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1297年 永仁の徳政令を出す [年号のゴロ合わせ]

平禅門の乱(へいぜんもんのらん)のあと、政治を主導するのは、
9代執権(しっけん)である得宗(とくそう)の北条貞時(ほうじょうさだとき)です。

彼にとってもっぱらの課題は、窮乏する御家人たちを救うことです。

そもそもなぜこのころの御家人がビンボーに苦しんでいるのかというと、
・元寇(げんこう)ですごく頑張ったのに、満足なゴホウビがもらえていない
・分割相続(ぶんかつそうぞく)の繰り返しで所領が細分化してしまった
・急速な貨幣経済の進展に巻き込まれてしまった
などが原因としてあげられます。

そんななか、1297年2月に彗星(すいせい)が観測されます。
この天体ショー、当時は不吉なことが起こる前触れだと考えられており、
為政者はその災いを避けるため、なにかよいことを行わなければなりませんでした。

そこで翌3月、北条貞時は窮乏する御家人たちを救うため、
永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)を出すのです。



まずは史料を見てみましょう。
これは3月に出したものをふまえて作った、より詳しい内容の法令です。

一、越訴(おっそ、裁判で敗れた者が判決を不服として再び訴訟を起こすこと)を停止(ちょうじ)すべき事(中略)
一、質券(しちけん)売買地(質入れや売買した土地のこと)の事
 右、所領を以(もっ)て或(あるい)は質券に入れ流し、或いは売買せしむるの条、御家人等侘傺(たてい、困窮すること)の基(もとい)なり。向後(きょうこう、今後)に於(お)いては、停止に従ふべし。以前沽却(こきゃく、売却すること)の分に至りては、本主領掌(りょうしょう、領有して支配すること)せしむべし。但(ただ)し、或いは御下文(おんくだしぶみ)・下知状(げちじょう、いずれも幕府が土地の譲渡・売却を認めた公文書のこと)を成し給(たま)ひ、或いは知行〔1   〕箇年を過ぐるは、公私の領を論ぜず、今更(いまさら)相違有るべからず。(中略)次に非御家人・凡下の輩(ぼんげのともがら、一般庶民のこと、具体的には〔2   〕をさす)の質券買得地の事。年紀(取得時効20年)を過ぐると雖(いえど)も、売主知行せしむべし。
一、利銭出挙(りせんすいこ、利息をつけて銭を貸すこと)の事
 右、甲乙の輩(すべての人ということ)、要用(どうしても必要なこと)の時、煩費(はんぴ、わずらわしい出費のこと)を顧みず負累(ふるい、借金して負債を重ねること)せしむるによって、富有(ふゆう)の仁は其の利潤を専(もはら)にし、窮困(きゅうこん)之族(やから)は弥(いよいよ)侘傺に及ぶか。自今(じこん)以後、成敗(せいばい、裁決すること)に及ばず。(以下略)
永仁五年(1297)七月廿二日 (「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)、原漢文)


空欄にあてはまる語句は、
 1…廿(にじゅう、20をあらわす漢字ですー)
 2…借上(かしあげ、高利貸し(こうりがし)のこと)
です。

この3ヶ条を訳してみましょう。

一、判決済みの訴訟の再審請求を受理しない事
一、質流れになったり、売買した土地の事
 右については、所領を質に入れて流したり、売却することは御家人たちが困窮するもとである。今後はこれを禁止する。以前に売却した土地については、本来の持ち主(御家人)に取り返させ、支配させよ。ただし、買ったあとに幕府から下文や下知状をもって公認されていたり、いまの持ち主がすでに20年以上その土地を支配している場合は、公領・私領にかかわりなく、今さら現状を変更することはしない。(中略)次に非御家人や高利貸が質流れや買い取った土地については、何年たっていようとも、売主の御家人が支配すべきである。
一、利息をつけて銭を貸す事
 これについて、だれでも金が必要なときは、わずらわしい出費を考えずに借金を重ねるので、金持ちは利潤をますます増やし、貧乏人はますます困窮するようになると思われる。今後、幕府はこの訴訟をいっさい取り上げない。

てな感じです。
それぞれの条文を簡単にまとめると、

□ 1条目:越訴の禁止
□ 2条目:御家人が所領を質に入れたり売却することを禁止
     すでに質に入れたり、売却してしまった所領は、もとの持ち主である御家人に返還する
     ※ただし条件つき
□ 3条目:御家人が関係する金銭の訴訟は受理しない

となります。

なかでも永仁の徳政令といえば、やっぱ2条目ですよねー!
貧しさのあまりお金にかえた所領がなんと返ってくる!!ってやつ!!!

ただ、さっきの2条目のところに「※ただし条件つき」って書いてるんですよねー。

そうなんです!
無条件で所領が返ってくるわけではないのです!!
いろいろ条件をクリアしないといかんのです!!!

ややこしいので、まずはイラストにしてみましょうー。

1297-1.jpg

情報詰め込みすぎでスミマセン…
順を追って見ていきますね。

あるとき、ビンボーに苦しむ御家人は、
先祖代々守ってきた所領を泣く泣く売ったり質に入れたりしてお金を工面(くめん)し、
家族や家臣を養い暮らしておりました。
(彼のことは、以降〔元の持ち主〕と表現します)

そんななか、1297年に永仁の徳政令が出されます!
条件を満たせば、泣く泣く手放したあの所領が〔元の持ち主〕のもとに戻ってくるとゆーのです!!

その条件は、〔元の持ち主〕から所領を手に入れた人物(以降、〔いまの持ち主〕と表現します)が、
御家人か、御家人じゃないか、
また所領を手放してから何年経っているか、
で変わってきます

①〔いまの持ち主〕が御家人の場合
・〔元の持ち主〕が所領を手放してから20年以上経過している⇒返ってこない!
 だって、〔いまの持ち主〕である御家人はもうかれこれ20年以上その所領を支配してるんですよ?
 それだけ長いこと支配してるんだから、その所領はそのまま〔いまの持ち主〕のもので決定!!
 ってことです。
・〔元の持ち主〕が所領を手放してから20年経っていない⇒返ってくる!!
 〔いまの持ち主〕がその所領を手に入れてからまだ日が浅いので、〔元の持ち主〕に返しましょう!
 ってことです。
つまり、御家人同士でやりとりをした所領は、それから20年たっているかどうかが分かれ道となるのです。

②〔いまの持ち主〕が御家人じゃない場合
・経過年数とか関係なし⇒とにかく返ってくる!!
 エーーーーーッッ!そんなんアリ!?って感じですよねーーーー…
 御家人を救済するための法令だからって、御家人じゃない人の冷遇っぷりがスゴい!!

いやーこれは不平等ですよねー…
モメる、ゼッタイにモメるやつ…

まずは〔いまの持ち主〕にその所領を手放してもらうための訴訟を起こすわけですが、
そんな訴訟がすんなり進むとは思えません。
そもそも〔元の持ち主〕からその所領を手に入れた人が、また別の人に売って、その人がさらにまた別の人に売って…とか繰り返してたら、本当の持ち主が誰なのかを特定することすら難しいワケです。

モメる、ゼッッタイにモメるやつ…

一応、〔いまの持ち主〕が20年以上その所領を知行(ちぎょう)している場合、
または〔いまの持ち主〕が知行していることを認める鎌倉幕府の公文書がある場合は、
返還の対象外と規定してはいるのですが…

おっそろしーほどの訴訟が鎌倉に押し寄せることになります!

やっぱりねーーーーッッ!!

1条目で越訴を禁止しているのは、それを見越してのことなのかもしれません…

ともあれ、永仁の徳政令は一部をのぞいて1298年2月に停止されてしまいます。
(もともと1年間だけの時限立法だった、という説もあります)

それでは、今日のゴロ合わせ。

1297年.jpg

次回は鎌倉時代(7)のまとめプリントです。
北条貞時の政治の復習と、得宗専制政治をまとめてゆきます☆



【参考文献】
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)

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1285年 霜月騒動が起こる [年号のゴロ合わせ]

8代執権(しっけん)・北条時宗(ほうじょうときむね)の時代、
元・高麗連合軍が二度にわたって日本を襲撃します。
1274年の文永の役(ぶんえいのえき)と、1281年の弘安の役(こうあんのえき)です。
日本はいずれにも勝利しますが、
また攻めてくるかもしれない…という軍事的緊張は解けず、
さらに鎌倉幕府は恩賞(おんしょう、ゴホウビのこと)のやりくりにも頭を悩ませます。

そんななか、1284年に北条時宗が病気のため、満32歳の若さでこの世を去ってしまいます。
かわって9代執権に就任するのは、北条時宗の一人息子である北条貞時(ほうじょうさだとき)です。

といってもねー、彼、満12歳なんですよ。
小六ですよ!小六!!
さすがに執権として政治を主導するには無理がありますよねー…

なので、安達泰盛(あだちやすもり)という御家人が補佐をすることになります。

ん?
なんかこの名前、前回出てきませんでしたっけ??

そうです!
「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)のなかで、肥後(ひご)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)から「ゴホウビください!」と直談判されているこの人です!!
鎌倉6-4.jpg
ここから、文永の役のあと、恩賞を担当する立場にあったことが見て取れますが、
ほかにも様々な重要ポストを歴任してきた有力御家人です!!!

そんな安達泰盛は、北条貞時のお母さんのお兄ちゃんなのですが(つまり北条貞時のオジサン)、
父である安達義景(あだちよしかげ、覚えなくていいですよ!)が早くに亡くなってしまったため、
生まれたばかりの妹を養女として育てます(なんとこの兄妹、21歳もトシが離れておるのです!)。
というワケで、北条貞時にとって安達泰盛は、母方のおじいちゃんみたいな存在なのです。

母方のおじいちゃんって…

そうです!
外戚(がいせき)です!!
北条貞時にとって安達泰盛は、外戚みたいなものなのです。

そもそも安達氏は、源頼朝(みなもとのよりとも)が平治の乱(へいじのらん)に敗れて伊豆(いず)に流されたころから仕えている、それはそれは古い家臣です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝にずーっと付き従っていたチョビヒゲの方がいましたが、
彼が安達氏の祖である安達盛長(あだちもりなが、覚えなくていいですよ!)です。
安達泰盛は、そのひ孫にあたります。

なんだかややこしくなってきたので、簡単な系図で安達氏と北条氏の関係を整理しておきましょう。
1285-1.jpg
これを見ると、安達氏は北条氏とガッツリ関係を結んでいることが分かりますね!

とにもかくにも、
“安達氏は古くからの有力御家人で、とくに安達泰盛は9代執権・北条貞時の外戚みたいなポジションにあるため、幼い執権を補佐することになった”、
ということをまずは理解してください。

こうして安達泰盛は、自身のポジションと政治経験を活かした政治改革をどんどん進めてゆきます。
これを、弘安徳政(こうあんとくせい)と呼んだりします。



さて、そんな安達泰盛を冷ややかな目で見ているのは、平頼綱(たいらのよりつな)です。
彼は御家人ではありません、御内人(みうちびと、または、みうちにん)です。

ん?御家人と御内人ってナニが違うの??って感じですよね。

簡単に言うと…
 ・御家人…将軍と主従関係を結んでいる家臣
      御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の関係で結ばれる
 ・御内人…得宗(とくそう)の家に仕える家臣
という違いがあります。

しれっとまた新しい用語が登場しましたねー。

得宗!
得宗ってなんや!!

ハイ、得宗とは北条氏の惣領(そうりょう)のことです。
この名称は、2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)が出家した際、
「徳宗」(とくそう)と名乗ったことに由来するんだとか(諸説アリマス)。

イヤイヤ、漢字ちゃうやないかーーーーいッッ!!
ホント受験生泣かせですよね…

さきほどの系図を見ると、青枠で囲われている名前がありますよね?
それが得宗です。
ちなみに、北条時氏(ほうじょうときうじ)は早くに亡くなっているため得宗にはなっていません。
また、北条時政(ほうじょうときまさ)を得宗とする説もあります。

で、その得宗に仕える家臣こそが御内人なのです。
そして、御内人のなかのリーダーを内管領(うちかんれい、または、ないかんれい)と呼びます。

またもやややこしくなってきましたねー…
イラストでまとめて頭を整理しておきましょう☆

1285-2.jpg

つまり、
将軍と主従関係にあるのが御家人で、
御家人の一人である北条氏の得宗に仕えるのが御内人で、
御内人のリーダーが内管領、
ということです。

ついでにいうと、将軍と主従関係にない非御家人(ひごけにん)なるものも存在します。

整理できましたか?
なお、執権と得宗の関係については鎌倉時代(7)で説明する予定です。

*   *   *

話を元に戻しましょう!

平頼綱は、御内人のリーダーである内管領です。
しかも、平頼綱の奥さんは北条貞時の乳母(うば)です。
平頼綱は、いわば北条貞時の育ての親なのです。
(この平という一族は由来がよく分かっておらず、いつのころからか北条氏に仕えていたんだとか…)

てなワケで、
“北条貞時の育ての親”である平頼綱からすると、安達泰盛の権勢っぷりは目に余るし、
“北条貞時の外戚的存在”である安達泰盛からすると、平頼綱は「御家人の家臣にすぎないんだから身の程をわきまえろよ」って腹が立つしで、
二人の関係はこじれてゆきます。

さらに、御内人たちは平頼綱を応援するし、御家人たちは安達泰盛を応援するもんだから、
両者の間の溝は深まるばかりです。

そんなあるとき、
平頼綱は「安達氏は将軍になろうとしているにちがいない!」と北条貞時にチクります。

なんでも、安達泰盛の息子である安達宗景(あだちむねかげ、覚えなくていいですよ!)は、
「実は、ウチのひいおじいちゃんは源頼朝の息子なのだ!」とか言い出し、
源氏を名乗りはじめたんだとか。

鎌倉幕府の将軍は、源頼朝にはじまり、
源頼家(みなもとのよりいえ)・源実朝(みなもとのさねとも)と3代続けて源氏が就任しました。
この3代をまとめて源氏将軍(げんじしょうぐん)と呼ぶんでしたよね。

ところが、源実朝の暗殺によって源氏将軍は絶え、
4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)と5代将軍・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)は摂関家から迎えます。
この2人を摂家将軍(せっけしょうぐん)とか藤原将軍(ふじわらしょうぐん)と呼びます。

そして、6代将軍は後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の息子である宗尊親王(むねたかしんのう)を迎え、
このころは宗尊親王の息子である惟康親王(これやすしんのう)が7代将軍の座に就いている、
そんな時代です。

そこに、安達氏が「ウチは源氏の血を引く一族なのだ!」とか言い出すもんだから、
平頼綱は「安達氏は将軍の座を狙っているのだ!源氏将軍の復活をもくろんでいるのだ!!」と解釈したワケです。

そうして1285年11月、なんだか自分ちの周りが騒がしいのに気がついた安達泰盛は、
惟康親王や北条貞時のもとを訪ねようと出かけます。
そこを御内人たちに襲われ、合戦のすえ安達泰盛は命を落としてしまいます。

すかさず、地方にいる安達氏の一族にも追撃の手がのび、
元寇(げんこう)で活躍した安達盛宗(あだちもりむね、覚えなくていいですよ!)が博多で討たれるなど、
およそ500人が自害または討ち死にしたと伝わっています。
(このとき没収した所領が弘安の役のゴホウビとして分配されたことは前回触れました)

11月に起きたこの事件を、霜月騒動(しもつきそうどう)と呼びます。

ということで、ここで本日のゴロ合わせ。

1285年.jpg

霜月は11月ですからねー!!

さて、安達泰盛の死後、政治を主導するのはもちろん内管領の平頼綱です。
とはいえ彼は御家人ではないので、評定衆や引付衆にはなれません。
それでも権力を独占し、幼い執権を差し置いて専制政治をおこないます。

ところが、彼の栄華は突然終わりを迎えます。

1293年、関東地方を大地震が襲い、
その混乱に乗じて北条貞時が命を下し、平頼綱は自害に追い込まれてしまうのです。

このころ平頼綱は出家して平禅門(へいぜんもん)と名乗っていたようなので、
これを平禅門の乱(へいぜんもんのらん)とか、平頼綱の乱(たいらのよりつなのらん)と呼びます。

*   *   *

北条時宗の急死
→幼い北条貞時の執権就任
→安達泰盛の改革
→平頼綱が安達泰盛を滅ぼす(霜月騒動)
→北条貞時が平頼綱を討つ(平禅門の乱、または平頼綱の乱)

という流れ、しっかり理解してくださいね☆

いよいよ満20歳となった9代執権・北条貞時が、得宗として専制政治を開始します。
これを得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)と呼びますが、
詳しくは鎌倉時代(7)でまとめてゆきたいと思います。

次回は永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)をゴロ合わせとともにお届けします。



【参考文献】
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)

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1281年 弘安の役が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、1274年の文永の役(ぶんえいのえき)を、ゴロ合わせとともにお届けしました。

元(げん)のフビライ=ハンが、日本に服属を求める国書を何度送るも既読スルーの連続。
1274年、ついにキレたフビライ=ハンは、およそ3万人(諸説アリマス)の軍勢を日本に送りこみます。
元と高麗(こうらい、元に服属中)の連合軍は、まず対馬(つしま)と壱岐(いき)を襲い、
さらに博多(はかた)に上陸して集団戦法(しゅうだんせんぽう)や「てつはう」とよばれる火薬を使った武器などで御家人たちを苦しめます。
ところが、元・高麗連合軍は一晩のうちに消えてしまい…なんか分かんないけど日本勝っちゃった!!
というのが文永の役でしたね。

今日はその続き、1281年に起こる弘安の役(こうあんのえき)を見ていきましょう。
文永の役と弘安の役、2つまとめて元寇(げんこう)とか、蒙古襲来(もうこしゅうらい)と呼ぶんでしたよね☆



文永の役の翌年、フビライ=ハンの使者がまたもや日本にやってきます〔7回目〕。

やばい!
フビライ=ハンまだ諦めてない!!
こりゃまた服属求めて日本に大軍を派遣してくるかもしんない!!!

というワケで、8代執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)は、
使者を殺害し(エッ!)、元・高麗連合軍の再来に備えて2つのことをおこないます。

①異国警固番役(いこくけいごばんやく)の強化
文永の役に先だって編成されていた異国警固番役を強化するため、
九州の御家人たちを4つのグループに分け、3ヶ月交代で北九州沿岸の防備に当たるよう整備しなおします
異国警固番役を課せられる御家人は、京都大番役(きょうとおおばんやく)と鎌倉番役(かまくらばんやく)は免除されます(異国警固番役だけでも大変ですからね)
なお、鎌倉幕府と主従関係を結んでいない非御家人(ひごけにん)も動員されたようです

ちなみに、長門国(ながとのくに、現在の山口県)を防備する長門警固番役(ながとけいごばんやく)も編成され、長門探題(ながとたんだい)が指揮したんだとか

②石塁(せきるい)、または石築地(いしついじ)の築造
博多湾の沿岸およそ20kmにわたって、高さ2mほどの防塁(ぼうるい、防御用のカベ)を築かせます
石を積みあげてつくったこのカベを、石塁とか石築地と呼びます

こうして日本が九州北部の防御力を高めているころ、元は日本再征計画を中断しています。
元の南に位置する南宋(なんそう)との戦いが、最終局面を迎えているためです。

1276年、元は南宋の首都をついに陥落(かんらく)させ、
幼い皇帝をたてて抵抗を続ける南宋を1279年に滅ぼしてしまいます。
これにより、フビライ=ハンの矛先は再び日本に向けられるようになるのです。

滅ぼされてしまった南宋(以下、旧南宋(きゅうなんそう)と呼びます)と日本は、
古くから日宋貿易(にっそうぼうえき)などで交流を重ねてきました。
そこでフビライ=ハンは、旧南宋に「ウチは元に滅ぼされてしまいました…オタクはいまのうちに元に服属したほがいいんじゃないですか?」的な手紙を書かせ、使者に託して日本へ向かわせます〔8回目〕。
オトモダチから服属を説得してもらう作戦です!

しかし、オトモダチ作戦は功を奏さず、
鎌倉幕府はこれまた使者を殺害してしまいます(エェッ!!)。

そのころ、フビライ=ハンはようやく7回目の使者が殺害されたことを知り(8回目の使者の殺害はまだ知らない)、日本再征の準備を進めます。

そしていよいよ1281年、元・高麗・旧南宋の兵およそ14万人(人数については諸説アリマス)が、
2つのルートに分かれて日本を目指します。
文永の役はおよそ3万人だったので、今回はとんでもない軍勢です。

1281-1.jpg

元・高麗連合軍を主力とするおよそ4万人の東路軍(とうろぐん)は、
5月3日に朝鮮半島南部の合浦(がっぽ)を出発します。
旧南宋の兵を主力とするおよそ10万人の江南軍(こうなんぐん)とは壱岐で合流する計画ですが、
ちょっと色々モメてて江南軍は出発が遅れている状況です。
ちなみに、長(ちょうこう)のから出撃するから江南軍、と覚えてください☆

よって、東路軍は江南軍の到着を待たず、先に対馬・壱岐、そして長門国を襲います。
さらに文永の役のときと同じように博多湾から上陸しようとするのですが…

なんと!
そこには!!
文永の役のときにはなかったカベがあるのです!!!

そうです!
石塁(石築地)です!!
それが立派に役割を果たして東路軍の博多上陸を阻(はば)んだのです!!!

頑張ってつくった甲斐があったヨネー!(泣)

博多上陸を諦めた東路軍は、志賀島(しかのしま)を占領して船を停泊させることとします。

志賀島…
なんか聞いたことのある地名ですよね?
なにかが見つかった場所ですよね??
覚えてますかどーですか???
答えはコチラ

ここで東路軍は竹崎季長(たけざきすえなが)をはじめとする御家人たちの猛攻を受け、
壱岐まで後退して江南軍の到着を待つことにします。

ところが、江南軍は合流の期限である6月15日を過ぎても壱岐に現れず、
さらに東路軍の船の中では病気が蔓延(まんえん)し、多数の死者が出てしまいます。

そのころ江南軍はどこにいるのかというと…
ようやく長江の南にある慶元(けいげん)を出たところです。
なんてこった!

ちなみに、慶元はのちに寧波(ニンポー)という地名に改められるんですけど、
ここで戦国時代に寧波の乱(ニンポーのらん)という事件が起こります。

あとすっごい余談なんですけど、江南軍のリーダーは范文虎(はんぶんこ)という名前です。
あ、覚えなくていいですよ!

でも…でもでも…はんぶんこって…超かわいくないですか?
なにかと半分わけてくれそうですもんねー。
あ、ホント覚えなくていいですからね!!

さて、はんぶんこ率いる江南軍はどこを目指しているのかというと、
東路軍との待ち合わせ場所である壱岐ではありません!
なんてこった!!

なんでも、日本を攻めるなら壱岐より平戸島(ひらどじま)からの方が絶対イイ!という情報を得たらしいのです。

そこで江南軍は、平戸島で合流する案を壱岐の東路軍に知らせるのですが…
そのころ東路軍は壱岐でも日本の総攻撃を受けており、もはやボロボロです。
でもなんとか江南軍と合流しようと平戸島に向かいます。

そして7月下旬、東路軍は平戸島と壱岐の間にある鷹島(たかしま)という島でようやく江南軍と合流するのです。

ところが!
7月30日の夜!!
九州北部を台風が襲います!!!

海は荒れ狂い、船同士の衝突は避けられず、たくさんの兵が海に投げ出されて溺死してしまいます。

台風シーズンだもんね!
これは避けられない!!

結局、はんぶんこの主張によって軍の撤退が決まります。
エラい人たちは、たくさんの兵や馬を置き去りにして、
台風を耐え抜いた頑丈な船に乗ってそそくさと帰ってしまったんだとか。

見捨てられた兵たちに対して、御家人たちは攻撃をくわえて追い払い、
弘安の役も日本の勝利で終わります。

フビライ=ハンはというと、3回目の日本侵攻を本気で考えていたようですが、
弘安の役による被害は甚大で、国内からの反発も多く、
日本を服属させるという夢を実現することなく1294年にこの世を去ってしまいます。

とはいえ、日本は北九州の防備を解くことはできません。
異国警固番役は鎌倉時代を通して継続されることになります。
もう元が攻めて来ないことを現代人は知っているけど、当時の人は知りませんもんね。

御家人たちはまたもや恩賞をろくにもらえず、それでも異国警固番役は続き、
ますます疲弊することになるのです。
このあたりのことは次回、鎌倉時代(6)でまとめてゆきたいと思います!

では、ゴロ合わせを載せて終わりとしましょう。

1281年.jpg

文永の役の「往(い)になよ(帰って!)」を受けて、「往ぬわい(帰るわ!)」です。
セットで覚えてくださいね☆

あと、チンギス=ハンなのかフビライ=ハンなのか、まだこんがらがる人のために…
今回は「不憫(フビん)」ってことでフビライ=ハンを記憶に刻んでください!!

ただし!
フビライ=ハンは日本には来てません!!
間違えないでくださいね~(汗)



画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞

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1274年 文永の役が起こる [年号のゴロ合わせ]

たいへんご無沙汰しております!
ちょっと別件の仕事に追われておりまして、更新が滞ってしまいました…
では久々のゴロ合わせ、いっきますよーぅ☆

すんごい余談ですが、今回から本文途中のイラストはデジタルに移行しました(液タブ便利!!)。
ただ、ゴロ合わせのイラストは、従来のものとテイストを変えたくないので、
これからもアナログでお届けしていきたいと思いまーす☆

*   *   *

今日は、1274年に起こる文永の役(ぶんえいのえき)を取り上げます。
これは、1281年の弘安の役(こうあんのえき)とセットで覚えなきゃいけないヤツです。

どちらも、元(げん)と高麗(こうらい)を中心とする連合軍が日本を襲撃した事件ですよねー。
2つまとめて、蒙古襲来(もうこしゅうらい)とか、元寇(げんこう)とか呼んだりします。
ちなみに、蒙古ってのはモンゴルのことですよ、念のため。

このときの執権(しっけん)は、8代目の北条時宗(ほうじょうときむね)。
5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)の息子にあたる人物です。



まずは、北条時宗が執権に就任するまでの流れを見ておきましょう。

1256年、病にたおれた5代執権・北条時頼は、執権の座を降りることを決意します。
とはいえ、嫡子(ちゃくし)の北条時宗は、まだ満5歳です。

そこで、北条一族の人間が2代続けて執権をつとめることになるのですが…
彼らはあくまでも北条時宗がオトナになるまでのツナギです。
しかも、病から復活した北条時頼が執権を差し置いて実権を握っちゃうので、もう完全にお飾りです。

てなワケで、6代目と7代目の執権の名前は覚えなくて構いません!
なんか気の毒だけど…ほかに覚えることいっぱいあるんだから2人は覚えなくて構いません!!
(一応、鎌倉時代(3)のプリント右上にある系図のなかに名前は載っています)

そんなこんなで1268年、満16歳となった北条時宗が、ようやく8代執権に就任します。

このときすでに、モンゴル帝国の国書が日本に届いています。
送り主は、ご存知、フビライ=ハンです(ハンというのは、遊牧民の族長が名乗る称号なんだとか)。

*   *   *

1206年、チンギス=ハンがモンゴル高原の遊牧民を統一してつくったモンゴル帝国は、
やがてユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国へと発展します。

1260年、チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハンが即位し、
都を大都(だいと、現在の北京(ぺきん))に遷(うつ)します。
ちなみに、国号を中国風の元(げん)に改めるのは1271年なので、まだ少し先のことです。

このころ、モンゴル帝国は朝鮮半島の高麗(こうらい)をすでに服属させており、
フビライ=ハンはモンゴル帝国の南に位置する南宋(なんそう)の征服を目指しています。

そんなとき、フビライ=ハンに仕えたヴェネツィア(イタリア)の商人・マルコ=ポーロによると、
フビライ=ハンは次のようなウワサバナシを耳にしたんだとか。

「高麗の海の向こうには、屋根も床も窓もぜーんぶ金でできた宮殿があるほど、
 めちゃくちゃ金がとれる島があるらしい」

なにそのウワサバナシ!
チョーー魅力的じゃん!!

その島とは…ハイ、日本です。
まぁ中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)とかあるし、あながちウソじゃないのかな…
(このころ金閣はまだありませんからね!金閣はのちのち室町時代の北山文化で紹介しまーす!!)

とにもかくにも、そんなウワサバナシを聞いちゃ放っておけません。
フビライ=ハンは、ゴールデンアイランド・日本も服属させたいと考えるようになるのです。

*   *   *

これから、文永の役にいたるまでのモンゴル帝国(元)と日本のやりとりを紹介するんですけど、
とにかく長くてややこしいうえに、まっっったく覚えなくてよい部分なので…
もうホントにサラッと読んじゃってください。

サラッと読むべきところは紫色の文字にしてありますので、
サラッといきましょー☆

1266年、フビライ=ハンは日本に宛てた国書を使者に託し、高麗に日本までの道案内を命じます〔1回目〕。

でもさー…のちのちモンゴル帝国が日本を攻めるとなるとさー…
高麗もイロイロ手伝わされそうじゃないですか?

高麗的にそれ、めっっっちゃ迷惑なのヨネー…

てなワケで、「海がすっごい荒れてて日本に渡れない!危ない!!」とかなんとか理由をつけて、
国書は海を渡ることなく、フビライ=ハンのもとに戻ってきます。

フビライ=ハン、ブチギレ。

「次はちゃんと日本に行って、ちゃんと返事をもらって来い!」とフビライ=ハンから念を押され、
国書を携えた高麗の使者は、1268年に大宰府(だざいふ)に到達します〔2回目〕。
国書はすぐさま鎌倉に送られますが、鎌倉幕府はそれを朝廷に転送します。
「古来から外交の窓口は朝廷じゃないか!」というワケです。
これをうけて、朝廷は国書に対する返事をどうするか一生懸命話し合いを続けるのですが…
なんと半年以上たっても答えを出すことができません。
待ちくたびれた高麗の使者は、返事をもらわずに帰ってしまいます。

日本征服という欲望を昂ぶらせるフビライ=ハンは、翌1269年にも使者を派遣します〔3回目〕。
使者たちはいったん対馬にたどり着くものの、島民の妨害にあって先には進めず、
島民の男性2人を拉致(らち)して帰ります。

同年、拉致した2人を日本に送り届けることを名目に、使者が大宰府にやってきます〔4回目〕。
このとき使者が持参した国書の内容は、モンゴル帝国への服属をハッキリと求めるものでした。
朝廷はもちろん服属を拒否する返事を作成しますが、それがどんなワザワイをもたらすか分からないため、鎌倉幕府は返事を使者に渡さないよう朝廷に求めます。
結局、使者たちはまたもや返事をもらえず、手ぶらで帰ってゆきます。

1271年、またまた使者が大宰府にやってきます〔5回目〕。
このときの国書の内容は、「期限までに返事がないなら軍事力にモノ言わすからな!!」という脅迫めいたものでした。
もうそろそろね…ホンマええ加減にしぃやってことですよね…

朝廷は、前回作成した返事にちょっと手直しを加えたものを使者に渡そうとするものの、
ホントにそれでいいのか不安が押し寄せてきて、やっぱり結論を出せません。
てなワケで、とりあえず返事はあとまわしにして、日本から使者を派遣することにします。
日本の使者たちは大都まで赴くものの、フビライ=ハンとの面会は許されず、帰ってきます。

1272年、フビライ=ハンはこれまた使者を派遣しますが〔6回目〕、
またもや返事を手にすることはできません。

ハイッ!
サラッと読むのはここまでです!!
以降はしっかりと読んでください!!!

要するに、フビライ=ハンは日本を服属させようと、6回もチャレンジしてるんですよ!

6回ですよ!6回!!
それなのに、のらりくらりと無視されてばっかなんですよ!!!
国書の既読スルー!!!!
そりゃフビライ=ハンも頭にくるよねーーーーッッ!!!!!

1274-1.jpg

ところで、「元寇起こしたのって、フビライ=ハン?チンギス=ハン??ん?どっち??」って分かんなくなることありません?
ここは「不備」ってことで、フビライ=ハンだと覚えちゃいましょーう ♪

ちなみに、このころの東アジアの情勢はどうなっているのかというと…
高麗は元に服属中ですが、高麗の軍隊である三別抄(さんべつしょう)は抵抗を続けており、
1273年に三別抄の乱(さんべつしょうのらん)を起こすも元・高麗連合軍に鎮圧されています。
南宋は長きにわたる元との戦いに敗北し、もう抵抗する力はほとんど残っていません。
そんな状況です。

つまり!
フビライ=ハンにとって、日本征服に集中できるタイミングがやってきたのです!!

こうして文永11年(1274年)に起こるのが、文永の役です。

手始めに、フビライ=ハンは船を300隻つくるよう高麗に命じます。
ウワーッ!やっぱり手伝わされるんやーん!!ホンマ迷惑なんですけどぉー…て感じですが、
元に服属している以上、高麗は必死でそれを作り上げるしかないのです。

*   *   *

このような動きに対して、8代執権・北条時宗は防御体制の強化に乗り出します。

1271年、九州に所領をもつ御家人に対し、現地に行って非常事態に備えるよう命じます。
さらに翌1272年には、九州に住む御家人に対し、元が攻めてくるならココらへんだなと想定される地域、
すなわち筑前(ちくぜん)や肥前(ひぜん)、博多湾などを交代で警備するよう命じます。
これを異国警固番役(いこくけいごばんやく)といいます。

これ、漢字気をつけてくださいね!
「警護」ではありません、「警固」です!!
誰かを護(まも)るんじゃなくて、場所を固(かた)めるんですよー。

*   *   *

1274年10月3日、元と高麗の連合軍およそ3万人(人数については諸説アリマス)が、
高麗が作った例の船などに乗って朝鮮半島を出発します。
そして、10月5日に対馬を、10月14日に壱岐を襲います。
いずれの島でも島民は必死に抵抗しますが、たくさんの人が命を落としてしまいます。
なかには、手のひらに穴をあけられ、そこにヒモを通されて船に結びつけられる女性もいたんだとか。
また、生け捕りにされた人も多く、その人たちは捕虜(ほりょ)として大陸に連行され、
エラい人々に労働力として献上されたものと思われます。

壱岐をあとにした元・高麗連合軍は、九州の沿岸部やいくつかの島を攻撃しながら移動し、
ついに10月20日、博多に上陸します。
迎え撃つのは、九州に集結した御家人たちです。

当時の御家人は、開戦の合図としてものすごく音の出る鏑矢(かぶらや)を射るのをルールとしています。
ルールにのっとった戦いを美徳とする御家人は、上陸してきた元・高麗連合軍に対しても、もちろんこれをおこないます。
すると…

元・高麗連合軍、大爆笑!
元にも高麗にも、そんなルールはないのです!!
御家人たちは、なぜ笑われているのか分からず戸惑います。

そんななか、元・高麗連合軍がドラや太鼓を打ち鳴らして大きな声をあげるもんだから、
御家人たちも、御家人を乗せている馬たちも、超ビックリです!

あまりにも戦い方が違うんです!!

御家人たちの戦い方は、一騎打ち(いっきうち)が基本です。
まずは「やぁやぁ!我こそは○○国××に住む、姓は□□、名は△△…」的な感じで、
お互いに名前や家柄・身分などを声高らかに自己紹介してからタイマンをはるんだとか。

かたや、元・高麗連合軍の戦い方は、対象を大勢で攻撃する集団戦法(しゅうだんせんぽう)が基本です。
攻撃や退却などの指示は、遠くまで聞こえるようドラや太鼓の音でもっておこなうんだとか。
それはもちろん、御家人が自己紹介中でもお構いナシです!

日本の特撮モノとかって、ヒーローが変身してても、キメポーズしてても、ロボが合体してても、
一連の動作が終わるまで敵は律儀に待っててくれるじゃないですか!!

そんなこと、元・高麗連合軍は知らないんですよ!
だから待ってくんないんですよ!!
そもそも言葉が通じないから、自己紹介されてもナニ言うてるのか分かんないんですよ!!!

1274-2.jpg

さらに元・高麗連合軍は、毒をぬった矢を射ってきたり、
「てつはう」と呼ばれる20cmほどのボール状の爆弾を投げてきたりします。

御家人たちからすると、もうオドロキの連続です!
それでも肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)をはじめ、
御家人たちは元・高麗連合軍に必死に立ち向かいます!!
(ただし、御家人たちも集団戦法をとっていた、という説も近年提唱されています)

その様子を描いたのが、教科書でもおなじみのこの場面です。
馬に乗った竹崎季長が、元・高麗連合軍相手に奮闘する様子が描かれています。
てつはうが爆発している様子も見て取れますねー。
1274-3.jpg
「蒙古襲来絵巻」(もうこしゅうらいえまき)とか、
「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)と呼ばれるこの絵巻物については、
鎌倉時代(6)のまとめプリントと鎌倉文化のところで触れたいと思います。

やがて日が暮れたため、お互い戦闘を休止します。

そして夜が明けてみると…

なんと!
海に元・高麗連合軍の船がないのです!!
すっかり消えているのです!!!

これについて、
暴風雨に遭って元・高麗連合軍の船が沈んでしまった、とか、
元・高麗連合軍のなかで仲間割れが起こったため帰ってしまった、とか、
日本が想像以上に強くて、海の向こうから武器や援軍をすぐに補充できない元・高麗連合軍は、戦闘の継続を諦めた、とか、
御家人たちの実力をさぐるための威力偵察だった、とか、
さまざまな説が唱えられています。
なお、1274年10月20~21日は、いまのカレンダーだと11月末にあたるので、台風が原因という可能性は低そうです。

とにかく!
元・高麗連合軍が消えちゃったので!!
なんかよく分かんないけど!!!
文永の役は日本の勝利で終わったのですーーーッッ!!!!

ちなみに、この時代は情報の伝達にものっっすごい時間を要します。
文永の役に日本が勝利したころ、鎌倉幕府は対馬が襲撃されたことを知ったばかりで、
元・高麗連合軍の九州上陸に備えて、鎌倉から誰をリーダーにして軍勢を送るか、という議論をしておったようです。

いや、もう終わってるよーーーッ!
元・高麗連合軍に勝ったんよーーーーッッ!!
って、すっごい教えてあげたくなりますよね!!!

結局、鎌倉幕府が文永の役の勝利を知ったのは、11月に入ってからでした。
タイムラグハンパねぇーーーッッ!!(笑)

とにもかくにも日本が勝ったので、
鎌倉幕府は命懸けで戦ってくれた御家人たちにゴホウビを与えなければなりません。

でもねー…
これが正直キビシイのです…

普通はね、戦いに勝ったら相手の所領とかなんやかんやが手に入るので、
それを頑張った御家人たちにゴホウビとして与えられるんですよ。

しかし今回は…
元・高麗連合軍が海の向こうから攻めてきて、消えちゃったので…
勝利したとはいえ、御家人たちのゴホウビになるようなものを何も得られていないのです。

さらに、いつまた元・高麗連合軍が攻めてくるか分からないので、
異国警固番役をちゃんと制度化して強化し、
博多湾沿いに石を積んで防塁(ぼうるい、防御用のカベ)をつくるよう命じます。
このカベを石塁(せきるい)とか石築地(いしついじ)と呼びます。

さぁ果たして!
元・高麗連合軍は再び襲来するのか!!

来るよ!!!

てなわけで、次回は1281年の弘安の役をお届けします。

最後にゴロ合わせを載せておきますね-。

1274年.jpg

往ぬ(いぬ)って言葉、分かります?
関西では「立ち去れ!」って意味で「往ね!」という言葉を使ったりします(ワカモノは使わない)。

現代ではなじみのない言葉かもしれませんが、古典で習いますよね!
「な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね」って覚えるナ行変格活用!略してナ変!!それそれ。
「帰ってほしい!」ってことで「往になよ」と覚えてください。

あと、てつはう・集団戦法・毒をぬった矢、という元・高麗連合軍の情報も盛り込んでおきました☆

次回の更新は、なるべく早く!お届けできたらいいなぁ…
いつものろのろですみません…



参考文献
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞

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1249年 引付衆を設置する [年号のゴロ合わせ]

今日は、1249年に設置される引付衆(ひきつけしゅう)を、ゴロ合わせとともにお届けします。



鎌倉幕府は1232年に御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定しますが、
所領に関するモメゴトはあとをたちません。

そこで1249年、5代執権(しっけん)の北条時頼(ほうじょうときより)は、
御家人たちの所領に関する裁判が迅速に公正におこなわれるよう、
評定衆(ひょうじょうしゅう)のもとに引付(ひきつけ)という組織をつくります。

引付を構成するのは、次の3つの役職です。
・頭人(とうにん)…リーダー、1名、評定衆から選出
・引付衆…数名、うち2~3名は評定衆から選出
・引付奉行人(ひきつけぶぎょうにん)…書記、数名

このメンバーで1つの引付チームがつくられ(チーム数は時代によって変わります)、
それぞれのチームで、以下のような手順で訴訟の審理にあたります。

1249-1.jpg

図の左上の方、「スタート」と書いてある場所から見ていきましょう。

訴えたいことがある人は、はじめに問注所へ訴状(そじょう)を提出します。
訴え出た人、つまり原告(げんこく)を、訴人(そにん)と呼びます。

問注所は、訴状を審査し、
その内容が御家人の所領にまつわるものであれば、引付奉行人にまわします。
(借金や土地の売買などにまつわる訴状は、そのまま問注所で扱います)

訴状を受け取った引付奉行人は、「こんな訴状が届きましたよー」と訴えられた人に書面で通達します。
訴えられた人、つまり被告(ひこく)を、論人(ろんにん)と呼びます。

論人は、訴状に対する反論をしたためた陳状(ちんじょう)を引付奉行人に提出すると、
引付奉行人は、「こんな陳状が届きましたよー」と訴人に書面で通達します。

すると、訴人は陳状に対する反論をしたためた2通目の訴状を引付奉行人に提出し、
論人は2通目の訴状に対する反論をしたためた2通目の陳状を引付奉行人に提出します。

するとすると、訴人は2通目の陳状に対する反論をしたためた3通目の訴状を引付奉行人に提出し、
論人は3通目の訴状に対する反論をしたためた3通目の陳状を引付奉行人に提出します。

てな感じで、書面によるやりとりが訴人と論人それぞれ3回ずつ行われるので、
これを三問三答(さんもんさんとう)と呼びます。

三問三答が終わると、いよいよ直接対決です。
引付から召文(めしぶみ)という呼出状が届くと、
訴人と論人はそれぞれ引付に出頭し、引付衆らのもと口頭弁論をおこないます。

引付は、これらをふまえて判決原案を作成し、評定におくります。
そして、評定が最終的な判決をくだすと、
図の「ゴール」のところにあるように、引付から勝訴人に判決書が届けられます。

以上が引付による訴訟審理の手順です。
ちなみに、引付がつくった判決原案が、評定でくつがえることはありません。
だって、引付の頭人と引付衆の数名は評定衆のメンバーですからねー。

細かいことをイロイロ書きましたが、要するに、

めちゃくちゃ多い御家人の所領にまつわるモメゴトを“なるはや”でさばくため、
北条時頼は専門機関として引付(引付衆はそれを構成するメンバー)をつくった

とゆーことです。

それでは最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1249年.jpg

なかなか判決出なかったら胃に悪いもんね~…



次回は、鎌倉時代(4)のまとめプリントをアップします!

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1247年 宝治合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、三浦泰村(みうらやすむら)が滅ぼされる宝治合戦(ほうじがっせん)を取り上げます。
宝治合戦でキーとなるのは、三浦氏(みうらし)・安達氏(あだちし)・北条氏(ほうじょうし)の3つの一族です。
では、順番に見ていきましょう~。



まずは三浦氏です。

三浦泰村のおじいちゃんである三浦義澄(みうらよしずみ)は、
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で功績をあげるなど、
古くから源頼朝(みなもとのよりとも)と主従関係を結んでいた人物です。
源頼朝の死後は、十三人の合議制のメンバーにも選ばれています。
鎌倉時代(3)のプリントで確認してみてください、いますよ!)

三浦泰村のお父さんは、
娘が北条泰時(ほうじょうやすとき)と結婚して長男を産んだため、
北条氏の外戚(がいせき)となって力をのばします。
梶原景時(かじわらかげとき)・畠山重忠(はたけやましげただ)・和田義盛(わだよしもり)などなど、
有力御家人の死にもことごとく関わっている人物です。

このように、三浦氏は代々鎌倉幕府の有力御家人として活躍しており、
三浦泰村もまた、1225年に設置される評定衆(ひょうじょうしゅう)のメンバーに選ばれます。
さらに、4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)、または九条頼経(くじょうよりつね)とも親密な関係を築き、北条氏に匹敵しうる一族として存在感を高めてゆきます。

*   *   *

次に安達氏です。

安達景盛(あだちかげもり)も、古くから源頼朝と主従関係を結んでいた人物です。
3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の死をきっかけに、出家して高野山(こうやさん)に入るものの、
ことあるごとに鎌倉幕府にがっつり顔を出してくるおじいちゃんです。

承久の乱(じょうきゅうのらん)のときも、わざわざ鎌倉にやって来て、
あの北条政子(ほうじょうまさこ)の演説を代読した、とも伝わっています。

宝治合戦のきっかけをつくった人物ですが、
教科書的には覚えなくてよい名前なので、ここでは“安達おじいちゃん”と呼んでおきます。

安達氏も有力御家人の一族ですが、三浦氏には及ばない、といったところです。
安達おじいちゃんは、そんな三浦氏をライバル視しています。

*   *   *

ラストはご存知、北条氏です。

このころの執権(しっけん)は、3代執権・北条泰時の孫である、
5代目の北条時頼(ほうじょうときより)です。

北条時頼は、北条泰時の孫という点が注目されがちですが、
彼のお母さんは安達おじいちゃんの娘なので、実は安達おじいちゃんの孫でもあります。

しかも、お母さん側のおじいちゃんなので…

そうです!
安達おじいちゃんは北条時頼の外戚なのです!!
それなのに、安達氏は三浦氏より格下扱いされていて、安達おじいちゃんはご立腹です。

さて、そんなおじいちゃんズをもつ北条時頼は、
お兄ちゃんである先代の執権・北条経時(ほうじょうつねとき)の死を受けて、
1246年に満18歳という若さで5代目の執権に就任します。

するとねー、ワカゾーだからってナメられるんですよ!

お兄ちゃんが満19歳で4代執権になったときも、それはそれはもうナメられました。
執権がワカゾーであるのをいいことに、
反北条の御家人たちが、4代将軍・藤原頼経のもとに集うようになったのです。

よって1244年、北条経時は藤原頼経を将軍の座から引きずり下ろし、
わずか満4歳の息子、藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)、または九条頼嗣(くじょうよりつぐ)を5代将軍としたのです。

ワカゾーだからってナメんなよ!って話です。

しかし、その2年後にワカゾー執権の北条経時がこの世を去り、
またもやワカゾーの北条時頼が執権に就任します。

すると、鎌倉で“大殿(おおとの)”なんて呼ばれて慕われていた前将軍・藤原頼経は、
再び反北条のシンボルとしてかつがれるようになるのです。

これに気付いた北条時頼は、なんと藤原頼経を京都に強制送還し、
彼の周辺にいた反北条の御家人たちも処分してしまいます。

ワカゾーブラザーズをなめんなよ!って話です。

ただし、このとき北条時頼は三浦氏を処分していません。
三浦泰村は古くから藤原頼経と親密な関係にあり、
また彼の弟も、反北条のリーダー的存在として藤原頼経のそばにいたのに…です。

北条時頼は、古参の有力御家人である三浦氏とモメたくなかったのかもしれません。

とにもかくにも、これによって反北条勢力のほとんどが排除されたため、
北条氏は執権としての地位を確固たるものとするのです。

*   *   *

さぁ、ではこの3つの一族によって引き起こされる宝治合戦を見ていきましょう。

1247年、宝治元年(ほうじがんねん)になると、怪異(かいい)が頻発します。
怪異とは、よからぬことが起きる前触れとも捉えられる怪奇現象のことなのですが、
このときは、鎌倉でアリとか黄色いチョウチョとかが大量発生したり、
謎の飛行物体が目撃されたり、海が赤く染まったりします。

なにかが起こりそうでみんながソワソワするなか、
安達おじいちゃんが久しぶりに高野山をおりて鎌倉にやってきます。

安達おじいちゃんは、孫の北条時頼や、安達家の息子や孫たちが、
三浦氏に気を遣ってそこそこ仲良くしているのが許せなくって、彼らを叱りに来たようです。

でもネー…
全然響かなかったんですネー…

だって、北条時頼も安達家の人たちも、三浦氏とモメたくないんですもん。

するとあるとき、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に、
「三浦泰村は近いうちに討たれるであろう~~~」
なんてゆー予言めいた看板が立てられます。

この看板、一体ダレが立てたのでしょうか…

えっ?
安達おじいちゃんじゃないの??

イヤイヤ、ウン、真相は不明です。

看板のこともあって三浦泰村との関係は一時不穏になりかけますが、
北条時頼はなんとか丸くおさめます。

それなのにぃーーーーーーッッ!

そんな孫の態度に業を煮やした安達おじいちゃんは、
ついに安達氏の孫である安達泰盛(あだちやすもり)に、三浦泰村の屋敷を襲撃させてしまいます!!

こうなったら北条時頼も引くに引けません。
やむなく三浦泰村討伐の命を出すのです。

屋敷のまわりに火をかけられた三浦泰村は、
三浦氏の一族や前将軍・藤原頼経をしたう者たちとともに、源頼朝のお墓までのがれます。
そこに、反北条のリーダー的存在として抵抗を続けていた弟も合流し、みんなで自害します。
その数は500名を超えたのだとか…

1247-1.jpg

このとき、三浦泰村の弟は、自分の首が北条氏や三浦氏の手にわたらないよう、
誰か分からなくなるまで自らの顔を切り刻んだと伝わっています。
三浦泰村からは、「源頼朝のお墓にあるものに血が飛ぶからやめなさい!」とたしなめられたそうな。

そんな三浦泰村は、
「代々鎌倉幕府に仕えてきた三浦氏なのに、事実ではない事柄によって滅ぼされるという辱めを受け、恨みと悲しみは深い。父は有力御家人の死にことごとく関わり、罪業(ざうごう)を負ったため、これはその報いなのであろう。これから死にゆく身なので、もはや北条氏に恨みはない」
などと言い残したそうです。

イヤ、恨んでるよね…
ウン、まぁ恨むよね、フツーね。

この1247年の宝治合戦によって、三浦氏の一族と将軍家をしたう反北条の御家人たちが一掃され、
北条時頼の独裁体制が確立するのです。

それでは、今日のゴロ合わせ。

1247年.jpg

法事(ほうじ)と宝治(ほうじ)をかけてみましたが、
漢字、間違えて覚えないでくださいね!!

北条時頼は丸くおさめようとしているのに、
安達おじいちゃんが2DAYS法事という挑発をしてきて苦しむ三浦泰村、ってな感じです。
なんじゃそりゃ!!(笑)



次回は、1249年に設置される引付衆(ひきつけしゅう)を、
ゴロ合わせとともにお届けします。

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1232年 御成敗式目を制定する [年号のゴロ合わせ]

1224年、2代執権(しっけん)の北条義時(ほうじょうよしとき)が急死し、
かわって息子の北条泰時(ほうじょうやすとき)が執権に就任します。
彼こそが、1232年に御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定する人物です。

いつも思うんですけど…
ゴセイバイシキモクって…
なんかカッコイイ響きですよね☆(笑)

今日は、そのなんかカッコイイ御成敗式目を解説してゆきます。
史料もいっぱいで大変ですが、頑張っていきましょー!
最後にゴロ合わせもありますよ ♪

*   *   *

日本史史上はじめての武家政権である鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、
源頼朝(みなもとのよりとも)によって相模国(さがみのくに)の鎌倉にひらかれます。

といっても、最初は鎌倉を中心とする東日本にしか、その支配権は及びません。
遠く離れた西日本には、まだまだ朝廷の支配権が根強く残っているからです。

しかし1221年、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が起こした承久の乱(じょうきゅうのらん)に勝利した鎌倉幕府は、その支配権を全国へと広げることに成功します。

するとねー、色んなところでモメゴトが起きまくるんですよ!
このころヒドい飢饉(ききん)も起きちゃって、ホントにモメゴトが起きまくるんですよ!!

それらを解決するには、きちんとした法律が必要なんですけど…

ないんです!

法律が!!

鎌倉幕府が成立してから50年が経とうというのに…

ないんです!!!

これまでは、京都から招いたお公家さん、
たとえば大江広元(おおえのひろもと)とか三善康信(みよしのやすのぶ)とかから、
律令や朝廷におけるルールなんかを教えてもらいつつ、
「武士的にはこうだから!」みたいな感じで、なんやかんやを片付けてきたようなのですが…

もうそれじゃアカンのです!
ちゃんとした成文法(せいぶんほう、文章化された法律のこと)をつくって、
ちゃんとモメゴトを解決してゆかんとアカン時期にきているのです!!

1232-1.jpg

そんなワケで1232年、3代執権の北条泰時が御成敗式目を制定します。
1232年は貞永元年(じょうえいがんねん)なので、貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼びます。

全51ヶ条からなるこの鎌倉幕府の基本法は、日本ではじめてつくられた武家法(ぶけほう)です。
武士がつくったはじめてのちゃんとした法律、とゆーことです。

内容は、御家人の権利・義務や所領にまつわる規定がほとんどです。
つまり、このころそういうことでモメゴトが起きまくっていて、
それらを解決するために御成敗式目が制定されたというワケです。

ちなみに御成敗式目は、室町幕府も基本法とするなど、長いあいだ継承されます。
時代が進むにつれて足りない部分が出てきた場合は、
式目追加(しきもくついか)などの追加法を出して補っています。

*   *   *

北条泰時は、このころ六波羅探題(ろくはらたんだい)である弟の北条重時(ほうじょうしげとき)に送った手紙のなかで、御成敗式目制定の目的なんかを語っています。

ではその手紙を史料で見てみましょう!
今日はたくさん史料をみてゆくので、
史料(紺色の文字)→空欄にあてはまる語句→口語訳→ちょっとした解説
の順で書いていきますね☆

(前略)さてこの式目(〔1   〕のこと)をつくられ候(そうろう)事は、なにを本説(根拠となるもののこと)として注(ちゅう)し載(の)せらるるの由(よし)、人(とくに朝廷の人々をさす)さだめて謗難(ぼうなん、非難すること)を加ふる事候か。ま事(まこと)にさせる本文(漢籍などで典拠となった文章のこと)にすがりたる事候はねども、たゞどうり(〔2   〕のこと)のおすところを記され候者也。(中略)この式目は只かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人へのはからひ(考慮すること)のためばかりに候。これによりて、京都の御沙汰、律令のおきて、聊(いささか)もあらたまるべきにあらず候也(以下略) (貞永元年九月十一日付 北条重時宛て北条泰時書状)
  1…御成敗式目(貞永式目)
  2…道理(どうり、武家社会の慣習や道徳のこと)
さて、この御成敗式目(貞永式目)をつくったことについて、なにを根拠として書いたのかと、人々(とくに朝廷の人々)はきっと非難するだろう。確かにこれといった典拠はないが、ただ武家社会の慣習である道理でおしはかるところを書いたのだ。(中略)この式目は、ただ仮名だけを知っているだけの者が世間には多いので、ひろく人々に理解しやすいように、そうした武家の人々への考慮のためにつくったのである。この御成敗式目によって、京都の朝廷の命令や律令の規定は少しも変更されるものではない。(以下略)

この手紙から、御成敗式目は「武士的にはこうだから!」(これを道理と呼びます)ってのを、
分かりやすく文章化した法律だってことが分かりますね。

あと、下線部分から、朝廷の命令や律令の規定はそのまんまでオッケー◎ということも分かります。
公家法(くげほう、朝廷の定めた法律のこと、律令の規定を引き継ぐものが多い)や、
本所法(ほんじょほう、不輸・不入の権(ふゆ・ふにゅうのけん)によって国司の支配から独立した荘園が、独自に制定した法のこと)を否定するのではなく、
それらの存在を認めたうえで、御成敗式目は制定されているのです。

つまり、
武士には御成敗式目という武家法が、
朝廷の支配下には公家法が、
荘園領主のもとではそれぞれの本所法が適用される、
というワケです。

ただし、武家政権が力をつけるにつれ、
公家法や本所法のおよぶ地域にも、やがて武家法が影響を与えるようになってゆきます。



次に、御成敗式目全51ヶ条のうち、その一部を史料で見ていきましょう!

【3条目】
一、諸国〔3   〕人奉行(ぶぎょう、職務・権限のこと)の事
右、右大将家(うだいしょうけ、〔4    〕のこと)の御時(おんとき)定め置かるる所は、大番催促(おおばんさいそく)・謀叛(むほん)・殺害人(せつがいにん)(下線部分をまとめて〔5   〕という)〈付(つ)けたり夜討・強盗・山賊・海賊〉等の事なり。而(しか)るに近年、代官を郡郷(ぐんごう)に分(わか)ち補(ほ)し、公事(くじ、年貢以外の雑税と夫役のこと)を庄保(しょうほ、荘園と公領の構成単位である保のこと)に充(あ)て課(おお)せ、〔6   〕に非(あら)ずして国務を妨(さまた)げ、〔7   〕に非ずして地利(ちり、その土地から生じる収益のこと)を貪(むさぼ)る。(以下略)
  3…守護
  4…源頼朝(1190年に右近衛大将(うこのえたいしょう)に就任)
  5…大犯三カ条(だいぼんさんかじょう、大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕のこと)
  6…国司
  7…地頭
一、諸国の守護の職掌の事
これについて、源頼朝の時代に定められたのは、大番催促、謀叛人・殺害人の逮捕〈夜討・強盗・山賊・海賊を付け加える〉などのことである。ところが近ごろ、守護は代官をそれぞれ郡や郷に配置し、公事を荘園や公領に割り当て、国司でもないのに国務の遂行をさまたげ、地頭でもないのに土地からの収益をむさぼっている。(以下略)

最近、国司みたいなことをしたり、地頭みたいなことをしている守護がいるけど、
源頼朝の時代に定められた通り、守護の任務は大犯三ヶ条だけだから!と定めています。

【5条目】
一、諸国〔7   〕、年貢所当(しょとう、年貢と同じこと)を抑留(よくりゅう)せしむる事
右、年貢を抑留するの由(よし)、本所(ほんじょ、荘園領主のこと)の訴訟(そしょう)有らば、即(すなわ)ち結解(けちげ、決算のこと)を遂(と)げ勘定(かんじょう、監査のこと)を請(う)くべし。(以下略)
一、諸国の地頭が年貢をおさえとどめている事
このように、地頭が農民からの年貢をおさえとどめているとのこと、本所から訴えがあれば、ただちに決算をして、本所の監査を受けよ。(以下略)

荘園領主である本所から、年貢の横領などにより地頭が訴えられた場合、
地頭はすぐに本所の監査をうけて問題を解決するように、と命じています。
ちなみに、これに応じない地頭は、地頭の権利を剥奪されてしまいます。
荘園領主のもとでは本所法が効力をもつ、ということがよく分かりますね~。

【8条目】
一、御下文(おんくだしぶみ、幕府が出す本領安堵(ほんりょうあんど)・新恩給与(しんおんきゅうよ)の下文のこと)を帯(お)ぶると雖(いえど)も知行(ちぎょう、事実上の支配のこと)せしめず、年序(ねんじょ、相当期間の年数のこと)を経(ふ)る所領の事
右、当知行の後、廿(20のこと)ヶ年を過ぐれば、大将家(だいしょうけ、〔4   〕のこと)の例に任せて理非を論ぜず改替(かいたい)に能(あた)はず。(以下略)
一、御下文を持っているにもかかわらず、事実上の支配をおこなわないまま所定の年数を経た所領の事
これについては、現実に支配したあと、20年を過ぎた場合には、源頼朝の時代の慣例により、権利の正当性にかかわらず、現在その所領を支配している者をやめさせることはない。(以下略)

ほったらかしにしていた土地は、たとえ本領安堵や新恩給与の下文を持っていても、
20年以上その土地を実効支配する人が別にいれば、その人のものになる、と定めています。
この20年という数字は、のちのち永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)で出てきますよ~!

【23条目】
一、女人(にょにん)〔8   〕の事
右、法意(ほうい、律令の規定・解釈のこと)の如(ごと)くばこれを許さずと雖(いえど)も、大将家(〔4   〕のこと)御時以来当世(とうせい)に至るまで、其の子無(な)きの女人等、所領を〔8   〕に譲り与ふる事、不易(ふえき)の法(後世に変わらぬ法のこと)勝計(しょうけい)すべからず(数えきれない)。(以下略)
  8…養子
一、女性が養子をとる事
これについては、律令の規定・解釈では許されないが、源頼朝のときから現在にいたるまで、子どものいない女性が所領を養子に譲り与えるという事例は、後世に変わらぬ法として数え切れないほどある。(以下略)

律令では認めていない、子どものいない女性が養子をとること、そしてその養子に所領を相続させることを認めています。
鎌倉時代は、女性も地頭に任命される時代ですからね~。

*   *   *

今日はたくさん史料を読みましたね~、お疲れさまでした!!

史料から読み取ることができますが、御成敗式目は、
 ◎源頼朝以来の先例(せんれい、昔からの慣習のこと)
 ◎武家社会の道理
この2点を基準につくられています。

「源頼朝の時代からこうだから!」「武士的にはこうだから!」ってのを成文化したとゆーことです。
先例と道理、この2つのキーワードはしっかりと覚えておきましょう☆

あと、とにかく史料中の「右大将家」・「大将家」はダレでしょう?という問題がよく出るので、
覚えておいてくださいね~!!

では最後にゴロ合わせを載せて終わりにしましょう。

1232年.jpg



次回は、1247年の宝治合戦(ほうじがっせん)を、ゴロ合わせとともにお届けします。

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1221年 承久の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、有力御家人が次々と消えてゆくなか、北条氏が権力を独占してゆく流れをまとめました。
今日は、そんな北条氏に対して後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が起こした承久の乱(じょうきゅうのらん)を、ゴロ合わせとともにお届けします。



後鳥羽上皇が天皇の座についたのは、
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のまっただなかである1183年のことです。

天皇の即位には、正当な天皇の証である三種の神器(さんしゅのじんぎ)を必要とするのですが、
このとき、平氏&安徳天皇(あんとくてんのう)とともに都落ち(みやこおち)の真っ最中。
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、やむなく三種の神器なしで即位します。

朝廷がとくに伝統と儀式を重んじる世界であるがゆえに、
このことは後鳥羽天皇にとって強烈なコンプレックスになったと考えられます。
壇の浦の戦いで海に沈んだとされる剣(三種の神器の1つ)の捜索も再三おこなっています。

1198年、息子の土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲位した後鳥羽上皇は、
院政(いんせい)を開始し、朝廷をパワーアップさせるべく改革に乗り出します。

たとえば、さまざまな皇族がそれぞれに所有していた荘園を、
後鳥羽上皇やその子どもたちのもとに集め、経済的基盤の強化をはかります。

また、これまでの北面の武士(ほくめんのぶし)にくわえ、
あらたに西面の武士(さいめんのぶし、西面武士と書いてもOK!)を創設し、
朝廷の軍事力の強化にもつとめます。

どちらも上皇や院御所(いんのごしょ)の警備に当たるガードマンで、
院御所の北側に組織されたのが北面の武士、西側に組織されたのが西面の武士です。
西面の武士の多くは、御家人(ごけにん)であったようです。

三種の神器なしで即位した、というコンプレックスを克服するかのように、
後鳥羽上皇は朝廷勢力の挽回(ばんかい)をめざして奔走するのです。

*   *   *

清和源氏(せいわげんじ)の源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉で武家政権を樹立して以来、
東国では鎌倉幕府による支配が浸透してゆきます。
とはいえ、畿内(きない)・西国ではまだまだ朝廷の勢力が根強く、
西日本は朝廷が、東日本は鎌倉幕府が、それぞれ支配するよーな体制が続きます。

とはいえ、
清和天皇(せいわてんのう)の血をひく将軍が鎌倉幕府を率いている、ということもあってか、
両者はなかなかイイカンジの関係を築きます。
鎌倉幕府第3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)なんて、
後鳥羽上皇から「実朝」の名前を決めてもらってるくらいですからねー。

ところが!
1219年、その源実朝が亡くなります!!

雪が降り積もる鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、
第2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)の息子である公暁(くぎょう)によって暗殺されるのです。

そういえば、源頼家ってヒドい亡くなり方をしましたもんね…(詳しくはコチラ
公暁が父の仇(かたき)を討とうと考えるのも、無理ないことかもしれません…

1221-1.jpg

このとき公暁は、源実朝と一緒にいた執権(しっけん)の北条義時(ほうじょうよしとき)も殺害します。

ところが!
なんとその人物は北条義時ではなかったのです!!
北条義時は直前に体調不良をおこしたため、別の人物が源実朝に付き添っていたんだとか!!!

すっごいタイミングで体調不良おこしたもんだよネー…
おかげで北条義時は命拾いします。

源実朝には子どもがいなかったため、
北条義時は、後鳥羽上皇の息子を鎌倉幕府の第4代将軍に迎えようとします。

これを!
後鳥羽上皇は!!
拒否するのです!!!

エェッ!?
いままでイイカンジの関係だったのにッッ!!??

仕方なく、鎌倉幕府は源氏と血のつながりがあって、しかもヨイ家柄にある将軍候補者を探します。
その結果、摂関家のなかから源実朝のすんごーーーーい遠い親戚にあたる、
藤原頼経(ふじわらのよりつね)という人物を見つけ出すのです。
姓だと藤原頼経で、名字だと九条頼経(くじょうよりつね)です(姓と名字の違いはコチラ)。

でもね…
彼、まだ満1歳なんですよ…

そこで鎌倉幕府は、藤原頼経を未来の将軍として鎌倉に迎えつつ、
彼が元服(げんぷく)するまでは北条政子(ほうじょうまさこ)がその代役をつとめ、
北条政子の弟である執権の北条義時が補佐することにしたのです。
北条政子が尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれるのはこのためです。

尼(あま)とは、出家(しゅっけ)した女性を意味します。
このころ、旦那さんが亡くなると、奥さんは出家することが多く、
北条政子も旦那さんである源頼朝の死にともない出家して、尼さんになっています。

ちなみに、北条政子って白い頭巾(ずきん)をかぶっているイメージがありませんか?
あれは、出家する際に短くした髪を隠すようにかぶるものなんだそうです。
今後、ブログに白い頭巾をかぶった女性が登場したら、尼さんだと思ってくださいね~!

*   *   *

将軍の跡継ぎ問題を1つのきっかけに、朝廷と鎌倉幕府の関係はどんどん悪化してゆきます。

やがて後鳥羽上皇は、天皇の血をひくでもないのに鎌倉幕府を支配する北条氏をたおし、
(北条氏は、桓武平氏(かんむへいし)の流れを汲む、と自称してはおりますが…)
朝廷を本来の姿、すなわち全国を支配する統一政権に戻したいと考えるようになります。
これも例のコンプレックスが影響しているのでしょうかねぇ…

後鳥羽上皇の息子である順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、これに賛同します。
なんてったって彼は、『禁秘抄』(きんぴしょう)という本に朝廷の儀式などを詳しくまとめたりして、
朝廷のスゴさを熱心にアピールしてきた人物です。
さっそく息子の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、満3歳)に譲位して、来たるべき日に備えます。

しかし、土御門上皇(つちみかどじょうこう)をはじめ、
朝廷では後鳥羽上皇の考えに反対する意見も多く見られます。

土御門上皇は、お父さんの後鳥羽上皇とはちがって、すごくのほほんとした性格だったようです。
天皇だったころ、後鳥羽上皇から「そんな性格では鎌倉幕府にナメられる!」と怒られ、
弟の順徳天皇に譲位させられた、という過去をもつほどです。

そんな土御門上皇に二人を止められるハズがなく、
後鳥羽上皇&順徳上皇(じゅんとくじょうこう)親子はついに立ち上がります!

1221年5月、北面の武士・西面の武士をはじめ、たくさんの兵を集めたうえで、
北条義時追討の院宣(いんぜん)を出すのです!!

これにより、北条義時は朝廷から追われる身、すなわち朝敵(ちょうてき)となります。

日本史史上、朝敵になるというのは本当にもうドえらいことなんですよ!
朝廷から敵認定されるなんて、人生においてあってはならんことなんですよ!!

とゆーわけで、

朝敵の北条義時に味方するヤツなんて誰もいないんじゃね?
いやもう北条義時なんて一瞬で追討されちゃうんじゃね??

と、後鳥羽上皇はドーンと構えます。

一方、鎌倉の御家人たちは超パニックです。

「いざ鎌倉!」って鎌倉幕府のもとに駆けつけたら自分も朝敵になっちゃうかもしれないし、
かといって、恩のある鎌倉幕府を見捨てて朝廷に駆けつけるのもどうかと思うし…
もうマジでどうしたらいいんか分からん!と、みんなうろたえます。

すると!
そんな御家人たちの前に!!
尼将軍・北条政子が立ち塞がります!!!

そして、

亡き源頼朝さまのおかげで、あなたたちの地位は上がり、土地も増えました。
あなたたちが源頼朝さまからうけた御恩は、山よりも高く、海よりも深いのです。

と、源頼朝から施された恩のスゴさを説き、
いまこそそれに報いるべきであることを涙ながらに訴えるのです!!!!

1221-2.jpg

てゆーか、朝敵になったの北条義時だよね?源頼朝の恩と関係なくね??と突っ込みたくなりますが、
鎌倉の御家人たちは、北条政子の演説に心を動かされ、立ち上がります!

北条義時の息子である北条泰時(ほうじょうやすとき)と、
北条義時の弟である北条時房(ほうじょうときふさ)によって率られた軍勢は、
およそ19万騎にもふくれあがり、京へと押し寄せるのです!!

んもう後鳥羽上皇チョービックリですよ!
院宣を無視して大軍が京に攻めのぼってくるなんて、まったくの想定外です!!

あわてて迎撃の準備をするものの、もちろん間に合うワケがありません。
朝廷は大敗を喫し、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を取り消すのです。

*   *   *

では、承久の乱の結果をみていきましょう。

①3人の上皇の配流(はいる)・天皇の廃位(はいい)

後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま)に、順徳上皇は佐渡島(さどがしま)に、
土御門上皇は土佐国(とさのくに)に流罪(るざい)となり、
仲恭天皇は廃位、すなわち天皇の座を追われます。
即位からわずか81日…歴代天皇のなかで最短の在位期間です。

ん?
てゆーか土御門上皇??

そーなんです!
土御門上皇は承久の乱にこれっぽっちも関わっていないのに、
「お父さんや弟が島流しになるのに、自分だけのほほんと京にはいられない!」と、
自ら志願して流罪になったのです!!

いやいや、アナタむしろ承久の乱に反対してたんやから、流されんでもエエやん!(涙)

さすがに鎌倉幕府もなんかちょっといたたまれなくなったのか、
のちに土佐国よりも京に近い阿波国(あわのくに)にうつしてあげています。

②後鳥羽上皇に味方した者の所領の没収

鎌倉幕府は、後鳥羽上皇に味方した貴族や武士の所領およそ3000ヶ所を没収し、
鎌倉幕府のために頑張ってくれた御家人たちに御恩(ごおん)として与えます。
もちろん、その所領の地頭に任命する新恩給与(しんおんきゅうよ)の形でです。

没収した所領の多くは畿内・西国にあったため、
これにより鎌倉幕府の支配が西日本にも及ぶようになるのです。

このとき新しく補任(ぶにん、任命されること)された地頭を新補地頭(しんぽじとう)と呼び、
それ以前から補任されていた本補地頭(ほんぽじとう)と区別しますが、
両者の違いについては、次回のまとめプリントで詳しく触れたいと思います。

③六波羅探題(ろくはらたんだい)の設置

北条政子の演説のあと、大軍を率いて京にのぼった北条泰時と北条時房は、
そのまま六波羅(ろくはら)の北と南にとどまって、承久の乱の戦後処理をおこないます。
これが、京都守護(きょうとしゅご)にかわって組織される六波羅探題となるのです。

北条泰時が北方の、北条時房が南方の初代六波羅探題に任命されますが、
これは執権や連署(れんしょ)に次ぐ重要なポストとして、北条氏が世襲してゆきます。
職務内容は、朝廷の監視・京都内外の警備・西国の統轄です。

ちなみに、六波羅探題が置かれた場所は、
かつて六波羅殿(ろくはらどの)こと平清盛(たいらのきよもり)のウチがあったところなんですよ~。

*   *   *

朝廷が西日本を、鎌倉幕府が東日本を支配する体制は、承久の乱によって一気に崩れ、
鎌倉幕府の支配権は全国におよぶようになります。

さらに、鎌倉幕府は六波羅探題を設置して朝廷を監視し、
皇位の継承や朝廷の政治にも口をはさむようになるなど、
朝廷より優位にたつことに成功するのです。

では最後に、ゴロ合わせをのせておきましょう。

1221年.jpg



次回は、源頼朝が将軍に就任してから、承久の乱までの流れをまとめプリントで復習します。

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1213年 和田合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、比企能員の乱(ひきよしかずのらん)ののち、源頼家(みなもとのよりいえ)にかわって弟の源実朝(みなもとのさねとも)が鎌倉幕府第3代将軍となり、北条時政(ほうじょうときまさ)が初代執権(しっけん)に就任する、という流れをご紹介しました。

今日は、1213年に起こる和田合戦(わだがっせん)までの流れを、ゴロ合わせとともにお届けします!



このころ、北条時政はゴキゲンです ♪
だって、カワイイ孫である源実朝が将軍になり、
自身は執権にくわえて政所別当(まんどころべっとう)まで兼ねることになったわけですから、
そりゃもうルンルンです☆

そんな北条時政には奥さんが何人かいるのですが(それが当たり前の時代ですからね!)、
そのうち、牧の方(まきのかた)という奥さんがなかなかのオンナらしいのです。

たとえば、北条政子(ほうじょうまさこ)が源頼家を出産した1182年のこと。
牧の方は、出産したばかりの北条政子に、
「あなたの旦那さん、あなたが妊娠中のときから別の女と浮気してるわよ☆」って教えてあげたんだとか。

北条政子は、北条時政と別の奥さんとの間に生まれた娘なので、牧の方にとっては義理の娘です。
その関係にありながら、ホルモンバランス乱れまくりの産後にわざわざ旦那の浮気を教えるって…

ウン、なかなかのオンナだわ!

ちなみに、旦那の浮気を知った北条政子はブチギレまくり、
なんと相手の女性の家をぶっこわさせています。
それ以来、旦那である源頼朝(みなもとのよりとも)は、奥さんに隠れて浮気するようになったんだとか…

ウン、北条政子もなかなかのオンナだわ!!

1213-1.jpg

牧の方には、かわいがっているムスメムコがいます。

北条時政と牧の方のあいだに生まれた娘の結婚相手、つまり娘婿なんですが、
ちょっと覚えててほしいキャラなので、カタカナ表記にしてインパクト出しておきますね。

あるとき、そのムスメムコが牧の方に泣きつきます。

なんでも、有力御家人である畠山重忠(はたけやましげただ)の息子と宴会の場で口ゲンカになったらしいのです。
まわりの取りなしもあって、その場はなんとかおさまったものの、
後日、思い出しギレしたムスメムコは、「畠山重忠の息子に悪口言われたよ~ぅ!(泣)」と牧の方にチクります。

すると、かわいいムスメムコに泣きつかれた牧の方は、
「これは畠山重忠親子による謀叛(むほん)よ!」と騒ぎはじめます。

ん?なにそれ??って感じですよね???
でもね、これをきっかけに畠山重忠親子は討たれてしまうのです。

コワッ!
牧の方コワッッ!!

もう牧の方の勢いは止まりません。
ついには源実朝を殺害し、ムスメムコを将軍に就任させて鎌倉幕府の実権を独占しようとするのです。

しかし、北条政子とその弟である北条義時(ほうじょうよしとき)によって陰謀はあばかれ、
1205年、北条時政と牧の方は出家のうえ伊豆国(いずのくに)に追放されてしまうのです。

北条時政は、1215年に病気のため伊豆で亡くなりますが、
牧の方は、ムスメムコが殺害されたあと、別の男性と再婚した娘のもとで楽しく暮らしたそーです。

さすが牧の方!
なかなかのオンナっぷりがハンパネェ!!
でもひょっとすると、北条氏を正当化するため悪女に仕立て上げられたって可能性もあるのかもしれませんね。

*   *   *

北条時政の追放にともない、息子の北条義時が執権と政所別当に就任します。

北条時政に対する不満の声が大きかったことをふまえて柔軟な政治をおこなう北条義時ですが、
有力御家人たちの動きには目を光らせまくります。

1213年、源頼家の息子を将軍に就任させようという陰謀が発覚します。
これにかかわっていたのが、和田義盛(わだよしもり)の息子たちと甥っ子です。

和田義盛といえば、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で大活躍し、
侍所(さむらいどころ)の初代別当(べっとう)になった超有力御家人です。
そんな和田義盛に免じて、陰謀にかかわったとされる息子たちは赦(ゆる)されます。

しかし、甥っ子は赦されません。

北条義時は、赦しを願う和田義盛はじめ一族の目の前で、
甥っ子の体を縄でしばりあげたうえ、無理矢理連行してしまうのです。

なんたる屈辱!

その後、甥っ子は流罪(るざい)となり、彼の屋敷は慣例にしたがって和田義盛のものとなります。
ところが、北条義時はその屋敷を勝手に別の御家人にあげてしまうのです。

完全なる挑発!!

メンツをつぶされた和田義盛は、もう北条義時を許すことはできません!
有力御家人の三浦義村(みうらよしむら)と手を組んで、ついに挙兵するのです!!

ところが、三浦義村は北条義時側に寝返ります。
圧倒的不利のなか、和田義盛は2日間戦い続けますが、
最後は力尽きて討ち取られ、和田氏の一族は滅んでしまうのです。

これを和田合戦といいます。
和田義盛の死によって、北条義時は侍所別当の座も手に入れるのです。

源頼朝という絶大な権力者を失った鎌倉幕府から、
梶原景時(かじわらかげとき)・比企能員(ひきよしかず)・畠山重忠・和田義盛といった有力御家人が次々と消され、
執権・政所別当・侍所別当を兼ねる北条氏が権力を独占するにいたるのです。

藤原北家(ふじわらほっけ)による他氏排斥(たしはいせき)もスゴかったけど、
北条氏もスゴいよね…

では、最後にゴロ合わせをみておきましょう。

1213年.jpg

吉本の芸人さんみたいな感じで、有力御家人を「兄サン」と呼んでみました~。
和田義盛と北条政子・義時には血縁関係はありませんので間違えないようにしてくださいね!(汗)



次回は、承久の乱(じょうきゅうのらん)をゴロ合わせとともにお届けします。

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1203年 北条時政が執権に就任する [年号のゴロ合わせ]

前回は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の支配機構をプリントにまとめました。
今日は、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝(みなもとのよりとも)の死後、
1203年に北条時政(ほうじょうときまさ)が執権(しっけん)に就任する過程を見てゆきます。



1199年、源頼朝が満51歳で急死します。
なんでも、源頼朝の乗っていた馬が、平氏の亡霊を見て驚き、
源頼朝を落っことしてしまったことが死につながったんだとか。

あとを継ぐのは、
源頼朝と北条政子(ほうじょうまさこ)の間に生まれた嫡男(ちゃくなん、跡取りとなる長男のこと)、
源頼家(みなもとのよりいえ)です。
幼いころから鎌倉殿(かまくらどの)になる将来が約束されていた彼は、このとき満18歳。
鎌倉殿にふさわしい、武芸に秀でた立派な青年に成長しています。

そんな源頼家が信頼するのは、比企能員(ひきよしかず)という御家人です。

比企氏は、源頼朝の乳母(うば)を輩出した家柄で、
源頼家の乳母(複数人います)も、比企能員の妻をはじめ、ほとんどが比企氏から選ばれます。

乳母の夫である比企能員は、養育係として幼いころから源頼家を支えます。
また、娘の若狭局(わかさのつぼね)を源頼家のもとに嫁がせ、
2人の間には一幡(いちまん)という男の子が誕生します。

源頼家と比企能員の絆は、深まってゆくばかりです。

1203-1.jpg

これに不満を抱くのが、北条時政です。
北条時政は源頼家の外戚(がいせき、お母さん側の親戚のこと)にあたるのに、
源頼家は比企能員ばっかり頼りにするもんだから、全然オモシロくありません。

しかも、このタイミングで源頼朝が急死し、源頼家が鎌倉殿となったのです。
のちのち、その地位を一幡が継ぐことになれば、
比企能員が鎌倉殿の外戚としてますます権勢を誇ることは明らかです。

このままだと北条氏はダメになってしまいます。

北条時政は焦ります。
めちゃくちゃ焦ります。

そんななか、鎌倉幕府の政治体制が大きく変わります。

源頼朝という絶大な権力者を失った鎌倉幕府は、
若くて政治経験の乏(とぼ)しい源頼家に政治を主導させるのではなく、
有力御家人13人の合議(ごうぎ、複数人による話し合いのこと)によって政治をすすめる体制を発足させるのです。

これを、十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)とか、十三名の合議制(じゅうさんめいのごうぎせい)と呼びます。
すごくそのまんまの名称なのがありがたい!(笑)
ちなみに、2022年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、これを題材とするのだそうですよ。
楽しみですね~♪

十三人の合議制の構成メンバーはというと、北条時政や比企能員はもちろんのこと、
大江広元(おおえのひろもと、政所初代別当)、
三善康信(みよしのやすのぶ、問注所初代執事)、
和田義盛(わだよしもり、侍所初代別当)といった、みなさんご存知の人物も名を連ねます。
そのほか、梶原景時(かじわらかげとき)・三浦義澄(みうらよしずみ)・畠山重忠(はたけやましげただ)といった源頼朝の重臣たちも選ばれます。
(13人全員をここでは紹介しませんし、覚える必要もありませんので安心してください☆)

あれよあれよという間に鎌倉殿としての専制を制限されてしまう源頼家ですが、
1202年、朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、鎌倉幕府第2代将軍となります。

*   *   *

ところが翌1203年になると、源頼家はしばしば体調不良をおこすようになり、
8月末には容態が急変して危篤(きとく)状態に陥ってしまいます。

焦る北条時政にとって、これは絶好の機会です(おじいちゃんヒドい!!)。
この隙に源頼家とべったりな比企能員と一幡の力をそいで、
源頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも)を推して、北条氏の勢いを盛り返そうとします。
(源実朝のお母さんは北条時政の娘である北条政子で、乳母も北条時政の娘がつとめています)

そんな北条時政のたくらみを、比企能員は源頼家にリークします。
すると、源頼家は比企能員を病床に招き、北条時政を討つよう命じるのです。
9月2日の朝のことです。

この2人のやりとりをこっそり立ち聞きしていた人物がいます。

北条政子です。
彼女は、身の危険が迫っていることを、いそぎ父親である北条時政に知らせます。

1203-2.jpg

その日の昼ごろ、比企能員は北条時政から「相談したいことがあるからウチに来て☆」と誘われます。

怪しい!
めっちゃ怪しい!!
ぜったい怪しい!!!

あまりにも怪しいので、一族のみんなは武装して行くよう勧めるのですが、
比企能員は「そんなことしたら、逆に怪しまれるではないか!」と、平服のまま出かけます。
そして、北条時政のウチに入るやいなや、武装した北条氏の家来たちに刺し殺されてしまうのです!

ホラーーーッ!
言わんこっちゃないーーーーッッ!!(泣)

比企能員が殺害されたことを知った比企氏の一族は、いそぎ一幡の屋敷に集まりますが、
すぐさま北条氏の大軍によって包囲されてしまいます。
そして、激しい戦いのすえ、比企氏は屋敷に火を放ち、一幡とともに自害して果てるのです。

これを比企能員の乱(ひきよしかずのらん)とか、比企能員の変(ひきよしかずのへん)といいます。
(一幡は若狭局とともに逃れたものの、のちに殺害された…とも伝わっています)

その3日後の9月5日、体調がよくなった源頼家は、一幡の死と比企氏の滅亡を知ります。
怒り狂った源頼家は、北条時政の追討を命じますが、従う者はすでになく、
9月7日には北条政子の命によって出家させられてしまうのです。

以上の流れは、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』(あずまかがみ)という歴史書に拠っています。
『吾妻鏡』については、のちのち鎌倉文化(かまくらぶんか)のところで紹介しますね!

*   *   *

このころ、朝廷に一通の手紙が届きます。

それは、「9月1日に源頼家が死んだので、源実朝を将軍に任命してください」という内容の、
鎌倉幕府からの手紙です。

え?
ちょっと待って!!

源頼家死んでない!
死んでないよォォォォーーーーッッッ!!

それなのに、死んだって手紙が朝廷に届いてるんです。

エッ、なんかめっちゃ怖い!
9月1日に源頼家が死ぬこと前提でコレ書いてるってことでしょ!?

病気で死にそうだったから?
いやでも死んでないよね??
まさか殺すつもりだったの???

なんかもう「?」がいっぱいですよ!
一体どのタイミングで書いたんでしょうね!!

しかもなんと!
この手紙、『吾妻鏡』には記録されていないんです。
鎌倉幕府の歴史書なのにですよ??

一体どこに記録されているのかというと、京都に住むお公家さんの日記です。
といっても、これを記録しているお公家さんは一人じゃないんですよ。
複数人の日記で確認できるのだそうです。

となると、この手紙の信憑性はかなり高いと考えられます。

ではなぜ『吾妻鏡』はこの手紙を記録していないのでしょうか…

実は、『吾妻鏡』は北条氏バンザイ的スタンスで編纂された歴史書なんです。
北条氏を正当化するため、北条氏にとって都合が悪い部分はいろいろカットしてあるっぽいのです。

つまり、『吾妻鏡』がこの手紙を記録していないのは…

北条氏にとって都合が悪いものだからだと考えられませんか…
源実朝を将軍に就任させたい北条氏の筆によるものだと考えられませんか…
この手紙が朝廷に届くころ、死ななかった源頼家が出家させられたのも納得がいきませんか…

となると、比企能員の乱もなんかすんごく怪しく見えてきますよね。

だって、朝から源頼家と比企能員がコソコソバナシしてるのをオカンが立ち聞きしてて、
お昼には北条時政が比企能員を自宅に誘い込んで殺して一族まで滅ぼすとか段取りよすぎません?
そもそも危篤の源頼家が、比企能員とコソコソバナシなんてできたのかね??

「?」は募るばかりです…

歴史はつねに勝者によって語られます。
その語りがおかしくても、敗者はなかなか異を唱えることはできません。

歴史を見るときは、ぜひ敗者の目線も気にしてもらいたいな…と思います。
(あわせて663年のゴロ合わせも読んでくださいね)

*   *   *

そんなワケで、1203年9月、源実朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府第3代将軍となります。
これと同時に、北条時政は大江広元とともに政所別当をつとめることになり、
さらに初代執権(しっけん)にも任命され、権力をほしいままにするのです。

失意の源頼家は、伊豆国(いずのくに)の修禅寺(しゅぜんじ)というお寺に幽閉され、
翌1204年、満21歳の若さでこの世を去ります。
お風呂に入っているところを襲撃され、暗殺されたんだそうです。

この時代のお風呂は、浴衣(ゆかた)を一枚着て蒸気を浴びるサウナみたいなものなので、
源頼家は浴衣一枚のところを襲われたことになります。

丸腰とはいえ、さすが武芸に秀でた源頼家は激しく抵抗します。
しかし、最後は首にヒモを巻き付けられ、
男性のダイジナトコロを取られうえで刺し殺されたと伝わっています。

すごいトコロで終わってしまいますが、最後に今日のゴロ合わせを見ておきましょう。

1203年.jpg

梶原景時も畠山重忠も十三人の合議制のメンバーです。
梶原景時は、有力御家人たちと対立して失脚し、謀叛をくわだてたとして1200年に討たれます。
畠山重忠も1205年に討たれています。



北条氏、絶好調ですね~!
次回は、和田合戦(わだがっせん)をゴロ合わせとともにお届けします。

ちなみに、系図のなかにいる、源頼家の息子である公暁(くぎょう)の名前、
次回登場するので覚えておいてくださいね!

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