹿の暗殺によって蘇我本宗家(ほんそうけ)が滅亡しました。
蘇我倉山田石川麻呂の家なんかは残っていますからね、滅んだのはあくまでも蘇我本宗家です。
ここから始まる一連の政治改革を「大化改新」と呼びます。

なお、息子の入鹿は暗殺、父の蝦夷は自害ですからね、しっかり覚えてもらうために
ここで今日のゴロ合わせ☆

645年.jpg

あ、入鹿は人間ですからね、念のため(笑)



次回は、中大兄皇子が天皇となる前後の様子を取りあげます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
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630年 最初の遣唐使を派遣する [年号のゴロ合わせ]

前回は、607年に小野妹子が遣隋使として中国に派遣された話をしました。



では、最初の遣隋使の派遣は一体いつだったのでしょうか。
『隋書』倭国伝には、以下のような記述があります。

開皇(かいこう)二十年(600年のこと)、倭王あり、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あおきみ、大王のことか)と号す。使を遣(つかわ)して闕(けつ、王宮のこと)に詣(いた)る。上(しょう、〔1   〕のこと)、所司(しょし)をしてその風俗を訪(と)わしむ。

空欄1に入る皇帝の名前は分かりますか?
ここは煬帝ではありませんよ、彼のお父さんにあたる隋の初代皇帝文帝(ぶんてい)です。

史料によると、600年に倭王のアメタリシヒコが遣隋使を派遣しています。
その使者に対し、文帝は所司という家来を通じて倭のことを色々と尋ねた模様です。
これが『隋書』倭国伝に見える遣隋使の最初です。

ところが、『日本書紀』にはこの記述がないのです。
初めての遣隋使の派遣なら、しっかりと書きそうなものですけどね…
なので、実際に文帝のもとへ遣隋使の派遣がおこなわれたかどうかはイマイチはっきりしませんが、
一応、いまのところ最初の遣隋使の派遣は600年ということになっています。

ちなみに、小野妹子のことについて『日本書紀』は以下のように記述しています。

(推古天皇十五年(607年のこと))秋七月庚戌(かのえいぬ)、大礼(だいらい)小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐(もろこし)に遣はす。鞍作福利(くらつくりのふくり)を以て通事(おさ、通訳のこと)とす。

607年に遣隋使が派遣されたことは、『隋書』倭国伝にも、『日本書紀』にも記述がありますので確実です。

ところで、最後の遣隋使とは誰だったか覚えていますか?

犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)です。
ちょっと漢字と読みがややこしいので注意してくださいね!

630.jpg

彼は遣隋使としての経験をかわれ、のちに最初の遣唐使としても中国に渡ります。

では、最初の遣唐使は何年に派遣され、またそのときの天皇は誰であったか覚えていますか?

最初の遣唐使の派遣は630年。
隋は高句麗遠征の失敗などにより、618年に滅んでいますからね。

さぁ、次は難しいですね。
最初の遣唐使を派遣した天皇は…舒明(じょめい)天皇です。
分かりましたか?

なんせこの舒明天皇…カゲの薄い人で……
嫁が皇極(斉明)天皇、息子が天智天皇と天武天皇ということで周囲のキャラはずいぶん濃いんですけどね…
彼の功績として覚えることと言えば遣唐使の派遣くらいです。
でも、漢字が難しいので気をつけて下さいね。
一文字目は「舎」に「予」ではありませんよ、部首は「舌」ですからね~。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

630年.jpg



次回はいよいよ大化改新に入ります。
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607年 遣隋使として小野妹子を派遣する [年号のゴロ合わせ]

前回に引き続き、推古天皇の時代を見ていきましょう。



エライ中国に使者を派遣して貢ぎ物を献上し(朝貢、ちょうこう)、エライ皇帝から返礼をもらう。
このいわゆる冊封体制(さくほうたいせい)は、紀元前から日本と中国の間で脈々と続けられてきました。

これを踏まえて、今日はまず史料から遣隋使の様子を見てみましょう。
エライ中国に対し、日本は一体どんな態度で挑んだのでしょうか!

大業(たいぎょう)三年(〔1   〕年のこと)、其の王多利思比孤(たりしひこ)、使(〔2   〕のこと)を遣して朝貢(ちょうこう)す。使者曰く、「聞くならく、海西(かいさい)の菩薩天子(〔3   〕のこと)、重ねて仏法を興(おこ)すと。故(かれ)、遣して朝拝(ちょうはい)せしめ、兼(か)ねて沙門(しゃもん、僧侶のこと)数十人、来(きた)りて仏法を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出(い)づる処の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云云(うんぬん)」と。帝、之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい、外国に関する事務、朝貢のことなどを取り扱う官)に謂(い)ひて曰く、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる有らば、復(ま)た以て聞(ぶん)する勿(なか)れ」と。明年、上(しょう、〔3   〕のこと)、文林郎(ぶんりんろう、文史を撰録する秘書省の属官)の裴清(はいせい、〔4   〕のこと)を遣して倭国に使(つかい)せしむ。

この史料の出典は、隋の歴史書ですが分かりますか?
唐の時代に魏徴(ぎちょう)が著した『隋書』倭国伝ですよ。

では、空欄にあてはまる語句を見ていきましょう。

1…607
2…小野妹子(オトコですよ!オトコ!!)
3…煬帝(ようだい、隋の第2代皇帝、このころ高句麗遠征を画策中)
4…裴世清(はいせいせい、唐の第2代皇帝太宗(李世民)の漢字とかぶるため、史料では畏れ多くて「世」を省略)

607年、倭の王であるタリシヒコが小野妹子を使者として隋に派遣しました。
このタリシヒコが誰だか分からない。
「王」という肩書きなので、推古天皇のことかと思いきや、
「たらしひこ(足彦)」は男性の天皇に付けられる呼び名なのでもしや厩戸王?とも考えられます。
でも厩戸王は倭の王(天皇)ではないわけです…
ということで、ここは説が定まっていないので、入試で問われることはまずないでしょう。

さて、小野妹子が持参した国書ですが、その内容がとっても有名。
「太陽ののぼるところの天子が、太陽の沈むところの天子に手紙を差し上げます。元気?」です。

地理的に見て、日本は中国の東、中国は日本の西ですからね、
確かに日本は太陽がのぼる方角で、中国は太陽が沈む方角です。

しかし…しかしですよ…

中国からしたらめっちゃ気ぃ悪いじゃないですか!これ!!
なんか「日本はこれからのぼり調子だけど、中国はこれからくだる一方ですよ」って感じがするじゃないですか。
案の定、煬帝は激ギレします。
「蛮夷の国からの手紙でこんなに無礼なものがあったら、二度と見せるな!」。
だいぶお怒りでらっしゃいますね、分かります。

しかし…しかしですよ…

翌年、答礼使(とうれいし)として裴世清が日本に派遣されます。
激ギレした煬帝は、なぜきちんと日本に返礼の使者を派遣したのか。
それは当時の隋が置かれた国際情勢によるものと考えられます。

当時の隋は、前述したとおり朝鮮半島へと領土を拡大すべく高句麗遠征を画策していました。
この状況で、日本を無下に扱うと…中国に腹をたてた日本が高句麗と手を組んでしまうかもしれないのです。
ただでさえ高句麗は手強い国なのに、そこに日本がバックアップするようなことになれば大変です。
怒り狂った煬帝でしたが、冷静に外交を考え、きちんと日本に答礼使を派遣したのですね。
日本は、これまで完全に格下扱いされてきた中国との関係に、革命をもたらしたのです。
国書を書いたとされる厩戸王にとって、想定通りの結果がもたらされたというわけです。

607.jpg

ちなみに、煬帝による日本への返事の国書は、小野妹子が帰国途中に紛失してしまいました。
百済で奪われたと主張しているようですが…いやいや、国書の紛失なんて絶対にありえないことですよね…

ところが、小野妹子はそんなに厳罰を受けていません。
翌年には裴世清を隋に送り届ける使者として、再び隋へと渡っています。
しかもその後とても出世しています。

あ、怪しい…

ひょっとすると煬帝の国書は怒りにまかせて書かれた内容で、
とてもじゃないけど推古天皇に見せられるものではなかったのかもしれません…
そうすると、さきほど述べた論理とは齟齬が生じますけどね。
どちらが正しいのかは分かりません。

なお、608年に小野妹子が再び隋へと渡る際、3名がこれに随行しましたよね。
誰か覚えていますか?

留学生の高向玄理(たかむこのげんり)、留学僧の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・旻(みん)です。
高向玄理ってお坊さんっぽい名前ですが、彼だけが留学生です、ご注意を。
彼らの帰国後の活躍は、また後日語ることにしましょう。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

607年.jpg



次回は最後の遣隋使としても活躍した犬上御田鍬を取りあげます。
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604年 憲法十七条を制定する [年号のゴロ合わせ]

ずいぶんご無沙汰してしまいました、すみません。
ゴロ合わせの続きを見ていきましょう。



前回、593年に厩戸王(聖徳太子)が推古天皇の摂政に就任した話をしました。
このとき彼は弱冠ハタチ。
老けた肖像画のイメージが強いですけど、実は若かったんですねぇ~…

さぁその厩戸王(聖徳太子)、蘇我馬子らとともに様々なことを定めていきます。

まずは603年に冠位十二階を制定し、才能ある人物をどんどん登用できるようにしました。
これまで人材は氏姓制度によって登用されてきたんでしたよね。
世襲制ですから、実力よりも家柄重視。
極端な話、どんだけアホな人でもいい家柄に生まれればいい役職につけてしまう、
そしてどんだけ才能あふれる人でもショボい家柄に生まれればショボい役職にしかつけなかったわけです。
なんて勿体ない話…
ということで、冠位十二階というものをつくって、これまでの氏姓制度による世襲を打破しました。
詳しくは後日、飛鳥時代のまとめプリントで見ていきたいと思います。

冠位十二階を制定した翌604年、有名な憲法十七条が制定されました。

憲法とは言っても、いまの日本国憲法のような性格のものではありません。
豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めたものです。
いわば、生徒手帳に書かれた校則みたいなもんです。
校則は、それぞれの学校の生徒としての自覚を求めたものですからね。

では、史料を見てみましょう。

一に曰(いわ)く、〔1   〕を以(もっ)て貴(たっと)しとなし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。
二に曰く、篤(あつ)く〔2   〕を敬へ。
三に曰く、〔3   〕を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め。
      〔4   〕をば則(すなわ)ち〔5   〕とす、〔6   〕をば則ち〔7   〕とす。
   (中略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に斂(おさ)めとることなかれ。
        国に二(ふたり)の〔4   〕なく、民に両(ふたり)の主(あるじ)なし。
         率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主とす。
   (中略)
十七に曰く、それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

1…和(わ)
2…三宝(さんぽう、仏教のこと)
3…詔(みことのり、天皇の命令のこと)
4…君(きみ、天皇のこと)
5…天(あめ、天皇とは天(てん)のようなものだ、ということ)
6…臣(しん、臣下のこと)
7…地(つち、臣下とは地(ち)のようなものだ、ということ)

やたら1文字の漢字が多いですね…

とにかく有名なのは第一条。
これはおそらく中学校でも習ったことでしょう、「みーんな仲良くしましょうね♪」って意味だよって。
しかし…続きがあるのをご存知でしたか?
「忤ふること無きを宗とせよ」。

つまり、こういうことです。

604.jpg

このころは天皇中心の国家を作るために必死ですからね、
中学校で習ったような微笑ましい内容だけではないということです(笑)

第三条も同じように、天皇中心の国家を作るためのものです。
「天皇の命令を受けたら必ず従いなさい、天皇とは天であり、お前ら役人は地なのだ!」ということ。
天は万物を覆い、地面が万物を載せることによって四季がうつろいゆくのです、
なので地面が天を覆おうとすれば、秩序は破壊されるばかりだ!という文章がこれに続きます。

また、第十二条も同様です。
「国司や国造は人民から税をしぼりとってはいけません。国に二人の君主はなく、民に二人の主人はいません。この国土のすべての人民は、天皇をもって主人としているのです。」という意味ですね。

とにかく、役人たちに「自分たちは天皇中心の国家の役人なんだ!」という自覚を持たせるわけです。

さて、飛ばした第二条を見ましょう。
第二条からは、新しい政治理念として仏教が重んじられていることが分かります。
このころ、四天王寺や法隆寺といった寺院がどんどん建立されています。
詳しくは飛鳥文化のまとめプリントでとりあげます。

最後に第十七条。
「ものごとを独断でおこなってはいけません、必ずみんなで話し合いましょう。」
役人にとって大切な気構えですね。

この憲法十七条、出典は分かりますか?
『日本書紀』ですからね、お忘れなく!!

それでは、今日のゴロ合わせ。

604年.jpg



次回も厩戸王(聖徳太子)がらみのゴロ合わせを取りあげます。

593年 厩戸王(聖徳太子)が摂政となる [年号のゴロ合わせ]

飛鳥時代のゴロ合わせを見ていきましょう。



さぁ!日本で最初の女性天皇って誰か覚えていますか?

これは簡単ですよね、推古天皇です。
女性天皇は推古天皇をはじめ日本史史上10例確認されています。

①推古天皇、②皇極天皇、③斉明天皇(皇極天皇と同一人物)、④持統天皇、⑤元明天皇、
⑥元正天皇、⑦孝謙天皇、⑧称徳天皇(孝謙天皇と同一人物)、⑨明正天皇、⑩後桜町天皇

⑨と⑩は日本史を学習するうえではマイナーなお方ですので、参考程度に見てください。

同一人物が2回天皇になっている例が2度あるので、女性天皇は合計8人です。
ちなみに、同一人物が2回天皇になることを何と言うか覚えてますか?
重祚(ちょうそ)です。
天皇の位につくことを践祚(せんそ)と言いますが、これを重ねるので重祚というわけです。

推古天皇は、日本に仏教が伝来したときの天皇である欽明天皇、彼をお父さんにもちます。
お母さんは、蘇我馬子のお姉さんです。
ということで、蘇我馬子にとって推古天皇は姪っ子にあたり、大臣として彼女を補佐しました。

もう一人、推古天皇を補佐した人物がいましたね。
推古天皇のお兄さんである用明天皇の息子、すなわち推古天皇の甥っ子にあたる人物、
そう、厩戸王(聖徳太子)です。

2才のとき、突然立ち上がって念仏を唱えてたら手からお釈迦様の骨が出てきたとか、
10人が一斉に話した内容をそれぞれ聞き分けられたとか(空気読んで一人一人順番に話しなさいよ…)、
未来を予言できたとか、馬で空飛んだとか…
ほんとかどうか分からないトンデモ伝説がたくさん残っている人物です。

ところで、彼がどんな顔をしていたか思い浮かびますか?
彼の肖像画は計7回と、最も多く紙幣の肖像として使用されました。
みなさんのおうちにも聖徳太子の一万円札とか残っているかも知れませんよ。
これはいまでも一万円としてちゃんと使用できます、まぁレジで怪訝な顔をされるでしょうけどね。

その彼について、最近、実在したとかしないとかいう議論がなされています。
さらに有名な肖像画についても、実は誰なんだか分からないという指摘までなされています。
んじゃ、昔の人は誰か分からん人の顔が描かれたお札を使ってたのか!って感じですね。
実在したという実証はできても、実在しなかったという実証はなかなか難しいのですけどね…
今後の研究を待ちましょう。

ともあれ、厩戸王(うまやとおう)という人物が実在したことは確かなので、
現在の教科書では、厩戸王(聖徳太子)という書き方をすることが多くなっています。

その厩戸王(聖徳太子)が、593年に推古天皇の摂政となります。
摂政とは、天皇が女性であったり幼い場合におかれる補佐官です。
摂関政治の時代に輝かしい活躍をして以降、教科書にはめっきり登場しなくなりますが、
実は王政復古の大号令で廃止されるまで続いた役職です。

彼が摂政としてどんなことをおこなったのかについては、次回以降で詳述していきます。

ここで、今日のゴロ合わせ。

593年.jpg



それでは、今日はここまで☆
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古墳時代(5) [まとめプリント]

古墳時代のラストに氏姓制度を見ていきましょう。
内容は527年のゴロ合わせと重複するので、そちらも参考にしてください。



古墳5.jpg

氏姓制度とは、ヤマト政権がつくった支配制度です。
とにかくややこしい、漢字もややこしい、読み方もややこしい、内容もややこしい。
日本史を旧石器時代から学んでいくと、最初につまずくのがここだと思います。
ゆっくりゆっくり順を追って理解してください。

まずは、大王の一族を見ていきましょう。

ヤマト政権の首長である大王、そして彼の一族であるいわゆる皇族が大王家を構成します。
大王はたくさんの直轄地をもっています、それを屯倉(みやけ)といいます。
どこが「み」で、どこが「や」で、どこが「け」やねん!と突っ込んでください。
読めません、ほんとに。
もとは「御宅(みやけ)」と表記したようです、これなら読めないことはない。
でも、みなさんが覚えるのは「屯倉」の字です。

この屯倉、はじめは大王のいる近畿地方を中心に広がっていました。
しかし、ヤマト政権が支配地域を拡大するにともない、屯倉もどんどん各地に拡大していきました。
反乱を起こした者の土地をヤマト政権が接収し、屯倉とする場合もありました。
たとえば磐井の乱ののち、九州北部にもこれが設置されました。

大王は、屯倉を耕作する農民として渡来人や地方豪族の私有民を集団で移住させました。
彼らを田部(たべ)といいます。
屯倉は各地にあるので、大王の目は直接届きません。
そこで、地方豪族の国造(くにのみやつこ)にこれらを管理させたのです。

では、名代・子代の部(なしろ・こしろのべ)とはなにか、というと、
大王や皇族にそれぞれ仕えて貢ぎ物を献上したりする大王家の直轄民です。
それぞれ、大王・后・王子らの宮名を名乗るようで、
たとえば春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)に仕えた者を春日部(かすかべ)と呼びました。

田部は屯倉を耕する農民、名代・子代の部は献上品などを持ってくる直轄民、と覚えてください。

続いて、豪族です。

豪族達は血縁を中心に「氏(うじ)」という集団に組織されました。
自分と同じ苗字を名乗る親戚が1つの氏としてまとめられた、と考えてください。
その氏の首長を氏上(うじのかみ)といい、氏上以外の構成員を氏人(うじひと)と言います。
そして、氏の私有地を田荘(たどころ)、それを耕す私有民を部曲(かきべ)と言います。
田荘と部曲、どっちがどっちか分からなくならないように!
ゆくゆく私有地は荘園と呼ばれるようになることは知ってますね?
荘園の荘の漢字が入っている方が土地だと見分けてください。
なお、豪族のおうちには奴隷がいたようです、彼らをヤツコ(家っ子)とか、奴婢(ぬひ)と呼びます。

ここまで大丈夫ですか?

次に「姓(かばね)」を見ていきます。

大王が、ヤマト政権内での家柄や地位をあらわす称号として授けたものです。
現代ではそんな称号は存在しないので、これが理解しにくい。

まず、中央の氏に与えられる姓を2種類覚えましょう。
遠い遠い昔に大王家と血のつながりがあったとされる有力な氏には「臣(おみ)」が、
大王家とは血のつながりはないけど有力な氏には「連(むらじ)」が与えられます。

また、地方の有力な氏には「君」(きみ)や「直」(あたえ)、
渡来系の子孫にあたる氏には「首」(おびと)・「史」(ふひと)・「村主」(すぐり)などが与えられました。

さぁさぁ、ここまで大丈夫ですか?
ややこしくなってきましたね。

もひとつややこしいのが、これからお話しするところです。
姓とは別にもらえる、地位というか役職というかそんなものです。

「臣」という姓をもらう氏のなかで、とくに有力な者は「大臣(おおおみ)」に任命され、
「連」という姓をもらう氏のなかで、とくに有力な者は「大連(おおむらじ)」に任命されました。
「大臣」と「大連」は大王とともに政治を司る有力者でした。
この「大臣」はゆくゆく左大臣(さだいじん)・右大臣(うだいじん)となり、
現在も国務大臣(こくむだいじん)という名称で政治の世界で使用されていますね。

「君」などの姓をもらう地方の有力豪族は、「国造(くにのみやつこ)」に任命されました。
彼らはヤマト政権からその地域の支配権を認められる一方、
先にも述べたようにその地域にある屯倉や田部、名代・子代の部の管理を担いました。

また、「連」や「直」、そして「首」・「史」・「村主」などの姓をもらう氏は、「伴造(とものみやつこ)」に任命されました。
これは、職人集団である伴(とも)や品部(しなべ)を率いるリーダーです。

氏姓制度、理解できましたか?
本当にややこしいので、以下のように色分けをしながら頭を整理していってください。

古墳5解答.jpg

なにぶん古代のことなので、諸説ある部分です。
今後の研究に期待しましょう。

それでは、今日はここまで☆
これで教科書の第1章が終わりました。



次回から再びゴロ合わせを取りあげます。
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古墳時代(4) [まとめプリント]

3回にわたって前期古墳・中期古墳・後期古墳の特徴をそれぞれ見てきました。
今日は、古墳時代の人々の生活を見ていきましょう。



古墳4.jpg

古墳時代になると、支配者と被支配者の生活がくっきり分かれていきます。

前者である豪族は、まわりに濠や柵をそなえた立派な家に住みました。
ここは生活の場であり、また政治をおこなう場でもあったようです。
一方、後者である民衆は相変わらず竪穴住居に住んでいます。
まだ竪穴住居に住んでいるのか…と思うかもしれませんが、実はちょっとだけ進化しています。
縄文時代には、竪穴住居の真ん中に簡単な炉をつくって調理などをしていましたよね。
しかし、古墳時代になると、竪穴住居の隅にかまどが作られるようになり、
調理の際に出る煙がそのまんま屋外に出せるようになりました。

また、食事などに使用される土器にも変化が見られます。

弥生土器の流れをくむ土師器(はじき)、そして朝鮮半島の流れをくむ最新式の須恵器(すえき)の登場です。
土師器は弥生土器の流れをくむ、ということは…?
何色をしているか分かりますね??
もちろん赤褐色です。
須恵器は、斜面を利用して築いた登り窯(のぼりがま)をつかって高温で焼き上げたもので、灰色です。

次に、古墳時代の人々の信仰、まずは農耕儀礼を見ていきましょう。
春には、一年間の豊作を祈って祈年祭(としごいのまつり)がおこなわれ、
秋には、一年間の収穫を感謝して新嘗祭(にいなめのまつり)がおこなわれます。
書きにくいし読みにくいし大変な語句ですが、頑張って覚えてくださいね。

ちなみに、新嘗祭は現在も天皇陛下によって毎年11月23日に宮中で執り行われています。
ご自身で皇居内の水田に田植えをされ、また秋には稲刈りをされて新嘗祭で使用されるそうです。
この日は勤労感謝の日なので、学校はお休みですね。
なお、天皇が即位した年におこなわれる新嘗祭は、とくに大嘗祭(だいじょうさい)と呼びます。

他の信仰を見ていきましょう。

アニミズムの流れで、古墳時代もいい形をした山や、高い木、巨大な岩などを信仰の対象としたようです。
例えば、奈良県の大神(おおみわ)神社は、三輪山(みわやま)というきれいな山をご神体としています。
また、九州と朝鮮半島の中間地点にある沖ノ島には、沖津宮(おきつのみや)という神社がありますが、
島全体をご神体と考えるようです。
沖ノ島は、現在も女人禁制(にょにんきんせい)が守られている世界でもたいへん珍しい島です。
4~9世紀の祭祀遺跡や遺物もたくさん残っており、「海の正倉院」なんて呼ばれています。
つい先日、沖津宮をふくむ宗像大社は、平成29年の世界文化遺産登録を目指す候補地となりました。
「宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界文化遺産になる日は近いかもしれませんね…楽しみです。

それにしても、古墳時代に信仰の対象となった場が、現在も神社として信仰されているとはすごいですよね…

大王家の祖先神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる伊勢神宮内宮(ないくう)や、
大国主命(おおくにぬしのみこと)をまつる出雲大社もこのころにはすでに信仰の場となっていたようです。
いずれも最近、式年遷宮(しきねんせんぐう)がおこなわれたので、ニュースなんかでよく目にしたのではないでしょうか。
式年遷宮とは、定期的にご神体を移動して、すべての建物を新しく建て替えることです。
伊勢神宮は20年に1度、出雲大社は60年に1度なのですが、
2013年は伊勢神宮と出雲大社が同時に式年遷宮を迎えるということで、話題になりましたよね。

次に古墳時代における呪術的風習を見ていきましょう。

心身のケガレを海や川などで洗い清め流すことを禊(みそぎ)と言い、
また、水以外の方法でケガレを除くことを祓(はらえ)と言います。
前者は瀧に打たれる修行を、後者は神社で祝詞(のりと)などでお祓いをしてもらう様子、これらを想像して下さい。
それから、鹿の骨や亀の甲羅を焼いてできたひび割れで吉凶を占う太占(ふとまに)の法、
真偽を明らかにするため熱湯に手をつっこませて火傷ができるかどうかを見る盟神探湯(くかたち)があります。
指紋採取も防犯カメラも時代、こんな恐ろしい方法で犯人を挙げていたのですね…
普通…火傷するでしょ…無茶しますな…

最後に大陸文化の受容です。

このころ、大陸の先進技術を携えた人々が日本にやってきます。
いわゆる渡来人ですね。
弓月君(ゆづきのきみ)・阿知使主(あちのおみ)・王仁(わに)などの名前が伝わっています。
彼らの子孫は日本に住み、それぞれ秦(はた)・東漢(やまとのあや)・西文(かわちのふみ)という氏を名乗りました。

ヤマト政権は、この先進技術をもつ渡来人たちを品部(しなべ)という技術者集団に組織しました。
錦織部(にしごりべ)・韓鍛冶部(からかぬちべ)・陶作部(すえつくりべ)などです。
漢字と読み方に注意してくださいね!

また、漢字も伝来しています。
478年のゴロ合わせでもチラっと登場した稲荷山古墳出土鉄剣・江田船山古墳出土鉄刀のほか、
石上神宮七支刀や隅田八幡(すだはちまん)神社人物画像鏡などがあります。

古墳4解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



次回は古墳時代のラスト、氏姓制度を取りあげます。

画像出典
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0005081
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010484
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048599
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0062230
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/?page_id=331
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035194
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E7%94%BB%E5%83%8F%E9%8F%A1
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