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飛鳥時代(5) [まとめプリント]

いよいよ中大兄皇子が天皇に即位する様子を見ていきましょう。
中大兄皇子って、ほんとになかなか即位しないんですよね…これは、古代史の謎の1つに数えられるようです。



飛鳥5.jpg

乙巳の変ののちに始まった大化改新で、孝徳天皇が即位し、都が難波に移されました。
孝徳天皇の業績として覚えることは2つです。

1、「改新の詔」の発表
2、蝦夷(えみし)に対する城柵(じょうさく)の設置

1つめは、前回の飛鳥時代(4)690年のゴロ合わせを参考にしてください。
ここでは、2つめの城柵の設置を取りあげます。

蝦夷とは、古代の新潟・東北地方・北海道南部にかけて居住し、朝廷の支配に従わなかった人々のことです。
そんな彼らを朝廷は異民族として扱い、とくに「蝦夷」と呼びました。
孝徳天皇の時代、蝦夷に対する日本海方面の最前線基地として、2つの城柵が設置されました。
まず647年に渟足柵(ぬたりのさく、ぬたりのき)が、
翌年にはそのさらに北方に磐船柵(いわふねのさく、いわふねのき)が築かれたのです。
いずれも現在の新潟県ですので、プリントの地図で確認しておきましょう。

その孝徳天皇の時代に皇太子をつとめたのが中大兄皇子でしたね。

あるとき中大兄皇子は、都を難波から飛鳥に戻すことを提案しました。
しかし、孝徳天皇はこれに応じませんでした。
すると、中大兄皇子はみんなを引き連れて飛鳥へ帰ってしまったのです。

難波にポツンと残された孝徳天皇
翌年、ショックのせいかこの世を去ってしまいます。

かわって即位したのが中大兄皇子!
ではないんですね…この人、ほんとになかなか即位しません。

中大兄皇子の母親が再び天皇の座につくことになります。
皇極天皇が重祚(ちょうそ)し、斉明(さいめい)天皇が誕生します。
斉明天皇の時代には、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が津軽方面の蝦夷を服属させることに成功しています。

さて、その間にも中大兄皇子の「邪魔者は消す!」っぷりはすごいです。

まず、異母兄弟の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)。
出家して吉野にいたのですが、「謀反(むほん)を企てている」ということで中大兄皇子に殺害されました。

次に、蘇我倉山田石川麻呂。
中大兄皇子にとって、奥さんの父親にあたる人物ですね。
これまた「謀反を企てている」という密告により、彼が建立した山田寺にて自害に追い込みました。
その後、石川麻呂の財産を調べたところ、よい宝物には「これは皇太子さまのもの」と書かれていたようです。
義理の息子に対して、謀反なんて企ててなかったのかもしれません…

さらに、孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのみこ)。
父の死後、政争に巻き込まれるのをきらった彼は、心の病を装って白浜温泉で湯治をしていました。
その後、飛鳥に帰った有間皇子は「謀反を企てている」と密告され、中大兄皇子に処刑されました。

よくもまぁ次々と…という感じですね…おそるべし中大兄皇子…

一方、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍に攻められ、百済が滅亡します。
このあと白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いへと続く流れは、
663年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらを参考にしてください。

白村江の戦いの敗戦後、称制中の中大兄皇子は国防の強化につとめます。
もしかしたら唐や新羅が日本に攻めてくるかもしれませんからね…

まず、対馬・壱岐・筑紫(つくし)に防人(さきもり)と、のろしをあげるための烽(とぶひ)を設置します。
のろしって分かりますかね?
電話もメールもテレビもない時代、煙をたくことで遠くにいる人に情報を伝えたものです。
中国ではオオカミさんのウ●コを燃やしたそうですが(のろしを漢字で書くと「狼煙」なのはそのためです)、
日本ではヨモギとかワラとかを燃やして煙をたいたようです。
もし唐や新羅が攻めてきたら、いちはやく煙をたいて敵の襲来を知らせようとしました。

また、大宰府(だざいふ)の北側に水城(みずき)を築きました。
これは全長約1kmにわたる、御笠川(みかさがわ)を堰(せ)き止めて水をたたえた土塁であったようです。
もし唐や新羅が攻めてくるなら、まずは一番近い九州を狙うだろうと。
ならば、九州の役所である大宰府を守らなければ!ということでガッチガチにかためたのでしょう。
博多湾から襲来する敵から守るわけですから、水城は大宰府の北側です。
南側につくっては意味がありませんからね。

さらに、旧百済から亡命してきた貴族たちに作り方を教わり、朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)も築きました。
大宰府の北に大野城(おおのじょう)、南に基肄城(きいじょう)をつくり、瀬戸内海周辺にもいくつか築いたようです。
プリントのイラストにそれぞれの城を書き込んでおきましょう。

そして、都を近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷し、やっとこさここで即位して天智天皇となります。
天智天皇としては、庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成を覚えてください。
詳しくは、690年のゴロ合わせを読んでくださいね。

さてさて、天智天皇の右腕として活躍したのが、中臣鎌足でしたね。
彼は初めての令(りょう)である「近江令(おうみりょう)」をつくったとされますが、定かではありません。
亡くなったのは、天智天皇が亡くなる2年前のことでした。
長年ずっと隣で頑張ってくれていた中臣鎌足に対し、天智天皇は2つのプレゼントを渡しました。
亡くなる前日のことであったようです。

1つが大織冠(たいしょくかん)です。
このころ冠位は十三階に増えているのですが、その最上位の冠位です。
これを授かったのは中臣鎌足ただ一人なので、「大織冠」イコール中臣鎌足個人を指すことになります。

もう1つのプレゼントが「藤原」の姓(せい)です。
姓(かばね)でもなく、名字(みょうじ)でもありません、姓(せい)です。

さぁ、姓(せい)と名字(みょうじ)の違いは分かりますか?

例えば

鎌倉幕府の初代征夷大将軍は源頼朝
室町幕府の初代征夷大将軍は足利尊氏

ですね。
それぞれの名前を読んでみてください。

みなもと の よりとも
あしかが たかうじ

と読みましたよね。

なぜ源頼朝は「の」を入れて読むのに、足利尊氏は「の」を入れて読まないのでしょう?
歴史を学んでいると、なんか分からんけど古い人には「の」がついていて、知らん間に「の」は消えてるな…
って思ったことありませんか?
これがズバリ姓と名字の違いです。
「の」を入れて読むのが姓、「の」を入れて読まないのが名字なのです。

「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という言葉があるように、
姓は源(みなもと)・平(たいら)・藤原(ふじわら)・橘(たちばな)の4つがとても多かったようです。
時代が経つにつれ、一族の数も増えます。
すると、「おれ、源。お前も源?お前も源??みんな源???」とややこしくなってきます。
なので、「お前、源のなかでもどこに住んでる源?」と聞かれます。
すると、「栃木の足利に住んでる源だよ」と答えます。

これが名字です。

足利は、源氏です。
足利尊氏は、源尊氏でもあるのです。

だいたい平安時代から鎌倉時代にかけて名字がメインで使われるようになり、現代に至ります。
みなさんのなかで「先祖は公家です」とか、「先祖は武士です」という方があれば、
墓石とか仏壇とかを見れば、ひっそりとどこかに姓が書いてあるかもしれませんよ。
残念ながら農民には姓がありませんので、日本人の大半は姓をもちませんが…

飛鳥5-1.jpg

なお、藤原氏の子孫は藤原の名字を使用しませんので、現代の藤原さんは中臣鎌足の子孫ではありません。
藤原氏に仕えてたとか、藤原氏の荘園だった場所に住んでたとかそんな感じでしょう。

それでは、最後に解答を載せておきます。
ややこしい漢字が多いので、しっかり書いて覚えてくださいね。

飛鳥5解答.jpg



次回は、天武・持統天皇の時代を見ていきます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
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