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平安時代(19) [まとめプリント]

今日は院政期の文化(いんせいきのぶんか)の2回目、
絵巻物(えまきもの)と装飾経(そうしょくきょう)をまとめていきましょう。

平安19.jpg

まずは絵巻物です。
絵巻物とは、絵と詞書(ことばがき)を交互にかいて、
人物の動きや時間の進行を表現する巻物です。
とくに院政期には、大和絵(やまとえ)の技法をもちいた立派な絵巻物がたくさんつくられます。
当時の貴族たちは、これをどんな風に楽しんだのでしょうね…

平安19-10.jpg

これから、院政期につくられた絵巻物の代表例を5つご紹介しましょう!
おもしろいものが多いので、ついついアツく語ってしまうと思いますが、何卒ご了承ください(笑)

①「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)
紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』(げんじものがたり)を題材とする絵巻物です。
絵の部分は、華やかで雅な貴族社会の様子を繊細に描いており、
作者は藤原隆能(ふじわらのたかよし)ではないかと言われていますが、確証はありません。
現在は断片的にしか残っておらず、
愛知県の徳川美術館(とくがわびじゅつかん)などが所蔵しています。

「源氏物語絵巻」に用いられているおもな技法は、次の2つです。
● 引目鉤鼻(ひきめかぎばな)
…大和絵で顔を描くときに用いられる技法
 目は細い筆でスッと線を引いて描き、
 鼻は同じく細い筆で鉤(かぎ)のような形(釣り針みたいな形のこと)に描くこと
● 吹抜屋台(ふきぬきやたい)
…建物の屋根と天井がないものとして、部屋の中を描く技法

平安19-6.jpg

↑ この場面は、最近めっきり見なくなった二千円札の裏面に用いられているのですが、
引目鉤鼻と吹抜屋台の技法がよく分かりますね!

*   *   *

②「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)
866年に起きた応天門の変(おうてんもんのへん)を題材とする絵巻物で、
絵は常盤光長(ときわみつなが)が描いたとされています。
現在は、東京都の出光美術館(いでみつびじゅつかん)が所蔵しています。

ところで、応天門の変…
覚えていますか??

866年のある日、朝廷の門の1つである応天門(おうてんもん)が炎上。
大納言(だいなごん)の伴善男(とものよしお)の告発によって、
左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)が容疑者として捕まるも、ほどなく釈放。
最終的には、伴善男が真犯人として捕まり流罪となった、という事件です。
ちなみに、「伴大納言絵巻」の伴大納言とは、大納言の伴善男を意味しています。

ここで、プリントにも載せた場面を見てください。

1920px-Ban_dainagon_ekotobaL.jpg

↑ 衣冠(いかん)姿の貴族や弓矢を携えた武士など、様々な人間が表情豊かに描かれています。
よく見ると、ほとんどが右の方を見てビックリしていますね。
そっちの方向にナニがあるのかというと…
そうです、燃えさかる応天門です!

Ban_Dainagon_Ekotoba_-_The_fire.png

↑ ちょっと想像以上の燃え方してるーーーッッ!!!(汗)
炎や黒煙の描き方がかなり写実的で、その恐ろしさが伝わってきます。
黒煙の流れ方を見ると、さきほどの群衆は風上にいることが分かります。

平安19-7.jpg

↑ 青丸のところを見てくださいよ!
風上だからって安心しているのでしょうか、
どさくさにまぎれてチカンをしようとしている男性が描かれております…(チカンアカン!)

絵巻物はこのあと、
源信の逮捕→源信の釈放→真犯人の発覚→伴善男の逮捕、と続いてゆきます。

それにしても、事件から300年もたった院政期に、
どうしてこんな立派な絵巻物が描かれたのでしょうか…
事件も絵巻物も謎だらけです。

*   *   *

③「信貴山縁起絵巻」(しぎさんえんぎえまき)
奈良県の信貴山(しぎさん)という山に、
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)というお寺があります。

これは、朝護孫子寺の命蓮(みょうれん)というお坊さんが起こしたミラクルの数々を描いた絵巻物です。
・「山崎長者の巻」(やまざきちょうじゃのまき)
・「延喜加持の巻」(えんぎかじのまき)
・「尼公の巻」(あまぎみのまき)
というタイトルのついた3本の絵巻物で構成されているのですが、
なかでも有名なのが「山崎長者の巻」、通称「飛倉の巻」(とびくらのまき)です。
おもしろいので、簡単にストーリーをご紹介しましょう。

信貴山にこもる命蓮は、ふもとにある長者の家まで法力で鉢を飛ばし、
そこに食べ物などを載せてもらって修行に励んでいました。

ん?
ホーリキで??
ハチを飛ばす???

え?
なにそのミラクル…
ちょっと理解できないんだけど…

ですよね。
分かります。
分かりますけど、命蓮のミラクルはこんなもんじゃありませんので、
とりあえずこのまま続きを読んでください。

ある日、いつものように長者の家に命蓮の鉢が飛んできたのですが、
何度も何度も飛んでくる鉢をうとましく思った長者は、
鉢を米倉のなかに入れたまんまカギをかけてしまいます。

すると!
突然米倉がゴゴゴゴゴと地面から浮き上がったのです!!

そして!
米倉の扉がバーンと開き、なかから鉢が飛び出したのです!!

さらに次の瞬間!
鉢が浮き上がった米倉を載せて飛んでいってしまったのです!!

エエェェェーーーッッ!!!でしょ。

Tobikura_no_maki_(flying_storchouse).jpg

↑ ホラ見てください、みんな表情豊かに「エエェェェーーーッッ!!!」って驚いてます。

果たして米倉はどこへ飛んでいってしまったのでしょう…
命蓮のミラクルは、まだまだ続きます。

長者たちが空飛ぶ米倉のあとを追ったところ、たどり着いたのは信貴山でした。
米倉は、命蓮の庵(いおり)のそばにドスンと落ちていたのです。

長者は「米倉を返してください…」と命蓮に訴えます。
すると命蓮は、
「せっかく飛んできた米倉はここで使わせてもらいたい。中身だけ返しましょう」
と答えます。

米倉返さへんのかいっ!!という突っ込みはさておき、
とりあえず長者は、米倉の中にある大量の米俵は返してもらえることになりました。

とはいえ、米俵ってめちゃくちゃ重たいんですよ。
とてもじゃないけど長者の家まで運べそうにありません。
困り果てている長者を見かねた命蓮は、米俵を1つだけ鉢の上に置くよう命じます。

すると!
米俵を乗せた鉢がフヨフヨと浮き、長者の家の方へと飛んでいったのです!!

さらに!
残りの米俵もフヨフヨと浮き、先頭の鉢を追って次々と飛んでいったのです!!

そして!
米俵は、米倉のあった場所にドサドサドサッッと返ってきたのです!!

超ミラクル~!!!!

Return_of_the_rice.jpg

↑ 米俵が空から降ってきたときの、長者の家にいる人たちの顔を見てくださいよ!
もうみんな「ウギャーーーーーッッ!!」って表情です!!
そりゃそーだよ、ビックリするよ!!!

以上、長くなりましたが「山崎長者の巻(飛倉の巻)」はこんなお話です。
とにもかくにも、米俵が戻ってきてめでたしめでたしです(あれ?米倉は??)。

プリントには、「延喜加持の巻」の一場面も載せています。

延喜といえば…?
そうです、延喜の治(えんぎのち)です。

誰がおこなったか覚えていますか?
そうです、醍醐天皇(だいごてんのう)です。

忘れたなー!って人は、902年のゴロ合わせを復習してくださいね。

せっかくなので、「延喜加持の巻」も簡単にストーリーを紹介しておきましょう。

あるとき、醍醐天皇が重い病気にかかってしまいます。
命蓮のミラクルを耳にした醍醐天皇の側近は、信貴山にいる命蓮に加持祈禱(かじきとう)を依頼します。
ところが、命蓮は都には行かず、ここ、つまり信貴山で加持祈禱をおこなうと主張します。
基本、命蓮は信貴山から動かないのです。

「私の加持祈禱によって醍醐天皇の病気が癒えたときは、
剣の鎧(よろい)を着た護法童子(ごほうどうじ)を遣わしましょう」と言う命蓮。

それから3日後、醍醐天皇のもとにやってきたのは…

Bishamonten_messager.jpg

↑ 剣の鎧をなびかせながら、
霊力を秘めた輪宝(りんぽう)をサッカーボールのように転がしながら疾走する護法童子です。
ワタシ的には髪の毛の散らかり具合がツボです。

右から左に見ていく絵巻物のなかを、
左から右へビューーーンと飛んでくる護法童子のスピード感が素晴らしいです。
輪宝の回転と、護法童子の速さをあらわす線の表現なんて、まるで現代のマンガですよ。

この輝く護法童子の姿を夢に見た醍醐天皇は、たちまち元気になったといいます。
命蓮、すごいよね!!!!

*   *   *

④「鳥獣戯画」(ちょうじゅうぎが)
これは超有名ですね~。
カワイイ動物たちが登場する、とってもコミカルな絵巻物です。
4本の絵巻物で構成されていて、なかには人間が登場するものもあるので、
「鳥獣人物戯画」(ちょうじゅうじんぶつぎが)と呼ぶこともあります。
所蔵しているのは、京都府の高山寺(こうざんじ)です。

なかでも有名なのは、このシーンでしょう!

平安19-4.jpg

↑ ウサギとカエルが相撲をとっています。

まずは右側。
2匹のウサギが応援するなか、ウサギとカエルが組み合っています。
なんとカエルがウサギの耳をかんでおります!
それ反則じゃないのか!!

そして左側。
ウサギを投げ飛ばすカエル!
勝者であるカエルの口からは、まるで「おりゃーっ!!」という声が出ているかのようです。
観客のカエル3匹は、仲間の勝利に大喜びです。

いやー、楽しそうでいいですね。
なんてったって、みんなカワイイです。

ちなみに、平安時代(9)にも書きましたが、相撲は宮中における年中行事の1つです。
貴族社会をまねているのでしょうか、
「鳥獣戯画」には、ほかにも年中行事に興じる動物たちの様子が描かれています。

次のシーンは、プリントに載せた部分です。

平安19-5.png

↑ サルのお坊さんが、カエルの仏様の前でなにやらお経を読んでいます。
その奥では、嘆き悲しむキツネやサルの姿が見て取れます。
ワタシ的には、烏帽子を(えぼし)をかぶってタレ耳になっているウサギがたまりません。

これに続くのは、こんなシーンです。

平安19-3.jpg

↑ 読経を終えたサルのお坊さんのもとに、お礼の品々がどんどん運ばれます。
それを見てニンマリするサルのお坊さん。
このシーンは、仏教界を風刺しているものと考えられます。

作者は、ながらく鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)だとされてきましたが確証はなく、
おそらく複数の人間によって描かれたものだと考えられています。
ちなみに、「鳥獣戯画」には詞書の部分はありません(当初はあったのかもしれませんが…)。

*   *   *

⑤「年中行事絵巻」(ねんちゅうぎょうじえまき)
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の命令によってつくられた、宮中の年中行事を記録した絵巻物です。
残念ながら、江戸時代のはじめに火災によって焼失してしまい、
現在は焼失前に描かれたとされる模写がいくつか残っているのみです。



次に装飾経を2点、ご紹介しておきましょう。
装飾経とは、美しくデコられた写経のことです。

①「扇面古写経」(せんめんこしゃきょう)
 または「扇面法華経冊子」(せんめんほけきょうさっし)
扇面(せんめん、扇形の紙のこと)に大和絵で下絵を描き、
その上に法華経などを書きうつした装飾経です。
プリントに載っているのは、大阪府の四天王寺(してんのうじ)が所蔵するもので、
お経の下絵として、女房装束(にょうぼうしょうぞく)を身にまとった女性と、
衣冠姿で笛を手にしている男性の姿が描かれています。
このような「ザ・貴族」な下絵だけでなく、庶民の生活をイキイキと描いたものもあります。

*   *   *

②平家納経(へいけのうきょう)
平清盛(たいらのきよもり)らが、平氏一門の繁栄を祈願するため、
広島県の厳島神社(いつくしまじんじゃ)に奉納した装飾経です。
金ピカピンでとにかくゴージャス!
平氏のセレブぶりがよく伝わってきます。
ちなみに、平清盛自筆の部分もあります。

最後に解答を載せておきましょう。

平安19解答.jpg

絵巻物5点と装飾経2点だけなのに、アツく語りすぎてしまいました…すいません。
プリントの空欄部分を中心に覚えてくださいね(汗)



次回から、ゴロ合わせをお届けします。

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画像出典
wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語絵巻
     https://ja.wikipedia.org/wiki/伴大納言絵詞
     https://ja.wikipedia.org/wiki/信貴山縁起
     https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥獣人物戯画
     https://ja.wikipedia.org/wiki/扇面法華経冊子
広島県教育委員会HP https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-101020010.html
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平安時代(18) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、院政期の文化(いんせいきのぶんか)を取り上げます。
今回は、文学・芸能・建築・彫刻を解説してゆきます。

平安18.jpg

この文化が栄えたのは、院政期、すなわち11世紀末から12世紀ごろです。
文化の中心地は平安京ですが、地方への広がりも見られます。
担い手は、上皇や貴族はもちろんのこと、新たに台頭してきた武士や庶民も加わります。

特徴を3点にまとめると、
(1)これまでの貴族文化にくわえ、
   新たに台頭してきた武士や庶民とその背後にある地方文化を取り入れた、新鮮で豊かな文化
(2)歴史物語(れきしものがたり)・軍記物語(ぐんきものがたり)・絵巻物(えまきもの)の普及
(3)浄土教(じようどきよう)が広まり、各地に浄土教建築や浄土教美術が見られる
です。

*   *   *

では、文学から見ていきましょう。

①歴史物語
武士が台頭し、いよいよ武家政権が成立しようという時代、
貴族たちは華やかな過去に思いを馳せ、それらを振り返ろうとします。
そこでつくられるのが、歴史を題材とする物語、すなわち歴史物語です。
これらの多くは、ひらがな中心の和文体(わぶんたい)で書かれています。
(和文体に対し、漢字だらけの文章は漢文体(かんぶんたい)といいます)

●『栄華物語(栄花物語)』(えいがものがたり)/赤染衛門(あかぞめえもん)?
…宇多天皇(うだてんのう)~堀河天皇(ほりかわてんのう)の時代を、
 編年体(へんねんたい)でまとめた歴史物語
 藤原道長(ふじわらのみちなが)を中心に宮廷貴族の栄華を描き、それを賛美します
 作者は赤染衛門という女性が有力で、続編はのちに別の誰かが書いたと考えられています
 よって、国風文化に区分されたり、院政期の文化に区分されたりするのですが、
 近年は国風文化に区分されることが多くなっています

●『大鏡』(おおかがみ)/作者不明
…文徳天皇(もんとくてんのう)~後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の時代を、
 紀伝体(きでんたい)でまとめた歴史物語
 190歳(え?)のおじいちゃんと180歳(えぇ?)のおじいちゃんが語り合う藤原道長の栄華を、
 ワカゾーが質問したり批評したりして批判的にとらえています

*この2冊は藤原道長の栄華を対照的に評価しています
・『栄華物語(栄花物語)』は賛美
・『大鏡』は批判
 と、セットで覚えておくとよいでしょう☆
 (そのために『栄華物語』は院政期の文化で紹介しました)

*編年体と紀伝体
 どちらも中国の歴史叙述法です
・編年体:出来事を年代順に記述する形式
・紀伝体:個人や1つの国に関する情報をまとめて記述する形式
 簡単にいうと、編年体は年表スタイル、
 紀伝体はカテゴリーごとにまとめたスタイル、てな感じです

●『今鏡』(いまかがみ)/藤原為経(ふじわらのためつね)
…『大鏡』のあと、後一条天皇から高倉天皇(たかくらてんのう)の時代を、
 紀伝体でまとめた歴史物語
 150歳(えぇぇ?)のおばあちゃんが語る昔話を記録する、という形で物語が進むのですが、
 なんでもこのおばあちゃん、『大鏡』の190歳のおじいちゃんの孫なんだって!
 すんごい長生きの家系だね!!

*ちなみに、タイトルに「鏡」のつく歴史物語が、
 『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』(みずかがみ)・『増鏡』(ますかがみ)と4つあり、
 これらをまとめて「四鏡」(しきょう)といいます
 「ダイ・コン・ミズ・マシ」のゴロ合わせで覚えてねって古典の授業でも習いませんでしたか?
 『栄華物語(栄花物語)』も一緒に、
 「ハナ・ダイ・コン・ミズ・マシ」で覚えるパターンもあります
 『水鏡』は鎌倉文化、『増鏡』は南北朝文化でご紹介しますね~

②軍記物語
戦乱を主題とする物語です。
この時期の貴族たちが、地方武士の動きに関心をもっていたことを表しています。

●『将門記』(しょうもんき)/作者不明
平将門の乱(たいらのまさかどのらん)を日本語風の漢文体で記した軍記物語
 作者も成立年代も不明ですが、最初の軍記物語と考えられています

●『陸奥話記』(むつわき)/作者不明
前九年合戦(ぜんくねんかっせん)の経過を日本語風の漢文体で記した軍記物語
 11世紀後半ごろに成立したと考えられています

③説話集(せつわしゅう)
人々のあいだで語り伝えられてきた昔話や伝承などをまとめたもので、
宗教的訓戒のほか、当時の武士や庶民の生活・風習などを描いています。
この時期の貴族たちが、武士や庶民の姿に関心をもっていたことを表しています。

●『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)/作者不明
…インド・中国・日本に伝わる説話を1000話余り集めた説話集
 すべて「今は昔…」で始まることから、このタイトルがつけられています

 ん?そういえば…
 「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」とか言っちゃったヒトって、
 『今昔物語集』に載ってたんでしたよね…

 名前、思い出せますか?
 あのガメツくヒラタケとってきた受領ですよ!!

 正解は…
 藤原陳忠(ふじわらののぶただ)でしたー!
 覚えてましたか??
 詳しくは988年のゴロ合わせをご覧ください~

*   *   *

次に、芸能を見てゆきましょう。

①今様(いまよう)
今様とは「現代風の歌謡」という意味で、平安時代末期に流行した民間歌謡をさします。
もとは庶民の間で流行っていた歌なのですが、
これにドハマりしたのが、まさかの後白河法皇(ごしらかわほうおう)です。
そのハマりようは、今様の歌いすぎで喉を痛めてしまうほどだったようで、
果てはヒット曲を集めた『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)という本までつくっています。
この時期の貴族が、庶民の文化と深く関わりをもっていたことを示しています。

②催馬楽(さいばら)
神事の神楽歌(かぐらうた)や古謡(こよう、古くから伝わる歌謡のこと)をアレンジし、
雅楽(ががく)の伴奏にあわせてうたうもの。
平安時代中期以降、貴族に愛好されます。

③朗詠(ろうえい)
雅楽の伴奏にあわせて、おもに漢詩の名句をメロディーにのせてうたうもの。
朗詠といえば、『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)ってのがありましたね…
復習しておいてくださーい!

④田楽(でんがく)と猿楽(さるがく)
● 田楽:豊作を祈って、田植えのときにおこなう農耕儀礼がはじまりと考えられています
    平安時代には芸能として洗練されてゆきます
● 猿楽:ものまねをはじめ、滑稽(こっけい)を主とする雑芸・歌曲のこと
    奈良時代に伝来した散楽(さんがく)という芸能に由来すると考えられています
どちらも、庶民のみならず、貴族の間でも流行し、
やがて祇園祭(ぎおんまつり)などの御霊会(ごりょうえ)や、
大寺院での法会(ほうえ)などでも演じられるようになります



プリントの右上に移って、建築を見ていきましょう。

①浄土教建築
このころ、浄土教の思想は全国に広まります。
それは、寺院に所属しない聖(ひじり)や上人(しょうにん)などと呼ばれる民間の布教者が、
各地で浄土教を説いてまわったためです(聖と上人の厳密な区別はありません)。
浄土教について、詳しくは1052年のゴロ合わせに書きましたが、
阿弥陀仏(あみだぶつ)、または、阿弥陀如来(あみだにょらい)と呼ばれる仏さまを信仰し、
来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願う教えですす。
これが全国に広まった結果、各地の地方豪族たちが、
阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂(あみだどう)を建立するようになるのです。

● 中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう、岩手県)
…奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の本拠地である平泉(ひらいずみ)に、
 藤原清衡(ふじわらのきよひら)が建立した阿弥陀堂
 極楽浄土を再現したかのように(行ったことないけど)、どこもかしこも金ピカです
 ちなみに、台座の部分には、
 藤原清衡・藤原基衡(ふじわらのもとひら)・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)三代のミイラと、
 藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の首が納められています

● 白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう、福島県)
…藤原清衡の娘が、亡き旦那さまのために建てた阿弥陀堂
 「白水」は、平泉の「泉」の漢字を分解したものと考えられています

● 富貴寺大堂(ふきじおおどう、大分県)
…九州最古の阿弥陀堂
 このころ、九州にも浄土教が広まっていたことを今に伝えています

②厳島神社(いつくしまじんじゃ、広島県)
航海の安全をつかさどる神様をまつる神社です。
日宋貿易(にっそうぼうえき)を推進する平清盛(たいらのきよもり)があつく信仰し、
海に浮かぶ寝殿造(しんでんづくり)のような立派な社殿を整えます。
1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

行ったことありますか?
もうね、本当に美しいんですよ…
個人的なことを申しますと、私、大好きなのです。

柱がどっぷりと海につかる満潮のときの姿が美しいのはもちろんですし、
大きな鳥居まで歩いて行けちゃう干潮のときの姿も一興です。

何度か訪れたときに何の気なしに撮った写真ですが、
たまたま同じアングルで撮っていたので見比べてみてください。

↓ 満潮のとき
DSC06556.JPG

↓ 干潮のとき(鳥居のところまで人がいっぱい!)
DSC01038.JPG

日本三景(にほんさんけい)の1つに数えられるのも納得ですね~。

③三仏寺投入堂(さんぶつじなげいれどう、鳥取県)
修験道(しゅげんどう)の修行場である断崖絶壁に建てられたお堂です。
修験道をひらいた役小角(えんのおづぬ)、または、役行者(えんのぎょうじゃ)という人が、
ここに投げ入れて作った、という伝説から投入堂という名前がついています。

平安18-6.jpg

いやチョットこれすごくないですか?
断崖絶壁のくぼみに、見事にジャストフィットしてますよね。
投げ入れたというのも納得してしまいます。
(役小角は飛鳥時代の人ですけどね…)

高校生の時、日本史の資料集で見て衝撃を受けて以来、ずーっと行きたかったんですよ。
10年ほど前に念願叶って参拝してきましたので、いくつか写真を見てください!

↓ まず、どこにあるのかというと…ここです!
 もんのすんごい山の中です!!
平安18-9.jpg

しかもその道中ったら…

↓ ひたすらこんな断崖絶壁なんですよ!(この後ろ姿は母です)
 道中は階段なぞ整備されていませんので、木の根っことかを頼りに登ってゆきます。
 ちなみに、スニーカーよりもワラジがオススメとのことで、ワラジを購入しました。
平安18-7.jpg

↓ とてつもなく巨大な岩を、クサリを使って登らなければならないところもあります。
 「日本一危険な国宝」と呼ばれるのも納得です…
平安18-11.jpg

↓ 休憩することなく(そんな場所もないし…)ひたすら30分ほど登った先にあるのが、
 この文殊堂(もんじゅどう)というお堂です。
 すごく良い景色なのですが…
平安18-12.jpg

↓ 足元はこんなことになっております!
平安18-13.jpg

ここからさらに10分ほど登ると…

↓ ついに!投入堂に到着です!!
(投入堂の中には入れません、この場所から拝観するのみです)
平安18-10.jpg
もうね、すっっっごい感動しますよ!
登る前は「投入堂着いたら何かめっちゃ願い事したるねん!」とか思ってましたが、
投入堂の姿を見た瞬間、おのれの願い事なんてホントどーでもよくなりました!!
ボンノーが消えた気がいたしました…

しかぁし!
感動も束の間…

↓ 帰り道もヤバいのです!イヤむしろ帰り道のがヤバいのです!!
 写真では伝わりにくいですけど、ほんとにすんごい崖なんですよ、コレ。
 ずっとお尻つけてズリズリ滑り降りてかないと絶対落ちて死ぬわ…ってレベルです。
平安18-5.jpg

投入堂のスゴさ、伝わりましたでしょうか?
体力に自信のある方、機会があればぜひ登ってみてください。
季節・天候・服装・人数など様々な入山制限がありますので、
行かれる際は事前に公式HPなどで調べてからお出かけくださいませ!

*   *   *

最後に彫刻を見ておきましょう。

①蓮華王院千手観音立像(れんげおういんせんじゅかんのんりゅうぞう、京都府)
蓮華王院(れんげおういん)は、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)とも呼ばれるお堂で、
平清盛が、後白河法皇の院御所(いんのごしょ)のすぐ近くに造営し、寄進したものです。

現在もなかにはズラズラズラーーーッと1000体もの千手観音立像が並んでいるのですが、
このうち124体が院政期のもの、つまり平清盛が創建した当時のものなんだとか。

とにもかくにも、1000体の千手観音立像が整然と並ぶ姿は本当に圧巻です。
ちなみに、一体一体みんな違うお顔をしているんですよ。
ガイドさんに「このなかにアナタにそっくりな観音様が必ずいますよ」なんて説明されたりして、
ついつい「どれどれ?」と探してしまいます(笑)

なお、蓮華王院の建物自体は鎌倉時代に焼失し、再建されています。
そして、本尊の千手観音坐像(せんじゅかんのんざぞう)も鎌倉時代の作品です。
どちらも鎌倉文化でまた紹介しますね~。

念のため説明しておくと、
千手観音立像は立っている千手観音さまで、
千手観音坐像は座っている千手観音さまです。

②浄瑠璃寺本堂九体阿弥陀如来像(じょうるりじほんどうくたいあみだにょらいぞう、京都府)
極楽往生の仕方には9通りある、ということからつくられた、9体の阿弥陀如来像です。

③臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ、大分県)
岸壁を刻んでつくられた、60体あまりの石仏(せきぶつ、石でつくられた仏さま)です。

解答を載せて終わりにしましょう!

平安18解答.jpg



次回は院政期の文化の続き、絵巻物を中心に絵画資料を見てゆきます!

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画像出典
中尊寺HP https://www.chusonji.or.jp/index.html
白水阿弥陀堂HP http://shiramizu-amidado.org/
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/臼杵磨崖仏
奈良寺社ガイド https://nara-jisya.info/2018/12/16/浄瑠璃寺/#i-4
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平安時代(17) [まとめプリント]

保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱(へいじのらん)を経て勢いを強める平清盛(たいらのきよもり)が、ついに政権を獲得します。
日本史史上はじめての武家政権である、平氏政権(へいしせいけん)の誕生です。
そのあらましと特徴をまとめてゆきましょう!

平安17.jpg

保元の乱平治の乱、この2つの中央抗争を解決したのは、
武士の力、とくに平清盛の軍事力です。

そんな圧倒的な軍事力をもつ平清盛は、
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の院近臣(いんのきんしん)という立場と、
奥さんが二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)であるという立場を活かし、
院政と親政をめぐって対立する両者と、それぞれよい関係を築くことにも成功します。

こうして、平清盛は武士としてはじめて公卿(くぎょう)となり、
その後も大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)と異例の出世を遂げ、
ついに1167年、太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されるのです。

皇族か貴族しか任命されないはずの太政大臣に、武士である平清盛が就任する、という、
あまりにも信じられない出来事に、
当時の人々は「平清盛が白河法皇(しらかわほうおう)の子どもだからだ」なんてウワサしたんだとか。

とはいえ、このころ太政大臣はただの名誉職にすぎなかったので、
平清盛はわずか3か月で辞職しています。
「前太政大臣」という肩書きさえあれば充分だったのでしょう!

ちなみに、武士で太政大臣に任命されたのは、
・平清盛
・足利義満(あしかがよしみつ、室町幕府 第3代将軍)
・豊臣秀吉(とよとみひでよし)
・徳川家康(とくがわいえやす、江戸幕府 初代将軍)
・徳川秀忠(とくがわひでただ、江戸幕府 第2代将軍)
・徳川家斉(とくがわいえなり、江戸幕府 第11代将軍)
以上の6人だけです。

翌1168年、平清盛はひどい高熱にうかされ、危篤に陥ります。
平清盛が病気になったことで政情は不安定となり、
後白河上皇はその安定化をはかるため、高倉天皇(たかくらてんのう)を即位させます。
平清盛の影響力、ハンパない…

で。
その平清盛の病気なんですが…

なっがぁぁぁーーーい虫がおしりから出てきて治ったんだそうです。

おしり?
えぇ、おしりです…
おしり。

おそらくサナダムシです。
知ってますか?サナダムシ。
人間のおなかにすみつく寄生虫の一種です。

東京に目黒寄生虫館という博物館がありまして、
大学院生だったころ、ディズニーランドへ遊びに行った帰りに立ち寄りました。
ホルマリン漬けのビンがズラリと並んだ館内には、
約8.8mもあるサナダムシが展示されておりました。
「こ…こんな長いものがお腹のなかに…!平清盛、めっちゃ痛かったやろな!!」
と、心底思いました。
なんだか色んなところがかゆ~くなる気がする博物館ですが、ご興味ありましたらゼヒどうぞ。

平安17-1.jpg

病気の影響により出家した平清盛は、一命をとりとめたのち、
福原(ふくはら、現在の神戸市)にたてた別荘に移り住みます。
政界から引退したのかと思いきや、
そこで厳島神社(いつくしまじんじゃ)の整備や、
日宋貿易(にっそうぼうえき)の拡大に乗り出します。

さらに1172年、平清盛は娘の平徳子(たいらのとくこ)を高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)とします。
(のち平徳子には、建礼門院(けんれいもんいん)という女院(にょいん)の称号が贈られます)
平徳子からすれば、お母さんの妹の息子、すなわちイトコとの結婚です。
もし平徳子が男の子を産んで、その子が即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれるわけですから、
彼女のプレッシャーはものすごいものだったでしょう…

平徳子のプレッシャーはさておき、
日宋貿易による莫大な利益と、おびただしい数の荘園・知行国を所有するようになった平氏は、
さらに天皇の外戚になれるかもしれないという可能性を手にしたのです。
そりゃ平時忠(たいらのときただ)が「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうワケです。

そんなときに起こるのが、1177年の鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)です。
「鹿ヶ谷(ししがたに)にある山荘で、後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の近臣である藤原成親(ふじわらのなりちか)・俊寛(しゅんかん)などが平氏打倒をくわだてている」との密告があり、
藤原成親は備前(びぜん)に、俊寛は薩摩(さつま)に流罪となった事件です。
この事件により、後白河法皇は政治的な権力を低下させ、高倉天皇は親政を強く願うようになります。
平清盛は後白河法皇との距離をとり、高倉天皇との関係をより一層強めてゆくのです。

その翌年、平徳子が待望の男の子を出産します。
ホントに…ホントによく頑張ったよ、徳子…(涙)
この赤ちゃんを生後1ヶ月で皇太子とし、皇太子の外戚としてますます力を伸ばす平清盛は、
後白河法皇との関係をさらに悪化させてゆきます。

そして1179年、ついに平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、院政を停止させてしまうのです。

奪い取った官職は、平氏の一族はもちろんのこと、平氏に好意的な貴族たちにも与え、
また知行国の入れ替えなどもおこなって、
平氏の権力が全国におよぶような軍事的支配体制を確立します。

ここでいよいよ、わずか満1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位します。
即位にともない、お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政を開始しますが、
もちろん政界の主導権を握るのは、安徳天皇の外戚である平清盛です。

こうして平氏政権という武家政権が成立するのですが、ながくは続きません。
しかし武家政権は、1867年の大政奉還(たいせいほうかん)まで、700年近く続いてゆくのです。



プリントの右側にうつります。
平氏政権の特徴をまとめてゆきましょう。

①貴族的性格
平氏政権には、摂関家とよく似た部分が見受けられます。

○ 高位高官の独占
平清盛の太政大臣就任をはじめ、一族で高位高官(こういこうかん)にのぼります。
高位高官とは、高い位階(いかい)と高い官職(かんしょく)のことですよ。
位階と官職については、飛鳥時代(8)のプリント右上の表を参考にしてください。

○ 外戚関係の利用
平清盛は、娘の平徳子を高倉天皇の中宮とし、
2人の間に生まれた満1歳の安徳天皇を即位させ、天皇の外戚として権力を握ります。

○ 多くの荘園・知行国を経済的基盤とする
平氏の所有する荘園は全国に500余ヶ所、知行国は約30ヶ国にのぼります。
1179年以降の平氏の知行国は次の通りです。
平安17-3.jpg
数えてみると32ヶ国もありますね~。
このころ全国は約70ヶ国に分かれているので、
日本のほぼ半分が平氏の知行国、ということになります。

②武士的性格
保元の乱平治の乱を制圧したうえに成立した平氏政権には、
もちろん武士らしい面が見受けられます。

○ 武力を背景に、天皇や院の勢力と対抗
圧倒的な軍事力をもつ平氏は、クーデターによって後白河院政を停止させ、
安徳天皇を即位させて高倉院政を開始させます。
安徳天皇の外戚として権力を握るのはもちろんのこと、
平氏の軍事力なしには成立し得なかった高倉院政においても実質的な権力者となるのです。

○ 各地で成長する武士を、荘園や公領(国衙領)の地頭(じとう)に任命
地頭といえば、鎌倉幕府が置いた守護(しゅご)・地頭のセットを思い浮かべることと思いますが、
このころすでに地頭というものは存在していたようです。
残された史料が少なくて、詳しいことは明らかにされていないみたいですが、
平氏政権は各地の武士を地頭に任命することで、
彼らを家人(けにん、貴族や武士に仕える家来のこと)として組織していたんだとか。

分かります?
ちょっとナニ言ってるか分かんないですよね…

武士のおこりについては平安時代(12)で書きましたが、
地方豪族や有力農民が自分の土地を守るために武装したパターンや、
押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)に任命された中級・下級貴族が、とある土地に定着したパターンなどがあるんでしたね。

平氏政権は、様々なパターンで成立し、成長してきた武士たちを、
それぞれの土地の地頭に任命することで、彼らがその土地の支配者であることを認めたのです。
そして、平氏政権から地頭に任命されたことで、その土地の支配者であることを認められた武士は、
平氏に仕える家来、すなわち平氏の家人となったのです。

平安17-4.jpg

こうして平氏は、とくに西国一帯の武士を家人として組織してゆくのです。

ちなみに、鎌倉幕府に仕える家人のことを何と呼ぶか分かりますか?
答えは、御家人(ごけにん)です。
鎌倉幕府の将軍に対するリスペクトをこめて、家人に御の字がついておるのです。

③経済活動
11世紀後半以降、日本は朝鮮半島の高麗(こうらい)や中国の宋(そう)との間で、
積極的に商船を往来させるようになります。
といっても、あくまで私貿易です。
国と国の正式な貿易ではありません。

12世紀、宋は女真族(じょしんぞく)が建てた金(きん)という国に皇帝を連れ去られて滅んでしまうのですが、このとき難を逃れた皇帝の弟が、南にうつって宋を再興します。
もともとの宋を北宋(ほくそう)、再興した後の宋を南宋(なんそう)と呼んで両者を区別するのですが、
平氏がおこなった日宋貿易の相手国は南宋です。

そもそも南宋との私貿易に注目したのは、平忠盛(たいらのただもり)です。
彼は瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐して貿易ルートを確保し、日宋貿易を活発におこないます。
平忠盛は、これによって莫大な富を得るだけでなく、
輸入した珍しい品々を白河法皇や鳥羽上皇に献上して、両者からかわいがられるようにもなるのです。

平忠盛の息子である平清盛も、積極的に日宋貿易に取り組みます。
摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の兵庫県神戸市)という港を修築したり、
音戸の瀬戸(おんどのせと、現在の広島県呉市)という海峡を開削したりするなど、
よりスムーズに商船の往来ができるよう尽力します。

ちなみに、音戸の瀬戸の開削工事については、次のような伝説が残されています。

いよいよ今日で開削工事が完成するぞ!という日。
太陽が沈んでしまって、残念ながらその日のうちに工事は終わりませんでした。
すると、平清盛はおもむろに岩の上に立ち、
沈んだ太陽に向かい、金ピカの扇を広げて「かえせ、もどせ」と叫びます。

そしたらですよ!

太陽が再び昇り、その日のうちに工事は完成したんだとか!!

平安17-2.jpg

ウッソーん!!って感じですが、
太陽を従えることができた、なんてゆー伝説を残しているあたり、
平清盛の影響力の大きさを知ることができますね。
まぁ…ウソだろけどね!!

日宋貿易の貿易品は以下の通りです。

【輸出品】金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器・扇など
【輸入品】宋銭(そうせん)・陶磁器・書籍・香料・薬品など

銅銭(銅でできたお金のこと)である宋銭の輸入は、日本に貨幣経済をもたらします。
また、書籍のうち、仏教経典は鎌倉仏教に影響を与えることになります。

では最後に解答を載せておきましょう。

平安17解答.jpg



次回から2回にわたって、院政期の文化をまとめてゆきます。

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平安時代(16) [まとめプリント]

今日は、保元の乱(ほうげんのらん)と平治の乱(へいじのらん)をまとめてゆきます。

平安16.jpg

いよいよ源氏と平氏が中央政界で大活躍するので、これまでの流れをおさえておきましょう。

まずは源氏です。

1028年に房総半島で起きた平忠常の乱(たいらのただつねのらん)を、
源頼信(みなもとのよりのぶ)が平定し、源氏は東国進出のきっかけをつかみます。
そして、1051年に東北地方ではじまった前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を、
源頼義(みなもとのよりよし)・源義家(みなもとのよしいえ)親子が平定、
次いで1083年にはじまった後三年合戦(ごさんねんかっせん)を、源義家が平定し、
源氏は東国で武家の棟梁(とうりょう)としての地位を固め、勢力を拡大させてゆきます。

とくに、後三年合戦で恩賞を出さなかった朝廷にかわり、
自分の財布から家臣に恩賞を与えた源義家の人気はすさまじく、
東国では源義家に土地を寄進して保護を求める武士が増加し、
朝廷がその寄進を禁止するほどだったとか。

ここまでの流れは平安時代(13)にまとめているところです。

その後はというと、
源義家の息子である源義親(みなもとのよしちか)が朝廷に反乱を起こしたり、
一族のなかでの争いが続いたりと、
源氏は勢力をやや衰退させてしまいます。

次に平氏です。

このころ、伊勢(いせ)・伊賀(いが)を地盤とする伊勢平氏(いせへいし)が勢力を拡大させます。
白河法皇(しらかわほうおう)の命を受けた伊勢平氏の平正盛(たいらのまさもり)が、
源義親の乱の平定に成功したことがきっかけです。
その後、息子の平忠盛(たいらのただもり)も、
瀬戸内海の海賊を平定するなどして白河法皇、そして鳥羽上皇(とばじょうこう)からかわいがられ、
武士として、院近臣(いんのきんしん)として、重用されるようになります。

今日まとめてゆく保元の乱・平治の乱は、
源義親の子である源為義(みなもとのためよし)、その子である源義朝(みなもとのよしとも)、
平忠盛の子である平清盛(たいらのきよもり)の時代に起きる武力衝突です。



1156年に起こる保元の乱の対立関係は、以下の通りです。

1156-1.jpg

1156年のゴロ合わせでは、天皇家の2人を中心に保元の乱を書いたので、
今回は藤原氏の2人を中心に書くことにしましょう。

兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟の藤原頼長(ふじわらのよりなが)です。
この2人、20歳以上年の離れた異母兄弟(いぼきょうだい、お母さんが異なる兄弟のこと)です。

*   *   *

兄の藤原忠通は、鳥羽天皇(とばてんのう)・崇徳天皇(すとくてんのう)・近衛天皇(このえてんのう)・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の4代にわたって摂政・関白をつとめた権力者です。
跡継ぎに恵まれなかった彼は、あるとき弟の藤原頼長を養子とします。

ところが…
弟を養子にして20年が経とうというころ…

藤原忠通に息子が生まれるのです!
40歳を過ぎてからの跡継ぎ誕生!!
こりゃめっっっっちゃかわいいわけですよ!!!

てなわけで、藤原忠通は藤原頼長との養子関係を破棄し、
我が子に摂関家を継がせようとします。

デター!
弟を養子にしたあと息子生まれるパターン!!
カワイイ息子を守るために弟とモメるパターン!!!

その後、藤原忠通と藤原頼長はイロイロ対立するようになり、
もう仲直りなんて絶対無理!というレベルまで関係を悪化させてしまいます。

*   *   *

では、弟の藤原頼長とはどんな人物だったのでしょう。

藤原忠通の息子である僧侶の慈円(じえん)が、著書『愚管抄』(ぐかんしょう)のなかで、
「日本一の大学生(だいがくしょう、日本一のすごい学者、という意味)」と評するように、
藤原頼長は非常にすぐれた学者さんであったようです。
読んだ書物の数は1030巻を超えるという読書家で、
移動の時間を惜しんで牛車のなかでも書物を読んでいたんだとか。
また書物に対する敬意もすさまじく、
自宅に当時の最高技術を駆使した防火設備つきの書庫までつくっています。
とくに学んだのは明経道(みょうぎょうどう)、すなわち儒学だったようです。

また、20年近くにわたって『台記』(たいき)という日記を書いているのですが、
ここには朝廷における儀式のほか、政治情勢や人間関係などを克明に記録しており、
彼の学識と事務的能力の高さをいまに伝えています。
とにもかくにもメチャクチャ勉強熱心で、すんごいデキる人だったのです。

そんな藤原頼長が左大臣となったのは、30歳のときです。
律令にのっとった政治を復活させるべく、彼はとてつもなく厳しい改革に乗り出します。
ときには遅刻した貴族の家を焼き払うこともあったとか…
コ、コエー!!!
そのあまりに苛烈な性格から、
「悪左府」(あくさふ)というあだ名をつけられるほど、周囲の人々の反感を買ってしまいます。
(「左府」(さふ)は左大臣のこと。
 「悪」は単に悪いという意味だけでなく、モノスゴイという意味もあります)
裏を返せば、藤原頼長がそこまで厳しくしないといけないほど、
当時の貴族たちはゆるみきっていたのでしょうね…
でも家燃やしたらアカン。

平安16-1.jpg

*   *   *

1141年、崇徳天皇が譲位し、弟の近衛天皇が即位しますが、
ほどなく近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます。
かわって即位したのは、後白河天皇です。

近衛天皇は眼の病気が原因で亡くなったようなのですが、
「それは藤原頼長が天狗の像の目に釘を打って、近衛天皇を呪ったからだ!」というウワサが流れます。
これにより、近衛天皇をかわいがっていた鳥羽法皇(とばほうおう)の信頼を失った藤原頼長は、
崇徳上皇(すとくじょうこう)に近づいてゆくのです。

1156年7月2日に鳥羽法皇が亡くなると、
今度は「崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている!」というウワサが流れます。
藤原頼長は謀反人(むほんにん)として扱われ、財産を没収されてしまいます。

追い詰められた藤原頼長は、崇徳上皇のもとへゆき、
平忠正(たいらのただまさ)、源為義・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士を集めます。

一方、後白河天皇と藤原忠通は、
最大の兵力をほこる平清盛を味方につけることに成功し、ここに源義朝らも加わります。

兵力の差は歴然です。
崇徳上皇サイドがあまりにも不利な状況にあるため、源為朝は夜襲(やしゅう)を提案するのですが、
「そんな卑怯なことができるか!」と藤原頼長によって却下されてしまいます。

マジメか!

で、結局、7月11日の未明、後白河天皇サイドが夜襲をしかけ、
崇徳上皇サイドはわずか数時間で総崩れとなってしまうのです。

保元の乱の結果は以下の通りです。

1156-5.png

崇徳上皇は讃岐(さぬき)に流罪、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。

藤原頼長は、戦いの最中に首に矢を受けるという重傷を負いますが、
なんとか奈良に逃れているお父さんのもとまでたどり着きます。
40歳を過ぎてから生まれた息子である藤原頼長を溺愛してきたお父さんですが(どっかで聞いた話だな…)、
「謀反人となった息子に会うことはできない」と、藤原頼長との面会を拒否します。
最愛のパパから見放された藤原頼長は、絶望のなか37年の生涯を閉じるのです。
奈良に埋葬された遺体は、のち信西(しんぜい)によって掘り起こされた、とも伝わっています。

ここで、源為朝についてもチラっとお話ししておきましょう。
1156年のゴロ合わせを見てみると…
1156年.jpg
マッスルキャラとして登場していますね(笑)

源為朝は弓の名手で、なんと身長2mを超える大男だったんだとか。
しかもものすごい暴れん坊で、
お父さんである源為義が、九州に追放してしまうほどだったんだとか(よっぽどですね…)。
お父さんにそこまで怒られたんなら、さすがに反省するだろうな…と思いきや、
なんと源為朝はそこで仲間をつくって九州を平定してしまうのです。

都にもどったのち、保元の乱ではお父さんと一緒に崇徳上皇サイドについた源為朝は、
夜襲を提案するも藤原頼長に却下され、自慢の弓で後白河天皇サイドを迎え撃ちます。
その際、超極太の弓を放って、平清盛たちを震え上がらせたんだとか。
保元の乱ののち、弓を放てないよう肘をはずされた状態で伊豆大島に流されたというんだから、
よっぽど怖い思いをさせたんでしょうね…

でもねー、肘はずしたくらいじゃダメだったんですねー。
治っちゃったんですよ、ハイ。

その後、伊豆大島で暴れ回ったり、
鬼の子孫が棲むという鬼ヶ島に行って大男を連れて帰ってきたりともうメチャクチャです。
結果、そんな源為朝を討伐するため、朝廷の軍勢が船でやってくるのですが、
なんとその船も弓を放って沈めてしまいます。
しかし、ここまでと悟った源為朝は、帰宅したのち自害したと伝わっています。

が!
実は自害しておらず、なんとか琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄のこと)に逃れ、
そこで生まれた子どもが初代琉球国王になった、という伝説も残っています。
うーん、源為朝ならやりかねないカモ…
この話を題材にしたのが、化政文化(かせいぶんか)で登場する曲亭馬琴(きょくていばきん)の『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)です。

*   *   *

ここで、すんごく個人的なことを申し上げてよいですか?

私、大河ドラマのなかでは「平清盛」(2012年放送)が一番好きなんです。
なぜって、山本耕史さん演じる藤原頼長が抜群に良かったからです!
上品で、厳格で、非情で、酷薄で…そんな山本耕史版ライチョウが大好きでした。
(大学で日本史を専攻していたので、頼長のことは音読みで「ライチョウ」と呼んでいます)

保元の乱で藤原頼長が亡くなるシーンなんて、
テレビの前で「ライチョウーーーっっ!!」って大号泣しました。
オウムが…オウムがね…
(ライチョウやらオウムやら、ややこしくてすいません…笑)

で、その大河ドラマ「平清盛」にもありましたが、
彼の日記である『台記』には、子どもたちへの訓戒(くんかい)が記されています。
現代語訳すると、こんな感じです。

 いつか私が死んだ後、私を恋しく思ったなら朝廷に来るがよい。
 私の魂はきっとそこにとどまっている。
 豪華な衣服や家来の数を求めるな。
 忠勤に励み、それで人に嘲(あざけ)られても恥じるな。
 忠を尽くし、決して報いを求めるな。
 努めなさい。努めなさい。

藤原頼長が死んだ後、阿部サダヲさん演じる信西がこの部分を見つけて読むんですよ…
うあぁぁぁー、思い出しただけで泣けます…

機会がありましたら、ぜひ「平清盛」、ご覧ください。

*   *   *

ちなみに藤原頼長は、腐女子のなかでは結構有名人だったりするのです。

えぇ、腐女子です。

『台記』には、男色(だんしょく)の模様がそれはそれは詳細に描かれているからです。

えぇ、男色です。

BLです!
ボーイズラヴです!!

お相手は10人ほど確認できるのですが(プリントの系図にいる源義賢(みなもとのよしかた)もその1人です)、
一番のお気に入りは秦公春(はたのきみはる)という人物です。
『台記』には、彼とのやりとりがピュアに、そして生々しく記録されています。

平安16-2.jpg

一体どんな感じで書かれているのか気になりますよね…
では、ほんの一文だけ紹介しておきましょう。
秦公春ではなく、
「讃」という隠語でたびたび登場するお相手(讃岐国の受領とかかな)と会った日の記録です。

「遂倶漏精、希有事也、此人常有此事、感歎尤深」
(『台記』仁平二年(1152)8月24日条)

あえて白文で載せますので、内容が気になる人は頑張って漢文勉強して下さい(笑)
もうね、セキララすぎるからマジメ(?)な当ブログでは訳せません訳しません。

とはいえこの時代、男色は当たり前のことです。
フツーなんですよ、フツー。
だから藤原頼長がBLしていよーと、そのお相手が10人いよーとフツーです。

でもね、この時代の日記って、他人に読まれることが前提なんですよ(詳しくはコチラ)。
子孫が先例を学ぶために日記を読むのですが、そこにこんな生々しい記録があったら、ネェ?
ちょっと藤原頼長フツーじゃないのかもしれません(笑)



藤原頼長好きが高じて、保元の乱が長くなってしまいました…すいません…
平治の乱は1159年のゴロ合わせで詳述したので、ここではザックリ見ていきましょう!

平治の乱が起こるのは、保元の乱から3年後の1159年です。
対立関係は以下の通りです。

1159-1.jpg

保元の乱で謀反人(藤原頼長のこと)を出した摂関家は勢いを失い、
かわって後白河天皇のブレーンである藤原通憲(ふじわらのみちのり、出家して信西(しんぜい)と名乗る)が権力を手にします。
信西は平清盛と手を組み、平氏の軍事力を背景に政治改革を推し進めてゆきます。

1158年、二条天皇(にじょうてんのう)が即位します。
父親である後白河上皇は院政を開始し、
親政(しんせい)を望む二条天皇と対立してゆきます。

このころ後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が頼りにしたのは、
藤原信頼(ふじわらののぶより)という院近臣です。
彼、おそらく後白河上皇とデキてるんですよねー…
ちなみに藤原忠通は、藤原信頼とモメたために後白河上皇によって失脚させられています。
愛のチカラおそるべし…

一方、信西はというと、平清盛を味方につけているのをいいことに、
自分の身内をどんどん出世させてゆきます。
藤原信頼はじめ、周囲はそんな信西に不満を抱きますが、
平清盛が怖くて手が出せません…

が!
チャンス到来!!
1159年のある日、平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけたのです!!!

すかさず藤原信頼は、源義朝とともに立ち上がります。
彼らはまず後白河上皇の邸宅である三条殿(さんじょうどの)を襲撃して後白河上皇の身柄を確保し、
二条天皇とともに幽閉(ゆうへい)します。
そのうえで信西を自害に追い込み、政権を獲得するのです。
藤原信頼と源義朝のクーデターは大成功です。

が!
熊野詣に出かけたはずの平清盛が、とんでもないスピードで戻ってきたのです!!
そして、藤原信頼のやり方に不満をもつ二条天皇が、平清盛に藤原信頼と源義朝の追討を命じたのです!!!

一気に形勢逆転です。

息子の平重盛(たいらのしげもり)・弟の平頼盛(たいらのよりもり)らを率いる平清盛は、
息子の源義平(みなもとのよしひら)・源頼朝(みなもとのよりとも)らとともに戦う源義朝をあっさり打ち負かし、平治の乱は終息するのです。

平治の乱の結果は以下の通りです。

1159-5.jpg

源義朝は、尾張(おわり)まで逃れたものの謀殺(ぼうさつ)され、源義平も斬首されます。
藤原信頼も、信西を自害に追い込んだ罪などにより斬首されます。
当時13歳の源頼朝は、平清盛のママハハによって命を救われ、
伊豆(いず)に流罪となります。

こうして勢いを得た平清盛が、武士でありながら政権を獲得するに至るのです。

*   *   *

最後に、保元の乱と平治の乱の歴史的意義を2点確認しておきましょう。

①中央政界の抗争を武士の力のみで解決=貴族の無力化
②平清盛の地位と権力の高揚=平氏政権の成立

武力なしでは政権を維持できない時代の到来です。
これを慈円は、著書『愚管抄』のなかで「ムサノ世(武者の世)」と表現しています。

長くなりました。
解答を載せて終わりにしましょう。

平安16解答.jpg



次回は、平氏政権をまとめてゆきます。

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平安時代(15) [まとめプリント]

前回は、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)と白河天皇(しらかわてんのう)の政治をまとめました。
今日はその続き、院政のはじまりを見ていきましょう!

平安15.jpg

1086年、白河天皇が、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に譲位します。
堀河天皇はまだ8歳ということで、
白河上皇(しらかわじょうこう)が院政(いんせい)を開始します。
白河上皇が院政を始めた理由については、
1086年のゴロ合わせで詳述しているので、そちらをご覧下さい!

上皇のおうちを院(いん)とか、院御所(いんのごしょ、院の御所 でもOK!)などと呼ぶのですが、
院政とは、上皇が院(院御所)で、天皇を後見する形で国政を主導する政治形態をいいます。
ちなみに院という言葉は、上皇自身を指す場合もあります。
白河上皇ならば、白河院(しらかわいん)てな感じです。
ややこしいので、これ以降、上皇のおうちは院御所と書くことにしますね。

白河上皇がはじめた院政は、
このあと鳥羽上皇(とばじょうこう)・後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の計3代にわたり、
100年余り続きます。
当時、すっかり衰退している摂関家は、
院政をおこなう上皇と結びつくことで勢いを盛り返そうとします。

なお、その後も江戸時代にいたるまで、院政はちらほらおこなわれるのですが、
それについてはまた追々…

*   *   *

院政の仕組みは、こんな感じです。

・実   権:上皇(院)
・政 務 機 関:院庁(いんのちょう)…上皇直属の家政機関
・役   人:院司(いんし)…院庁の職員の総称
・命   令:院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)…院庁から出される文書
       院宣(いんぜん)…上皇の意向を受けて出される文書
・警備の武士:北面の武士(ほくめんのぶし、北面武士 と書いてもOK!)…院御所の北面に組織
・財   源:院分国(いんぶんこく)・寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)など
・近   臣:院近臣(いんのきんしん)…院政を行う上皇の側近として権勢をふるう、
・近   臣:院近臣(いんのきんしん)…上皇の乳母(うば)の血縁者や受領(ずりょう)出身者など

なんでもかんでも「院」の文字がついているので覚えやすいですね!

*   *   *

補足説明をしておきたいのが、命令の部分です。
院庁下文(読み方注意!)と院宣、なんで2種類あるの?って感じですよね。

ここで、プリントにも載っている次の写真を見て下さい。
院庁下文.jpg
長野県立歴史館が所蔵する、鳥羽法皇(とばほうおう)の院庁が出した院庁下文です。
右上に「院廳下」と書かれていますが(「廳」を簡略化した漢字が「庁」です)、
これ、「いんのちょうくだす」と読みます。
院庁下文は、「院庁から下されたお手紙ですよ~!」という意味の、
この漢字3文字で書き始められることが多いです。
書き終わりは、院司が数名(この院庁下文では7人)サインをします。

このように院庁下文は、院庁という役所から、院司という職員が数名サインして出されます。
つまり、公的な性格の強い命令文なのです。

一方、院宣はというと、
天皇や太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)が出す命令文である宣旨(せんじ)の、
院バージョン(上皇バージョン)です。
上皇の意向を受けた院司が出すもので、
院庁下文に比べると、私的な性格の強い命令文といえます。

公的なのが院庁下文、私的なのが院宣、てな感じで区別してください。
いずれも、院政の発展とともに、国政一般に効力をもつようになってゆきます。

*   *   *

もひとつ補足説明を。
北面の武士についてです。

これは、院御所が雇った警備員です。
メンバーは源氏や平氏といった武士が多く、
源頼朝(みなもとのよりとも)のお父さんである源義朝(みなもとのよしとも)や、
平清盛(たいらのきよもり)のお父さんである平忠盛(たいらのただもり)もその1人です。

院御所の警備員になるということは、上皇や院近臣のそばに仕えるということです。
そんな権力者に顔を覚えてもらえれば、出世も夢ではありません。
北面の武士は、武士にとって中央進出の足場でもあったのです。

ところで…
なんか似たような名前の単語、ありましたよね…?

そうです!
滝口の武士(たきぐちのぶし)です!!
滝口の武者(たきぐちのむしゃ)とも呼ぶんでしたねー。
詳しくは平安時代(12)をご覧ください。

滝口の武士は、朝廷を警備する武士で、
北面の武士は、院御所を警備する武士です。
のちのち西面の武士(さいめんのぶし)なるものも登場しますので、
いまのうちに滝口の武士と北面の武士の違いを押さえておいてくださいね!!

*   *   *

その後、堀河天皇が成人し、関白には22歳のワカゾーが就任します。
1107年には堀河天皇が亡くなり、息子の鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したため、
おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう)にますます権力が集中するようになり、
院政は本格化してゆきます。

あれ?
なんか知らん間に、白河上皇が白河法皇に変わってますよ??
そうなんです、彼は1096年、娘の死をきっかけに出家しているのです。

天皇をやめると上皇(じょうこう)と呼ばれるようになり、
上皇が出家すると法皇(ほうおう)と呼ばれるようになるのです。
このことはプリントの右下にも書いていますので、確認して下さいね!

続いて1123年には、鳥羽天皇が息子の崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位しますが、
白河法皇が院政を継続します。
その白河法皇が1129年に亡くなると、かわって鳥羽上皇が院政を開始するのです。



プリントの右上、院政期の社会にうつります。

①経済

○ 知行国(ちぎょうこく)の制度

これは、上皇・朝廷が、貴族や寺社などを一国の知行国主(ちぎょうこくしゅ)として認め、
その国の支配権にあたる知行権(ちぎょうけん)や収益権を与える制度です。

ん?ナニソレ??って感じですよね。

前回、公領のしくみはこうなっていることを学びましたよね。
平安14-4.png

受領(ずりょう)とは、国守(くにのかみ)レベルの国司を指すんでしたね。
国守とは、国司で一番エラい人のことです。
国司の四等官制(しとうかんせい)は、
守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)ですもんね。
四等官制って??という人は、飛鳥時代(8)を復習して下さい。

受領に任命されるのは中級貴族なのですが、これになれたらもうウハウハです!
このころには在京、イコール京都に滞在したまんまでも、つまり現地に行かなくても、
それはそれはもうガメツク儲けられたのです!!

うらやましいですよね…
受領になりたいですよね…

でもね、繰り返しますが、
受領に任命されるのは中級貴族なんです。

そこで!

受領に任命されたいのに任命されない身分の人を、
受領みたいにガメツク儲けさせてあげよう!!

というのが知行国の制度なのです!!!

じゃ、受領に任命されたいのに任命されない身分の人って、
一体どんな人なんでしょうか。

答えは…

まさかの、身分が高すぎる上級貴族です!!!!!

えぇ!?
貧しい下級貴族とかじゃないの!!??
って感じですよね…

平安15-3.jpg

まず、朝廷または上皇は、上級貴族を知行国主に任命します。
すると知行国主は、自分の子弟や近臣などを国守に推薦し、その推薦料をもらいます。
任命された国守もほとんどは現地に行かず、かわりに目代を派遣して実務にあたらせます。
知行国主は、朝廷に決められた額の税はおさめますが、
残りは自分の収益とすることができるのです。

簡単な図にすると、こんな感じでしょうか。
公領と比べると分かりやすいですかね?

平安15-4.jpg

身分が高すぎて受領になれない上級貴族が知行国主となって、
身近な人を受領に推薦して丸儲け、ってことです。
ややこしそうに見えますが、案外シンプルなしくみです。

このころ、朝廷の税収は減っていて、貴族たちに支払う給料もままならない状況です。
知行国の制度は、そんな貴族の経済的基盤を確保する目的で生み出されたのです。

といって、貧しい下級貴族を救うのではなく、
上流貴族たちがガッポリ儲けるための制度ってのが何ともガッカリですよね!!

○ 院分国(いんぶんこく)の制度

知行国主が上皇または女院(にょいん)の場合、その知行国を院分国と呼びます。
厳密にいうと、院分国と知行国はちょっと仕組みが異なるのですが、
大学受験レベルではこの理解でオッケーです◎

女院とは、上皇の近親のなかで、院号(○○院という称号のこと)を与えられた女性のことです。
保元の乱で登場した、美福門院(びふくもんいん)とか、待賢門院 (たいけんもんいん)がそうです。

知行国の制度・院分国の制度によって、公領は上皇や知行国主・国司の私領のようになり、
院政を支える経済的基盤にもなってゆくのです。

○ 寄進地系荘園

院政期、有力貴族や大寺院への荘園の寄進が増加します。
とくに鳥羽上皇の時代には、彼の周辺に寄進地系荘園がたくさん集まります。
不輸の権・不入の権(警察権の排除にまで拡大)を持つ荘園も一般化し、
荘園の独立性が高まってゆきます。

このころ、上皇が女院や大寺院に大量の荘園を与えることもありました。
有名な例を2つ見ておきましょう。

・八条院領(はちじょういんりょう)
 鳥羽法皇(とばほうおう)の娘である八条院(はちじょういん)という女院が相続したもので、
 平安時代末に約100ヶ所、最終的に約220ヶ所以上にのぼった荘園群です。
 のちのち後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が継承し、
 南北朝時代には、南朝(なんちょう)の大覚寺統(だいかくじとう)の経済的基盤となります。
 ちなみに、八条院は1156年の記事にある、次の系図に登場しております。
 近衛天皇のお姉ちゃんにあたる人物です。
1156-1-2.jpg

・長講堂領(ちょうこうどうりょう)
 後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、長講堂(ちょうこうどう)という京都の寺院に寄進した荘園群です。
 鎌倉時代初めに約90ヶ所を数え、
 南北朝時代には、北朝(ほくちょう)の持明院統(じみょういんとう)の経済的基盤となります。

大覚寺統や持明院統については、また南北朝時代に詳しく説明しますね!

*   *   *

②宗教

○ 上皇による仏教保護

院政期、上皇たちは仏教をあつく信仰し、保護します。
白河上皇も鳥羽上皇も後白河上皇も、みんな出家して法皇となっています。

このころブームになっていたのは、
熊野詣(くまのもうで)と高野詣(こうやもうで)です。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)

以上の3つの神社をまとめて熊野三山(くまのさんざん)と呼ぶのですが、
これらに参詣することを熊野詣といいます。

もう1つの高野詣はというと、高野山(こうやさん)に参詣することをいいます。

さて高野山。
なんという宗派の総本山(そうほんざん、中心寺院のこと)だったか覚えていますか…?

ハイ、真言宗(しんごんしゅう)です。
「わっすれたわ~~~…」という人は、平安時代(3)を復習して下さいね!

浄土教と末法思想の広がりを背景に、
熊野三山や高野山は特別な場所と見なされるようになり、
上皇をはじめ、たくさんの人たちがここを目指したのです。
いずれも現在の和歌山県にあり、都からは結構遠いんですけどね。
2004年、熊野三山や高野山は、そこに至る参詣道もふくめて世界遺産に登録されました。

○ 僧兵(そうへい)の出現

荘園をたくさん所有する大寺院は、ドロボーなどから土地を守らなければなりません。
また、国府や開発領主といったさまざまな勢力にも対抗せねばなりません。

そこで登場するのが、僧兵です。
白い袈裟(けさ)で顔を覆っていたり、鎧(よろい)を身につけていたり、
長刀(なぎなた)で武装していたりと、ものものしいビジュアルをした下級僧侶です。

やがて僧兵は、強訴(ごうそ)をおこなうようになります。
神木(しんぼく、神様の宿る木のこと)や神輿(しんよ、おみこしのこと)を先頭に立てて、
朝廷や貴族に、自分たちの要求を無理矢理聞き入れさせようとするのです。

平安15-2.jpg

ウワー…めっちゃ怖いですねー…
武装したマッチョな僧侶が、おみこしかついで迫ってくるんですよ…
しかも「言うこときかんかったらバチがあたるぞー!」とか言うてるんですよ…

現代でさえこんなのが迫ってきたらめっちゃ怖いのに(まぁ迫ってくることはないでしょうけど)、
このころの貴族は、仏様とか神様とか怨霊とかバチとか、チョー信じてるんですよ!
だから、こんなことされたらもうめっっっちゃ怖いんですよ!!
僧兵の要求をのむしかないんですよ!!!

僧兵の襲来をおそれる貴族たちは、ガードマンとして武士を雇います。
これも、武士の中央政界進出につながってゆくのです。

そんな僧兵には、あの白河法皇でさえ手を焼いていたようで、
「天下の三不如意(ふにょい、自分の意のままにならないもの)」として、

賀茂川(かもがわ)の水
双六(すごろく)の賽(さい)
山法師(やまほうし、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵のこと)

の3つを挙げています。

たびたび氾濫を起こす京都の賀茂川・双六のサイコロの目・延暦寺の僧兵、
この3つはどうも自分の思い通りにならない…と愚痴っていたようです。
(ほかは思い通りになるってことですよね…やっぱ白河法皇パネェ!!!)

強訴の常連メンバーとしてあげられるのは、
白河法皇をも苦しめた山法師こと延暦寺の僧兵と、
奈良法師(ならほうし)こと興福寺(こうふくじ)の僧兵です。

山法師は、比叡山(ひえいざん)のふもとにある日吉神社(ひよしじんじゃ)の神輿をかついで強訴し、
奈良法師は、
興福寺の隣にある春日大社(かすがたいしゃ)の榊(さかき)という木をささげて強訴します。

比叡だから法師、
奈良だから奈良法師、で覚えて下さいね!
ちなみに、興福寺と延暦寺はまとめて南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれることもあります。
(南都=興福寺、北嶺=延暦寺)

*   *   *

最後に解答を載せておきましょう!

平安15解答.jpg

次回は、保元の乱・平治の乱をまとめていきます。
更新が滞っていること、なにとぞご了承くださいませ。

画像出典
長野県立歴史館 https://www.npmh.net/index.php
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平安時代(14) [まとめプリント]

久しぶりの更新、久しぶりのまとめプリントです。

これまでの古代(こだい)とオサラバし、いよいよ中世(ちゅうせい)に突入します。
とはいえ、「中世っていつのこと?」と問われると、これがハッキリ答えられんのです…
かつては鎌倉時代と室町時代を中世と呼んでいたのですが、
最近では「院政期あたりから中世って言ってもいいんじゃな~い?」てな感じになってきています。
中世という時代区分はヨーロッパで考えられたものなので、
日本にぴったり当てはまらないんですよねー。
なので、「このプリントあたりから中世なんだ~」とザックリとらえておいてください。

では、まとめプリントに沿って見ていきましょう。

平安14.jpg

1068年、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位します。
藤原氏と外戚(がいせき)関係にない彼は、
大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者さんを登用し、親政(しんせい)を開始します。

そして翌1069年、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を発令するのです。

このころ、公領(こうりょう)とか国衙領(こくがりょう)などと呼ばれる国の土地は、
どんどん増える荘園によって圧迫されておりました。
そこで、公領(国衙領)を守るため、基準にあわない荘園を停止してしまおう!と考えたワケです。

これまで荘園整理令は、902年や1045年など、たびたび発令されてきましたが、
いずれも国司に任せていたため不徹底に終わっています。

てなワケで、後三条天皇は本気です!
(いや、みんな本気だっただろうけど…)
荘園の審査を、国司に任せるのではなく、中央でおこなったのです!!

中央の太政官(だいじょうかん、または、だじょうかん)に
記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)、略して記録所(きろくしょ)を設置して、
荘園の所有者が提出する券契(けんけい、荘園の証拠書類)と国司の報告を審査します。
で、書類不備のものや、前回の荘園整理令が出された1045年以降に成立した新しい荘園など、
基準にあわない荘園を停止したのです。

これは、摂関家や大寺社の荘園も対象としたため、かなりの成果をあげます。
たとえば、京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という神社が所有する荘園は、
なんと34カ所のうち13カ所もの権利が停止されています。

後三条天皇、強気だぜー!
摂関家を外戚としない彼だからこそ、できたのでしょうね!!

ほかにも後三条天皇は、宣旨枡(せんじます)を制定し、枡の大きさも統一しています。

*   *   *

後三条天皇にかわって即位したのは、息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。
白河天皇といえば、上皇として院政(いんせい)をはじめたことで有名ですが、
天皇としての功績で覚えることは、
京都に法勝寺(ほっしょうじ)というお寺をつくったことぐらいでしょうか。
たび重なる火災や戦乱で建物はすべて失われてしまいましたが、
とてつもなく大きなお寺で、高さ80メートルを誇る八角形の九重塔まであったんだとか!
五重塔どころじゃないですよ、“きゅうじゅうのとう”ですよ!!

復元した模型がコチラ↓(10階建てに見えるのは、裳階(もこし)がついているためです)
hossyouji.jpg
(古典の日記念 京都市平安京創生館より)

そびえてますね~!
ちなみに現在、九重塔があった場所には、京都市動物園の観覧車がたっています。
いまもそびえとるわけですね~(笑)

このあと法勝寺の近くには、「勝」の漢字がつく大きなお寺が次々とたてられます。
お寺の名前と、それを建てた人の名前の一覧は以下の通りです。
 ・法勝寺         :白河天皇
 ・尊勝寺(そんしょうじ) :堀河天皇(ほりかわてんのう)
 ・最勝寺(さいしょうじ) :鳥羽天皇(とばてんのう)
 ・円勝寺(えんしょうじ) :待賢門院(たいけんもんいん、詳しくはコチラ
 ・成勝寺(じょうしょうじ):崇徳天皇(すとくてんのう)
 ・延勝寺(えんしょうじ) :近衛天皇(このえてんのう)
これらを6つまとめて六勝寺(ろくしょうじ、または、りくしょうじ)と呼びます。



では、プリントの右上にうつりましょう。

きましたよ~…荘園制…

いやですよね。
きらいですよね。

分かります!
その気持ち!!
なるべく簡潔にかみ砕いて説明しますので、ついてきてください!!!

*   *   *

まずは簡単に、荘園の歴史をおさらいしておきましょう。
平安時代(10)平安時代(11)もあわせてご覧くださいね!

平安14-1.jpg

743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出され、
初期荘園(しょきしょうえん)、つまり墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)が発生します。

でもそのうち、浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などが横行するようになり、
戸籍(こせき)・計帳(けいちょう)制度は崩壊、
902年に延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)を出してみるも、
班田収授(はんでんしゅうじゅ)もおこなわれなくなり、税制は立ち行かなくなります。

↓   ↓   ↓

平安14-2.jpg

そこで10世紀、朝廷は税制の大転換をおこないます。
これまでの人頭税(じんとうぜい、人にかける税)にかわり、土地に税をかけるようにし、
その徴税を、これまでの郡司にかわり、国司に請け負わせるようにしたのです。
徴税を請け負うかわりに、一国内の統治をゆだねられるようになった国司はオイシイ役職となり、
成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)・遙任(ようにん)がおこなわれるようになります。
なかには、ガメツイ受領(ずりょう、任国に赴く最上席の国司)も現れます。

この税制の大転換にともない、課税対象となる田んぼは名(みょう)という単位に分けられ、
国司はその耕作と徴税を有力農民である田堵(たと)に任せます。
田堵は名を請け負うことから、やがて負名(ふみょう)と呼ばれるようになります。
また、田堵のなかにはじゃんじゃん土地を開発し、
大名田堵(だいみょうたと)とか開発領主(かいはつりょうしゅ)と呼ばれるほど成長する者も現れます。

でもね、この時代、税は土地にかけられるようになっているわけですよ。
土地を開発すればするほど、いっぱい税を支払わないといけなくなるわけですよ。

なんとか税から逃れたい開発領主(大名田堵)たちは、
不輸の権(ふゆのけん)や不入の権(ふにゅうのけん)をもつ特権階級に土地を寄進します。
土地を寄進しても、みずからは荘官(しょうかん)としてその土地の管理を続けられるので、
寄進地系荘園はどんどん増加してゆくのです。

↓   ↓   ↓

平安14-3.jpg

前述の通り、増えまくる寄進地系荘園は、1069年の延久の荘園整理令によって整理されます。
これにより、貴族や寺社が支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とがハッキリし、
荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立するのです。
ザックリいうと、荘園と公領(国衙領)で国が構成されている、という感じです。

荘園については平安時代(11)に詳述しているので、そちらをご覧いただくとして、
ここでは公領(国衙領)を見ていきましょう。

平安14-4.png

公領(国衙領)の統治を担うのは国司、とくに受領です。
前述のとおり、受領とは任国に赴く最上席の国司を指します。
なのにねー、このころになると、任国に行かなくなっちゃうんですよ!
受領なのに遙任しちゃうんですよ!!
なんたる矛盾!!!

そんなこんなで任国の国衙には、受領が派遣した目代(もくだい)がやってきます。
目代は、地元の有力者である開発領主たちを在庁官人として雇い、国衙を経営してゆくのです。

なお、公領(国衙領)の開発を奨励する朝廷は、
それらを郡(ぐん)・郷(ごう)・保(ほ)という並列した支配単位に編成しなおします。
国衙は、在庁官人のなかから郡司(ぐんじ)・郷司(ごうじ)・保司(ほし)を任命し、
それぞれの徴税を請け負わせるようになります。

徴収する税はというと、
公領では官物(かんもつ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)、
荘園では年貢(ねんぐ)・公事・夫役に変わっています。

むあぁぁぁぁーーーー、ややこしいですよねーーーー…
もっとうまくまとめられたらいいのですが、私にはこれが限界のようです…

*   *   *

最後に解答を載せておきましょう。

平安14解答.jpg



次回は、院政をまとめていきます。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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画像出典
古典の日記念 京都市平安京創生館 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/index.html
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平安時代(13) [まとめプリント]

武士のおこりの2回目は、平安時代に地方で起きた反乱を取り上げます。

前回、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)として、
桓武平氏(かんむへいし)と清和源氏(せいわげんじ)が登場しました。
まずは、彼らが一体ナニモノなのか…というところからお話ししましょう。

*   *   *

平安時代、皇位継承が確実におこなわれるよう、
子どもをたくさんもうける天皇が少なくありませんでした。
桓武天皇(かんむてんのう)は30人ほど、
嵯峨天皇(さがてんのう)なんて50人ほど子どもがいたようです。

天皇の子どもは、もちろん天皇の一族、
すなわち皇族(こうぞく)です。

皇族であるその子どもたちが、それぞれ子どもをもうけるとなると…
そう、皇族はどんどん増えてゆくのです。

律令には、皇族に一定の給料を与えることなどが定められているので、
皇族が増えすぎると、国家財政を圧迫することにつながってしまいます。
そこで、皇位継承の可能性がなくなった皇族に、
源(みなもと)や平(たいら)などの姓を与えて皇族でなくなってもらう、
ということがおこなわれるようになります(皇族は姓をもちません)。

天皇から姓を賜(たまわ)って、臣下(しんか)の籍(せき)に降りることから、
これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
皇族でなくなった方が自由に出世できる、というメリットもあったようですが、
実際のところ、その子孫は没落し、地方で武士や豪族になる、というケースが多かったようです。

平安13-1.jpg
(描ききれないのでかなり省略しました。ホントは子どもや兄弟、奥さんナドナドがもっとたくさんいます!)

では、具体的な例を見てみましょう。

889年、桓武天皇のひ孫(孫という説もアリ)である高望王(たかもちおう)は、
平の姓を賜って、平高望(たいらのたかもち)となります( ↑ 上のイラスト参照)。
平高望は、やがて上総(かずさ)の国司に任命され、子どもたちを連れて任国へ赴きます。
そして、国司の任期を過ぎても平安京へは戻らず、
関東地方の開墾を進めて勢力を拡大し、武士団(ぶしだん)を形成するようになるのです。
この平高望の子孫を、桓武平氏と呼びます。

また、清和天皇(せいわてんのう)の孫にあたる人物が、
源の姓を賜って(いつ臣籍降下をしたのか不明)、源経基(みなもとのつねもと)となります。
この源経基の子孫を、清和源氏と呼びます。

前回も述べた通り、彼らは天皇の血をひいているということからカリスマ性を高め、
やがて大武士団(だいぶしだん)を率いる武家の棟梁となってゆくのです。



9世紀末、朝廷は滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)を設置し、
武芸を得意とする者に、宮中の警備を任せるようになります。

さらに地方武士たちは、日本各地で起こるさまざまな反乱を鎮圧することで、
自分たちの実力を、中央の人々に認めさせてゆくのです。

平安13.jpg

では、地方で起こる反乱を、桓武平氏・清和源氏に整理しながら見ていきましょう。
旧国名が分からない人は、飛鳥時代(11)のプリントを参考にしてくださいね。

*   *   *

最初は、関東地方で起こる平将門の乱(たいらのまさかどのらん)です。

平将門(たいらのまさかど)は、父である平良将(たいらのよしまさ)の死後、
おじさんにあたる平国香(たいらのくにか)と対立し、これに勝利します。
その後、下総(しもうさ)を根拠地にして一族らと争いを繰り返すうち、
939年には常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府(こくふ)を攻略し、
自ら新皇(しんのう)と名乗るようになります。
東国一帯(東国とは、おもに関東地方を指します)を占領するにいたった新皇・平将門ですが、
940年、平国香の息子である平貞盛(たいらのさだもり)と、
下野国の押領使(おうりょうし)である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって討たれます。
● 平将門の乱(939年~) … 〔負〕平将門 × 〔勝〕平貞盛・藤原秀郷

これとほぼ同じタイミングで起こるのが、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)です。
939年、瀬戸内地方で発生します。

藤原純友(ふじわらのすみとも)は、伊予(いよ)の国司として、
瀬戸内海で暴れまわる海賊たちの討伐にあたっていました。
しかし、国司の任期を過ぎても都には戻らず、逆に海賊たちのリーダーとなり、
日振島(ひぶりしま)を根拠地にして、朝廷と対立するようになります。
伊予の国府を攻略し、さらには大宰府(だざいふ)をも占領する藤原純友ですが、
清和源氏の祖である源経基と、
追捕使(ついぶし)である小野好古(おののよしふる)らに敗北し、反乱は鎮圧されます。
● 藤原純友の乱(939年~) … 〔負〕藤原純友 × 〔勝〕源経基・小野好古

ほぼ同時期に関東地方と瀬戸内地方で起こった平将門の乱と藤原純友の乱。
両者をまとめて、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)といいます。

これらを鎮圧したのは、朝廷の軍隊ではなく、押領使や追捕使に任命された地方武士たちです。
つまり、承平・天慶の乱は、朝廷の軍事力の低下と、地方武士の実力を世に知らしめたのです。
このあと、地方武士の組織はいっそう強化されることとなります。

*   *   *

969年、朝廷では藤原北家(ふじわらほっけ)による最後の他氏排斥事件が起こります。
地方で起こる反乱ではありませんが、武士がからんでいるので、ちょっとここでお話ししておきます。

ではその事件、なんという名称だったか覚えていますか?
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が左遷された、安和の変(あんなのへん)です。

源高明がなぜ左遷されることになったのかというと、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を即位させようとしているのではないか…
というような内容が、朝廷に密告されたからでしたね。
その密告をしたのは、源経基の息子である源満仲(みなもとのみつなか)です。
源満仲は、同じ源氏である源高明をチクることで藤原氏に接近し、
源氏の勢力を伸ばすことに成功したのです。

ちなみに源満仲は、
摂津(せっつ)にある多田荘(ただのしょう、現在の兵庫県川西市周辺)という荘園に土着した、
武家の棟梁です。
荘園(名(みょう))の名前から、多田(ただ)という名字を名乗ったため、
多田満仲(ただみつなか、または、ただまんじゅう…まんじゅうって!)とも呼び、
彼の子孫を多田源氏(ただげんじ、長男の源頼光(みなもとのよりみつ)が武家の棟梁を継承)と呼びます。

姓と名前の間は「の」を入れて読み(源満仲の読み方は、みなもとのみつなか)、
名字と名前の間は「の」を入れて読みません(多田満仲の読み方は、ただみつなか)。
気をつけてくださいね!
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)を参考にしてください。

*   *   *

1028年、房総半島で平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が起こります。

平将門の乱から100年が経とうとしているこのころの関東地方では、
平貞盛の子孫をはじめ、平氏が大きな力をふるっています。
平忠常(たいらのただつね)は、平高望のひ孫にあたる人物で、
房総半島に広大な所領をもっていたようです。

1028年、平忠常は安房(あわ)の国司を焼き殺すという事件を起こします。
原因は不明なのですが、これまで平忠常は国司の命令に従わず、納税も拒否していたというので、
そういったモメゴトが高じて起きたことなのでしょう…

平忠常の勢いはとまらず、ついには房総半島を占領するに至ります。
朝廷はこれを討伐すべく軍隊を派遣するのですが、
鎮圧できないまま3年もの月日が流れてしまいます…

そこで、源満仲の息子である源頼信(みなもとのよりのぶ)に、
平忠常の乱を鎮圧するよう命令がくだります。
すると1031年、平忠常は源頼信にすんなり降伏するのです。

えっ…なんで…??って感じですよね。

どうやら平忠常は、昔、源頼信と主従関係にあったようなのです。

長期間にわたる戦闘で疲れ果てていた平忠常は、
かつての主君である源頼信が自分を討伐しに来たことを知り、
一度も戦うことなく屈服し、都に移送される途中で病死してしまうのです。

なんともあっけない終わり方をする平忠常の乱ですが、
これによって東国における平氏の力は衰退し、かわって源氏が東国に進出することになるのです。
● 平忠常の乱(1028年~) … 〔負〕平忠常 × 〔勝〕源頼信

ちなみに、源頼信は河内国を本拠地としたことから、彼の子孫を河内源氏(かわちげんじ)と呼びます。

*   *   *

1051年、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)、または、前九年の役(ぜんくねんのえき)が、
東北地方で起こります。

この年、陸奥(むつ)の豪族である安倍頼時(あべのよりとき)が国司と対立し、
かわって、源頼信の息子である源頼義(みなもとのよりよし)が、国司(陸奥守(むつのかみ))に任命されます。
両者はしばらく良好な関係にあったのですが、あるとき激突し、
源頼義は、息子の源義家(みなもとのよしいえ)とともに、安倍氏と戦うこととなります。
ところがねー、安倍氏めっちゃ強いんですよー…
そこで源頼義は、出羽(でわ)の豪族である清原氏(きよはらし)に協力をあおぎ、
ようやく1062年、安倍氏を滅ぼすことに成功します。
このとき源頼義は、東国の武士を率いて戦ったため、源氏が東国における勢力を確立することになるのです。
● 前九年合戦(1051年~) … 〔負〕安倍氏 × 〔勝〕源頼義・源義家 + 清原氏

*   *   *

1083年、後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)が、
東北地方で起こります。

安倍氏の滅亡後、陸奥・出羽の両国で大きな勢力を得るようになった清原氏の内部で、
相続争いが発生します。
父親である源頼義にかわって陸奥守に就任していた源義家は、これに介入し、
清原清衡(きよはらのきよひら)を助けて内紛を平定します。
このとき源義家は、東国の武士団との主従関係を強め、
武家の棟梁としての地位を固めることになるのです。
● 後三年合戦(1083年~) … 〔負〕清原氏 × 〔勝〕清原清衡(藤原清衡)・源義家

ちなみにこのあと、清原清衡は実の父親の姓である藤原を名乗って藤原清衡(ふじわらのきよひら)となり、
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代として、東北地方を支配してゆくことになります。

*   *   *

以上の流れ、つかめましたか?
最後に、解答を載せておきましょう。

平安13解答.jpg



プリントには、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)といった名前が登場しましたね…
いよいよ源平の時代です!

が!
まとめプリントはしばらくお休みして、次回から久々にゴロ合わせを見ていきます。

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平安時代(12) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、武士(ぶし)を取り上げます。

武士というと、チョンマゲでカタナを持っている姿を思い浮かべませんか?
それはズバリ、江戸時代の武士です。
時代劇の舞台はほとんどが江戸時代なので、
どうしてもそのイメージが強くなってしまいますよね。
(え?時代劇、観ないですか…??)

今から見ていくのは、武士のおこりです。
まだまだ江戸時代の武士みたいなスタイルではありません。
では、はじまりのころの武士とは、一体どんな様子だったのでしょうか。
一緒に見ていきましょう!

平安12.jpg

まずはプリントの左側、①地方政治の変質と武士 です。

前々回前回と、2回にわたって地方政治の変質を取り上げました。
このことは、武士のおこりと密接な関係があるので、簡単におさらいしておきましょう。

 浮浪・逃亡・偽籍などの横行により戸籍・計帳制度が崩壊
    ↓
 政府、財政難に陥る
    ↓
 10世紀、政府は国司に税の徴収を請け負わせ、その見返りとして任国の統治を国司に一任
    ↓
 国司はオイシイ職業となる
    ↓
 成功・重任、さらには遙任が繰り返され、ガメツイ受領まで出現

ザッとまぁこんな感じです。
この流れ、きちんと理解できていますか?

要するに、このころ地方の政治は乱れているのです。
かといって、地方の人々も、黙ってそれに耐えるばかりではありません。

国司のやりたいホーダイに抵抗するため、
自分の土地を維持し、広げるため、
治安を守るため、

地方に暮らす豪族や有力農民たちは、それぞれ武装するようになるのです。
これが、武士のおこりの1つのパターンです。

結果、各地で争いが発生します。

それを鎮圧するのが、押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)です。
盗賊を追いかけて逮捕したり、内乱を鎮圧することを任務とする令外官(りょうげのかん)で、
はじめは臨時で置かれたのですが、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)以降、常置となります。
令外官については、平安時代(1)のプリントにまとめてありますので、参考にしてください。

押領使や追捕使に任命されるのは、武芸を身につけた中級貴族や下級貴族たちです。
(地方の有力者が任命されることも多々あります)
その多くは、源や平などの姓を賜って臣籍降下(しんせきこうか)をした賜姓貴族(しせいきぞく)です。

彼らのなかには、地方の争いを鎮圧したあと、そのまま現地にとどまり、
地元の武装有力農民などを配下に入れ、土地を開発し、所領を確保する者もいたようです。
これも、武士のおこりの1つのパターンです。

つまり、
地方豪族や有力農民が武装するパターン、
押領使や追捕使に任命された中級・下級貴族が土着するパターンなど、
さまざまな形で武士は誕生したのです。

ちなみに、武士とはもともと、武芸をもって朝廷に仕える武官(ぶかん)を意味する言葉です。
今回取り上げているような武士のことを、はじめは兵(つわもの)と呼んで区別していたようです。

*   *   *

やがて朝廷や貴族たちは、武士(兵のことですよ!)の活躍を耳にするようになり、
彼らを様々な場面で奉仕させるようになります。

中央の貴族のなかには、自身の警護にあたらせる侍(さむらい)として、武士を雇う者が現れます。
また地方では、武士たちを国侍(くにざむらい)として組織し、国衙(こくが)の軍事力としたり、
受領が、館侍(たちざむらい)という直属の武士として、彼らを組織するようになるのです。

なお、侍は、目上の人にお仕えする、という意味の動詞である「さぶらふ」が語源で、
もともとは主君の側近に仕える人全般を指したのですが、
やがて武士を意味する言葉として定着していったようです。

そして9世紀末、朝廷も武士を宮中の警備員として採用することとします。
滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)の設置です。

滝口とは、清涼殿(せいりょうでん、天皇の日常の住まいのこと)の北東にある場所の名称です。
彼らはここを詰め所にして警備にあたったため、滝口の武者と呼ばれるようになったのです。

ちなみに、1855年に再建された現在の京都御所(きょうとごしょ)でも、
滝口の場所を確認することができるんですよ!

P1010145.jpg

センスのない写真ですいません…分かりにくいですよね…
場所は、下の図の赤丸をつけた部分です。

kyoutogosyo_heimenzu.jpg
(財団法人菊葉文化協会発行『ポケットガイド1 京都御所』より作成)

現在、京都御所は、通年公開をおこなっています(特定の日は除く)。
平安京の内裏が再現された空間ですので、機会があればゼヒ一度訪れてみてください。
詳しくは、宮内庁参観案内をご覧下さい。

*   *   *

武士たちは、血縁関係などで結びつき、連合体を形成してゆきます。
これを、武士団(ぶしだん)といいます。
血のつながりのある親戚を中心に結成された戦闘集団、というところですね。
武士団の構造については、プリントの右側にまとめたのでのちほど。

やがて武士団は、カリスマ性のある人物のもとに集まるようになります。
これを、とくに大武士団(だいぶしだん)と呼んだりします。

では、大武士団のリーダーである、カリスマ性のある人物とは誰かというと、
桓武天皇の血をひく桓武平氏(かんむへいし)や
清和天皇の血をひく清和源氏(せいわげんじ)です。

なんてったって、天皇の血をひいてるんですよ?
めっちゃかっこいいじゃないですか!
カリスマ性むんむんじゃないですか!!

平安12-1.jpg

このような、大武士団の頂点に立つ人物を、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)と呼びます。
また、武家の棟梁をはじめ、軍事をメインとする貴族は、
のちのち学者さんたちによって、軍事貴族(ぐんじきぞく)と呼ばれることになります。



次に、プリントの右側、②武士団の構造 を見ていきましょう。

・惣領(そうりょう)
 武士団の頂点に立つ人物
 一族のリーダーのことで、主人や首長などと表記されることもあります
   |
・家子(いえのこ)・家の子(いえのこ)
 原則、惣領と血のつながりのある家臣
 惣領のおじいちゃん・おばあちゃん、お父さん・お母さん、おじさん・おばさん、
 兄弟・子ども・孫などなど、いわば親戚を指します
   |
・郎党(ろうとう)・郎等(ろうとう)・郎従(ろうじゅう)
 惣領と血のつながりのない家臣
 田堵(たと)とか名主(みょうしゅ)などの出身者で、主従関係を結んで戦闘に参加します
   |
・下人(げにん)・所従(しょじゅう)
 武士身分ではない家臣
 馬に乗ることはできません

1人の惣領を頂点に、家臣たちが組織されているのが分かりますね。

*   *   *

では、③大武士団の構造 を見てみましょう。

②で見た武士団が、1人の惣領のもとに結集している様子が見てとれますね。
このような武士団の集まりを大武士団といい、
大武士団のリーダーを武家の棟梁と呼ぶわけです。

最後に、プリントに載せた「粉河寺縁起絵巻」(こかわでらえんぎえまき)の一部分を見てください。
真ん中には馬に乗った男性が、そしてそのまわりには3人の男性が描かれているのが分かりますね。
馬に乗れるのは、惣領・家子・郎党なので、真ん中に描かれている男性はそのいずれかだと考えられます。
そして、まわりにいる3人の男性は、馬には乗っていませんよね。
つまり、下人・所従クラスだと考えられます。

では、最後に解答を載せておきましょう。

平安12解答.jpg



次回は、地方で起こる様々な反乱を、
桓武平氏・清和源氏に分けてまとめてゆきます。

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画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%89%E6%B2%B3%E5%AF%BA%E7%B8%81%E8%B5%B7%E7%B5%B5%E5%B7%BB
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平安時代(11) [まとめプリント]

前回に引き続き、ややこしい荘園制を見ていきますよ-!
頑張りましょう!!

平安11.jpg

まずはプリントの左側、①荘園の歴史です。
前回の内容と重複する部分がたくさんあるので、復習も兼ねて進めていきましょうね。

8~9世紀ごろの政府の課題は、人口増加による口分田不足の解消と、税の増収です。
そこで、
722年の百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)、
723年の三世一身法(さんぜいっしんのほう)を経て、
743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発令します。
これによって公地公民の原則は崩壊し、人々は自分の土地を持つことができるようになります。

すると、力のある者、たとえば有力貴族や大寺社は、
周辺の班田農民(口分田を耕して租を納める、戸籍に登録された農民のこと)や、
口分田を捨てて浮浪(ふろう)している農民などを使ってどんどん開墾を進め、
自分の土地を広げてゆきます。

こうして生まれるのが、初期荘園(しょきしょうえん)です。
自分で開墾した土地なので、墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)ともいいます。

初期荘園は、基本的には租が課せられる輸租田(ゆそでん)です。
有力貴族や大寺社は、自分たちの土地にかかる租を国衙におさめ、
残ったぶんを自らの収入としたのです。

一方、農民のなかにも豊かな者が現れるようになります。
こちらも浮浪する貧しい農民などを労働力として取り込み、どんどん力をつけてゆきます。
このような有力農民を、田堵(たと)といいます。
前回も登場しましたね!
覚えていますか?

有力貴族や大寺社、そして田堵が、それぞれ初期荘園を拡大するための労働力として、
浮浪する農民を使っていることからも分かるように、
このころ各地では、浮浪・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)が横行しています。
結果、政府は戸籍・計帳によって農民たちを管理できなくなり、財政難に陥ってしまうのです。

そこで、政府は直営方式を採用し、
823年、大宰府管内に公営田(くえいでん)を、
879年、畿内に官田(かんでん)、または元慶官田(がんぎょうかんでん)を設置します。

ちなみにこのころ、天皇は勅旨田(ちょくしでん)、
院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)は賜田(しでん)という土地を集積しています。

このあたりについては、平安時代(2)で詳しく書いたので、復習しておいてくださいね!

*   *   *

とはいえ、公営田や官田といった直営田(ちょくえいでん)を設置するだけで、
財政難が克服できるわけではありません。

902年には、醍醐天皇(だいごてんのう)が
延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)を出しますが、もはや手遅れです。

10世紀、政府はついに、税制の大転換に踏み切ります。
従来の人頭税(じんとうぜい)をやめて、
官物(かんもつ)・臨時雑役(りんじぞうやく)という地税を徴収することにしたのです。

この徴収は、これまでの郡司にかわって、国司が請け負うことになります。
徴税って、なかなか大変な作業なんですよね~…
そこで政府は、その見返りとして、国司に任国の統治を一任することにします。
税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてイイヨ!ということです。
結果、国司はオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返され、
受領(ずりょう)というガメツイ国司まで現れるようになるのです。

先ほども述べましたが、徴税はホントに大変です。
そこで国司は、有力農民である田堵を利用します。
新しい徴税単位である名(みょう)の耕作を田堵に任せ、税の納入を請け負わせるのです。
このように、名の経営を請け負う田堵を、とくに負名(ふみょう)と呼びます。
田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう、
大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。

*   *   *

土地の開発をどんどん進める大名田堵は、
やがて開発領主(かいはつりょうしゅ、または、かいほつりょうしゅ)と呼ばれるまでに成長します。

ややこしいですね…
田堵→負名→大名田堵→開発領主
という感じで成長していくんだと理解してください。

さらに、地元でブイブイいわす開発領主の多くは在庁官人(ざいちょうかんじん)となり、
国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなるのです。

でもねー、開発領主なんて呼ばれちゃうくらい土地を広げてはみたものの、
めっっっっっちゃ税をとられるんですよ!

そこで開発領主たちは考えます。
なんとか税を逃れる方法はないかなぁ~…って。

するとね!
なんだかイイモノを持ってる権力者がいることを知るのです!!

そのイイモノとはズバリ!
不輸の権(ふゆのけん)・不入の権(ふにゅうのけん)という特権です!!

平安11-2.jpg

まず、不輸の権とは、税を免除される権利です。

ナニソレ!
めっちゃ羨ましくないですか?
みんなも「消費税を免除される権利」なんてあったら、欲しいでしょう!!
ないけどね(笑)

不輸の権が認められた荘園には、2種類あります。
官省符荘(かんしょうふしょう)と国免荘(こくめんのしょう)です。

符荘とは、
太政符(だじょうかんぷ、または、だいじょうかんぷ)、もしくは民部符(みんぶしょうふ)で、
不輸の権を認められた荘園のことです。

符(ふ)とは、上からの命令です。
つまり不輸の権は、太政官もしくは民部省の命令によって認められるのです。

ちなみに、符の反対は、解(げ)ですよ。
なにそれ?という人は、988年のゴロ合わせをご覧下さい。

988-2.jpg

国免荘とは、国司によって不輸の権を認められた荘園のことです。
ただし、これは国司が個人的に認めるものなので、
国司が入れ替わったりすると、無効になってしまう場合があったようです。
いやぁ~、それはモメるでしょうね…

次に、不入の権とは、国司の使者の立ち入りを認めない、という権利です。

国司は、国内の耕作状況を調査して、課税量を決定するため、
検田使(けんでんし)という使者を各地に派遣します。
しかし、不入の権を認められた荘園には、検田使は立ち入れないのです。

こうなると、荘園のなかで何がおこなわれ、どれだけ収穫があるのか、
国司はまったく把握できないわけです…
荘園領主としては好きホーダイしますよね、そりゃ…

*   *   *

というわけで開発領主たちは、こんな魅力的な特権をもつ権力者たちに土地を寄進し、
課税を免れようとするのです。

「えー!そんなことしたら自分の土地じゃなくなっちゃうじゃん!!」って思いますよね。
そうなんです、その土地は、寄進した権力者のものになってしまいます。

でもね、権力者はたいてい中央に家があるんですよ。
それなのに、色んなところにある土地を寄進されても、
わざわざ現地に行って管理なんてできないんですよ。

なので、土地を寄進してくれた開発領主を荘官(しょうかん)に任命し、
いままで通り、管理を任せるのです。

平安11-1.jpg

つまり、寄進によって土地の名義が権力者にかわっただけで、
土地の管理はこれまで通り開発領主がおこなう、というわけです。
あったまいいですねー!

これを寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)といいます。
寄進地系荘園は、11世紀なかばにはどんどんと広がり、公領を圧迫してゆきます。

そこで、1069年に延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)が発令されるのですが、
それはまたのちのお話。



プリントの右側にうつりましょう。
②寄進地系荘園の発達、です。

開発領主は課税を逃れるため、貴族や寺社などの有力者に土地を寄進するんでしたね。
寄進を受けた権力者は領家(りょうけ)と呼ばれ、
開発領主を下司(げし)・公文(くもん)などの荘官、つまり荘園の管理人に任命します。

領家のなかには、この寄進された土地を、
さらなる権力者、たとえば皇族・摂関家・大寺社など、に寄進をすることがあります。
領家から寄進を受けた超権力者を、本家(ほんけ)と呼びます。

領家と本家のうち、荘園の実質的支配権をもつ方を、本所(ほんじょ)と呼びます。
本所は、荘園における支配権を強めるため、
家臣を荘官として現地に派遣し、下司や公文を指揮させることがありました。
この上級荘官を、預所(あずかりどころ)と呼びます。
なかには、下司や公文のなかから預所に任命される、というパターンもあったようです。

これが、寄進地系荘園のモデルケースです。
分かりましたか?

ではここで、史料を使って、実際の例を見てみましょう。

鹿子木(かのこぎ、肥後国鹿子木荘(かのこぎのしょう)のこと)の事
一、当寺の相承(そうしよう)は、開発領主沙弥(しやみ、在俗の僧のこと)寿妙(じゆみよう)嫡々(ちやくちやく)相伝(そうでん)の次第なり。
一、寿妙の末流高方(たかかた、寿妙の孫である中原高方のこと)の時、権威を借らむがために、実政(さねまさ)卿(大宰大弐(だざいのだいに)である従二位(じゆにい)藤原実政のこと)を以(もっ)て〔1    〕と号し、年貢四百石を以て割(さ)き分(わか)ち、高方は庄家(しようけ、荘園の管理施設のこと)領掌(りようしよう、領有して支配すること)進退(自由にあつかうこと)の〔2    〕職 ((ふつう下司・公文などの下級荘官を指揮して現地を管理・支配する上級荘官のこと、職は職務とそれにともなう権益のこと)となる。
一、実政の末流の願西(がんさい、藤原隆通(ふじわらのたかみち)が出家後に名乗った法名のこと)微力の間、〔3    〕の乱妨を防がず、この故に願西、〔1    〕の得分(収益のこと)二百石を以て、高陽院内親王(かやのいんないしんのう、鳥羽天皇(とばてんのう)の皇女のこと)に寄進す。(中略)これ則ち〔4    〕の始めなり。
(東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじよ)、原漢文)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

1…領家
2…預所
3…国衙
4…本家

入試で狙われるのは、たいていこの部分ですが、
たま~に鹿子木荘の場所(肥後国、現在の熊本県)を問われたり、
高陽院内親王のお父さん(鳥羽天皇)のことを問われたりすることもあります。

では、この史料を、簡単に訳しておきましょう。

鹿子木荘のこと
一、鹿子木荘は、開発領主である寿妙の子孫が代々受けついできたものである。
一、寿妙の孫である中原高方は、権威を借りるために藤原実政を領家とし、年貢のうち400石を上納した。そして、中原高方は荘園の現地を完全支配する預所となった。
一、藤原実政の孫である願西には力がなく、国衙の不当な干渉を防げなかった。そこで願西は、領家の収益のうち200石を上納する条件で、高陽院内親王に寄進した。これが鹿子木荘の本家のはじめである。

つまり、
開発領主の寿妙の孫にあたる中原高方が、藤原実政に土地を寄進し、
藤原実政が領家、中原高方が荘官(預所)となった。
その後、藤原実政の孫にあたる願西が、高陽院内親王に土地を寄進し、
高陽院内親王が本家となった、ということですね。

人間関係が見えてきましたか?
プリントの右上にある鹿子木荘の表に、人名を埋めて、頭を整理しておいてください。

ちなみに、この史料の出典は、東寺百合文書です。
とうじゆりもんじょ、じゃないですよ、とうじひゃくごうもんじょ、と読みます。
中世を中心とするたくさんの古文書(こもんじょ)が入った約100個の箱が、
東寺(教王護国寺)に伝わったのが、その名前の由来です。

*   *   *

ひとまず荘園制度のお話はこれで終わります。
でも、すぐに荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が登場しますので、
ここまでのところをしっかりと整理しておいて下さいね!

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

平安11解答.jpg



次回から、2回にわたって武士を取り上げます。

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平安時代(10) [まとめプリント]

今日取り上げるのは、ややこし~いややこし~い荘園制です。
なかなか理解できませんよね~、これ…
私も高校生のころは、ナニがナンだかさっぱり分からなくて、ホントに苦手でした。
なので、分かりますよ!その気持ち!!

より多くの人に理解してもらえるよう、かみくだいた説明を心がけますので、しっかりついてきてください!
では、スタートです!!

平安10.jpg

はじめに、律令制度下の税制を、簡単に確認しておきましょう。
・ 課税対象……戸籍・計帳に記載された成人男子が中心
・ 徴税請負人…郡司(国司は行政担当)
・ 税の種類……租・課役(庸・調・雑徭)など
          租は6歳以上の男女に、課役はおもに成人男子に課せられる
このあたり、頭のなかでしっかり整理できていますか~?
ウロ覚えだという人は、飛鳥時代(10)でしっかりと復習しておいてください。

とにもかくにも、律令制度下での税制は、
・課税対象は人間(人頭税)
・郡司が徴税を請け負う
以上の2点を頭に入れておいてください。

平安10-1.jpg

8~9世紀に成立した律令制度ですが、時代が進むにつれ、ガタが来はじめます。
浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などの横行により、
課税対象である人間の居場所や性別が、きちんと把握できないという事態に陥ってしまうのです。
また、貴族や大寺社は、743年に土地の私有が認められたのをいいことに、
浮浪・逃亡中の農民なんかを使って、どんどこ荘園を拡大しまくります。
このままだと、国家は満足に税を徴収することができません。

そこで立ち上がったのが、醍醐天皇(だいごてんのう)です。
律令体制の再建(税のことは令に定められているので、令制の再建でもOK!)を目指して、
902年に延喜の荘園整理令を発令し、また班田収授を励行するよう命じるのです。

平安10-2.jpg

しかし、この年につくられた阿波国(あわのくに、現在の徳島県のこと)の戸籍を見ると、
5戸435人の男女の内訳が、男59人、女376人なんですよ。
イヤイヤ!いくらなんでも女多すぎダロ!!
男として生まれたけど、戸籍には女と登録することで、税負担を軽くしようとしたのでしょう。
そう、明らかに偽籍です、これ。
もうね、59人の男性には拍手ですよ…
頑張れとしか言いようがない…(涙)

というわけで、今さら班田収授を励行しろ!なんて言われても、
こんな戸籍じゃ、ちゃんとしようにもちゃんとできないわけです!!

結果、班田収授は、902年を最後におこなわれなくなります(以降のものは、史料上確認できていません)。
延喜の荘園整理令は、不徹底に終わってしまうのです。

このころ、三善清行(みよしのきよゆき)という学者が、
意見封事十二箇条(いけんふうじじゅうにかじょう)という意見書を、醍醐天皇に提出しています。
ここでは、班田収授の限界と、それによる地方政治の混乱ぶりなどが指摘されています。
10世紀初頭、律令体制は崩壊していたのです…



もちろん、このままでいいわけがありません!
政府はついに、税制の改革に踏み切ります!!

人間を課税対象としてきたこれまでの税制(人頭税)を廃止し、
土地を課税対象とする負名体制(ふみょうたいせい)を確立するのです。

さぁ~、ここからですよ!
ややこしいのは!!
気合い入れていきましょう!!!

課税対象が人間から土地に変わったので、
まずは公領(国の土地)を、名(みょう)または名田(みょうでん)と呼ばれる徴税単位に再編成します。
この耕作を請け負うのが、田堵(たと、田刀と表記することもアリ)と呼ばれる有力農民です。
なかには、国司と結んで大規模な経営をおこない、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれるものも現れます。

名の耕作を請け負う田堵は、負名(ふみょう)と呼ばれ、名にはその人の名前がつけられます。
たとえば、太郎さんが耕作を請け負う名は、太郎名とか太郎名田とか、そんな感じで呼ばれるわけです。

また、税の種類も、
租・庸・調や公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)に由来する官物(かんもつ)と、
おもに雑徭に由来する臨時雑役(りんじぞうやく)とに一新されます。

これらの税を徴収するのは誰かというと、国司です。
負名は、名の耕作とともに、これらの税をきちんと納入することを、国司から請け負うのです。

ちなみに、負名は名の所有権を持ちません。
その土地の耕作を、国司から請け負うだけです。

でもね、ずーーっとその土地の耕作を請け負っているとね、
だんだん名に対する権利を強めていっちゃうんですよ。
だって、実際にその土地を経営しているのは、国司じゃなくて負名なんですもん。
こうして負名は、11世紀半ばごろには、
名主(みょうしゅ、なぬしと読んではいけません!)と呼ばれるまでに成長します。
これについては、またのちのち詳しく見ていきます。

負名体制を簡単にまとめると、以下の通りです。
・ 課税対象……名(名田)と呼ばれる土地
・ 徴税請負人…国司(郡司の役割は低下)
・ 税の種類……官物・臨時雑役

つまり、10~11世紀にかけて、
・課税対象は土地(地税)
・国司が徴税を請け負う
という風に、税制が大転換するのです。

平安10-3.jpg

これまで徴税は郡司がおこなっていたのに、
これからは国司が担うわけですから、国司たいへんですよねぇ…
よって政府は、その見返りとして、国司に任国の支配を一任します。
決められただけの税を、きちんと政府に納めさえしてくれたら、
あとは好きにしていいからねー!ということです。

いや~、なんだかガッポリ儲かりそうなニオイがぷんぷんしますよね~。
ゆえに、中級・下級の貴族たちは、こぞって「国司になりたい!」って思うわけです!!

そこで彼らは、我こそはと朝廷の儀式や寺社の造営などの費用を負担します。
これだけの費用を私が負担します!だから私を国司に任命してチョーダイ!!とゆーわけです。
この行為を、成功(じょうごう)といいます。
まぁワイロですよね、ワイロ!

成功の結果、念願の国司に任命されると、
任国で好き放題のウハウハライフを送ることができるわけですが、
このころ、国司の任期は4年です。
4年なんて、アッとゆー間に過ぎてしまいます。

こんなオイシイ仕事、4年じゃ辞めらんない!まだまだ続けたい!!と思うなら、
これまた成功をおこなえばよいのです。
成功の結果、再び国司に任命してもらうことを、重任(ちょうにん)といいます。
重ねて任命されるので、重任です。

成功と重任を繰り返すなかで現れるのが、受領(ずりょう)です。
受領とは、任国に赴く国司のなかの、最上席者を指します。
国司の四等官は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)ですので、
守レベルの国司ということです。

これがもうガメツイのですよ!
たとえば、プリントの右側にある「③地方政治の乱れ」の、1つめの●を見てください。
・信濃守(しなののかみ)の藤原陳忠(ふじわらののぶただ)
・尾張守(おわりのかみ)の藤原元命(ふじわらのもとなが)
これが、ガメツイ受領の代表格です!
詳しくは、988年のゴロ合わせをご覧ください。

11世紀後半になると、任国の統治も軌道に乗りはじめ、
わざわざ任国へ行かなくてもよくね?と思う受領も現れるようになります。
一族の人間や家来筋に当たる人間などを、かわりに任国へと派遣するのです。
この代理人を、目代(もくだい)といいます。

目代は、在庁官人(ざいちょうかんじん)と呼ばれる現地の有力者を指揮し、任国の統治にあたります。
目代と在庁官人で構成される任国の国衙は、留守所(るすどころ)と呼ばれます。

この行為を遙任(ようにん)といい、このような国司を遙任国司(ようにんこくし)といいます。

いや~…やっぱり荘園制、ややこしいですね…
ちゃんと理解できましたか?
ここまで理解していないと、次の荘園公領体制(しょうえんこうりょうたいせい)には進めませんので、
頑張って頭を整理してくださいね!!

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

平安10解答.jpg



次回も荘園制を取り上げます。
頑張りましょうね!!

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