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1185年 壇の浦の戦いが起こる [年号のゴロ合わせ]

前回に続いて、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)を見ていきましょう!

今日は、↓ このまとめプリントの…
鎌倉1.jpg

↓ 青色の部分を埋めつつ、ゴロ合わせも紹介していきますね~!!
1185-1.jpg
(黄色の部分は平安時代(20)をご覧ください)

ちょっとほんとに文章長いですけど(スイマセン…)、
イラスト多めにしますので頑張ってついてきてくださいね☆



以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵をきっかけに、
平氏への反発がはじけることを恐れた平清盛(たいらのきよもり)は、
1180年6月、大寺院や貴族たちの反対を押し切って、
摂津国(せっつのくに)の福原(ふくはら、現在の神戸市)に都を遷(うつ)します。
大輪田泊(おおわだのとまり)に近い福原は、平氏の瀬戸内海支配の拠点となる場所であり、
また平清盛にとっては、サナダムシの攻撃から復活したあと別荘を築いたほどお気に入りの土地です。
(詳しくは平安時代(17)を読んでください)

福原に遷都(せんと)後、
源頼朝(みなもとのよりとも)や源義仲(みなもとのよしなか)らの挙兵を知った平清盛は、
孫の平維盛(たいらのこれもり、超イケメンらしいよ!)に大軍を託して東国へ派遣します。
しかし平維盛は、富士川の戦い(ふじがわのたたかい)で源頼朝に敗れてしまうのです。

すると、近江国(おうみのくに)の園城寺(おんじょうじ、または、三井寺(みいでら))や奈良の興福寺(こうふくじ)が、反平氏の動きを強めます。
なんてったって、以仁王が挙兵前に身を寄せたのが園城寺で、そのあと向かおうとしたのが興福寺ですからね。
園城寺も興福寺も、もともと反平氏の立場にあったわけです。
(詳しくは1180年のゴロ合わせを読んでください)

このような反平氏勢力に京都を制圧されないように、
また高倉上皇(たかくらじょうこう)や平氏一門からも還都(かんと、都を元の場所に還(かえ)すこと)を求める声が高まっていたこともあり、
1180年11月、平清盛は都を京都に戻します。

翌月、京都に近い近江国で源氏軍が蜂起します。
平氏はこれを鎮圧し、さらに源氏軍に加担した園城寺を焼き払います。
さらに、平清盛の息子である平重衡(たいらのしげひら)が南都焼打ち(なんとやきうち)をおこない、
興福寺のほとんどを焼き尽くします。
このとき、お隣の東大寺も伽藍(がらん)の多くを失い、
大仏も頭と手が焼け落ちてしまったんだとか…

その後、1181年閏(うるう)2月、平清盛が満63歳でこの世を去ります。
とてつもない高熱に苦しみながらの最期だったようで、
当時の人々は、「お寺をいっぱい焼き払ったからバチが当たったんだ!」とウワサしたようです…

1185-2.jpg

平氏一門を率いるのは、平清盛の息子である平宗盛(たいらのむねもり)ですが、
平清盛という強烈なリーダーを失った平氏に、次々とピンチが訪れます。

1181年、前年の雨不足の影響により養和の飢饉(ようわのききん)が発生し、
西日本は深刻な食料不足に陥ります。
西国(さいごく)を経済的基盤とする平氏は、大打撃を受けてしまいます。

さらに、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、または砺波山の戦い(となみやまのたたかい))で平維盛が源義仲に敗れ、源義仲の入京を許してしまいます。

そして1183年7月、安徳天皇(あんとくてんのう)を奉じて都落ち(みやこおち)をするのです。
このとき、三種の神器(さんしゅのじんぎ)も一緒に持ってゆきます。

三種の神器とは、鏡(かがみ)・剣(つるぎ)・玉(ぎょく)の3種類の宝物をさします。
古来より天皇が受け継いできたもので、即位の際に新しい天皇へと継承されます。
三種の神器を所有することが、正当な天皇である証なのです。

令和元年5月1日に、剣璽等承継の儀(けんじとうけいしょうのぎ)がおこなわれましたよね。
剣璽(けんじ)とは、三種の神器の剣と玉のことで(鏡は動かせないそうです)、
それらを継承する様子は、現在も首相官邸が配信する動画で拝見することができます。

動画の7:00を過ぎたあたり、3番目に入ってきた人が持っている細長い箱に剣が、
次に入ってきた人が持っている四角い箱に玉が入っているそうです。
歴史を目の当たりにするようで感動しますね…

ちなみに、三種の神器は絶対に人の目にふれてはいけないそうで、
誰一人として実物を見たことがないんですって!

話を平安時代に戻しましょう。

京都では、正当な天皇の証である三種の神器のないまま、
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)が即位します。
このことは、彼にとって大きなコンプレックスとなるのですが、それについてはまた後日!

都落ちした平氏の追討と三種の神器の奪還に向かうのは、
源頼朝の弟である源義経(みなもとのよしつね)です。

*   *   *

源義経がまだ幼く、牛若丸(うしわかまる)という名で呼ばれていたころ、
お父さんの源義朝(みなもとのよしとも)が平治の乱(へいじのらん)で敗れてしまい、
彼は京都の山奥にある鞍馬寺(くらまでら)というお寺に預けられます。
ここで牛若丸を鍛えたのは、なんと天狗(てんぐ)だった!!…とゆー伝説が残っています。
なんだか、いま大流行している某漫画の主人公みたいですね!(笑)

その牛若丸と出会うのが、弁慶(べんけい)という僧兵(そうへい)です。
腕に自信のある荒くれ者の弁慶は、
京都の町で太刀(たち)を携えた人に戦いを挑んでは、勝ってその太刀を奪う、
という行為を繰り返しており、気づけば手に入れた太刀の数は999本になっていました。

ある夜、いよいよ1000本目!と意気込んで五条大橋(ごじょうおおはし)で待ち構えていたところ、
前から立派な太刀を腰に帯びた若者が、横笛を吹きながらこちらに向かって歩いてくるではないですか!
「1000本目はコイツの太刀に決定~ ♪」とばかりに、弁慶が勢いよく攻撃をしかけたところ…

その若者はなんと!
弁慶の攻撃をひらりとかわし、橋の手すりに着地したのです!!

驚いた弁慶ですが、その後も攻撃を繰り返します。
しかし、どれだけ攻撃しても、若者は手すりの上をひらりひらりと飛んでかわすばかり。
すっかり参ってしまった弁慶は、若者の家来にしてもらうのです。

この若者こそが牛若丸、のちの源義経です。
そりゃ天狗に修行してもらったんだから、運動神経ハンパないよね(笑)

1185-3.jpg

天狗に修行をつけてもらった話も、弁慶との出会いの話も、
どこまで真実か分かりませんが(そもそも真実の部分はあるのだろうか…笑)、
とにもかくにも弁慶という僧兵が源義経に仕えたことは確かなようです。

やがて、自分が源義朝の息子であることを知った牛若丸は、
僧侶になることを拒んで鞍馬寺を抜け出します。
そして、元服(げんぷく)して名を源義経と改め、
奥州(おうしゅう)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに身を寄せるのです。

奥州の藤原氏といえば…
そうです、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)です。

初代の藤原清衡(ふじわらのきよひら)、
2代目の藤原基衡(ふじわらのもとひら)、
3代目の藤原秀衡と、
およそ100年にわたって平泉(ひらいずみ、現在の岩手県)を拠点に繁栄した、
奥羽(おうう、陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)のこと)の一族です。

奥州は金(中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)を見れば一目瞭然!)や良質な馬の産地であり、
奥州藤原氏はこれらを献上することで、朝廷や藤原摂関家と良好な関係を保ちます。
また中国の北宋(ほくそう)やアイヌなど、北方の地との交易もおこない、独自の文化を築きます。

そんな奥州藤原氏のもとで暮らす源義経は、
あるとき、お兄ちゃんである源頼朝の挙兵を耳にします。
いてもたってもいられなくなった源義経は、平泉を抜け出し、
富士川の戦いで勝利した源頼朝のもとに駆けつけて感動の再会を果たすのです。

そして、鎌倉にとどまって東国の経営に専念したい源頼朝から
もう一人のお兄ちゃんである源範頼(みなもとののりより)とともに軍勢の指揮を任されます。
いよいよ源義経が、歴史の表舞台に立つのです。
ちなみに、源頼朝は源義朝の三男、源範頼は六男、源義経は九男です。

*   *   *

さて当時の京都はというと、
養和の飢饉による食料不足にあえいでいるなか、源義仲が大軍を率いて入ってきたため、
治安は乱れ、食料事情はさらにめちゃくちゃになっています。

後白河法皇は、源義仲に都落ちした平氏を追うよう命じて京都から厄介払いし、
かわって源頼朝に寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつせんじ)を出して接近します。
これに焦った源義仲は、急ぎ京都に戻って後白河法皇を幽閉したりしますが、
宇治川の戦い(うじがわのたたかい)で源範頼・源義経によって討たれてしまいます。

いやー、源氏めっちゃモメてますね~…

この隙に、なんと平氏は大復活!
一時は大宰府(だざいふ)まで都落ちしたにもかかわらず、
このころには京都を目指して福原に陣を構えるほど、平氏軍は態勢を立て直しています!!
そこで、源範頼と源義経が平氏の追討と三種の神器の奪還に向かうのです。

こうして1184年2月に摂津国で起こるのが、一の谷の戦い(いちのたにのたたかい)です。
一ノ谷の戦いと表記してもOKです。

正面からの攻撃は源範頼に任せ、源義経はわずか70騎を率いて一の谷の裏側にまわります。
そこは鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれるガケで、とても降りられるような場所ではありません。
平氏軍はこれを背にして、守りの堅い陣を構えているわけです。

おもむろに、源義経はガケから馬を2頭落とします。

な、なんてことを!!

1頭は途中で足をくじいて落っこちてしまいますが(かわいそう…涙)、
もう1頭はそろそろと降りることに成功します。

それを見た源義経は「イケる!!!」と判断します。

え?
なにが??

イヤイヤ、成功率50%ですやん!
絶対ケガするやつやん!!

しかし!
源義経の軍勢は、ガケを馬で駆け降りて平氏軍の背後を衝くのです!!

パニック!
いやもう平氏軍パニックですよ!!
絶対安全だと思いこんでた後ろのガケから敵が降ってくるんですからね!!!

てんやわんやになった平氏軍は、
平清盛の甥っ子にあたる平敦盛(たいらのあつもり、古典の授業で習いました?)をはじめ、
たくさんの犠牲者を出すにいたり、
船で瀬戸内海を渡って讃岐国(さぬきのくに)の屋島(やしま)などに逃れるのです。

*   *   *

瀬戸内海の制海権を有する平氏軍に対し、
水軍(すいぐん、海上で戦う武士団のこと)をもたない源氏軍は手出しできない状態が続きます。
その間、源範頼は山陽道や九州で平氏軍との戦いを続けますが、
進むことも退くこともできない状況に陥ってしまいます。

そこで1185年2月、源義経はいくつかの水軍を味方につけ、
暴風雨のなか、淡路島の南を船ですすんで阿波国(あわのくに)に上陸します。
そして、瀬戸内海に向けた守りを重点的にしている平氏軍を背後から襲うのです。

また背後から!
平氏軍これまたパニックです!!

両者の間で激しい戦いが繰り広げられ、やがて日が暮れ始めて休戦状態となります。
すると、源氏軍のまえに、平氏の小舟が1隻あらわれます。
小舟には、先っちょに扇がつけられた竿(さお)と美女が乗っており、
美女は「この扇の的(まと)を弓で射てみろ、失敗したら源氏の恥だ」なんて言うのです。

いやー、これはやりたくなーい!
めっちゃ責任重大ですやーん!!

源氏軍のなかで、誰が矢を射るかでタライ回しがおこり、
最終的に那須与一(なすのよいち)という人物に決まります。

もし失敗したら切腹する、という覚悟のもと、
那須与一がいろんな神々に祈りまくって1本の矢を放ったところ…

1185-4.jpg

なんと見事に的中!
美しい夕日を背景に、扇は空を舞い、波の上に落ちたのです!!

このエピソード、古典の授業で習いましたか?
『平家物語』に収録されている「扇の的」(おうぎのまと)という有名なものです。

これで源氏軍のテンションは一気に上がります。
さらに源氏の援軍がくることを知った平氏軍は、そそくさと壇の浦(だんのうら)へと逃れるのです。

*   *   *

1185年3月、長門国(ながとのくに)で壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)が起こります。
壇ノ浦の戦いと表記してもOKです。
あと、「壇」の漢字、右下のパーツは「且」ではなくて「旦」ですからね!
書き間違えが多発する漢字なので、何回も書いてしっかり覚えてくださいね!!

潮の流れの激しい関門海峡(かんもんかいきょう)で、
平氏の水軍と、源義経が率いる水軍が激突します。
また、ピンチを切り抜けた源範頼も、陸から応戦します。

はじめは船の扱いに詳しい平氏軍が圧倒的に優勢で、どんどん源氏軍を追い詰めます。
しかしこの戦い、数時間後には源氏の勝利に終わるのです。

その理由は、
潮の流れがかわったから、とか、
平氏軍のなかで寝返った者が多数いたから、とか
源義経が非戦闘員である平氏軍の船の漕ぎ手たちを殺害する許可を出したから、とか、
さまざまな説があるようです。

源義経は、船から船へと飛び移って戦うなど鮮やかな活躍を見せ、
(この技、のちに八艘飛び(はっそうとび)と名付けられたそうな…さすが天狗の教え子…)、
平氏軍はみるみるうちに劣勢となり、
平清盛の息子である平知盛(たいらのとももり)は平氏の敗北を悟ります。

すると平知盛は、安徳天皇のもとにゆき、ホウキを手に船の掃除を始めます。
安徳天皇の船が汚かったとあっては、あとあと笑いものになるかもしれない…と思い、
美しい最期にすべくお片付けを始めたというわけです。

そんな息子の様子を見て、平清盛の奥さんである平時子(たいらのときこ)は自害の道を選びます。
「おばあちゃん、どこに行くの?」と訪ねる孫の安徳天皇(このとき満6歳ですよ…涙)に、
「極楽浄土です。海の下にも都があるのですよ」と答え、ともに海に身を投げて亡くなります。
このとき、三種の神器も海に沈んだとされています(鏡と玉は回収できたんだとか)。

1185-5.jpg

平氏の人々は、これにならって次々と海に沈みます。
そして、平氏の滅亡を見届けた平知盛も、
「見るべきものはすべて見た」という言葉を遺(のこ)して入水(じゅすい)します。

このとき、自らの遺体が源氏にわたらないよう、
鎧(よろい)を二重に着込んだとも、碇(いかり、船のおもり)を抱いたとも伝わっています。
壇の浦にある平知盛の銅像はこの通り、碇をかかげて綱を体に巻きつけております。
DSC06820.JPG

ちなみに、総大将である平宗盛は、水泳が得意だったんですねー。
入水してみたものの、得意なもんだから、つい泳いじゃうんですよ!
で、すいすい泳いでいるところを、源氏軍に捕まってしまったんですねー。
壇の浦の戦いから3ヶ月が経とうというころ、子ども達とともに斬首されてしまいます。

長くなりました…
ほんとに長くなりました…
ゴメンナサイ…

最後に、プリントの青色のところを埋めた回答を載せておきますね。

1185-7.jpg

そして、壇の浦の戦いのゴロ合わせも載せておきましょう!

1185年.jpg

いよいよ次回から鎌倉時代です。
残りを埋めて、まとめプリントを完成させてしまいましょう!!



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1180年 以仁王と源頼政が挙兵する [年号のゴロ合わせ]

長かった平安時代もそろそろおしまいです。
今日は、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のはじまりである、
以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵をお届けします。

治承・寿永の乱とは、
1180年、以仁王と源頼政が兵を挙げ、
これをきっかけに各地で源氏などが次々と平氏打倒の反乱を起こし、
1185年に壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏が滅亡するまでの大規模な内乱をさします。
いわゆる源平の争乱のことです。

ちなみに、治承(じしょう)も寿永(じゅえい)も元号(げんごう)です。
以仁王と源頼政が挙兵した1180年は治承4年で、
平氏が滅亡した1185年は元暦(げんりゃく)2年です。

え?あれ??
元暦ってナニ?寿永じゃないの??って思いますよね。

このころの元号は、
治承(1177~1181年)→養和(ようわ、1181~1182年)→寿永(1182~1184年)→元暦(1184~1185年)
と変化しているのですが、平氏は元暦という元号を認めず、寿永を使い続けます。
壇の浦の戦いが起きたのは、世間では元暦2年なんだけど、平氏的には寿永4年というワケです。
平氏の気持ちに寄り添ってか、現在でも源平の争乱を治承・寿永の乱と呼んでいます。

では、治承・寿永の乱が起こるきっかけとなった、以仁王と源頼政の挙兵を見てゆきましょう。



以仁王は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の息子です。
幼いころから優秀で、学問や書道はもちろんのこと、
歌や笛の才能にもたけた多才な人物であったようです。
しかも、お兄ちゃんは二条天皇(にじょうてんのう)で、
甥っ子は六条天皇(ろくじょうてんのう)というロイヤルな血筋で、
天皇になる可能性を存分にもった人物です。

しかし、六条天皇にかわって即位したのは、弟の高倉天皇(たかくらてんのう)です。
このころ権勢を誇る平氏が、なかでも高倉天皇のお母さんである平滋子(たいらのしげこ)が、
以仁王の邪魔をして、平氏の血を引く高倉天皇を即位させたと言われています。

なんだか平氏に対する不満がムクムクとわいてきますよね…

その後、鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)などを経て、
平清盛(たいらのきよもり)はクーデターを起こし、
後白河法皇を幽閉して院政を停止させてしまいます。
このとき、以仁王も平氏に荘園の一部を没収されるという憂き目に遭っています。

ますます平氏に対する不満がムクムクしてきますよね…

さらに1180年、高倉天皇と平徳子(たいらのとくこ)の間に生まれた満1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位し、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)としてますます権力をほしいままにします。

高位高官を独占し、
たくさんの荘園や知行国(ちぎょうこく)を所有し、
日宋貿易(にっそうぼうえき)の利益を独占し、
さらに天皇の外戚となった平氏はもう栄華を極めまくりです。
そりゃ平時忠(たいらのときただ)も、「平家にあらずんば人にあらず」なんて言っちゃいます。

その一方で、平氏と血のつながりをもたない以仁王は、天皇になる可能性を完全に失ってしまいます。

もうね、以仁王の平氏に対する不満はムクムクの最高潮ですよ!

1180-1.jpg
  (イラスト内の①~⑤は、系図内の即位順です)

平氏ムカつきます!
平氏まじムカつきます!!

しかし、以仁王一人では何もできません。
だって軍事力をもっていないんですもん。

そこで手を組むのが、源頼政なのです。

*   *   *

源氏といえば、源義家(みなもとのよしいえ)や源義朝(みなもとのよしとも)、
源頼朝(みなもとのよりとも)・源義経(みなもとのよしつね)兄弟などを思い浮かべますよね。
彼らはいわば、源氏を代表するスーパースターです。

源頼政は、この人たちとは血のつながりがちょっと遠い源氏の一人です。
(詳しくは平安時代(13)のプリントの系図で確認してみてください)
保元の乱(ほうげんのらん)では後白河天皇(ごしらかわてんのう)サイドについて勝利し、
平治の乱(へいじのらん)では平清盛に味方して、その勝利におおきく貢献したという過去をもつ人物です。
平治の乱で源氏が次々と処分されるなか、
源頼政は一人、平清盛のあつい信頼を得て平氏政権でも大活躍するのです。

ところが、ちっとも出世しないのです。
あるとき、源頼政がそのことをうらむ和歌を詠んだところ、
平清盛が「忘れてたーッッ!!」と、すぐに従三位(じゅさんみ)に昇進させてくれました。
「忘れとったんかーーーーいッッ!!!」という突っ込みはさておき、
従三位といえば公卿(くぎょう)ですからね!
源氏にとってはそれはそれはもうアリエナイ大出世です!!
(公卿については飛鳥時代(8)を復習してください)
とにかく平氏は源頼政をめちゃくちゃ信頼していたのです(忘れてたけどね…笑)

このとき源頼政は、74歳のおじいちゃんです。
翌1179年には息子の源仲綱(みなもとのなかつな、覚えなくていいですよ)にあとを任せて出家します。

そんな平氏からの信頼あつい源頼政が、なぜ平氏打倒に立ち上がったのでしょうか。
『平家物語』には、こんなエピソードが収録されています。

源頼政の息子である源仲綱は、木の下(このした)と名付けた立派な馬をもっていました。
そのウワサを聞きつけたのが、平清盛の息子である平宗盛(たいらのむねもり)です。

あるとき、平宗盛は「木の下を見せてほしい」と源仲綱に頼みます。
なんだかイヤな予感しかしない源仲綱は、「ちょっと今、うちにいないんです」と答えます。
いないのなら仕方がない…と、いったんは引き下がった平宗盛ですが、
「え?木の下なら最近見ましたよ?」とか、「さっきいましたよ?」とかいう声を耳にします。

腹を立てた平宗盛は、馬を譲るよう何度も何度も、ほんとに何度も何度も源仲綱に要求します。
「オレは平氏だぞ!オレのパパは平清盛だぞ!!」とばかりに圧力をかける平宗盛に、
源頼政もおそれて要求をのむよう息子を説得し、源仲綱はしぶしぶ木の下を平宗盛に渡します。

念願の名馬を手に入れた平宗盛ですが、源仲綱の対応にムカついたようで…

なんと馬の名を「仲綱」と改めて焼き印を押し、
みんなの前でその馬を「仲綱」と呼んで、ムチでたたいたりして笑いものにしたそうな。

1180-2.jpg

む…むねもり…まじ最低やな。

脚色の多い『平家物語』に載っているエピソードなので、真偽のほどは分かりませんが、
もし事実だとしたら…源仲綱はもちろん、源頼政も怒り狂いますよね。
いくら平氏とあつい信頼関係を築いていたって、平氏許さん!!って思いますよね。

*   *   *

1180年4月、以仁王はついに平氏を打倒せよとの令旨(りょうじ)をくだします。

令旨とは、皇太子(こうたいし)や親王(しんのう)などが出す命令文書のことです。
(天皇や太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)の命令は、宣旨(せんじ)です)

ここで「ん?以仁王って令旨出せんの??」って疑問に思いませんか?

そうなんです、以仁王は皇太子でも親王でもないから令旨を出せないんです!
以仁王は親王の地位を与えられておらず、王のまんまなので令旨を出せないんです!!
でも「オレ後白河法皇の息子だし…もうこれ令旨ってことで!」と出しちゃったのです!!!

以仁王の令旨は、平治の乱のあと熊野(くまの)に隠れ住んでいた源氏の一人に託され、
彼が各地の源氏に伝えてまわります。

しかし翌5月、この動きが平氏にバレてしまいます。
平氏はすぐさま以仁王の身柄をおさえようと自宅を包囲しますが、以仁王の姿はありません。
女装(!)して自宅を脱出した以仁王は、すでに滋賀の園城寺(おんじょうじ)にのがれていたのです。

以仁王の居場所を知った平氏は、いそぎ園城寺に向かう軍勢を組織します。
軍勢の大将の一人に選ばれたのは、源頼政です。

その日の夜、源頼政は自宅に火をつけ、園城寺にいる以仁王と合流します。

平氏はここで初めて源頼政の裏切りを知るのです。
ギリギリまで平氏の味方だと信頼していた源頼政が、
まさか以仁王とともに平氏打倒に立ち上がるなんて思ってもみなかったことでしょう。

これは平氏、大ショックです…

以仁王と源頼政は、平氏の軍勢からのがれるべく園城寺をあとにして、
奈良の興福寺(こうふくじ)に向かいます。

途中、平等院(びょうどういん)で休憩をとっていたところを平氏の軍勢に追いつかれ、
交戦のすえ源頼政と源仲綱は平等院で自害します。
現在も、平等院のなかに源頼政のお墓がたっています。
DSC02889.JPG

以仁王はというと、なんとか平等院から逃れられたものの、
敵の放った矢に当たって落馬したところを討ち取られてしまいます。

こうして以仁王と源頼政の挙兵は、あっけなく失敗に終わってしまいます。

しかし、以仁王の令旨は、源頼朝や源義仲(みなもとのよしなか)をはじめ、
各地の源氏の挙兵をうながし、平氏は滅亡へと向かうことになるのです。

では、今日のゴロ合わせ。

1180年.jpg



次回は、治承・寿永の乱のラスト、壇の浦の戦いを中心にお届けします。

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1177年 鹿ケ谷の陰謀が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)についてお届けします。

シシガタニ ノ インボウ…
一体それなんやねん!って突っ込みたくなりますよね。

鹿ヶ谷(ししがたに)というのは、京都の地名です。
現在も、銀閣寺(ぎんかくじ)のちょっと南のあたりで住所として使われています。

1177年、その鹿ケ谷にある山荘で、なにやら陰謀がくわだてられたようです!
詳しく見ていきましょう!!






前回は、1167年に平清盛(たいらのきよもり)が
太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に就任したことを紹介しましたが、
出世したのは平清盛だけではありません。
平氏の多くが高位高官(こういこうかん、高い位階と高い官職のこと)にのぼりつめたのです。

もうね、平氏の勢いハンパないのです!
そのハンパなさをあらわす史料を、ここで見ておきましょう。

六波羅殿(ろくはらどの、京都の六波羅に邸宅をかまえる〔1   〕のこと)の御一家の君達(きんだち、上流貴族の子弟のこと)といひてしかば、花族(かしょく)も英耀(えいゆう、英雄の誤り、花族と同じく摂家につぐ貴族の家格のこと)も面(おもて)をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国(にゅうどうしょうこく、〔1   〕のこと、入道は出家した人を指し、相国は太政大臣を指す)のこじうと(配偶者の兄弟のこと)平大納言(へいだいなごん)〔2   〕卿(きょう)ののたまひけるは、「此(この)一門にあらざらむ人は皆人非人(にんぴにん)なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構(あいかま)へて其(その)ゆかりにむすぼゝれむとぞしける。(中略)日本秋津嶋(あきつしま)は纔(わずか)に六十六箇国、平家知行(ちぎょう)の国卅余箇国(1180年には平氏の知行国が30国をこえる)、既(すで)に半国にこえたり。其外(そのほか)庄園田畠いくらといふ数を知(しら)ず。綺羅(きら、美しい服のこと)充満して、堂上(とうしょう)花の如(ごと)し。軒騎(けんき、車や馬のこと)群集して、門前市(もんぜんいち)をなす。揚州(ようしゅう)の金(こがね)、荊州(けいしゅう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しょっこう)の錦(にしき、揚州・荊州・呉郡・蜀江はいずれの中国の地名で、それぞれの物品の名産地を羅列)、七珍万宝(しっちんまんぽう、多種多様な宝物のこと)一(ひとつ)として闕(かけ)たる事なし。(後略)
(出典『3   』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…平清盛(六波羅殿・入道相国などと呼ばれる)
 2…時忠(ときただ)
 3…平家物語(へいけものがたり)

とっても有名なセリフが出てきましたね~!
下線部分、よく「平家にあらずんば人にあらず」って訳されますね。
「平氏じゃないヤツは人間じゃないのダ!」ってことです。

ちょっとひどくなーい?
ダレよ!?
こんなセリフ言っっちゃったの!

え?
平時忠??

平清盛じゃなくって?
んじゃアンタ誰??

って感じですよね。
そこで、前回登場した系図をもう一度見てみましょう。

1177-1.jpg

あーーーー…
いるね!
いるいる!!

えーっと…
平清盛の…奥さんの…弟…だね、ウン。
いやぁ~…アンタがこのセリフ言っちゃう!?って感じですよね~。

でもですよ!
系図をよく見てください!!

お姉ちゃんの平時子(たいらのときこ)は、アノ平清盛の奥さんで、
妹の平滋子(たいらのしげこ)は、アノ後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の奥さんではないですか!

しかもですよ!
平滋子の産んだ憲仁親王(のりひとしんのう)は、
1168年に即位して高倉天皇(たかくらてんのう)となるのです!!

さらにですよ!
その高倉天皇と結婚したのは、平時子の産んだ平徳子(たいらのとくこ)なのです!!

1177-2.jpg

あんたの周り、すごい人だらけじゃん!
そりゃ「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうわけだ!!

とにもかくにも、そんなセリフを生み出してしまうほど、平氏の勢いはものすごかったのです。
こののち、もしも高倉天皇と平徳子の間に子どもが生まれて即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれちゃうわけですからね!

これを快く思わないのが、後白河法皇とその側近たちです。
1176年に、平清盛と後白河法皇の間を取り持ってきた平滋子がこの世を去ることで、
両者の関係はどんどん悪化してゆきます。

後白河法皇の周辺からは、
まるで藤原氏のようなやり方で勢力を伸ばす平氏に対する不満の声が、
ちらほら聞こえるようになります。

そんなときに起こるのが、鹿ケ谷の陰謀なのです。

*   *   *

1177年のある日、
鹿ケ谷にある俊寛(しゅんかん)というお坊さんの山荘(別の人物の山荘という説もアリ)で、
後白河法皇が院近臣(いんのきんしん)たちと飲み会をしておりました。
院近臣とは、院政をおこなう上皇(法皇)の側近のことで、
俊寛もその1人です。

いい感じにお酒もまわっていたのでしょうか、
飲み会メンバーの1人である藤原成親(ふじわらのなりちか)は、
立ち上がったときにうっかり瓶子(へいし、お酒を入れる壺のこと)を倒してしまいます。
それを見た後白河法皇が「あれはいかに」と尋ねると、
藤原成親は「ヘイシが倒れましたー!」と答えます。

瓶子と平氏をかけたわけですね!
まさかのオヤジギャグ!!

次に、俊寛が「それをどうするのー?」とあおると、
西光(さいこう)というお坊さんが、
「クビをとるっきゃないでしょー!」と瓶子の首をボキっと折ったそうな。

1177-3.jpg

以上の様子は、『平家物語』に描かれています。
物騒ですけど、なかなか盛り上がった飲み会ではありませんか。

でもね。

これをね。

平清盛にチクった人がいたのです。

源行綱(みなもとのゆきつな)です。
多田源氏(ただげんじ)なので多田行綱(ただゆきつな)とも呼びます。
(そういや昔、源(多田)満仲(みなもとの(ただ)みつなか)もなにやらチクってましたよね…
 覚えてますか?詳しくはコチラ!!)

彼の「鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の院近臣たちがなんかくわだててるっぽい」という密告により、
平清盛はすぐさま飲み会のメンバーを捕らえます。
そして、俊寛を薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流罪とし、
藤原成親を備前国(びぜんのくに)に流したうえ、食べ物を与えず崖から落として殺害します。
瓶子の首を折った西光は、ほとんど教科書に登場しないマイナーな人物ですが、
ひどい拷問のすえ、口を切り裂かれ、首を斬り落とされるという悲惨な最期を遂げます。

ちょ…
飲み会の席でのことですやん…
怖すぎますやん…

後白河法皇自身は罪には問われなかったものの、
このような形で側近たちを失ったことは、
後白河法皇に精神的なショックを与え、また政治的な権力の低下をもたらします。
後白河法皇の院政が弱体化するなかで、
いいオトナに成長した息子の高倉天皇は、親政を願うようになるのです。

*   *   *

鹿ケ谷の陰謀の翌年、平徳子が男の子を出産します。
この赤ちゃん、なんと生後1か月で皇太子となります!
平清盛は、皇太子の外戚としてますます力を伸ばし、
後白河法皇との関係を悪化させてゆきます。

そして1179年、平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
かわって平氏に好意的なものたちに与えます。
さらに、後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、
院政を停止してしまいます。

ここで、わずか1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位するのです。
お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政をしきますが、
もちろん安徳天皇の外戚である平清盛が政界の主導権を握ります。

また、平氏の知行国(詳しくは平安時代(15)をどうぞ!)も30ヶ国をこえ、
さきほど読んだ史料の太字部分、
日本秋津嶋は纔に六十六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国にこえたり。
という状況になります。

いやー…
平清盛、とてつもない…

平清盛の権力はとてつもないものになりますが、
多くの人々の反感を買うことにもなるのです。

*   *   *

それでは、最後にゴロあわせを。

1177年.jpg

ワンワンニャアニャアではありません(1122年になっちゃいますから…)!
ワンワンナァナァで1177年です!!






次回からは、まとめプリントをお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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1167年 平清盛が太政大臣になる [年号のゴロ合わせ]

今日は、平清盛(たいらのきよもり)について、
1167年に太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されたことを中心にお届けします。






では問題!
平氏って、誰の子孫でしょうか?

ハイ、答えは桓武天皇(かんむてんのう)です。
なので、桓武平氏(かんむへいし)というんでしたね!
忘れたわー…という方は、平安時代(13)を復習してください。

平氏の多くは関東地方を基盤とするのですが、
平貞盛(たいらのさだもり、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)で登場した人ですよ!)の子孫は、
伊勢国(いせのくに)に移り住みます。
この一族を、とくに伊勢平氏(いせへいし)と呼びます。

伊勢平氏の存在を世に知らしめたのは、平正盛(たいらのまさもり)です。
北面の武士(ほくめんのぶし、詳細は平安時代(15)で)として白河法皇(しらかわほうおう)につかえ、
また、12世紀のはじめに起きた源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定したのです。

その息子である平忠盛(たいらのただもり)も、白河法皇にかわいがられます。
瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐し、
白河法皇亡きあとも、鳥羽上皇(とばじょうこう)から重用されます。
さらに日宋貿易(にっそうぼうえき)にも着手し、莫大な富をたくわえます。

そんな平忠盛の長男として生まれたのが、平清盛です。

うーん、それにしても平氏はみんな名前がモリモリしててややこしいですねー…
平盛子(たいらのもりこ)って女性までいるぐらいですからねー…
とにもかくにも、

 平正盛 ー 平忠盛 ー 平清盛

の順番ですよ。
まじモリモリですね。

*   *   *

平清盛は、保元の乱(ほうげんのらん)で後白河天皇(ごしらかわてんのう)サイドを勝利に導き、
さらに平治の乱(へいじのらん)でも大活躍し、もんのすごいスピードで力を伸ばしてゆきます。

しかも、奥さんである平時子(たいらのときこ)は、
二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)だというんだから、
ますます絶好調です!
(乳母については、1159年のゴロ合わせを参照してください)

それだけではありません。
平清盛は、後白河上皇の院庁(いんのちょう)にもつかえ、
奥さんの妹にあたる平滋子(たいらのしげこ)を後白河上皇と結婚させます。
さらに、蓮華王院(れんげおういん、院政期の文化で解説予定)という立派なお寺をつくって、
後白河上皇にプレゼントしちゃいます。

このころ、親政を志す二条天皇と、院政をおこなう後白河上皇は対立しているのですが、
平清盛は両方といい関係を築いてるわけですよ!
いや~…揺るぎないわ~…

1167-2.jpg

そんな折、二条天皇が亡くなります。
かわって即位したのは、二条天皇の息子である六条天皇(ろくじょうてんのう)です。
このとき、まさかの生後7か月。
7か月ったらアナタ、1人でちゃんとおすわりもできない状態ですよ。
即位式なんて、途中で泣いちゃっておっぱい(もちろん乳母の)飲んだんだとか。
そりゃそーですよ、だって赤ちゃんだもん…

六条天皇の時代、皇太子に任命されたのは、
後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王(のりひとしんのう)です。
彼にとって平清盛は、お母さんのお姉ちゃんの旦那さんです。
ん?あぁ、一応オジサンだね、うん。
ということで、平清盛がお世話係を仰せつかることになります。

そんなこんなで平清盛はどんどん出世し、
1167年には太政大臣に任命されるにいたります。
このとき、彼は50歳です。

本来、太政大臣に任命されるのは、皇族か貴族だけなのですが、
平清盛は武士でありながらこれに就任しちゃったのです!
太政大臣に任命された武士は、日本史史上6名だけです。
1167-1.png
そうなんです、平清盛が最初なんですよ!
「最初の」とか「最後の」ってのは重要なので、しっかり覚えておきましょう。

*   *   *

ところで、そもそも太政大臣ってナニか分かってますか?
ちょっとここで飛鳥時代(8)のプリントで律令制度(りつりょうせいど)を振り返ってみましょう。

飛鳥8解答.jpg

このように、律令にはいろんな官職(かんしょく)が定められていますが、
なかでも一番エライのが太政大臣です。
ただし、ふさわしい人物がいないときは任命されない則闕の官(そっけつのかん)です。
(太政大臣不在のとき、一番エライのは左大臣です)

「ん?摂政とか関白が一番エライんじゃないの??」と疑問に思いましたか?
そうなんですよ、このへんややこしいんですよねー…

思い出してください、摂政も関白も令外官(りょうげのかん)です!
どちらも律令に定められていない官職です!!
だからこの律令の表には載っていないのです!!!

なのでねー、このころの太政大臣はただの名誉職になってしまっていて、
たいした権限はありません。
平清盛は、わずか3か月で辞職してしまいます。

とはいえ、皇族か貴族しか就任できなかったものに任命されたのですよ!
すごいことじゃないですか!!
考えられないことですよ!!!

ってなワケで、こんなウワサがあるのです。

 平清盛は、白河法皇の子どもだ

ギャーーー!!
また出た白河法皇ーーーーー!!!

1167-3.jpg
(なぜ鳥羽天皇が背後にいるのかは、1156年のゴロ合わせを復習してください)

実は、平清盛のお母さんが誰かというのは、明らかになっていません。
お父さんである平忠盛は、白河法皇に仕えた女性と結婚しているのですが、
彼女がお腹に白河法皇の子を宿していて、その子を平清盛として出産した…のかもしれません。

ウワサはウワサ。
ホントのところは分かりません。

ただ、このウワサは当時もそこそこ広まっていたようです。
白河法皇の子どもだから、平清盛は武士なのに太政大臣になれたんだ、的な感じでね。
そんなウワサがたっちゃうぐらい、考えられないような大出世を遂げたということです。

いや~…

それにしても白河法皇…

すごいわ…

それでは、今日のゴロ合わせ。

1167年.jpg

いやーん、平清盛ったらいい胸毛してますね☆
「ダイジョーブ?」から、ダイジョー大臣を思い出してくださいね!






次回は、1177年に起きた鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)をお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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1159年 平治の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、平治元年(へいじがんねん)、西暦1159年に起きた
平治の乱(へいじのらん)を取り上げます。

まずは、対立関係を表でみてみましょう。

1159-1.jpg

前回の保元の乱(ほうげんのらん)から3年しか経っていないというのに、新キャラが続々と!
しかも名前が似たり寄ったりでややこしい!!
ホント受験生泣かせですよね…

なるべく簡潔に解説していきますので、
頭を整理しながらついてきてくださいねー!!



保元の乱に勝利した後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、政治改革を推し進めます。
その改革のブレーンとなったのが、信西(しんぜい)です。
もとは藤原通憲(ふじわらのみちのり)という名前の貴族だったのですが、
このころには出家していて、信西というボーズネームを名乗っています。

どうして信西がブレーンになれたのかというと、
本人が頭脳明晰(ずのうめいせき)であることに加えて、
奥さんが後白河天皇の乳母(うば)だったからです。

乳母って分かりますか?
赤ちゃん用のミルクがないこの時代、
お母さんのおっぱいの出がよろしくないと、赤ちゃんが死んでしまうことさえありました。
そうならないためにも、めっちゃ母乳の出る女性を授乳係として雇うことがあったのです。
お母さんにかわっておっぱいを与えてくれる女性、それが乳母です。

ちなみに、母乳が出るのは出産から数年以内の女性に限られます。
とゆーことは…
そうです、乳母にも赤ちゃんがいるのです。
雇い主の赤ちゃんに授乳し、我が子にも授乳するのです。
しかも、授乳の順番は雇い主の赤ちゃんが先なんだそうですよ。
うーん、たいへんだぁ~…

信西の奥さんが後白河天皇の乳母に選ばれたのは、
後白河天皇が産まれて間もなくのことだったようです。
(このとき信西とすでに結婚していたかどうかは不明です)
しかし、このころ彼女が出産したという記録は残っていません。

ん?てことは??
そう、おっぱい出ないんです。

実は、乳母というのは授乳するだけではないのです。
身分の高い人々の間では、育児はしかるべき人物にお任せする、という慣例がありました。
その育児を担当する女性も、乳母と呼ばれたのです。

つまり信西の奥さんは、後白河天皇の養育を専門とする乳母だったのです。
そんなこんなで信西は、後白河天皇の時代に力をのばし、改革を進めてゆきます。

① 保元の乱のあと、後白河天皇のブレーンである信西が改革をおこなう
まずはこれを頭に入れてください。

*   *   *

このころ信西は、軍事力が必要だと考えるようになります。
それは、保元の乱で荒れた京都の治安を守るためであり、
各地の荘園を管理するためであり、
そしてなにより、自らが進める改革に対する反発を抑え込むためです。
そこで信西が手を組んだのが、最大の兵力をほこる平清盛(たいらのきよもり)です。
信西は、平清盛の軍事力を背景に改革を推し進め、
平清盛は、信西の力をかりて一族の出世をはかってゆくのです。

② 信西と平清盛が手を組んで、それぞれ力をのばしてゆく
ここまではOKですね?
さぁ、いよいよややこしくなってきますよぉ~…

*   *   *

1158年、後白河天皇は息子に譲位し、二条天皇(にじょうてんのう)が即位します。
これを決定したのは、信西と美福門院(びふくもんいん)です。
美福門院は、保元の乱でも登場した鳥羽法皇(とばほうおう)の奥さんですよ~。

二条天皇は、生まれて間もなくお母さんを亡くしたので、
おじいちゃんである鳥羽法皇に引き取られ、美福門院によって育てられます。
やがて美福門院は、我が子同然の二条天皇の即位を願うようになります。
鳥羽法皇亡きあと、ものすごい広さの荘園を相続した美福門院の発言力は相当なもので、
またそもそも後白河天皇は、二条天皇が成人するまでのツナギで即位したため(詳しくは保元の乱で!)、
信西は美福門院の要求を聞き入れるしかなかったようです。

こうして天皇の座を退いた後白河上皇(ごしらかわじょうこう)は院政を開始し、
親政をめざす二条天皇と対立するようになるのです。

③ 後白河上皇と二条天皇が対立する
このころ後白河上皇は、信西にかわるあらたな家臣を探しはじめます。

*   *   *

院政をおこなうなかで、
後白河上皇は藤原信頼(ふじわらののぶより)という貴族を頼るようになります。
信頼(のぶより)を信頼(しんらい)しちゃうわけですね~、ははは。
藤原信頼のように、院政をおこなう上皇の近くに仕える家臣のことを、
院近臣(いんのきんしん)といいます。
信西ももちろんその1人です。

ちなみに、藤原信頼は源義朝(みなもとのよしとも)と手を組んでいます。
源義朝は、保元の乱で平清盛とともに戦い、後白河天皇サイドを勝利に導いた武士でしたね。

④ 後白河上皇が、藤原信頼(源義朝と手を組む)を頼るようになる
なぜ後白河上皇が藤原信頼を頼るようになったのかというと、
ズバリ2人が“おホモダチ”だったから!という説があります(諸説アリマス)。
腐女子ども、「キャー!!」と興奮することなかれ、
男色(だんしょく、今風にいうとBLですね)は、この時代フツーのことです。
また後日、詳しく?述べたいと思います。

*   *   *

さて、信西はどうしているのかというと、
自分の子どもたちを次々と出世させ、ますます力をのばしている真っ最中です。
おぉっと、これはまわりのヒンシュクを買うパターンですねー。

ただですねー…
信西ムカつくからボッコボコにしたいなぁーって思ってもですねー…
彼の近くには平清盛がいるんですよ。

めっちゃ強いんですよ!
兵力ハンパないんですよ!!
手出しできないんですよ!!!

1159-6.jpg

⑤ 信西ムカつく、でも平清盛が怖すぎて手が出せない
ちなみに、藤原信頼と手を組んでいる源義朝ですが、
保元の乱の恩賞が平清盛より少なかったことにかなり不満を抱いています。
でも、平清盛には敵(かな)いそうにないので、何も言えずにいます…

*   *   *

なんとそんなとき!
平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけます!!

熊野詣については、平安時代(15)で詳しく述べていますが、
簡単に言うと、紀伊半島のさきっちょにある神社を参詣(さんけい)することです。

そーなんです!
あの平清盛が、平安京から遠く離れた神社までお参りしに行っちゃったのです!!
これは信西をボッコボコにするチャンスです!!!

すかさず藤原信頼と源義朝は立ち上がります。
まずは、後白河上皇の邸宅である三条殿(さんじょうどの)を襲撃し、
後白河上皇の身柄(みがら)を確保します。
そして、二条天皇も一緒に幽閉(ゆうへい、閉じ込めてしまうこと)してしまいます。

この様子は、鎌倉文化で紹介する「平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)」に描かれています。
Heiji_no_ran.jpg
燃えさかる三条殿を背景に、残酷な場面がさまざまに描かれています。
なかには戦乱に巻き込まれる女性の姿も確認できますね。

⑥ 平清盛が熊野詣に出かけた隙に、藤原信頼と源義朝が挙兵し、後白河上皇と二条天皇を幽閉したうえで信西を排除しようとする
てか、「藤原信頼と源義朝は後白河上皇の味方なのに、何で襲撃してんの?」ってパニくりません?
こーゆーところがややこしいんですよねー…
朝廷の軍隊を官軍(かんぐん)、それに敵対する軍隊を賊軍(ぞくぐん)と呼ぶように、
天皇や上皇をいただく軍隊は、正当性のある軍隊です。
よって、藤原信頼と源義朝は、信西を排除するという自分たちの行動が正当なものであるよう、
また二条天皇と後白河上皇の身柄が信西や平清盛に奪われ、自分たちが賊軍となってしまわないよう、
まず三条殿を襲撃したのだと考えられます。
それにしても、こんな手荒な方法しかなかったんですかねぇ…

*   *   *

ところで、信西はどうなったのかというと、この混乱のなか、なんとか平安京を脱出し、
山城国の田原(たわら、現在の宇治田原町(うじたわらちょう))という場所まで逃れます。
そして、大きな箱のなかに入り、家来たちに命じて土の中に埋めてもらいます。

ちょ…
ほんまにそんな隠れ方する人おるんですね…
しかも、箱には竹筒をさして、ちゃんと息を吸えるようにしておいたというんだからカンペキです!

しかぁし!
家来たちは追手(おって)の尋問に耐えられず、信西の居所はすぐにバレてしまいます…

1159-7.jpg

うぅ…ここまでしたのに…む、無念…
信西は、掘り起こされる最中、自ら喉をついて命を絶ったようです。

その後の信西の様子は、さきほども登場した「平治物語絵巻」に描かれています。
1159-3.jpg
↑ どこに信西がいるか分かりますか?
分かりにくいでしょうから、ちょっと赤丸をつけてみますね。
1159-4.jpg
↑ ワァァァー!いたァァァァーー!!(涙)
胴体から切り離された信西の首は、薙刀(なぎなた)にひっつけられて平安京まで運ばれたのです。
絵巻には、その様子を見た人たちが息をのんだり、ひそひそ話をしたりする姿も描かれていますね。

⑦ 信西が自害する
信西の子どもたちも次々と捕らえられ、のちに流罪となります。

*   *   *

クーデターを成功させた藤原信頼は、ついに政権を手に入れます。
ところがどっこい!
このタイミングで、熊野詣を中断した平清盛がいそぎ平安京に戻ってくるのです!!

藤原信頼の血なまぐさいやり方に不満をもつ者も多いなか、
ものすごい兵力を率いる平清盛が戻ったことで、藤原信頼の政権は揺らぎます。
さらになんと、二条天皇が夜な夜な平清盛の邸宅に逃げてきて、
藤原信頼と源義朝を討つよう命じるのです!

朝になり、二条天皇がいないことに気が付いた藤原信頼と源義朝はもうパニックです。
しかも、二条天皇の動向を知った後白河上皇もすでに逃げ出しているという始末。
藤原信頼と源義朝は、一夜のうちに賊軍になってしまったのです…

1159-8.jpg

⑧ 帰京した平清盛に、二条天皇が藤原信頼・源義朝の追討を命じる
後白河上皇と藤原信頼のカンケイって、そんなもんだったんですねぇ…

*   *   *

官軍となって勢いづいた平清盛は、藤原信頼と源義朝を討つため、
息子の平重盛(たいらのしげもり)や、弟の平頼盛(たいらのよりもり)らと出陣します。
それを迎え撃つ源義朝は、
息子の源義平(みなもとのよしひら)・源頼朝(みなもとのよりとも)らを率いて戦いますが、
平清盛との兵力の差は歴然で、敗れてしまいます。
なんとか東国へ逃れようとしますが、源義朝は尾張国(おわりのくに)で謀殺(ぼうさつ)され、
その後、源義平も捕らえられて斬首となります。

藤原信頼はというと、自ら出頭し、言い訳をしまくりますが、
三条殿を襲撃し、信西を殺害した首謀者として斬首されます。

1159-5.jpg

⑨ 藤原信頼が処刑され、源義朝は殺害される
ちなみに、源頼朝はというと、東国へ逃れる途中でお父さんとはぐれてしまいます。
その後、捕らえられ、処刑されるところを、
平清盛のお母さん(実母ではありません)が「命だけは助けてあげて」と訴えたため、
伊豆国(いずのくに)に流罪となります。

だって源頼朝、このとき13歳なんですよ!
処刑するなんて、あまりにもかわいそうじゃないですか!!

でもねー…
この優しさが平氏を滅ぼすことになっちゃうんですよねー…

*   *   *

長くなりました、ホントに長くなりましたゴメンナサイ。
なるべく簡潔にと言っておきながら、全然短くまとまんなかったですゴメンナサイ。

とにもかくにも、まずは青字で書いたを覚えて平治の乱の大枠(おおわく)をとらえ、
そのあと細かいところを読んで理解を深めてください。

最後にゴロ合わせを載せておきましょう★

1159年.jpg






保元の乱も平治の乱も、武士の力によって決着がつきました。
みんなが武士の実力を、とくに平氏の実力を認めざるをえなくなります。
というわけで、次回は平氏政権をゴロ合わせとともにお届けします。

更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/平治の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/信西
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1156年 保元の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、保元元年(ほうげんがんねん)、西暦1156年に起きた
保元の乱(ほうげんのらん)を取り上げます。

保元の乱とは、
兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に、
兄・藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立が重なり、
それぞれに武士である平氏・源氏が加わって大規模な武力衝突に発展してしまった、
壮絶な兄弟ゲンカです。

最初に、対立関係を表にまとめておきましょう。

1156-1.jpg

う~ん、登場人物が多くてすでにややこしいですね…
なので、今回は天皇家の対立に焦点をしぼって、保元の乱を見ることにしましょう。
崇徳上皇と後白河天皇、この2人の対立の原点は、
どうやら彼らのお父さんである鳥羽天皇(とばてんのう)にあるようです。



鳥羽天皇は、1107年にお父さんである堀河天皇(ほりかわてんのう)の死去にともない即位します。
このときわずか5歳。
よって、おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう、1096年ごろ出家)が院政(いんせい)をおこないます。

それから16年後、鳥羽天皇は息子に天皇の位を譲ります。
即位した崇徳天皇(すとくてんのう)は、これまた5歳。
もちろん院政が敷かれます。
院政をおこなったのは、崇徳天皇のお父さんである鳥羽上皇(とばじょうこう)ではなく、
これまた白河法皇です。
崇徳天皇にとっては、ひいおじいちゃんにあたる人物です。

こんな風に白河法皇がずぅぅーーーっと君臨し続けるので、
鳥羽上皇は、天皇としても、上皇としても、まったく権力を握れない日々を送ります。
ちょっとじいさん!いい加減 引退してくれよ!!って感じですよね。

といっても、じいさんの時代がいつまでも続くわけではありません。
1129年、白河法皇は77歳でこの世を去るのです。

さぁ!
ついに鳥羽上皇が権力を握る日がやって来ましたよ!!

てなわけで、鳥羽上皇はさっそく院政を敷き、白河法皇の側近たちを次々と排除します。
そして、1141年には崇徳天皇に譲位を迫り、息子の近衛天皇(このえてんのう)を即位させます。
近衛天皇は、このとき3歳。
院政をおこなうのは、もちろん近衛天皇のお父さんである鳥羽上皇です。

ところが…
1155年、近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます…

次に即位したのは、近衛天皇のお兄ちゃんにあたる後白河天皇です。
鳥羽法皇(とばほうおう、1142年に出家して法皇となる)としては、
孫(後白河天皇の息子、のちの二条天皇(にじょうてんのう))を天皇にしたかったのですが、
さすがに天皇になったことのないお父さんを差し置いて即位しちゃいかんだろ…ということで、
急遽、即位することになったのです。
そんな後白河天皇は、このとき29歳。
かなりイイトシなのですが、鳥羽法皇は院政を継続します。

うーん、なんだか人間関係がややこしくなってきたので、
ここでちょっと系図を確認するとしましょう。

1156-1-2.jpg

崇徳上皇・近衛天皇・後白河天皇は、みーんな鳥羽法皇の息子とゆーことですよ。
いや~、ややこしいですね~…

ここまでの流れは理解できましたか?
では、続きを見ていきましょう。

*   *   *

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなります。

この直前、息子である崇徳上皇は、鳥羽法皇のお見舞いに出かけます。
ところが、お父さんに面会を拒否されてしまうのです!
しかも、「私が死んでも崇徳上皇に遺体は見せるな」という遺言つき!!

なにそれ!
ちょっとヒドくないですか!!

実は、鳥羽法皇と崇徳上皇の関係は、かなり前からギスギスしていたのです。
ここで、崇徳上皇が天皇の位を譲ったときに話を戻してみましょう。

*   *   *

崇徳天皇は、白河法皇の死後、鳥羽上皇から譲位を迫られ、
かわって近衛天皇が即位したんでしたよね。

近衛天皇は崇徳上皇の弟ですが、崇徳上皇の奥さんの養子になっていたので、
ながらく「皇太子」のポジションにありました。
ところが実際、近衛天皇が即位したときには、
「皇太弟」のポジションから天皇になった、という風に変わっていたのです!
崇徳上皇の弟、つまり鳥羽上皇の息子として即位した、ということです。
結果、院政は天皇のお父さんである鳥羽上皇がおこなうこととなり、
天皇のお兄ちゃんである崇徳上皇は、権力を手にすることはできませんでした。

その後、近衛天皇は若くして亡くなったのでしたね。
次の天皇として有力視されたのは、崇徳上皇の息子でした。
もし彼が即位すれば、崇徳上皇は天皇のお父さんなので、院政をおこなえる可能性がでてきます。

ところが鳥羽法皇は、崇徳上皇の弟である後白河天皇を即位させたのでしたね。
さらに、後白河天皇の息子(のちの二条天皇)を皇太子にたて、
次の天皇とすることも決定しました。

鳥羽法皇によって、
崇徳上皇の息子が天皇になること、
そして崇徳上皇が院政をおこなう可能性は完全に絶たれてしまったのです。
そこに死の間際の面会拒否とあの遺言ですよ。

いやぁ~…崇徳上皇マジでかわいそすぎます…
鳥羽法皇は、崇徳上皇のナニが気にいらないとゆーのでしょう!

1156-3.jpg

ここで1つ、なんとも怪しいウワサ話を紹介しましょう…
(以降、便宜上、「崇徳上皇」で名称を統一します)

崇徳上皇のお母さんは、
待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし、または、たいけんもんいんたまこ)といいます。
白河法皇に育てられた女性で、1117年に鳥羽天皇と結婚し、7人の子を産みます。
崇徳上皇は、その最初の子どもです。

ところが。
ところがですよ。

崇徳上皇のほんとうのお父さんは白河法皇である。

なんてゆーウワサがたつのです!
鳥羽天皇からすると、奥さんと、自分のおじいちゃんとの間にできた子です。
うぅぅぅーん、ちょっと相当キモいですよね…

1156-4.jpg

そんな息子に譲位した鳥羽上皇は、
やがて美福門院得子(びふくもんいんなりこ)という別の奥さんを愛するようになります。
そして、彼女が産んだカワイイ我が子を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫ったというわけです。

このウワサは、鎌倉時代に成立した『古事談(こじだん)』という本にしか載っていないので、
真偽のほどは分かりませんし、当時どれだけ広まったのかも分かりません。
でも、鳥羽法皇の崇徳上皇に対する態度を見ると、
「ウワサは本当なのかも…」と思ってしまいますね…

*   *   *

鳥羽法皇が亡くなったところに話を戻しましょう。

鳥羽法皇が亡くなり、なんかもういろいろショックを受けている崇徳上皇に、
さらなる追い打ちがかかります。

崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている。

というウワサが流れるのです。

藤原頼長とは、お兄ちゃんである関白の藤原忠通と対立している左大臣です。
(この兄弟の対立については、平安時代(16)のまとめプリントで詳しく述べる予定です)
またウワサかぃ!と突っ込みたくなりますが、ウワサほど怖いものはありません…
これにより、藤原頼長は財産を没収されてしまうのです。
もはや謀反人(むほんにん)扱いです。

このままでは自分も危ないと悟った崇徳上皇は、自宅を脱出します。
藤原頼長はそんな崇徳上皇と合流し、
ここに平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためよし)・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士が加わります。

こうした崇徳上皇側の動きに、後白河天皇と藤原忠通もすかさず
平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士を集めます。

そして1156年7月11日の未明、両勢力は激突するのです。
世にいう保元の乱です。

勝敗は、わずか数時間で決します。
勝利したのは、後白河天皇側です。

敗北した崇徳上皇は、投降のすえ讃岐国(さぬきのくに)に流罪となり、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。
なお、藤原頼長は戦いのさなかに命を落としています。

1156-5.png

ちなみに、
天皇・上皇の流罪は、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)以来(淳仁天皇が淡路島に流罪)、
死刑の執行は薬子の変(くすこのへん)以来(藤原仲成が処刑)のことです。

ここで、保元の乱についての史料を見ておきましょう。

保元元年(1156年)七月二日、〔1   〕院失セサセ給(たまひ)テ後、日本国ノ乱逆(〔2   〕のこと)ト云(いう)コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ
(出典:慈円(じえん)『〔3   〕』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…鳥羽(鳥羽法皇の死去→保元の乱の勃発、この順序を押さえておけば答えられますね)
 2…保元の乱
 3…愚管抄(ぐかんしょう、鎌倉文化で紹介する歴史書)

この史料のなかで重要なのは、「ムサノ世」という言葉です。
中央政界における争いを、武士の力で解決した保元の乱は、
貴族の無力さと武士の実力を世に広め、武士が政界に進出するきっかけを与えました。
つまり日本は、保元の乱によって武士が政権をとる「武者の世」となったのです。

*   *   *

余談ではありますが、最後に崇徳上皇の讃岐国での様子を見ておきましょう…

ところで、讃岐国ってどこか分かりますか?
讃岐と言えば…
そう!うどんで有名ですよね!!さぬきうどん!!!
「それでも分からん!」という人は、飛鳥時代(11)を復習してください。

讃岐国に流罪となった崇徳上皇は、仏教を深く信仰するようになり、
たくさんの写経(しゃきょう、お経を書写すること)をおこないます。
そして、保元の乱で亡くなった人々の供養(くよう)と、自身の反省の証にしてほしい…と、
それらをまとめて朝廷に送ります。

ところが!
ところがですよ!!

後白河天皇は、「これ、呪い(のろい)が込められてるんちゃうの!」とキモがり、
ぜんぶまとめて崇徳上皇のもとに送り返すよう命じるのです!!!

ちょ!
後白河!!

あかん!
それは絶対にあかん!!

でもホントに送り返しちゃったんですよねー…

もちろん崇徳上皇は怒り狂います。
その怒りはすさまじく、舌を噛み切り、その血でもって
「大魔王になって、天皇を没落させ、民をこの国の王にしてやる」
というような内容を、送り返されてきたお経に書いたほどだったとか。

その後、崇徳上皇は讃岐国で生涯を閉じるのですが、
亡くなるまで髪の毛や爪を伸ばし続けて天狗になった、とか、
崇徳上皇の遺体をいれた棺(ひつぎ)から血があふれ出した、とか、
なんとも怖いウワサが残っています。
やがて崇徳上皇は、怨霊(おんりょう)として人々からおそれられるようになるのです。

崇徳上皇の魂が京都に戻るのは、明治時代の直前のことです。
明治天皇が即位する際、京都に神社を建てて崇徳上皇を祀(まつ)ったのです。
平安時代末期に天皇が武士に政権を奪われたのは、崇徳上皇の呪いによるものだ、
という考えが幕末期まで続いていたのでしょう…
大政奉還によって政権が天皇(朝廷)に返上されたタイミングで、
崇徳上皇はようやく京都に帰ることができたのです。

なお、崇徳上皇は讃岐国で2人の子どもに恵まれた、
というほっこりエピソードも残っています。
幸せな面もあったんだね…ホントに良かった……(涙)

長くなりました。
最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1156年.jpg

キレていい、キレていいよね、崇徳上皇…

すみっこにいるマッスルキャラについては、平安時代(16)をご覧ください。



次回は、平治の乱(へいじのらん)をゴロ合わせとともにお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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1086年 院政を開始する [年号のゴロ合わせ]

前回は、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を取り上げました。
これを発令した後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にかわって即位したのは、
息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。

白河天皇は、お父さんにならって親政(しんせい)をおこないますが、
1086年、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲り、
上皇(じょうこう)として院政(いんせい)を開始します。

白河上皇(しらかわじょうこう)は、なぜ院政を始めることにしたのでしょうか。



白河天皇は即位するとき、まだ子どもがいなかったため、
弟の実仁親王(さねひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)に立てられます。
実仁親王、このときわずか2歳です。
そんな幼い実仁親王を皇太弟に立てることを強く望んだのは、
2人のお父さんである後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)です。

前回述べた通り、後三条上皇は、
藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)を外戚としない天皇でした。
ゆえに、摂関家に遠慮することなく、
延久の荘園整理令などの改革を強力に押し進めることができたのです。

しかし、白河天皇のお母さんは、藤原北家の出身です。
(藤原能信(ふじわらのよしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし、または、ふじわらのしげこ))

一方、実仁親王のお母さんは、藤原北家の出身ではありません。
(源基平(みなもとのもとひら)の娘である源基子(みなもとのきし、または、みなもとのもとこ))

後三条上皇は、摂関家と外戚関係にある白河天皇よりも、
自分と同じように、摂関家と外戚関係にない実仁親王の即位を願ったのです。

この願いは相当強かったようで、1073年に後三条上皇がこの世を去る際、
もし実仁親王にナニかがあった場合は、弟の輔仁親王(すけひとしんのう)を皇太弟にするように、
という遺言(ゆいごん)を残したほどです。

1086-1.jpg

その後、後三条上皇の心配は的中し、
1085年、実仁親王は15歳の若さでこの世を去ってしまいます…
ということで、後三条上皇の遺言どおり、輔仁親王が皇太弟になる…

のかと思いきや!!!

なんと翌1086年、白河天皇は息子を皇太子(こうたいし)に立て、
なんとなんと、その日のうちに息子に天皇の位を譲ってしまったのです!!
後三条上皇の遺言、ガン無視です!!!

こうして誕生したのが、堀河天皇なのです。

このとき堀河天皇はまだ8歳ということで、
お父さんである白河上皇が補佐にあたります。

そう、これが院政のはじまりです。

つまり院政とは、白河天皇が、弟ではなく、
自分の息子に天皇の位を譲りたかったがために始まった政治体制なのです。

しかし、ここで1つ疑問がわきませんか?
天皇が幼少のときは、摂政が補佐するんじゃないの??って。

ハイ、その通りです。
堀河天皇の即位に際して、ちゃんと摂政が置かれていて、
白河上皇はその摂政と協調関係を築きながら政務を執ったようです。

しかし、堀河天皇の成人後、22歳のワカゾーが関白に就任したこと、
さらに、堀河天皇の死後、その息子である鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したことで、
白河法皇(しらかわほうおう、上皇が出家すると法皇になります)に権力が集中するようになり、
院政はどんどん強力な政治体制となっていったのです。

結果、白河上皇は、息子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、
そしてひ孫の崇徳天皇(すとくてんのう)の3代にわたって院政を敷くことになるのです。

1086-2.jpg

ちなみに上皇とは、譲位した天皇を指すんでしたね。
正式名称は太上天皇(だいじょうてんのう、または、だじょうてんのう)で、
平安時代中期ごろから上皇と省略して呼ばれるようになったようです。
また、上皇の住居を院(いん)と呼んだのですが、
それがいつの間にやら上皇自身を指す言葉にもなったようです。

というわけで、
上皇(院)による政治を院政と呼び、
その役所を院庁(いんのちょう)、院庁の職員を院司(いんし)と呼び、
院庁から下される命令文を院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)、
上皇の命令を受けて院司が下す命令文を院宣(いんぜん)と呼びます。

とにかく、なんでもかんでも「院」がつくので覚えやすいです(笑)

*   *   *

では最後に、白河上皇による院政を史料で見ておきましょう。

禅定法王(ぜんじょうほうおう、〔1   〕のこと)は、〔2   〕院崩後(ほうご、亡くなった後ということ)、天下の政をとること五十七年、在位十四年、位を避るの後四十三年。意に任せ、法に拘(こだわ)らず、除目(じもく)・叙位(じょい、いずれも官位の人事のこと)を行ひ給ふ。古来未(いま)だあらず。(中略)威(い)四海に満ち天下帰服(きふく)す、幼主三代(堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代のこと)の政をとり、斎王(さいおう、伊勢神宮などに奉仕する皇女のこと)六人の親となる。桓武以来、絶えて例なし。聖明の君、長久の主と謂(い)ふべきなり。但し理非決断(りひけつだん、裁判をしっかりとおこなうこと)、賞罰分明(しようばつぶんめい、賞と罰をはっきりとおこなうこと)、愛悪掲焉(あいおけちえん、いつくしみと憎しみとが著しいこと)にして、貧富は顕然なり。男女の殊寵(しゅちょう、男女の近臣を優遇すること)多きにより、已(すで)に天下の品秩(ほんちつ)破るゝなり。
(出典:藤原宗忠(ふじわらのむねただ)『中右記(ちゅうゆうき)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…白河上皇
 2…後三条

大学入試で頻出する史料ではありません。
空欄にあてはまる語句と、これが白河上皇の院政について言及した史料であることさえ分かっておれば、
まぁ大丈夫!といったところです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1086年.jpg



次回は、保元の乱(ほうげんのらん)を見ていきます。

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1069年 延久の荘園整理令を出す [年号のゴロ合わせ]

私事ですが、先日第2子を出産しました。
ただでさえのろのろ更新のブログですが、さらに更新が滞るかもしれません…
申し訳ありませんが、何卒ご了承くださいませ。

*   *   *

今日は、1069年に後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が発令した、
延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を、ゴロ合わせとともに紹介します。

まずは、後三条天皇の外戚(がいせき)が誰なのか、系図で確認してみましょう。

1069-1.jpg

外戚とは、お母さん側のおじいちゃんのことでしたよね。
後三条天皇のお母さんは禎子内親王(ていしないしんのう)で、
彼女のお父さんは三条天皇ですので、
後三条天皇の外戚は三条天皇となります。

そうなんです!
後三条天皇の外戚は、藤原北家(ふじわらほっけ)ではないのです!!
摂関家(せっかんけ)と外戚関係にないのです!!!

といっても、禎子内親王のお母さんは、
藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)です。
後三条天皇は、摂関家と血のつながりがあるのです。
しかし、外戚関係ではありませんし、
なにより禎子内親王は、藤原北家とあまり仲がよろしくなかったようです。

摂関家を外戚としない天皇の即位は、
宇多天皇以来、なんと約170年ぶりのことです。
後三条天皇は、一体どのような経緯で即位することになったのでしょうか。

*   *   *

後三条天皇の前の天皇は、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
後冷泉天皇が即位するとき、まだ子どもがいなかったので、
弟である尊仁親王(たかひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)と定められます。

その後、藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、
一人娘の藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を後冷泉天皇と結婚させます。

2人の間に子どもが生まれれば、すぐさま尊仁親王を皇太弟の座から引きずりおろし、
その子ども(藤原頼通にとっては孫)を皇太子、そしてゆくゆくは天皇とし、
自らは天皇の外戚として絶大な権力を手に入れる…という計画のための政略結婚です。
そして、この計画が実現するものだと信じて疑わない藤原頼通は、
邪魔でしかない皇太弟を冷遇します。

ところが…

後冷泉天皇は、藤原寛子との間に子どもをもうけることなくこの世を去ってしまうのです。
父である藤原道長のように、藤原頼通は天皇と外戚関係を築くことができなかったのです。

結果、皇太弟の尊仁親王が即位します。
そう、藤原頼通に冷遇されてきた彼こそが、後三条天皇なのです!

こうして摂関家を外戚としない後三条天皇が誕生し、
彼は摂関家に遠慮することなく(冷遇されてきたんだしね!)、さまざまな改革に乗り出すのです。

藤原北家の栄華は、ここに終わりをつげることになるのです。



後三条天皇は、さっそく大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者を登用し、
親政(しんせい)を開始します。
そして1069年、延久元年(えんきゅうがんねん)に、荘園整理令を発令するのです。
これを、延久の荘園整理令と呼びます。

まずは、史料で見てみましょう。

コノ〔1   〕位(くらい)ノ御時(おんとき)、(中略)〔2   〕ノ〔3   〕(〔4   〕のこと)トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨(せんじ、官の命令を伝える文書のこと)・官符(かんぷ、太政官からくだす文書のこと)モナクテ公田(くでん)ヲカスムル(横領すること)事、一天四海(全世界のこと)ノ巨害(こがい)ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(うじどの、〔5   〕のこと)ノ時、一ノ所(いちのところ、摂関家のこと)ノ御領(ごりょう、摂関家領のこと)御領トノミ云(いい)テ、庄園諸国ニミチテ〔6   〕ノツトメタヘガタシナド云(いう)ヲ、キコシメシモチタリケル(聞き入れ、用いられたということ)ニコソ。(以下略)
(出典:慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…後三条
 2…延久
 3…記録所(きろくしょ)
 4…記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)
 5…藤原頼通(宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てたため、宇治殿と呼ばれる)
 6…受領(ずりょう)

大学入試では、この空欄にあてはまる語句を問うパターンと、
「宇治殿」から藤原頼通について問うパターンが非常に多いです。
しっかりと押さえておきましょう!

この史料を簡単に訳すと、

後三条天皇の時代、はじめて延久の記録所が設置されたのは、
全国の荘園が、宣旨や官符で認められたわけでもないのに公田を横領しているのは大いなる害であること、
また、藤原頼通の時に、「摂関家領だ!摂関家領だ!!」と言って諸国に荘園があふれ、
受領の任務が果たせないなどという不満の声があがっていることを、
後三条天皇が聞き入れられたからであろう。

となります。

つまり後三条天皇は、荘園の増加が公領(こうりょう、国衙領(こくがりょう)のこと)を圧迫していると考え、
延久の荘園整理令を発令したのです。

902年に発令された延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)をはじめ、
これまでも何度か荘園整理令は出されています。
しかし、いずれも券契(けんけい)と呼ばれる荘園の証拠書類の審査を国司に任せていたため、
不徹底に終わっています。

そこで後三条天皇は、中央にある太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)に
記録荘園券契所(記録所)を設置し、
ここで、荘園の所有者が提出する券契と国司の報告とをあわせて厳密に審査し、
年代の新しいもの(1045年以降につくられた新しい荘園、なぜ1045年なのかは平安時代(10)のプリント参照)や、
書類不備のものなど、
基準にあわない荘園を停止したのです。

1069-2.jpg

しかも、摂関家や大寺社の荘園も例外とせず、
たとえば京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という大きな神社の荘園は、
34か所のうち13か所の権利が停止されたと伝わっています。

延久の荘園整理令はかなりの成果をあげ、
これにより、
・ 貴族や寺社の支配する荘園
・ 国司の支配する公領(国衙領)
両者の区別が明確になります。

そして、荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立することになるのですが、
これはまたのちのち、まとめプリントでお話ししたいと思います。

*   *   *

後三条天皇は、このほか1072年に宣旨枡(せんじます)を制定し、
枡の大きさを統一しています。
これは、太閤検地(たいこうけんち)で京枡(きょうます)という新たなものがつくられるまで、
公定の枡として使用されることになります。

といっても、荘園ではいろんな枡が使われていたようですが…

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1069年.jpg

永久(えいきゅう)に…というゴロ合わせですが、
延久(えんきゅう)の荘園整理令ですのでね!
間違えて覚えないでくださいね!!



次回は、院政のゴロ合わせを見ていきます。

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1052年 末法元年 [年号のゴロ合わせ]

今日は取り上げるのは、末法思想(まっぽうしそう)です。

末法思想とは、
末法(まっぽう)の世になれば、仏法(ぶっぽう)が衰えて乱世(らんせ)になるであろう!という、
仏教の予言思想です。

平安時代、末法の世は永承(えいしょう)7年にスタートすると考えられていました。
西暦になおすと、1052年です。

この年、すなわち末法元年(まっぽうがんねん)が近づいてくると、
人々の間に「もうすぐ末法の世とやらに突入してしまう!ヤバイ!!」という、
とてつもない不安がひろがってゆきます。

せまり来る末法に、人々はどう対処したのでしょうか…



仏教の開祖(かいそ、その宗教をはじめてひらいた人)は誰か、分かりますか?

答えは、ガウタマ・シッダールタ、というインド人です。
言語によって発音が異なるため、ゴータマ・シッダッタなどと表記される場合もあります。
ほかに、釈迦(しゃか)とか、釈尊(しゃくそん)とか、ブッダとか、いろいろな呼び名があります。

ガウタマ・シッダールタの生涯を描いた作品といえば、手塚治虫さんの漫画『ブッダ』が有名です。
読んだことありますか?
これは名作ですよ~!
ちなみに、ブッダというのは「目覚めた人」、つまり、悟(さと)りをひらいた人、という意味です。

ガウタマ・シッダールタの詳しい生涯については、『ブッダ』をお読みいただくことにして(笑)、
今日は、彼が亡くなったあとのことを見ていきます。

*   *   *

たくさんの教えを説いたガウタマ・シッダールタは、あるとき、80歳でこの世を去ります。
これを入滅(にゅうめつ)、とか、仏滅(ぶつめつ)といいます。
さぁ、問題はここからです…

ガウタマ・シッダールタが生きているならば、
「この教えは具体的にどういうことですか?」と、いくらでも本人に尋ねることができます。
でも、ガウタマ・シッダールタは亡くなってしまったのです。
もう直接質問することができないのです。

ガウタマ・シッダールタの死から時間が経つにつれ、
彼の説く正しい教え(仏法)や正しい行い(修行)はどんどんうすれてゆくのではないか…
そんな不安が人々の間に広がってゆきます。
末法思想は、まさにこの不安から生まれてくるのです。

末法思想では、入滅後の時間を、3つの期間に分けて捉えます。

まずは、ガウタマ・シッダールタの死から1000年間(500年間とする説もアリ)は、
正しい教えが伝えられ、修行して悟りをひらく人がいる、という期間です。
これを、正法(しょうぼう、または、しょうほう)といいます。

次に、そこからさらに1000年間は、
正しい教えが伝えられ、修行する人もいるけれど、悟りをひらく人は現れない、という期間です。
これを、像法(ぞうぼう)といいます。

では、像法が終わると…?
ガウタマ・シッダールタの死から2000年(1500年という説もアリ)が経ってしまうと…??

正しい教えはなんとか伝わっているけれど、
修行する人も、悟りをひらく人も現れない、という乱世に入ります。
これこそが末法なのです!

1052-1.jpg

ちなみに、末法はなんと10000年間続きます(千じゃないですよ!万ですよ!!)。
1052年スタートで、10000年間ですので…
そう、末法なうなのです!!
言われてみれば、あれもこれも末法だから?なんて気になってきますよねぇ…

*   *   *

末法思想に触れるとき、いつもノストラダムスの予言を思い出します。
ノストラダムスっておじさん、知ってますか?
いまの学生さんたちは、ほとんど知らないかもしれません…

むかーし昔、ノストラダムスというフランス人がいましてね。
「1999年に世界は滅びるであろう」なんていう恐ろしい予言を残したのですよ。

2017年のいまなら、「滅んでないやん!」の一言で笑い飛ばせるのですが、
当時は、1999年が近づくにつれ、テレビでもよく特集が組まれていたのです。
彼の予言にまつわる本もたくさん出版されて、ベストセラーになっていました。
うちの親も、御多分に洩れず、『ノストラダムスの大予言』みたいな本を買ってきましたからね…
小学生のころにその本を見て、
表紙の外人の顔も怖いし(もちろんノストラダムスですよ)、挿絵も怖いし、
夜も寝られないほどビビった記憶があります。
『ノストラダムスの大予言』がならんでいる本棚に、近づくことさえ怖かったくらいです。

1999年には高校生になっていましたけど、それでもちょっと本気にしてました。
「もうすぐ世界が滅びるんやったら、勉強せんでいいやん!」なんてゆー都合のいいことまで考えてましたからね。
結局、世界は滅びなかったので、勉強せなあかんかったわけですが…(笑)

ノストラダムスの予言ははずれ、ちゃんと21世紀はやって来ましたが、
それでも、そういうたぐいの特番って、テレビで定期的にやってるじゃないですか。
信じるか信じないかはアナタ次第、ってね。

これだけ科学が進歩した現代でさえ、
世界が滅びるみたいな予言を「嘘やろ!」って笑い飛ばしながらも、
心のどこかでなんかちょっぴり信じちゃうんですよ。

それなのにです!

11世紀ごろの人々が、「もうすぐ乱世がやってくるであろう」なんて予言を聞いたらどうなると思います?
だいぶ信じるんです!
いや、めちゃくちゃ信じるんです!!

しかも、ちょうどそのころ、各地でいろいろな災害が起きたり、
町では盗賊(とうぞく)や乱闘(らんとう)が頻発して治安が悪化するなどしていたようです。
そうするとね、それもこれも「みんな末法が近づいてきたせいだ!」と結びついてしまうのです!
そして、末法思想の信憑性(しんぴょうせい)が、ぐんぐん高まってしまうのです!!
怖いですよね…ほんと怖い。

そこで、人々は仏さまにすがるようになります。
浄土教(じょうどきょう)の発達です。

ちなみに、鎌倉時代に法然(ほうねん)がひらいたのは浄土宗(じょうどしゅう)です。
混同しないよう注意してください!

*   *   *

浄土教とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)、または、阿弥陀如来(あみだにょらい)と呼ばれる仏さまを信仰し、
来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願う教えのことです。

ぬぅぅぅ…漢字が多すぎてややこしいですね…
ざっくりかみくだいていきましょう。

まず、極楽浄土とは、幸せいっぱいの「あの世」のことです。
まぁキリスト教でいうところの天国みたいなもんですね。
で、阿弥陀仏(阿弥陀如来)は、その極楽浄土をつくった仏さまなのだそうです。

つまり、極楽浄土をつくった阿弥陀仏をひたすら信じることで、
この世を去ったら極楽浄土に生まれ変わりたい…と願うのが、浄土教なのです。
分かりますか?

でも、どうやったら極楽浄土に往生することができるんでしょうか…

それがアラ簡単!
阿弥陀仏の名前を口にするだけでいいんですって!!

それが、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏(ねんぶつ)なのです。
阿弥陀仏という仏さまの名前を念じるので、念仏といいます。
ちなみに、頭についている「南無(なむ)」は、
サンスクリット語で「あなたにおまかせします」という意味があるのだそうです。

念仏をとなえれば極楽浄土に往生できる…
ホンマかいな?と思うぐらい簡単なことですが、
簡単がゆえに、末法を目の前にした人々の間に、浄土教はぐんぐん広まってゆくのです。

*   *   *

ここで、浄土教を広めた人物を、3人紹介しましょう。
いずれも末法の世に入る前に活躍した人々です。

①空也(くうや)
浄土教を人々に説いてまわったお坊さんです。
とくに京都の市(いち)で念仏を広めたことから、市聖(いちのひじり)と呼ばれます。
鎌倉時代に康勝(こうしょう)がつくった空也の木像、有名ですよね!
Kuya_Portrait.jpg
口から何か出てますね…
空也が「南無阿弥陀仏」ととなえると、その1音1音が阿弥陀仏になった…という伝説をあらわしているのだそうです。
詳しくは後日、鎌倉文化で紹介します。

②源信(げんしん)、または、恵心僧都(えしんそうず)
念仏による極楽往生の方法を、『往生要集』(おうじょうようしゅう)という本にまとめお坊さんです。
その序文を見てみましょう。
夫(そ)れ〔1   〕の教行(きょうぎょう)は、濁世末代(じょくせまつだい、にごり果てた末法の世のこと)の目足(もくそく、道しるべのこと)なり。道俗貴賤(どうぞくきせん、出家した人とそうではない人、身分の高い人と低い人、ということ)、誰か帰せざる者あらむや。但(ただ)し顕密の教法(けんみつのきょうぼう、顕教と密教、つまりこれまでの仏教すべて、ということ)は、其(その)文一に非(あら)ず。事理の業因(ごういん)は、其の行(ぎょう)惟(こ)れ多し。(中略)是(こ)の故(ゆえ)に、〔2   〕の一門に依りて、聊(いささ)か経論の要文を集む。之(これ)を披(ひら)き之を修(しゅ)すれば、覚(さと)り易(やす)く行ひ易からん。(出典〔3   〕『4   』、原漢文)
空欄にあてはまる語句は次の通りです。
 1…極楽往生
 2…念仏
 3…源信、または、恵心僧都
 4…往生要集
入試では、この序文から本のタイトルと作者名、すなわち〔3   〕と〔4   〕を問うことが多いです。
〔1   〕や〔2   〕の語句を答える問題は、たま~に出るだけです。
しかも、ちゃんと選択肢が用意されています。
ちなみに、応天門の変で登場した源信(みなもとのまこと)とは別人ですからね!
漢字は一緒なので、気をつけてください!!

③慶滋保胤(よししげのやすたね)
『日本往生極楽記』(にほんおうじょうごくらくき)という本を書いた人物です。
これは、聖徳太子など、極楽浄土に往生した45人の伝記を集めたものです。
このような本を、往生伝(おうじょうでん)といいます。
ちなみに、平安京の右京が早くから荒廃していたことを記した『池亭記』(ちていき)の作者でもあります。

*   *   *

最後に末法思想のキーワードをあげておきましょう。
・末法元年=1052年(永承7年)
・浄土教の発達
 空也
 源信(恵心僧都)『往生要集』
 慶滋保胤『日本往生極楽記』

ところで、ガウタマ・シッダールタっていつ亡くなったのでしょう。
末法元年が1052年として逆算すると…紀元前949年ごろとなります。

しかし!

実は、ガウタマ・シッダールタがいつ生まれていつ亡くなったのか、
いまでもよく分かってないんですよ…

んじゃ、本当の末法のはじまりって、一体いつなのでしょうね…
正法の期間だって、500年説と1000年説があるわけで…

とりあえず、平安時代の人々は1052年スタートだと信じていたようなので、
この数字を末法元年として覚えておいてください!

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1052年.jpg



次回から、平安時代のまとめプリントの続きを見ていきます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F

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1083年 後三年合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、東北地方で起きた、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を取り上げました。

前九年合戦とは、
1051年に陸奥国(むつのくに)の安倍氏(あべし)が陸奥守(むつのかみ)と衝突し、
その後、かわって陸奥守となった源頼義(みなもとのよりよし)が、
出羽国(でわのくに)の清原氏(きよはらし)の協力を得て、安倍氏を平定した、
という出来事でしたね。

前九年合戦で陸奥国の安倍氏が滅亡すると、出羽国の清原氏は、陸奥国にも勢力を広げます。
質のよい馬が育ち、砂金がたくさんとれる、
そんな豊かな東北地方一帯を、清原氏は支配することになるのです。

今日取り上げるのは、その清原氏のなかで起きる相続争いです。
後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)といいます。

では、詳しく見ていきましょう。



はじめ、前九年合戦で安倍氏を率いたのは誰だったか、覚えていますか?
答えは、陸奥国のリーダー安倍頼時(あべのよりとき)です。

その安倍頼時には、娘がいます。
彼女は、陸奥国の豪族である藤原氏と結婚し、
藤原清衡(ふじわらのきよひら)という息子をもうけます。
しかし、前九年合戦で彼女の実家にあたる安倍氏は滅亡し、
さらに、旦那さんである藤原氏も処刑されてしまいます。

その後、彼女は幼い息子をともなって、清原氏と再婚します。
息子は清原氏の養子となり、清原清衡(きよはらのきよひら)と名乗ります。

彼女にとって、父や兄、そして夫の敵(かたき)との再婚は、
とてもツラいことだったでしょうね…
でも、清原氏が安倍氏にかわって陸奥国を支配するには、
安倍氏との血のつながりが必要だったのです。

やがて彼女は、清原氏の子どもを出産します。
名を、清原家衡(きよはらのいえひら)といいます。
安倍氏と清原氏の血をひく男の子です。

とはいえ、清原氏を継ぐのは、
清原真衡(きよはらのさねひら)という人物に決まっていました。

みんなヒラヒラしていてややこしいので(笑)、ここで系図を確認しておきましょう。

1083-1.jpg

清原真衡・清衡・家衡の関係、整理できましたか?
では、話を続けましょう。

清原氏の跡継ぎである清原真衡は、なかなか偉そうなヤツだったようです。
あるときモメゴトが起こり、清原清衡と清原家衡は、清原真衡を討とうとします。
1083年、後三年合戦の始まりです。

しかし、清原真衡に圧倒され、2人は戦うことなく逃げ帰ってしまいます。
その後、清原清衡と清原家衡が、再び清原真衡を討とうとした矢先、
清原真衡が病気で急死してしまいます。

このときの陸奥守は、源頼義の息子である源義家(みなもとのよしいえ)です。
源義家は、清原真衡の土地を、清原清衡と清原家衡の2人で半分こするよう命じます。
ところが、清原家衡はこの命令に不満があったようで、
清原清衡の屋敷を襲撃し、奥さんや子どもを皆殺しにしてしまいます!
ちょ…一緒に清原真衡を討とうとした兄弟なのに!ひどいよ家衡!!

清原清衡は命からがらなんとか逃げのび、源義家に助けを求めます。
源義家としても、自分の命令に刃向かった清原家衡を許すわけにはいかないので、
清原清衡に協力します。

結果、清原清衡と源義家の連合軍が、清原家衡を破り、後三年合戦は終結します。

*   *   *

さて、この後三年合戦。

朝廷は、源義家に清原家衡を討てとの命令は出していません。
だって、清原氏の内部で起きた相続争いですもんね、
別に清原家衡が朝廷に対して反乱を起こしたわけじゃないですもんね。
陸奥守の源義家が、勝手に清原氏のモメゴトに首を突っ込んだだけの話です。

よって朝廷は、後三年合戦を源義家の私戦(しせん)と見なします。
もちろん、源義家に恩賞も出しません。

てゆーかですよ、そもそも後三年合戦の間、
源義家は朝廷への税を滞納し、それを戦争の費用や食料にまわしていたようなのです。

源義家は陸奥守を解任され、ながらく出世コースから外れてしまいます。
まぁ…しゃーないことですわな。

でもね、実際に東北地方で大きな戦争があったんですよ!
源義家のもとに、関東からたくさんの兵士が集まってくれたんですよ!!
源義家としては、「朝廷から恩賞が出ないので、君たちの給料は払えません」では済ませられないんですよ!!!

そこで源義家は、一緒に戦ってくれた兵士たちに、自分の財布から給料を支払います。
こうするしか方法がありませんもんね…

するとですよ…
兵士たちは感動するわけです!
「義家さん、自分も貧乏なのに俺たちのために…超カッケー!」となるのです!!

1083-2.jpg

またまたマワシ姿ですんません(笑)
このイラストで、源義家は兵士たちに私財で給料を支払い、すってんてんになってしまったんだと覚えてください(笑)

源義家の男気(おとこぎ)にふれた兵士たちは、フィーバーします。
これによって、源氏の名はすっかり関東に知れ渡ることになるのです。
源義家が鎌倉幕府の基盤をつくった、と言っても過言ではないのです。

*   *   *

ちなみに、東北地方はというと、
後三年合戦ののち、清原清衡は清原氏の土地をすべて手に入れることになります。
そして彼は、本当のお父さんの姓に戻し、藤原清衡と名乗るようになります。
そう、彼こそが、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代になるのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1083年.jpg

2回連続マワシなゴロ合わせですんません…



次回は、時間をちょっと巻き戻して、末法元年(まっぽうがんねん)を取り上げます。

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