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713年 『風土記』の編纂を命じる [年号のゴロ合わせ]

今日は『風土記』について取りあげます。



前回触れた『古事記』は歴史書ですが、『風土記』は地誌(ちし)というジャンルに分類されます。
郷土の産物や、山や川などの名前の由来、
古老(ころう、昔のことに詳しい老人のこと)に取材した伝承などを書き記した地理の本です。

713年、元明天皇は諸国に地誌の編纂を命じました。
各国の国衙(こくが、国司が働いている国の役所のこと)はそれぞれ数年がかりで『風土記』を作り、
朝廷に献上したのです。

律令制度のころ、日本には50あまりの国があったので、
『風土記』も国ごとに50種類ほど作られました。

そのなかで完全に現存しているのは『出雲国風土記(いずものくにふどき)』だけです。
出雲は現在の島根県のことですね。

一部が現存しているのは、以下の4つです。

『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』(常陸国は現在の茨城県)
『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』(播磨国は現在の兵庫県)
『豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)』(豊後国は現在の大分県)
『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』(肥前国は現在の佐賀県)

つまり、残っている『風土記』は5つだけということです。
天災・人災の多い日本で、8世紀に成立した書物がたとえ一部分でも現存しているのはすごいことです。

私は大学で日本史学を専攻していましたが、そのなかで『播磨国風土記』を読むという授業がありました。

最初の授業で、教授から筆で書かれた『風土記』のコピーを渡されたときは大興奮でした。
「こ…これが713年の命を受けて編纂されたホンモノの『風土記』か!!」と。
↑ 高校生のころ、自分でイラスト描いてゴロ合わせ作って楽しんでいたので年号めっちゃ覚えてました。

1300年ほど前に書かれたものが残ってるなんてスゴイ!!と感動しましたが、実は違うんですよね。
私が見た『風土記』は8世紀に書かれたものではありませんでした。

現代に生きるみなさんにとって、教科書や辞書が自分のものとして手元にあることは当たり前ですよね。
学校では人数分のプリントがコピーされ、配布されていることでしょう。
友達のノートを借りて、たった10円で、しかもたった何秒かでそれをコピーすることもできますし、
プリンターさえ持っていれば、ネットの情報などを家でプリントアウトすることだってできます。
いまやプリントアウトしなくても、スマホに保存しちゃう人も多いのでしょうね。
なんて便利な世の中なんでしょう…ありがたい…

でも、昔は違います。

まず、本が1冊作られます。
もちろん手書きです。
これを「原本」(げんぽん)と呼びます。

たった1冊しか存在しない「原本」はたいへん貴重なので、人々はそれを書き写します。
もちろん手書きです。
これを「写本」(しゃほん)と呼びます。

「写本」さえたいへん貴重なので、「写本」を書き写した「写本の写本」、
さらに「写本の写本の写本」も作られます。
これらは全部まとめて「写本」と呼びます。

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天災や人災によって「原本」が失われてしまい、「写本」だけが残ることもありますし、
「原本」だけでなく「写本」さえ失われてしまい、存在自体が消えてしまうものもたくさんあります。
「原本」か「写本」か、どれか一つでも残れば奇跡なのです。

前回登場した『古事記』の「写本」で最も古いのは、室町時代のものです。
『播磨国風土記』は、平安時代の末期にお公家さんが書いた「写本」が1冊残っているだけです。
つまり、私が大学で手にしたのはこの「写本」のコピーだったわけです。

「なーんだ」と思うことなかれ。

平安末期に書かれた「写本」が現存していることがスゴいのです!
アメリカ合衆国なんて存在してない時代ですからね!!
紙に書かれたモノが、天災や人災を免れて現在に至るまで残っているというのはまさに奇跡、
世界に誇るべき遺産です。

そもそも、教科書がクラスに1冊しかなくて、
それを全員がそれぞれ全部書き写さなければならない…とか考えるだけでゾッとしますよね。
当たり前のように手元にある教科書に感謝してください。

それでは、今日のゴロ合わせ。

713年.jpg



次回は養老律令を取りあげます。
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712年 『古事記』を編纂する [年号のゴロ合わせ]

これまでに成立した歴史書を覚えていますか?

「帝紀」・「旧辞」、そして『天皇記』・『国記』ですね。

「帝紀」は天皇の皇位継承を中心とする古代の伝承・歴史などを、
「旧辞」は古代の神話・伝承などをそれぞれまとめたものと言われています。
欽明天皇のころに成立したと考えられますが、残念ながら現存していません。

『天皇記』・『国記』は聖徳太子(厩戸王)と蘇我馬子が編纂した歴史書ですが、
乙巳の変で大部分が焼失してしまい、こちらも現存していません。
詳しくは645年のゴロ合わせを読んでください。



さて、今日はこれに続いて成立した歴史書を見ていきます。

『古事記』です。

この歴史書の編纂事業は、天武天皇の時代に始まりました。
天武天皇はまず「帝紀」・「旧辞」の内容を整理しようと、「記憶の天才」を呼びました。
稗田阿礼(ひえだのあれ)という28歳の青年です(女性説もアリ)。

彼は非常に聡明で、一度耳にしたものはたちまち覚えてしまって決して忘れない、という
受験生にとっては喉からいっぱい手が出るような才能の持ち主でした。
くうぅ…羨ましすぎるぜ稗田阿礼…

彼が生まれたとされる場所は、現在の奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)なのですが、
ここでは稗田阿礼の記憶力にあやかって、毎年「記憶力大会」が催されているようです。
小学生が頑張って覚えた駅名やら円周率やら百人一首やらを披露する様子を例年ニュースで目にします。

さて、その稗田阿礼は天武天皇に命じられ、「帝紀」・「旧辞」を何度も何度も声に出して読んで記憶しました。
教科書なんかでは、『古事記』の序文にある言葉を引用して、これを「誦習(しょうしゅう)」と表現しています。

ん?
何度も何度も声に出して覚えた??
一度耳にしたら記憶すんじゃないの???

という突っ込みはやめておきましょう。

稗田阿礼が「旧辞」・「帝紀」を誦習して頭の中を整理し、さぁいよいよ新しい歴史書を作ろうではないか!
という矢先…
天武天皇が死んでしまいました。

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結果、稗田阿礼は頭に歴史をいっぱい詰め込んだまんま放置されます。
それから30年ほど経ったころ、ついに太安万侶(おおのやすまろ、安麻呂とも表記します)と出会います。
彼は、稗田阿礼が誦習したものを書き記して、歴史書を編纂するよう元明天皇から命じられた人物でした。

そして712年、二人の努力がようやく結実し、『古事記』という形で元明天皇に献上されました。
いやぁ~…稗田阿礼にとって、完成まで本当に長い道のりだったわけですね…

それでは、今日のゴロ合わせ☆

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「記憶の天才」は絶対こんな人じゃなかったと思います…稗田阿礼さんすいません…



次回も古代に成立した書物をとりあげます。
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711年 蓄銭叙位令を制定する [年号のゴロ合わせ]

前回は、和同開珎についてお話ししました。
ではこの和同開珎、一体どれほど流通したのでしょうか…



我々は、「お金でモノを買う」社会のなかに生きています。
お店で欲しいモノを見つけると、お金と交換してそれをゲットするわけです。

しかし、その「お金」自体に価値はあるでしょうか…?

一万円札って、すごい技術を駆使して印刷されてはいますけど、
よく考えてみるとあの紙自体に一万円分の価値なんてありませんよね。
みんなが「この紙には一万円分の価値がある」と信用するから、
一万円札は一万円分の価値がある紙として日本で通用しているのです。

では、物々交換しかおこなわれていなかった時代に、いきなり和同開珎なる貨幣が現れたら…?

たとえば、大根が欲しくて自分の持っているお米と交換した人がいたとしましょう。
大根には大根の、お米にはお米の、それぞれ食べ物としての価値があるので、
ここでは交換が成立したわけです。

そこに何だかよくわからない穴のあいた丸い小さなものを持った人が現れて、
「これはお金だ、その大根と交換してくれ」と言います。

ん?なんすかそれ??食べられるんすか???

つまり、物々交換しか知らない人々に、お金というものを浸透させるのは大変なことなのです。
和同開珎が流通したのは都の周辺くらいで、なかなか地方には広がらなかったようです。

でも朝廷としてはせっかく和同開珎つくったんだし、もっともっと流通させたいわけです。
そこで元明天皇は、711年に蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を定めました。
「叙位(じょい)」とは位階(いかい)を授けることです。
すなわち、お金を蓄えて朝廷に献上したら位階を授けるよ!!という制度ができたのです。

お金を蓄えようと思ったら、モノを売ってお金にかえなければなりません。
高い位が欲しい都の有力者たちは、どんどんモノをお金にかえて貯蓄し、それを朝廷に献上します。
さらに、地方に住む有力者たちも都にやってきて、同じようなことを繰り返します。
こうして都だけでなく、地方にもお金というものが広がっていったのでしょう。

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でもこれって矛盾してるようにも思えますよね…
蓄えちゃったらお金流通しないじゃん!です。
ということで、800年に蓄銭叙位令は廃止されました。

和同開珎ののち、朝廷は銭貨の鋳造を続けます。
全部で12種類鋳造したので、まとめて皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼びます。
本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)という場合もあります。
これらをすべて列記してみましょう。

①和同開珎
②万年通宝(まんねんつうほう)
③神功開宝(じんぐうかいほう)
④隆平永宝(りゅうへいえいほう)
⑤富寿神宝(ふじゅしんぽう)
⑥承和昌宝(じょうわしょうほう)
⑦長年大宝(ちょうねんたいほう)
⑧饒益神宝(じょうえきしんぽう)
⑨貞観永宝(じょうがんえいほう)
⑩寛平大宝(かんぴょうたいほう)
⑪延喜通宝(えんぎつうほう)
⑫乾元大宝(けんげんたいほう)

こういうのは最初と最後をおさえておきましょう。
最初はもちろん和同開珎で、最後は村上天皇の時代に鋳造された乾元大宝です。
この後、国内での貨幣鋳造はしばらく行われず、宋銭や明銭といった中国銭を使用する時代が続きます。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

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次回からしばらく、古代に成立した書物に関するゴロ合わせを見ていきます。
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710年 平城京に遷都する [年号のゴロ合わせ]

遷都(せんと)とは、都を遷(うつ)すことです。

2010年に奈良県で平城遷都1300年記念事業が開催されるにあたって、
「せんとくん」なるキャラクターが誕生し、その衝撃的なビジュアルが世間を賑わしました。
いまとなっては見慣れてしまって案外普通のキャラクターとして扱われていますね(笑)

そう、2010年から遡(さかのぼ)ること1300年。
710年に平城京遷都がおこなわれたのです。



それ以前の都は覚えていますか?
藤原京ですからね、念のため。

現在の奈良県におかれた平城京は、710年から784年にかけて都として機能しました。
おもにここ平城京に都が置かれた時代を奈良時代と呼びます。

では、平城京の様子を見てみましょう。

平城京.png

碁盤の目のように道路が作られていますね。
藤原京と同じ、条坊制の都です。

では、平城京のモデルになった都を答えることはできますか?

中国、唐王朝の都であった長安(ちょうあん)ですね。

都の中央を南北に朱雀大路(すざくおおじ)という大きな道路が走ります。

朱雀大路の南の端には、羅城門(らじょうもん)という大きな門が作られました。
ちなみに、有名な芥川龍之介の作品は『羅生門(らしょうもん)』ですので間違えないように。
この作品の舞台は、平安京の羅城門のようです。

朱雀大路の北の端には朱雀門(すざくもん)というこれまた大きい門が作られました。
現在、平城京跡に行くと復元された朱雀門の姿を見ることができます。
朱雀門の奥にあるのが天皇のいる平城宮(へいじょうきゅう)です。
なお、朱雀(すざく)というのは南方を守る神様で、立派な鳥の姿をしているんだそうです。

朱雀大路の東側(青色の部分)が左京(さきょう)、西側(ピンク色の部分)が右京(うきょう)です。
ん?左右ワケ分からんようになってきませんか??

中国では古来より、「皇帝は南を向いて座る」というきまりがあったそうです。
背中は北を向きますので、背中の「背」の漢字には「北」が乗っかっています。
これをふまえて、平城宮で天皇は南を向いて座りました。
南を向いた天皇から見て、左が左京、右が右京、というわけです。
自分を基準に考えてはなりません、天皇の目線を基準に左右を判断してくださいね。

710.jpg

ちなみに、天皇から見て左が太陽ののぼる方角になるので、右より左の方が優位と考えます。
左大臣の方が右大臣よりエライのはそういうことです。

左京の東側に張り出した部分(緑色の部分)が、外京(げきょう)です。
ここには興福寺や東大寺、元興寺といった名だたる寺院がたくさんあります。
現代でいう「奈良の観光地」は、この地域に集中しています。
遷都のとき外京は存在しなかったが、藤原氏がここに興福寺を建てたから外京ができた、という説もありますが、
近年の研究によると、平城京遷都の際に外京も一緒につくられたのではないか、という説が有力なんだそうです。

では、今日のゴロ合わせ☆

710年.jpg

「ナント見事な平城京」が世間では有名なので、あえてハズしてみました。



前回は和同開珎について述べましたので、次回はその続きとなるお話をしていきます。
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708年 和同開珎を鋳造する [年号のゴロ合わせ]

久々の更新です。
なかなかブログを書く環境が整いませんが、細々と頑張ります。
たまに覗いていただけると幸いです。



さて、今日は古代の貨幣について見ていきましょう。
貨幣とはもちろんお金のことで、紙幣(紙のお金)と鋳造貨幣(コイン)の2種類に大別されます。

では、天武天皇のころに鋳造された貨幣は何でしょう?

奈良県の飛鳥池(あすかいけ)遺跡で出土した富本銭(ふほんせん)ですね。
果たしてこのコインは流通したのか、それともおまじない用としてつくられたのか、
研究者の間で現在も意見が分かれているようです。

ではでは、富本銭の次に鋳造された貨幣は何でしょう??

そう、とてもとても有名な和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)ですね。
これは流通貨幣(略して通貨)として使用されたようです。

元明天皇の時代、慶雲(けいうん・きょううん)五年のこと。
武蔵国(むさしのくに、現在の東京都・埼玉県・神奈川県北東部の地域)秩父郡(現在の埼玉県)が
朝廷に和銅(わどう、天然の純銅)を献上しました。
これを記念して、朝廷は元号を慶雲から和銅(わどう)と改めました。
708年のことです。
そして、この和銅をつかって鋳造されたのが和同開珎です。
銅で鋳造される前に銀でつくられたようですので、銀銭と銅銭の2種類あります。

ここで気をつけなければならないのが、漢字です。
元号は和「銅」ですが、鋳造貨幣は和「同」開珎なのです。
なぜ和「銅」開珎ではないのか、現在も解明されていないようですが、
両者の漢字の混同を避けるため、こう覚えてみませんか?

708.jpg
イラスト内にも書きましたが、このような事実はありませんのでご注意くださいね!
あくまでも元号は「銅」、鋳造貨幣は「同」なんだと覚えてもらうためだけのものですからね!!

ちなみに、イラストの中に描かれた人物は、鋳銭司(じゅせんし)といいます。
貨幣の鋳造を担当した人のことです。
彼が右手に持っているのは枝銭(えだせん・えだぜに)です。
このころ、貨幣は鋳型(いがた)に原料を流しこんで作っていました。
その鋳型というのが、木の枝の先にお金をくっつけたような、イラストにあるような形をしていました。
鋳型から取り出したものが枝銭で、それぞれお金となる部分を枝から切り離し、
きれいな円形になるよう周囲にヤスリをかけます。
どうやってヤスリをかけるのかというと…

和同開珎の穴の形って覚えていますか?
いま日本で流通しているコインは丸い穴が開いていますが、昔のコインは四角い穴が開いていました。
もちろん、和同開珎もそうです。
すなわち、枝銭から切り離した周囲の荒い和同開珎に四角い棒を差し込み、
コロコロすればきれいな円形になる、というわけです。
よく考えられていますねぇ~…

ところで、和同開珎のモデルになったコインは何か分かりますか?

唐の開元通宝(かいげんつうほう)です。
Wadogin.jpg  Kaitsugenpo.jpg
左が和同開珎で、右が開元通宝です。
さすがモデルにしただけあって、すごくよく似ていますね。
しかし…よく見ると…
和同開珎は上から時計回りに文字を配列していますが、開元通宝は文字を上下右左と読むのです。

果たして…和同開珎という読み方でいいのでしょうか…
オリジナリティを出すため文字列を変えてみただけなのでしょうか…
謎は深まるばかりです…

この和同開珎がどのように使われたのかは次々回で触れたいと思います。

では、最後に今日のゴロ合わせ☆

708.jpg



次回は平城京遷都について見ていきます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%90%8C%E9%96%8B%E7%8F%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%85%83%E9%80%9A%E5%AE%9D
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