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飛鳥時代(4) [まとめプリント]

今日は、大化改新をまとめていきましょう。



飛鳥4.jpg

620年代、推古朝を支えた人々が次々と亡くなります。
622年2月22日(2がお好きねぇ…)には厩戸王(聖徳太子)が48歳で亡くなり、
626年には蘇我馬子も76歳ぐらいでこの世を去り、石舞台古墳に埋葬されたと考えられます。
大臣の座は息子の蘇我蝦夷にうつります。
628年には、推古天皇も亡くなりました。
さぁ、次の天皇は誰か…ということで、皇位継承争いが発生します。
候補にあがったのは、
厩戸王の子、すなわち用明天皇の孫にあたる山背大兄王(やましろのおおえのおう)と、
敏達天皇の孫にあたる田村皇子(たむらのみこ)でした。
結果、大臣の蘇我蝦夷が推した田村皇子が即位することになったようです。
舒明(じょめい)天皇の誕生です。

彼の業績として覚えることはただ1つ、遣唐使の派遣でしたね。
630年のゴロ合わせを参考にしてください。

さて、舒明天皇の死後、ふたたび皇位継承争いが発生します。
候補にあがったのは、
山背大兄王と、舒明天皇の子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)・中大兄皇子です。
このときは揉めに揉めた結果、天皇が決まりませんでした。
そこで、急遽、女性天皇が即位することになります。
舒明天皇の后が皇極天皇となりました。

このころ、大臣の座は蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿にうつっています。
蘇我入鹿にとって邪魔な存在が山背大兄王です。
あの厩戸王(聖徳太子)の息子で、人望もあり、やたらと天皇候補者として名前のあがってくる人物です。

ついに643年、蘇我入鹿は山背大兄王が住む斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃します。

これに気がついた山背大兄王は、寝室に馬の骨を遺し、奥さんや子どもたちを連れて生駒山に逃れました。
蘇我入鹿の軍勢は斑鳩宮に火をかけ、やがて焼け跡から骨を見つけ、
山背大兄王が死んだと確信して退散しました。

飛鳥4-1.jpg

それ、馬の骨ですやん!!と突っ込みましょう。

山背大兄王たちは生駒山で潜伏していたのですが、数日後に発見されてしまいます。
蘇我入鹿はびっくりします。
「あの骨は何だったんだ!」と。

だから馬の骨です。

すぐさま蘇我入鹿は軍勢を集め、生駒山に向かわせます。
山背大兄王たちは生駒山を降り、父である厩戸王(聖徳太子)が建立した法隆寺に入ります。
そして、奥さんや子どもたちとともに自害しました。
上宮王家(じょうぐうおうけ)はここに滅びました。

こうなると、蘇我氏を邪魔する者はいないわけです。
どんどんと権力を集めてゆき、まるで「え?蘇我氏って天皇なの??」と思われるまでになります。

これをヨシとしなかったのが、中大兄皇子と中臣鎌足でしたね。
天皇を中心とする中央集権国家をつくることを目指す彼らによって、
蘇我入鹿は殺害され、蘇我蝦夷は自害に追い込まれました。
645年の乙巳の変です。
詳しくは、645年のゴロ合わせを読んでください。
なお、乙巳の「巳」ですが、「巳」と「已」と「己」の区別はついていますか?
左上はぴっちりとくっつけて書かなければ「すでに」や「おのれ」と読む別の字になってしまうので注意してください!

蘇我本宗家滅亡後に始まった一連の政治改革である大化改新は、次の4つのことを覚えましょう。

①人事の刷新
  目の前で息子が蘇我入鹿を殺害したショックで、皇極天皇は天皇の座をおりました。
  これが日本史史上初めての譲位(じょうい)の例でしたね。
  かわって皇極天皇の弟である孝徳(こうとく)天皇が即位します。
  皇太子には中大兄皇子、内臣(うちつおみ・ないしん)には中臣鎌足が就任します。
  左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、
  そして、国博士(くにのはかせ)には中国の進んだ文化を学んできた旻と高向玄理が任命されます。
  南淵請安は、帰国後塾をひらいていましたが、このころどうしていたのか不明でしたよね。
②年号の制定
  中国にならい、日本オリジナルの年号、いわゆる元号(げんごう)というものが作られます。
  645年は大化元年(大化1年目のこと)となります。
  現在の元号は平成で、大化から数えて247個目だとか。
  こういった文化が途切れることなく脈々と受け継がれているのは素晴らしいことですね。
  なお、現在の元号は天皇の即位にともない変わりますが、これは明治以降のことです。
  それ以前は、すごい事件が起こったとか天変地異が起こったとかで結構ころころと変わっています。
③遷都
  都がこれまでの飛鳥から、難波に遷ります。
  飛鳥は内陸ですが、難波は海に面しているので外交にはうってつけでした。
  場所は現在の大阪城のすぐ近くで、公園として整備されています。
④「改新の詔」
  646年正月に基本方針として発表されました。
  元号で言うと…?
  大化二年のことですね。
  詳しくは690年のゴロ合わせを読んでください。

最後に「郡評論争(ぐんぴょうろんそう)」を話しておきましょう。
「改新の詔」第二条を見ると、「郡司」という言葉が見られます。
ところが、7世紀ごろの木簡(もっかん)などを見ると、
「郡」ではなく「評」という表記ばかりが確認されるのです。
この「評」は、「こおり」と読むようです。
では「郡」は何と読むのでしょう…?

福島には「郡山」、奈良には「大和郡山」って地名があるのですが、読めますか?
それぞれ「こおりやま」、「やまとこおりやま」ですよね。
そう、「郡」も「こおり」と読むわけです。
「評」も「郡」も読み方はどちらも同じです。
でも文字が違うのです。

ながらく「改新の詔」が出されたときは「評」を使用したのか、「郡」を使用したのかで論争がありました。
現在は発掘調査の結果などから、「郡」の字を使うようになったのは701年の大宝律令以降、
というのが通説になっています。
『日本書紀』は大宝律令の施行後である720年に編纂されているので、
このころは「郡」という表記を使っていたということですね。

では、解答を載せておきましょう。

飛鳥4解答.jpg



次回はいよいよ中大兄皇子が天皇になりますよー。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95
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