SSブログ

飛鳥時代(7) [まとめプリント]

天武天皇と持統天皇、この夫婦の時代を中心とする仏教文化、
白鳳文化(はくほうぶんか)を見ていきましょう。



飛鳥7.jpg

国家仏教をめざした天武天皇は、奈良に大寺院を建立します。
舒明天皇が建立した百済大寺(くだらおおでら)、これを起源とする大官大寺(だいかんだいじ)です。
このお寺は、平城京遷都にともない平城京へ移転し、大安寺(だいあんじ)と呼ばれるようになります。

また、奥さんである鵜野讃良(のちの持統天皇)の病気が治るように…という思いをこめて薬師寺を建立します。
藤原京で造営を開始しましたが、平城京遷都にともない現在の場所に移築されました。
しかし、奥さんが病気だから大寺院を建立するって…さすがスケールが違いますなぁ~…
ということで、本尊は病気を治す仏さまである薬師如来(やくしにょらい)です。
金堂に安置されているこの薬師如来像の両サイドには、
日光菩薩像(にっこうぼさつぞう)と月光菩薩像(がっこうぼさつぞう)がいますので、
これを薬師寺金堂薬師三尊像(やくしじこんどうやくしさんそんぞう)と呼びます。

ちなみに、薬師如来ってたいてい左手に薬壺(やっこ、クスリツボのこと)を持っています。
しかし、薬師寺の薬師如来は持ってないんですよね…
ながらく「不思議だなぁ~…」と思っていたのですが(古い薬師如来像は薬壺を持たないようです…)、
あるとき薬師寺でお話を聞いていたら、「この薬師如来さまは薬箱に座っているのです!」と説明されました。
うーん…なるほどー…

飛鳥7-1.jpg

なお、その「薬箱」かもしれない台座には、国際色豊かな人物が彫刻されていることでも有名です。

薬師寺式伽藍配置を見ると、塔が2つあることが分かりますね。
薬師寺の伽藍のほとんどは20世紀の再建なのですが、唯一、東塔(とうとう)は白鳳様式を伝えるものです。
現在、約110年ぶりの解体修復中で、完成は2018年を予定しています。
新しい研究成果が発表される日が楽しみですね☆

ちなみに、この東塔って何階建てに見えますか?
屋根の数を数えたら…6階建てですよね。
しかしこれは三重塔(さんじゅうのとう)。
各階に裳階(もこし)と呼ばれる飾り屋根がついているので、六重塔に見えてしまいますが三階建てです。

てっぺんには9つの輪っかと、水煙(すいえん)がついています。
水煙とは火炎状の装飾品なのですが、火事にならないようこのように名付けられたといわれています。
薬師寺東塔の水煙は、天女さんが舞ったり笛を吹いたりする優雅な様子が彫刻されています。

この薬師寺東塔を「凍(こお)れる音楽」と評した美術評論家がおられるようですが…
ウーン…芸術家の表現はなかなかむつかしいですな…(笑)
なお、これまでこの言葉を発言したのはフェノロサだと言われていましたが、どうやら違うようです。

では、ほかの仏像を見ていきましょう。

・薬師寺東院堂聖観音像(やくしじとういんどうしょうかんのんぞう)
 薬師寺式伽藍配置の東側にある東院堂という建物に安置されている仏像です。
・法隆寺夢違観音像(ほうりゅうじゆめたがいかんのんぞう・ほうりゅうじゆめちがいかんのんぞう)
 悪い夢を見たとき、この観音さまにお祈りするとよい夢にかえてくれるのだそうです。
 昔の人も、悪夢にうなされたんだなぁ~…ってことが分かります。
・法隆寺阿弥陀三尊像(ほうりゅうじあみださんそんぞう)
 橘夫人(たちばなふじん)または橘三千代(たちばなのみちよ)という人物の念持仏(ねんじぶつ)です。
 光明皇后のお母さんにあたる人物です。
 念持仏とは、常に自分の近くにおいて拝む仏像のことです。
 では、さぞかしコンパクトサイズなんだろう…と思いきや、真ん中の阿弥陀如来像は30センチ超えてます。
・興福寺仏頭(こうふくじぶっとう)
 きましたね…これ…
 たぶん、一生忘れないんじゃないかなと思う…
 もとは、蘇我倉山田石川麻呂が建立した山田寺(やまだでら)の本尊である薬師如来像でした。
 あんな亡くなり方をした蘇我倉山田石川麻呂を供養するためつくられたようです。
 ところが、12世紀に興福寺が再建されたとき、これを興福寺のお坊さんが奪ったというのです…
 盗んだのか~…いただいたのか~…このへんはよく分かりません。
 その後、15世紀に興福寺が落雷により炎上し、胴体が溶けてしまったそうです。
 頭部だけになった姿が発見されたのは1937年、発見者はさぞかしビックリしたことでしょう…
 ちなみに…この仏頭って大きさどんなもんだと思います?
 炊飯器ぐらいかな?って思いません??
 これ…まさかの1メーター弱あるんですよ…
 全身像のときはどんだけ大きかったのでしょうね…よくそんなん奪ったな興福寺!と突っ込みたくなります。

次に絵画を2つ見ていきましょう。

・法隆寺金堂壁画(ほうりゅうじこんどうへきが)
 インドのアジャンター石窟寺院(せっくつじいん)の壁画とよく似ている国際色豊かな壁画です。
 白鳳期の壁画がこんなにも美しく残っているんですよ!?奇跡と思いませんか!!!
 しかし、明治時代にはすでに劣化(れっか)や剥落(はくらく)が始まっていました。
 そのため、1940年から一流の画家を動員して、壁画の模写がおこなわれました。
 ところが…
 1949年のある日、金堂が突然炎上し、これらの壁画は焼け焦げてしまったのです…
 なので、プリントや資料集に載っている壁画は実は模写された絵です。
 本物の金堂壁画は真っ黒けになってしまいました。
 なぜ金堂が炎上したのか、その原因はいま現在もよく分かっていません。
 放火という説もありますし、電気ザブトンから出火したという説もあります。
 そりゃね、金堂の地べたに座って絵を描いてたらおしり冷えちゃうもんね…
 後世に残そうとして失われてしまった白鳳期の壁画…残念でなりません…
 こんなことを二度とおこすまい!ということで、この事件をきっかけに文化財保護法が成立しました。

飛鳥7-2.jpg

・高松塚古墳壁画(たかまつづかこふんへきが)
 白鳳文化がさかえたのは7c後半~8c初頭、すなわち古墳時代後期でもあります。
 この時代を代表する装飾古墳が、飛鳥の高松塚古墳でしたね。
 1972年、地元の人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ「何かある!」と気付き、
 専門家の調査によって壁一面に色鮮やかに描かれた女性の姿や神様の姿が発見されました。
 1300年ほど前の絵が発見された、ということで大ニュースになったのですが、
 その後、これまで閉鎖されていた石室(鎌倉時代ごろに盗掘に遭ったようですが…)に人が入るようになり、
 ついにカビだらけになってしまいました…
 そして、2006年に石室を解体し、修理をおこなっていますが…もとには戻らないでしょうね…残念です…

最後に文学を見ておきましょう。
このころ、豪族たちは中国的教養を受容して漢詩文をつくるようになっていました。
代表的歌人は、大友皇子や大津皇子があげられます。
彼らの作品は、のちに編纂される最古の漢詩文集『懐風藻』(かいふうそう)に収録されます。
また、和歌もこの時代に形式を整えます。
代表的歌人は、有間皇子・額田王(ぬかたのおおきみ)・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)です。
彼らの作品は、のちに編纂される最古の和歌集『万葉集』(まんようしゅう)に収録されます。
なお、額田王は大海人皇子の奥さんでしたが、のち中大兄皇子のおくさんになったモテガールです。
中大兄皇子と大海人皇子って…どんな兄弟関係を築いてたんでしょうね…分からんわー…

とにかく、「白鳳文化=残念な文化」で覚えましょうか。
火事で頭だけになってしまった仏頭・火事で焦げ焦げになってしまった壁画・カビだらけになってしまった壁画…
ね、これであとは薬師寺を覚えておけば大丈夫です!

それでは、解答を載せておきましょう。

飛鳥7解答.jpg 次回から、ゴロ合わせに戻ります。 画像出典 http://www.nara-yakushiji.com/guide/index.html http://www.nara-yakushiji.com/guide/garan/garan_toto.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA http://www.nara-yakushiji.com/guide/hotoke/hotoke_daikodo.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E5%A3%81%E7%94%BB https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%9F%B3%E7%AA%9F%E7%BE%A4 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

飛鳥時代(6) [まとめプリント]

今回は、天智天皇亡き後の政治を見ていきましょう。



飛鳥6.jpg

天智天皇の死後、皇位継承争いが発生します。
天智天皇の弟である大海人皇子と、天智天皇の子である大友皇子との争いでしたね。
これを壬申の乱と言います。
詳しくは、672年のゴロ合わせを参考にしてください。

壬申の乱で大海人皇子が勝利し、彼は都を近江から飛鳥に戻します。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)です。
大海人皇子はここで即位し、天武天皇となります。

天武天皇の業績はたくさんあります。

たとえば日本最古の銭貨(せんか、コインのこと)である富本銭(ふほんせん)を鋳造したり、
八色の姓(やくさのかばね)という新しい身分秩序をつくりました。
また、「天皇」や「日本」という称号も、この頃から使われ始めたと言われていましたね。

ただ、存命中に完成しないものもありました。
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編纂と、藤原京の造営です。
いずれも、奥さんである持統天皇の時代に完成を迎えました。
藤原京の遷都については、694年のゴロ合わせを見てくださいね。

694年のゴロ合わせでも書いたとおり、天武天皇が亡くなった後、
奥さんの鸕野讚良(うののさらら)は息子の草壁皇子を即位させるつもりでした。
そのために、天武天皇と姉の子である大津皇子を自殺に追い込んだとも言われていましたね。
ところが、肝心の草壁皇子が病のためこの世を去ってしまいました。
草壁皇子の息子、つまり彼女の孫はまだ7歳です。
小学校入りたてぐらいの子が天皇というのは、やはりキビシイ…
そこで、彼女は孫が大きくなるまでのツナギとして、自ら天皇となったのでしたね。
これが持統天皇です。

飛鳥6-1.jpg

彼女の業績としては、先ほど述べた飛鳥浄御原令の施行や藤原京遷都のほか、
庚寅年籍の作成があげられます。
詳しくは690年のゴロ合わせをご覧下さい。

そしていよいよ持統天皇は孫に天皇の位を譲ります。
日本史史上、2例目の譲位ですね。
ここにわずか15歳の文武(もんむ)天皇が誕生し、持統天皇は初の太上天皇となりました。

文武天皇の業績といえば、大宝律令の制定です。
大宝律令については、飛鳥時代(8)飛鳥時代(9)で詳述します。

それでは、今日の解答です。

飛鳥6解答.jpg



次回は、天武・持統夫婦の時代に花開いた白鳳文化をとりあげます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%9C%AC%E9%8A%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC#/media/File:Fujiwarakyo2.gif
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

飛鳥時代(5) [まとめプリント]

いよいよ中大兄皇子が天皇に即位する様子を見ていきましょう。
中大兄皇子って、ほんとになかなか即位しないんですよね…これは、古代史の謎の1つに数えられるようです。



飛鳥5.jpg

乙巳の変ののちに始まった大化改新で、孝徳天皇が即位し、都が難波に移されました。
孝徳天皇の業績として覚えることは2つです。

1、「改新の詔」の発表
2、蝦夷(えみし)に対する城柵(じょうさく)の設置

1つめは、前回の飛鳥時代(4)690年のゴロ合わせを参考にしてください。
ここでは、2つめの城柵の設置を取りあげます。

蝦夷とは、古代の新潟・東北地方・北海道南部にかけて居住し、朝廷の支配に従わなかった人々のことです。
そんな彼らを朝廷は異民族として扱い、とくに「蝦夷」と呼びました。
孝徳天皇の時代、蝦夷に対する日本海方面の最前線基地として、2つの城柵が設置されました。
まず647年に渟足柵(ぬたりのさく、ぬたりのき)が、
翌年にはそのさらに北方に磐船柵(いわふねのさく、いわふねのき)が築かれたのです。
いずれも現在の新潟県ですので、プリントの地図で確認しておきましょう。

その孝徳天皇の時代に皇太子をつとめたのが中大兄皇子でしたね。

あるとき中大兄皇子は、都を難波から飛鳥に戻すことを提案しました。
しかし、孝徳天皇はこれに応じませんでした。
すると、中大兄皇子はみんなを引き連れて飛鳥へ帰ってしまったのです。

難波にポツンと残された孝徳天皇
翌年、ショックのせいかこの世を去ってしまいます。

かわって即位したのが中大兄皇子!
ではないんですね…この人、ほんとになかなか即位しません。

中大兄皇子の母親が再び天皇の座につくことになります。
皇極天皇が重祚(ちょうそ)し、斉明(さいめい)天皇が誕生します。
斉明天皇の時代には、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が津軽方面の蝦夷を服属させることに成功しています。

さて、その間にも中大兄皇子の「邪魔者は消す!」っぷりはすごいです。

まず、異母兄弟の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)。
出家して吉野にいたのですが、「謀反(むほん)を企てている」ということで中大兄皇子に殺害されました。

次に、蘇我倉山田石川麻呂。
中大兄皇子にとって、奥さんの父親にあたる人物ですね。
これまた「謀反を企てている」という密告により、彼が建立した山田寺にて自害に追い込みました。
その後、石川麻呂の財産を調べたところ、よい宝物には「これは皇太子さまのもの」と書かれていたようです。
義理の息子に対して、謀反なんて企ててなかったのかもしれません…

さらに、孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのみこ)。
父の死後、政争に巻き込まれるのをきらった彼は、心の病を装って白浜温泉で湯治をしていました。
その後、飛鳥に帰った有間皇子は「謀反を企てている」と密告され、中大兄皇子に処刑されました。

よくもまぁ次々と…という感じですね…おそるべし中大兄皇子…

一方、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍に攻められ、百済が滅亡します。
このあと白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いへと続く流れは、
663年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらを参考にしてください。

白村江の戦いの敗戦後、称制中の中大兄皇子は国防の強化につとめます。
もしかしたら唐や新羅が日本に攻めてくるかもしれませんからね…

まず、対馬・壱岐・筑紫(つくし)に防人(さきもり)と、のろしをあげるための烽(とぶひ)を設置します。
のろしって分かりますかね?
電話もメールもテレビもない時代、煙をたくことで遠くにいる人に情報を伝えたものです。
中国ではオオカミさんのウ●コを燃やしたそうですが(のろしを漢字で書くと「狼煙」なのはそのためです)、
日本ではヨモギとかワラとかを燃やして煙をたいたようです。
もし唐や新羅が攻めてきたら、いちはやく煙をたいて敵の襲来を知らせようとしました。

また、大宰府(だざいふ)の北側に水城(みずき)を築きました。
これは全長約1kmにわたる、御笠川(みかさがわ)を堰(せ)き止めて水をたたえた土塁であったようです。
もし唐や新羅が攻めてくるなら、まずは一番近い九州を狙うだろうと。
ならば、九州の役所である大宰府を守らなければ!ということでガッチガチにかためたのでしょう。
博多湾から襲来する敵から守るわけですから、水城は大宰府の北側です。
南側につくっては意味がありませんからね。

さらに、旧百済から亡命してきた貴族たちに作り方を教わり、朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)も築きました。
大宰府の北に大野城(おおのじょう)、南に基肄城(きいじょう)をつくり、瀬戸内海周辺にもいくつか築いたようです。
プリントのイラストにそれぞれの城を書き込んでおきましょう。

そして、都を近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷し、やっとこさここで即位して天智天皇となります。
天智天皇としては、庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成を覚えてください。
詳しくは、690年のゴロ合わせを読んでくださいね。

さてさて、天智天皇の右腕として活躍したのが、中臣鎌足でしたね。
彼は初めての令(りょう)である「近江令(おうみりょう)」をつくったとされますが、定かではありません。
亡くなったのは、天智天皇が亡くなる2年前のことでした。
長年ずっと隣で頑張ってくれていた中臣鎌足に対し、天智天皇は2つのプレゼントを渡しました。
亡くなる前日のことであったようです。

1つが大織冠(たいしょくかん)です。
このころ冠位は十三階に増えているのですが、その最上位の冠位です。
これを授かったのは中臣鎌足ただ一人なので、「大織冠」イコール中臣鎌足個人を指すことになります。

もう1つのプレゼントが「藤原」の姓(せい)です。
姓(かばね)でもなく、名字(みょうじ)でもありません、姓(せい)です。

さぁ、姓(せい)と名字(みょうじ)の違いは分かりますか?

例えば

鎌倉幕府の初代征夷大将軍は源頼朝
室町幕府の初代征夷大将軍は足利尊氏

ですね。
それぞれの名前を読んでみてください。

みなもと の よりとも
あしかが たかうじ

と読みましたよね。

なぜ源頼朝は「の」を入れて読むのに、足利尊氏は「の」を入れて読まないのでしょう?
歴史を学んでいると、なんか分からんけど古い人には「の」がついていて、知らん間に「の」は消えてるな…
って思ったことありませんか?
これがズバリ姓と名字の違いです。
「の」を入れて読むのが姓、「の」を入れて読まないのが名字なのです。

「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という言葉があるように、
姓は源(みなもと)・平(たいら)・藤原(ふじわら)・橘(たちばな)の4つがとても多かったようです。
時代が経つにつれ、一族の数も増えます。
すると、「おれ、源。お前も源?お前も源??みんな源???」とややこしくなってきます。
なので、「お前、源のなかでもどこに住んでる源?」と聞かれます。
すると、「栃木の足利に住んでる源だよ」と答えます。

これが名字です。

足利は、源氏です。
足利尊氏は、源尊氏でもあるのです。

だいたい平安時代から鎌倉時代にかけて名字がメインで使われるようになり、現代に至ります。
みなさんのなかで「先祖は公家です」とか、「先祖は武士です」という方があれば、
墓石とか仏壇とかを見れば、ひっそりとどこかに姓が書いてあるかもしれませんよ。
残念ながら農民には姓がありませんので、日本人の大半は姓をもちませんが…

飛鳥5-1.jpg

なお、藤原氏の子孫は藤原の名字を使用しませんので、現代の藤原さんは中臣鎌足の子孫ではありません。
藤原氏に仕えてたとか、藤原氏の荘園だった場所に住んでたとかそんな感じでしょう。

それでは、最後に解答を載せておきます。
ややこしい漢字が多いので、しっかり書いて覚えてくださいね。

飛鳥5解答.jpg



次回は、天武・持統天皇の時代を見ていきます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

飛鳥時代(4) [まとめプリント]

今日は、大化改新をまとめていきましょう。



飛鳥4.jpg

620年代、推古朝を支えた人々が次々と亡くなります。
622年2月22日(2がお好きねぇ…)には厩戸王(聖徳太子)が48歳で亡くなり、
626年には蘇我馬子も76歳ぐらいでこの世を去り、石舞台古墳に埋葬されたと考えられます。
大臣の座は息子の蘇我蝦夷にうつります。
628年には、推古天皇も亡くなりました。
さぁ、次の天皇は誰か…ということで、皇位継承争いが発生します。
候補にあがったのは、
厩戸王の子、すなわち用明天皇の孫にあたる山背大兄王(やましろのおおえのおう)と、
敏達天皇の孫にあたる田村皇子(たむらのみこ)でした。
結果、大臣の蘇我蝦夷が推した田村皇子が即位することになったようです。
舒明(じょめい)天皇の誕生です。

彼の業績として覚えることはただ1つ、遣唐使の派遣でしたね。
630年のゴロ合わせを参考にしてください。

さて、舒明天皇の死後、ふたたび皇位継承争いが発生します。
候補にあがったのは、
山背大兄王と、舒明天皇の子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)・中大兄皇子です。
このときは揉めに揉めた結果、天皇が決まりませんでした。
そこで、急遽、女性天皇が即位することになります。
舒明天皇の后が皇極天皇となりました。

このころ、大臣の座は蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿にうつっています。
蘇我入鹿にとって邪魔な存在が山背大兄王です。
あの厩戸王(聖徳太子)の息子で、人望もあり、やたらと天皇候補者として名前のあがってくる人物です。

ついに643年、蘇我入鹿は山背大兄王が住む斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃します。

これに気がついた山背大兄王は、寝室に馬の骨を遺し、奥さんや子どもたちを連れて生駒山に逃れました。
蘇我入鹿の軍勢は斑鳩宮に火をかけ、やがて焼け跡から骨を見つけ、
山背大兄王が死んだと確信して退散しました。

飛鳥4-1.jpg

それ、馬の骨ですやん!!と突っ込みましょう。

山背大兄王たちは生駒山で潜伏していたのですが、数日後に発見されてしまいます。
蘇我入鹿はびっくりします。
「あの骨は何だったんだ!」と。

だから馬の骨です。

すぐさま蘇我入鹿は軍勢を集め、生駒山に向かわせます。
山背大兄王たちは生駒山を降り、父である厩戸王(聖徳太子)が建立した法隆寺に入ります。
そして、奥さんや子どもたちとともに自害しました。
上宮王家(じょうぐうおうけ)はここに滅びました。

こうなると、蘇我氏を邪魔する者はいないわけです。
どんどんと権力を集めてゆき、まるで「え?蘇我氏って天皇なの??」と思われるまでになります。

これをヨシとしなかったのが、中大兄皇子と中臣鎌足でしたね。
天皇を中心とする中央集権国家をつくることを目指す彼らによって、
蘇我入鹿は殺害され、蘇我蝦夷は自害に追い込まれました。
645年の乙巳の変です。
詳しくは、645年のゴロ合わせを読んでください。
なお、乙巳の「巳」ですが、「巳」と「已」と「己」の区別はついていますか?
左上はぴっちりとくっつけて書かなければ「すでに」や「おのれ」と読む別の字になってしまうので注意してください!

蘇我本宗家滅亡後に始まった一連の政治改革である大化改新は、次の4つのことを覚えましょう。

①人事の刷新
  目の前で息子が蘇我入鹿を殺害したショックで、皇極天皇は天皇の座をおりました。
  これが日本史史上初めての譲位(じょうい)の例でしたね。
  かわって皇極天皇の弟である孝徳(こうとく)天皇が即位します。
  皇太子には中大兄皇子、内臣(うちつおみ・ないしん)には中臣鎌足が就任します。
  左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、
  そして、国博士(くにのはかせ)には中国の進んだ文化を学んできた旻と高向玄理が任命されます。
  南淵請安は、帰国後塾をひらいていましたが、このころどうしていたのか不明でしたよね。
②年号の制定
  中国にならい、日本オリジナルの年号、いわゆる元号(げんごう)というものが作られます。
  645年は大化元年(大化1年目のこと)となります。
  現在の元号は平成で、大化から数えて247個目だとか。
  こういった文化が途切れることなく脈々と受け継がれているのは素晴らしいことですね。
  なお、現在の元号は天皇の即位にともない変わりますが、これは明治以降のことです。
  それ以前は、すごい事件が起こったとか天変地異が起こったとかで結構ころころと変わっています。
③遷都
  都がこれまでの飛鳥から、難波に遷ります。
  飛鳥は内陸ですが、難波は海に面しているので外交にはうってつけでした。
  場所は現在の大阪城のすぐ近くで、公園として整備されています。
④「改新の詔」
  646年正月に基本方針として発表されました。
  元号で言うと…?
  大化二年のことですね。
  詳しくは690年のゴロ合わせを読んでください。

最後に「郡評論争(ぐんぴょうろんそう)」を話しておきましょう。
「改新の詔」第二条を見ると、「郡司」という言葉が見られます。
ところが、7世紀ごろの木簡(もっかん)などを見ると、
「郡」ではなく「評」という表記ばかりが確認されるのです。
この「評」は、「こおり」と読むようです。
では「郡」は何と読むのでしょう…?

福島には「郡山」、奈良には「大和郡山」って地名があるのですが、読めますか?
それぞれ「こおりやま」、「やまとこおりやま」ですよね。
そう、「郡」も「こおり」と読むわけです。
「評」も「郡」も読み方はどちらも同じです。
でも文字が違うのです。

ながらく「改新の詔」が出されたときは「評」を使用したのか、「郡」を使用したのかで論争がありました。
現在は発掘調査の結果などから、「郡」の字を使うようになったのは701年の大宝律令以降、
というのが通説になっています。
『日本書紀』は大宝律令の施行後である720年に編纂されているので、
このころは「郡」という表記を使っていたということですね。

では、解答を載せておきましょう。

飛鳥4解答.jpg



次回はいよいよ中大兄皇子が天皇になりますよー。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

飛鳥時代(3) [まとめプリント]

推古天皇の時代を中心に発展した、日本最初の仏教文化である飛鳥文化を見ていきましょう。



飛鳥3.jpg

これまで、豪族の権威を示すものといえば古墳の造営でしたが、
このころにはお寺を建立することへと変わっていきます。
蘇我馬子は奈良に飛鳥寺(法興寺)を、
厩戸王(聖徳太子)は大阪に四天王寺、奈良に法隆寺(斑鳩寺)や中宮寺(ちゅうぐうじ)を、
弓月君の子孫である秦河勝(はたのかわかつ)は京都に広隆寺(こうりゅうじ)をそれぞれ建立しました。

お寺には、さまざまな建築物が建てられます。
お経の講義などを聴く講堂(こうどう)、
そのお寺で最も主要な仏像である本尊(ほんぞん)を安置(あんち)する金堂(こんどう)、
仏教をひらいたお釈迦様の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を安置する塔、
それらの周囲をぐるっと囲む廊下である歩廊(ほろう、または回廊(かいろう))、
歩廊の南側についている中門(なかもん)、
中門のさらに南につくられた大きな門である南大門(なんだいもん)、
これら寺院建築物をひっくるめて伽藍(がらん)と呼びます。

飛鳥寺式伽藍配置は、塔を中心に金堂が3つ、
四天王寺式伽藍配置は、すべての建築物がタテ1列、
法隆寺式伽藍配置は、塔が西、金堂が東(塔と金堂が逆になれば法起寺(ほっきじ)式伽藍配置)、
それぞれ形を覚えてください。
この時代は仏舎利を安置する塔が大切なので、塔が中心にきます。
あとはその塔に対して金堂がどう置かれたかで見分けてください。

次に仏像を見ていきましょう。
仏像、好きですか?
見分けがつくようになると好きになりますよ~♪
仏像を6点、見ていきます。

①飛鳥寺釈迦如来像(あすかでらしゃかにょらいぞう)
  飛鳥寺の本尊で、日本最古の仏像です。3m近くあるので、「飛鳥大仏」とも呼ばれます。
  飛鳥寺は写真撮影オッケーなので、飛鳥大仏とツーショットすることができます☆
②法隆寺金堂釈迦三尊像(ほうりゅうじこんどうしゃかさんそんぞう)
  法隆寺の本尊で、真ん中の大きい仏像がお釈迦様で、その両サイドにも2体おられるので「釈迦三尊」です。
  最悪の場合、シャカシャンションジョーとかんでしまいます。
  基本的には非公開なので、なかなか見ることはできません。
①と②の作者は、鞍作鳥(くらつくりのとり、または止利仏師(とりぶっし))の作と伝わっています。
司馬達等(覚えていますか?忘れた人は、552年のゴロ合わせを読みましょう)の孫にあたる仏師です。
いずれも金銅像で、以下の仏像は木像です。
③法隆寺夢殿救世観音像(ほうりゅうじゆめどのくぜかんのんぞう)
  法隆寺式伽藍配置の東に、八角形をした「夢殿」というメルヘンな名前の建物があります。
  聖徳太子の等身像とも伝えられ、長らく秘仏(ひぶつ)として人の目に触れるのことのなかった仏像です。
  およそ450mもの麻布でグルグル巻きにされたうえ、
  鍵のかかった厨子(ずし、仏像を安置するもの)に入れられ、とても厳重に扱われてきたようです。
  もしその姿を見れば、「地震が起こり、この世は滅びる」と言い伝えられていたとか…
  ところが、明治時代、ついに救世観音像の姿が人の目に触れることになります。
  当時の日本は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のまっただ中で、仏教に関係するものがどんどん破壊されていました。
  これを憂えたのが、東洋美術史家のアメリカ人、フェノロサです。
  教え子の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、奈良や京都の寺社を調査します。
  そして…法隆寺の夢殿にたどりつき、ついに…厨子の扉を開いて麻布をといたのです!!

飛鳥3-1.jpg

  すると、なかからこの素晴らしい救世観音像が姿をあらわしたのです。
  太陽の光を浴びることなく大切に保管されていたため、金がよく残っているのが分かりますね。
①~③の仏像が、北魏(ほくぎ)様式です。
杏(あんず)の種のなかにある仁(にん)と呼ばれる核(なにそれ…)のような形をした目、
三日月形をした唇などに特徴があるので、プリントの顔に描いてみましょう…

④法隆寺百済観音像(ほうりゅうじくだらかんのんぞう)
  8頭身に近いスーパーモデルばりのプロポーションをした仏像です。
  20年ほど前にルーブル美術館で展示され、パリの人々をも魅了したようです。
⑤中宮寺半跏思惟像(ちゅうぐうじはんかしゆいぞう)
⑥広隆寺半跏思惟像(こうりゅうじはんかしゆいぞう)
  片足をもう一方の足に載せ(半跏)、右手を頬に当てて考えている(思惟)姿をした仏像です。
  ポーズとしては「半跏思惟像」ですが、弥勒菩薩という仏様のようです。
  この2体…見分けがつきにくいですよね……

飛鳥3-2.jpg

  これで覚えてしまいましょう…光背は、仏さまから発する光明(いわゆる後光(ごこう))を表現したものです。
  なお、広隆寺半跏思惟像は宝冠(ほうかん)という冠をかぶっているので、正しくはリーゼントではありません…
  広隆寺の半跏思惟像と言えば、国宝第一号の1つとしても知られる美しい仏像です。

  1960年、美しいがゆえに広隆寺半跏思惟像に事件がふりかかります。

  京都大学の男子学生が半跏思惟像にキスをしようとして仏像の右手に触れ、薬指を折ってしまったのです…

  なにしとんねん…

  そのあと無事にカケラが見つかったので、いまでは修復した場所が分からないほど精巧に修理されました。
  いくら仏像が美しいからといってチューしようとしてはいけません。
  まぁ普通しませんよね。
④~⑥の仏像が、南梁(なんりょう)様式です。
北魏様式にくらべ、おっとりとした雰囲気をもった仏像達です。

では最後に、絵画・工芸を見ていきましょう。
高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が絵の具・紙・墨の技法を伝えました。
なので、このころ絵画が描かれるようになります。
たとえば有名な法隆寺玉虫厨子(たまむしのずし)。
小学生・中学生のときに「たくさんのキラキラした虫の羽根をはりつけました」と聞いて戦慄したことでしょう…
きもすぎる…
いまでも現物を見ると、玉虫の羽根を数枚確認することができます。
この玉虫厨子には絵画が描かれていることに気付いていましたか?
有名なのが須弥座(しゅみざ)と呼ばれる台座のサイドに描かれた絵です。
プリントにも載せましたが、これ、「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」という3コマ漫画になっています。

捨身飼虎図.jpg

主人公はお釈迦様の前世です。
あるとき、森を歩いていたお釈迦様の前世。
すると、前方からお腹をぺこぺこに空かせた虎の親子がやってきます。
どうします?
逃げるしかないでしょ!!

そこで、①お釈迦様の前世は、おもむろに服を脱いで木にひっかけます。
次の瞬間!!②「私をお食べ!!」と木からダイブ!!!
③虎の親子「ウマー!!!」、お釈迦様の前世「ギャー!!!!!」

という絵です。
アンパンマンちゃうねんから…と突っ込みたくなりますが、
お腹を空かせた虎の親子に慈悲をみせたお釈迦様の前世の物語が描かれています。

あとは、中宮寺天寿国繡帳(ちゅうぐうじてんじゅこくしゅうちょう)を見ましょう。
厩戸王(聖徳太子)の死後、奥さんの橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、
「夫が往生した天寿国はきっとこんな感じなのね…」と、下女たちに刺繍させたものです。
「世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という厩戸王(聖徳太子)の言葉も書かれています。
「この世にあるものはみな仮のものだ、ただ仏教のみが真実だ」という意味です。
文字や人間のほか、カメの姿も刺繍されています。
ちなみに、左上の円の中にいる筋肉りゅうりゅうの動物は何か分かりますか?

そう…うさぎちゃんです。
めっちゃマッスル…

このうさぎちゃん、何をしているか分かりますか?
円は月をあらわしているので…うさぎが月でやることと言えば…

もちつき!

と、思いきや、このうさぎちゃんは不老不死の薬をつくっています…
なんか横に葉っぱもありますもんね…

のちのち満月を望月と呼ぶことから、うさぎちゃんは月で餅つきをしている、と変化したようです。

それでは、長くなりました。
解答を載せて終わりましょう。

飛鳥3解答.jpg



次回は、大化改新を取りあげます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E8%A6%B3%E9%9F%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%9F%93%E7%B9%94%E5%B7%A5%E8%8A%B8
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

飛鳥時代(2) [まとめプリント]

飛鳥時代の2枚目、推古天皇の時代、すなわち推古朝を見ていきましょう。



飛鳥2.jpg

崇峻天皇の死を受けて、敏達(びだつ)天皇の后(きさき)である推古天皇が即位します。
左下の系図をよく見ると…この夫婦、どちらも欽明天皇の子どもなんですよね…お母さんが違うだけ。
推古天皇のお母さんは蘇我稲目の娘、すなわち蘇我馬子のお姉さんです。
なので、推古天皇と蘇我馬子は姪っ子とおじさんの関係です。
蘇我馬子は大臣として、そしておじさんとして推古天皇を補佐します。

もう一人、推古天皇の補佐にあたったのが厩戸王(聖徳太子)です。
厩戸王(聖徳太子)は、推古天皇のお兄さんである用明天皇の息子ですから、
推古天皇と厩戸王(聖徳太子)はおばさんと甥っ子の関係です。
厩戸王(聖徳太子)は摂政として推古天皇を補佐しました。
このことは、593年のゴロ合わせを参考にしてください。

さて、推古朝で覚えることは4つです。
1、冠位十二階
2、憲法十七条
3、歴史書の編纂
4、遣隋使の派遣

まず1つめの冠位十二階です。
これまでの氏姓制度による世襲をとっぱらい、
家柄に関係なく才能ある人材を官僚に採用するために制定されました。
役人には12種類の位を与え、どの位に所属する人なのかパッと見て分かるよう色別の冠を授けました。
位は、「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小に分けて12階としました。
これはもう「トクジンレイシンギチトクジンレイシンギチ…」と呪文のように覚えてください…
冠の色は、「紫・青・赤・黄・白・黒」をそれぞれ濃淡であらわしたようです。
白に濃いも淡いもなかろうと突っ込みたくなりますけどね。

2つめの憲法十七条は、604年のゴロ合わせを参考にしてください。

3つめの歴史書の編纂。
厩戸王(聖徳太子)と蘇我馬子はこのころ、『天皇記』・『国記』という2つの歴史書をつくったようです。
乙巳の変で焼失したようで、内容は伝わっていません。

4つめの遣隋使の派遣、こちらも607年630年のゴロ合わせを参考にしてください。
なお、『日本書紀』における遣隋使派遣の記事には、「大礼小野臣妹子」と書かれていますね。
さて問題。
このときの小野妹子の冠位は上から何番目か分かりますか?
正解は、上から大徳・小徳・大仁・小仁・大礼…ですから5番目ですね。
ではもう1つ問題。
小野妹子はこののち冠位十二階の1番上の位を授かります、それは何という位ですか?
正解は、大徳です。

推古朝に関しては、ゴロ合わせでずいぶん説明しましたので、最後に解答を載せて終わります。

飛鳥2解答.jpg



次回は推古朝のころの文化を見ていきます。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

飛鳥時代(1) [まとめプリント]

飛鳥時代とは、飛鳥(現在の奈良県明日香村)の地に王宮がおかれた時代です。
一般には、推古天皇の時代から平城京遷都までの592年~710年をさすことが多いです。



では、飛鳥時代のまとめプリント、1枚目を見ていきましょう。

飛鳥1.jpg

最初に、大連(おおむらじ)の2人を覚えましょう。
大伴金村(おおとものかなむら)と物部麁鹿火(もののべのあらかひ)です。

大伴金村は、武烈(ぶれつ)天皇から欽明(きんめい)天皇の5代にわたって大連をつとめました。
武烈天皇の死後、越前から継体(けいたい)天皇を迎えた人物でもあります。
512年に「任那四県」(加耶西部の4つの国)を百済に割譲(かつじょう)し、どうやら賄賂を受け取ったようです。

物部麁鹿火は、527年のゴロ合わせでちらっと登場した人物です。
この年、筑紫国造磐井が新羅と結んで起こした大規模な反乱を、1年半後にやっとこさ鎮圧したんでしたね。
とにかく「麁」の漢字がややこしいので注意して下さいね。

物部麁鹿火ののち、大連に就任したのが物部尾輿(もののべのおこし)です。
彼は、大伴金村が百済から賄賂を受け取ったことを責めて失脚に追い込み、大連の座を独占しました。
そして、物部尾輿といえば仏教の排斥です。

欽明天皇の時代、538年(または552年)に仏教が伝来し、
大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は崇仏派(すうぶつは)の立場をとり、
大連の物部尾輿は排仏派(はいぶつは)の立場をとりました。
この両者の争いを崇仏論争(すうぶつろんそう)と呼びましたね。
詳しくは、552年のゴロ合わせを参考にしてください。

そうして、蘇我稲目は実際に仏像を拝みはじめました。
すると、みるみるうちに疫病が発生して死者がたくさん発生したのです。
なんというバッドタイミング…

排仏派の物部尾輿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)とともに「仏像なんか拝むからだ!神様が怒っているのだ!!」と主張します。
そして、欽明天皇の許可を得た彼らは、仏像をつぶして難波の堀江(アメリカ村のあたり)に流し、
さらにお寺を焼き払ってしまいます。
なんと過激な…

これで排仏派の勝利!!と思いきや、この論争は息子の代になっても続くこととなります。

物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)の対立です。

彼らは、敏達(びだつ)天皇の即位にともない、それぞれ大連と大臣に就任しました。
大連の物部守屋は排仏派、大臣の蘇我馬子は崇仏派です。

あるとき病にかかった蘇我馬子は、仏教に救いを求めました。
すると、そのころからそこかしこで疫病が流行しはじめたのです。
物部守屋からすれば、「まただよ!仏教に救いを求めるから神様が怒ってるんだよ!!」です。
そして、敏達天皇の許可を得た彼らは、仏像を海に投げ込み、お寺を焼き払い、
尼さんを3人捕らえて全裸にし、公衆の面前でムチをもってしばきたおします。
守屋ったら…お父さんよりだいぶ過激です…

そんななか、敏達天皇も病にかかり亡くなってしまいました…
かわって即位したのが用明(ようめい)天皇ですが、ほどなくして病の床についてしまいます。
そのとき、彼はまさかまさかで「仏教に救いを求めたい」と言い出したのです。
用明天皇のお母さんは蘇我馬子のお姉さんということもあり、彼は崇物派だったようです。

もちろん物部守屋は怒ります、「なんで日本の神さまではなくて、仏教に救いを求めるんですか!」と。
そりゃそうだ。
一方、蘇我馬子からすれば大チャンスです、「詔に従いましょう!」と言って早速お坊さんを連れてきます。

しかし、残念ながら用明天皇の病は癒えることなく、この世を去ってしまいました…
次の天皇をたてなければなりませんが、蘇我馬子と物部守屋が推薦する皇子はまったく別人でした。
崇物論争にこの皇位継承争いもからみ、ついに両者は全面対決となります。
蘇我馬子には、用明天皇の息子である厩戸王(聖徳太子)が味方しました。

この戦い、どちらが有利かというと、断然これまで軍事を職務としてきた物部氏です。
物部軍にたくさんの矢を放たれ、蘇我馬子と厩戸王はかなり厳しい状況におかれます…

そこで二人は仏教に救いを求めました。

蘇我馬子は、「この戦いに勝利できたら立派なお寺を作ります!」と約束します。

14歳の厩戸王(聖徳太子)は白膠木(ぬるで)の木を切って、それで4体の仏像、すなわち四天王像を彫り、
「この戦いに勝利したら四天王さまのために立派なお寺を作ります!」と約束し、
それらを頭にぶっさして戦いました。

飛鳥1挿絵.jpg

するとどうでしょう!!
味方の矢が物部守屋に命中し、亡くなったのです!!!
この戦い、大逆転で蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)が勝利しました。

蘇我馬子はすぐさま飛鳥に法興寺(ほうこうじ、飛鳥寺とも)を建立し、
厩戸王(聖徳太子)も593年に大坂に四天王寺を建立しました。
その四天王像って、どんなクオリティーだったんでしょうね…残念ながら現存していないようです。
てゆーか、白膠木って漆の一種なのによくもまぁ手がカブれなかったもんですね…まぁいいか…

その後、蘇我馬子の妹の子である崇峻(すしゅん)天皇が即位します。
馬子おじさんが推薦してくれたおかげで天皇になれたので、崇峻天皇はおじさんの言いなりです。
最初はそれでよかったんですが、日に日に自分の意見が通らないことに不満がわくようになりました。

あるとき、ついうっかり本音が出てしまいます。

新嘗祭のさい、献上されたイノシシを見た崇峻天皇は、
「いつかこのイノシシの首を斬るように、私が憎いと思っている者を斬りたいものだ…」とポロリ…
いやいや、うっかりにしてはポロリしすぎでしょ!!

すかさず蘇我馬子は聞きつけ、「崇峻天皇は自分のことを邪魔だと思っているのか…」と知ることになります。
そうして、蘇我馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)という人物を雇い、崇峻天皇を暗殺してしまいます。

この、駒さん。
誰の子孫か分かりますか?
東漢氏ですよ??

そう、阿知使主ですね。

駒さんは、崇峻天皇を暗殺したのち、蘇我馬子の娘と通じた罪によって処刑されています。
おそらく、蘇我馬子がいちゃもんをつけて口封じに消し去ったのでしょうね…

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

飛鳥1解答.jpg

崇峻天皇の死後、崇峻天皇の異母兄弟である推古天皇が即位します。
用明天皇の実の妹ですので、お母さんは蘇我馬子の姉です。
またもや、馬子おじさんが権力をふるう時代がやってきます。



次回はこの推古天皇の時代を取りあげます。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

694年 藤原京に遷都する [年号のゴロ合わせ]

前回、持統天皇の時代に庚寅年籍が作成されたお話をしました。
持統天皇は、鸕野讚良(うののさらら)という名前であったことも触れましたね。



鸕野讚良は、父が天智天皇、母が蘇我倉山田石川麻呂の娘、夫が天武天皇、というロイヤルな女性ですが、
自分が天皇になろうなんて思っていなかった人のようです。
天武天皇との間にもうけた草壁皇子(くさかべのみこ)を、早々に皇太子としていました。

ちなみに、彼女のお姉さんである大田皇女(おおたのひめみこ)も天武天皇に嫁いでいました。
なんと、天智天皇は弟の天武天皇に4人の娘を嫁がせていたのです。
現在ではとても考えられませんねぇ…

その大田皇女と天武天皇の間には大津皇子(おおつのみこ)という子がいました。
彼はたいへん優秀で人気者、『万葉集』や『懐風藻(かいふうそう)』に作品をのこすなど文武両道の人物でした。
大田皇女は早くにこの世を去ったため鸕野讚良が天武天皇の皇后となり、草壁皇子を皇太子にしたけど、
彼女にとって気がかりな存在はこの大津皇子です。
かわいいかわいい我が子の草壁皇子が活躍するには、人気者の大津皇子は邪魔な存在です。

そんななか、天武天皇が病気にかかります…
鸕野讚良は草壁皇子とともに政務にあたることとなります。
そう、称制です。

ほどなくして天武天皇がこの世を去りました。

さらに、その翌月には大津皇子がこの世を去りました。

どうやら大津皇子には謀反(むほん)の疑いがあり、自殺に追い込まれてしまったようです。
一体彼がどんな謀反を企てたのか、記録には残っていません。

そういえば、天智天皇って「邪魔者は消す」ってタイプだったじゃないですか…
鸕野讚良は天智天皇の娘なので…もしかしたら…という気がしないではないですね…
真相は分かりません。

なんにせよ、これで大津皇子というライバルがこの世を去ったので、草壁皇子が晴れて天皇に…
と思った矢先、草壁皇子が病気でこの世を去ってしまいます。
鸕野讚良にとって、どれほどつらいことだったでしょう…

鸕野讚良は、草壁皇子の子、すなわち彼女の孫にあたる軽皇子(かるのみこ)を皇太子に…と考えますが、
彼はまだ7才です。
とてもじゃないけど皇太子、ましてや天皇になるには若すぎます。
そこで、鸕野讚良がついに天皇に即位することになりました。
持統天皇の誕生です。

持統天皇の功績としては、2つのことを覚えて下さい。

まず1つは、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行です。
夫の天武天皇が編集を開始し、彼女の称制中に施行されました。
これ以前に中臣鎌足が編集したとされる「近江令(おうみりょう)」は、完成・施行が疑われているので、
最初に施行された令と考えられますが、律の完成は疑問視されています。

もう1つは、藤原京遷都です。
畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・香具山(かぐやま)の大和三山に囲まれた地に遷都しました。
これも夫の天武天皇が造営を開始し、持統天皇の時代に完成したようです。
そういえば、持統天皇の歌として百人一首には、
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」とあります。
藤原京を歌ったものですね。

さて、藤原京の前はどこに都がおかれたか覚えていますか?

飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)ですね。

その前は?

近江大津宮(おうみおおつのみや)です。

これまでは「○○宮」だったのに、藤原京から「○○京」と呼ばれるようになります。
この違いは説明できますか?

「○○宮」というのは、天皇の住居である内裏(だいり)と、
その周囲につくられた大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)などの官庁一帯をさします。
対して、「○○京」というのは、「宮」だけでなく一般人が住む町並みも造営した都一帯をさします。

694.jpg

藤原京は、最初の本格的な都城(とじょう)です。
「宮」の周囲には碁盤の目のように道路を走らせた条坊制(じょうぼうせい)をもつ「京」をつくりました。
これまでの「宮」は、原則として天皇一代ごとに造営しましたが、
藤原京は持統天皇・文武天皇・元明天皇の3代にわたって都とされました。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

694年.jpg



次回からまとめプリントをアップしていきます。
nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

690年 庚寅年籍を作成する [年号のゴロ合わせ]

645年に起こった乙巳の変ののち、大化改新が始まることは以前に述べました。
その基本方針が、大化二年(646年)正月に発表されます。
「改新の詔(かいしんのみことのり)」です。
このときの天皇は孝徳天皇で、都は難波宮(なにわのみや)ですからね、覚えておきましょう。



では、史料を見ていきましょう。

其の一に曰(のたまわ)く、「昔在(むかし)の天皇等(ら)の立てたまへる〔1   〕の民、処々(ところどころ)の〔2   〕、及び、別(こと)には臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・村首(むらのおびと)の所有(たもて)る〔3   〕の民、処々の〔4   〕を罷(や)めよ。仍(よ)りて〔5   〕を大夫(まえつきみ)より以上に賜ふこと、各(おのおの)差あらむ(おのおのの地位に応じて給付するということ)。」
其の二に曰く、「初めて京師(みさと、このときは〔6   〕のこと)を修め、畿内・国司・郡司・関塞(せきそこ、関所のこと)・斥候(うかみ、北辺の監視要員のこと)・防人・駅馬(はゆま)・伝馬(つたわりうま、公的な伝達・輸送に用いられる馬のこと)を置き、及び〔7   〕を造り、山河(地方の境界のこと)を定めよ。」
其の三に曰く、「初めて〔8   〕・〔9   〕・〔10   〕の法を造れ。」
其の四に曰く、「旧(もと)の賦役(えつき、貢納・労働のこと)を罷めて、田の調(みつき、一定基準で田地に賦課する税)を行へ。(中略)別(こと)に戸別の調を収(と)れ。」

この史料の出典は『日本書紀』です。
さぁ、空欄に入る語句は書けますか?

1…子代(1~4については、古墳時代(5)のまとめプリントを参考にしてください)
2…屯倉
3…部曲
4…田荘
5…食封(じきふ、豪族の田荘・部曲の廃止にともない、大夫以上の役人に支給されることとなった給与)
6…難波宮
7…鈴契(すずしるし、駅馬・伝馬を利用する際の証明となる駅鈴(えきれい)と木契(もっけい)のこと)
8…戸籍
9…計帳
10…班田収授

第一条では公地公民制、第二条では地方制度、第三条では班田収授、第四条では税制について書かれています。
詳しい説明は後日のまとめプリントに譲るとして、今日は第三条にある戸籍の作成を取りあげます。
戸籍とは、人民登録、班田収授・氏姓確認の基本台帳です。

ところで、日本で初めて作成された戸籍は何という名前か覚えていますか?

670年に天智天皇が作成させた庚午年籍(こうごねんじゃく)です。
永久保存が命じられましたが、残念ながら現存はしていません。

では、次に作成された戸籍は何という名前でしたか?

690年に天智天皇の娘である持統天皇が作成させた庚寅年籍(こういんねんじゃく)ですね。
こちらも現存していません。

庚午年籍と庚寅年籍、いずれも「庚」という漢字がついています。
次に続くのは「午」と「寅」…
これ、何か分かりますか?
年賀状でおなじみの十二支です。
十二支とは、「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」のことですよね。

実は、これにかけあわさる「十干(じっかん)」というものがあります。
「甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)」です。
これらを表にすると、
十干十二支1.jpg
こうなります。

では、十干と十二支を順番にかけあわせていきましょう。
まずは十干の1番目「甲」と、十二支の1番目「子」で「甲子(こうし)」。
つぎは十干の2番目「乙」と、十二支の2番目「丑」で「乙丑(いっちゅう)」。

順番にかけあわせていくと、「ん?」と思いませんか??
十干十二支2.jpg
そう、1番目の組み合わせは「甲子」…この年に甲子園球場はできました、1924年のことです。
5番目の組み合わせは「戊辰」…戊辰戦争が起こったのは1868年、戊辰の年のことです。
7番目の組み合わせこそが「庚午」…庚午年籍が作成された670年です。

十干十二支を一覧にしてみると…
十干十二支3.jpg
こうなります。

さぁ…知っている組み合わせはどれだけありますか?
辛卯の年の「辛卯」、乙巳の変の「乙巳」、壬申の乱の「壬申」、甲午農民戦争の「甲午」、色々ありますよね。
組み合わせは全部で60通りです。
なお、「甲子」の年に生まれた人が、再び「甲子」の年にめぐりあうのは60年後。
なので、暦(こよみ)が一周した60年目をお祝いするのが「還暦」です。

690.jpg

庚午年籍と庚寅年籍、いずれも十干は「庚」ですからね。
前者は670年作成、後者は690年作成です。
なお、庚寅年籍以降、戸籍は6年ごとに作成する「六年一造」の体制が整ったようです。

それでは、今日のゴロ合わせ。

690年.jpg

1回目の戸籍作成は午年、2回目の戸籍作成は寅年ですからね、間違えないようにイラストで覚えて下さい。



次回も持統天皇を取りあげます。
nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

672年 壬申の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、中大兄皇子が近江大津宮でやっとこさ即位したところまでお話しました。
彼の天智天皇としての功績は、後日まとめプリントでご紹介したいと思います。



その天智天皇には、優秀な弟がいましたよね。
大海人皇子(おおあまのおうじ)です、ダイカイジンとかっこよく読まないで下さい…

大海人皇子は、舒明天皇を父に、皇極(斉明)天皇を母にもつので、
兄の天智天皇とはまったくの兄弟ということになります。
奥さんは鸕野讃良(うののさらら)、のちの持統(じとう)天皇です。
彼女の父は天智天皇なので…お父さんの弟に嫁いだということになりますね。
現代の感覚からしたら「ウワァ…」ですナ。

さてこの大海人皇子、文武両道でたいへんすぐれた人物であったようです。
周囲からも「次の天皇は大海人さんでしょー!!」って噂されるくらい信頼されていたとか。
『日本書紀』には、天智天皇から次の天皇になることを約束されていた、と書かれているようです。
まぁその『日本書紀』は大海人皇子の息子である舎人親王(とねりしんのう)が中心になって書いたので、
どこまで本当かは分かりませんが…

一方、天智天皇にはかわいいかわいい息子がいました。
大友皇子(おおとものおうじ)です。

天智天皇からすれば、弟よりも我が子の方が断然かわいいわけです。
次第に、天皇の座をかわいい我が子に譲りたい…と思うようになります。
よくある「弟よりも我が子に!」パターンですね…応仁の乱もそうです。

そこで天智天皇は、新たに「太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)」という役職を設けて我が子を任命し、
自らの補佐をさせました。
もう明らかに大友皇子を天皇にしたい気まんまんなわけです。
頭のいい大海人皇子はすぐにピンときます…「オレ、めっちゃ邪魔者やん…」と。

天智天皇は、「邪魔者は消す」というタイプの人です(どんなタイプだよ…)。
たとえば蘇我入鹿を殺害しましたし、義理の父である蘇我倉山田石川麻呂も自殺に追い込みました。
孝徳天皇の息子の有間皇子(ありまのみこ)も処刑しています、彼にとってはイトコなんですけどね。
んー…こりゃ実の弟とはいえ、自分も消されるんじゃないか…と、そりゃ大海人皇子は思いますよね。

そのころ、天智天皇の病が悪化します。
大海人皇子は「お兄ちゃんの病気が治るように…私は仏様につかえます!!」と出家してしまいました。
剃髪(ていはつ)した大海人皇子は、身内をしたがえて奈良の吉野に入ります。
近江から逃れたわけです。

そしてついに、近江大津宮で天智天皇は亡くなります。
父の後を継いで大友皇子が政務を執りますが、即位したかどうかは定かではありません。
のちのち明治天皇から弘文(こうぶん)天皇という名は贈られています。

大友皇子にとって、厄介なのは人気者の大海人皇子が吉野にいることです。
オジサンに対抗するため、天智天皇のお墓を作るという名目でどんどん近江に武器を集めたようです。

これを知った大海人皇子はついに挙兵します。
吉野を出て伊勢神宮を参拝し、美濃を本拠地として東国の兵を集めることに成功します。
大化改新で特権を失うなどして近江の政治に不満をもっていた地方豪族たちが、
続々と大海人皇子の軍勢に加わったのです。
なお、ここでいう東国とは、のちの尾張・美濃以東の東海道・東山道一帯のことです。

これを迎え撃つ大友皇子ですが、大海人皇子の勢いに圧倒され、
最後はわずかの家来しか連れず、自害したようです…
672年におこったこの壬申の乱は、大海人皇子の大勝利に終わりました。

大海人皇子はすぐさま飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に都を遷し、即位しました。
天武(てんむ)天皇の誕生です。
彼は、戦争というものを通じて初めて実力で皇位を手にした天皇です。
自らの権威の強化につとめ、これまでの「大王」にかわり、はじめて「天皇」の称号を用いたといいます。
あれ?推古天皇も天智天皇も「天皇」って呼んでるじゃないか!と思いますよね。
これらはすべて720年に成立した『日本書紀』にそう書かれているからです。
「天皇」の称号を用いたのは天武天皇が最初のようです。
天武天皇はさらに天皇を神格化します。

672.jpg

そして、大臣をおかずに皇族たちで政治をおこなう皇親(こうしん)政治をすすめました。
強大な権力を手にした天武天皇を中心に、中央集権国家体制の形成がグングン進んだわけです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

672年.jpg



次回は、天武天皇の奥さんである持統天皇の時代を見ていきます。
nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。