838年 最後の遣唐使を派遣する [年号のゴロ合わせ]
久々のゴロ合わせです。
今日は最後の遣唐使について見ていきます。
まずは、遣唐使についてまとめた奈良時代(5)のプリントを見てください。
プリントを見ると、遣唐使が最後に派遣されたのは、838年であることが分かりますね。
といってもコレ、あまり覚える必要のない年号です。
遣唐使については、
最初に派遣した630年と、
菅原道真(すがわらのみちざね)が停止を建言した894年を覚えていればOKです。
ではなぜゴロ合わせをつくったのか…
それは、小野篁(おののたかむら)という人物を紹介したいからです!
彼は、607年に中国に渡った遣隋使である小野妹子の子孫で、
美女として有名な小野小町(おののこまち)のおじいちゃんにあたる人物です(諸説あります)。
百人一首の1つに選ばれた、
「わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと
人(ひと)には告(つ)げよ 海人(あま)の釣船(つりぶね)」
という和歌をつくるなど、たいへん優秀で、
嵯峨天皇・淳和天皇(じゅんなてんのう)・仁明天皇(にんみょうてんのう)・文徳天皇(もんとくてんのう)と、
4代の天皇に仕えます。
その小野篁。
嵯峨天皇の時代にたいへんな出来事にまきこまれます。
あるとき、内裏に「無悪善」と書かれた看板が立てられます。
けしからんことですが、それにしてもこの3文字、一体どう読むのかサッパリ分からない…
困った嵯峨天皇は、優秀な小野篁を呼び寄せます。
そこで小野篁は、これをサラリと「さが(悪)なくてよからん」と読んでみせたのです。
まさかまさか、「これ、“嵯峨天皇なんていなければいいのに!”って書いてるんですよ」と、
嵯峨天皇本人の前で言ってしまったのです。
小野篁は、読めと命じられたので読んだまでですが(でもちょっと空気読もうよ…)、
「こんな難しい文をサラリと読むなんて…さてはこの看板、お前が書いたんやろ!」と、
嵯峨天皇にキレられてしまいます。
おどろいた小野篁は、「イエイエ!私はどんな難しい文でも読めるのです!!」と、
秀才にしかできない釈明をします。
すると、嵯峨天皇から「ならばこれを読んでみろ!」と、超難問が出題されます。
「子子子子子子子子子子子子」
子が12個です。
これを小野篁は、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と、またもやサラリと読んでしまうのです。
「子」という漢字は、「こ」とか「し」と読むほか、干支(えと)のように「ね」とも読みますよね。
その3種類の読み方をうまいぐあいに組み合わせ、
「ねこのこのこねこ、ししのこのこじし」と読んでみせたのです。
私なら間違いなく「ここここここここここここ!!」って読みますけどね。
小野篁のあまりの秀才ぶりに、嵯峨天皇の怒りもとけてしまったとか。
このエピソード、真実かどうかはさておき、古典の授業で習いませんでしたか?
『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』などに載っている有名なものです。
また、小野篁には、エンマ様の補佐官を務めていた、という伝説があります。
ウソをついたら舌を抜くという、あのエンマ様です。
小野篁は、昼は朝廷の役人として働き、夜は地獄でエンマ様に仕えていたというのです。
まさかのダブルワーク!
京都に六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)というお寺があるのですが、
そこの井戸が地獄への入口だったそうです。
現在も井戸は残っていますが、近づくことはできません。
うっかり落ちて地獄に行ってしまってはたいへんですからねー!(笑)
あるとき、藤原良相(ふじわらのよしみ)という人物が亡くなります。
人は死んだ後、三途の川(さんずのかわ)を渡って、エンマ様などの裁きを受けるそうで、
藤原良相も例にもれず、川を渡って、エンマ様の前に進みます。
この裁判では、生前の悪行をふまえてどの地獄に配属されるのかが決定するので、
もうドキドキなわけですよ。
そんななか、ふと前を見ると、知った顔があるのです。
エンマ様の隣に、まさかまさか、小野篁がいるではないですか!
藤原良相には、当時まだ学生であった小野篁が罪を犯したとき、
弁護してあげたという過去があります。
(罪の内容は伝わっていません。一体何をしでかしたのか…すごい気になる……)
そんな二人が、地獄で再会したのです。
藤原良相がびっくりしていると、
小野篁はエンマ様に向かって、「この人はすごくいい人なので、生き返らせてください」と言います。
えー!小野篁ってそんな権限もってんの?すごくない??
というわけで、藤原良相は生き返ったのです!
後日、朝廷で小野篁に出会った藤原良相は、この件について尋ねます。
すると、「昔、私を弁護してくださったお礼をしただけです。このことは誰にも言わないように…」との返事。
とんでもない経験をした藤原良相は、「人に対して、まっすぐでないといかん」と説いて回ったそうな…
これ、『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』に載っているエピソードです。
てことは、藤原良相ったら、小野篁の秘密を誰かにしゃべっちゃったんでしょうねぇ…
本に載っちゃってますもんねぇ…
ちなみに、六道珍皇寺には、小野篁がつくったというエンマ様の木像があります。
これがめちゃくちゃ怖い。
会ったことのある人がつくったと言うんだから、エンマ様ってそんな感じなんでしょうねぇ…
それにしても、彫刻まで上手につくっちゃうなんて…
天才すぎるぞ、小野篁!!
なお、地獄の出口はというと、これまで色々と説があったのですが、
最近、入口のすぐ近くで井戸が発見されたそうです。
これが出口なのでしょうか…
ま、入口と出口が遠かったら大変ですもんね。
* * *
さて、前置きが長くなりました。
最後の遣唐使について見ていきましょう。
838年、小野篁は遣唐使のサブリーダーに任命されます。
実はこれ、3回目。
すでに前々年・前年と2回海を渡ろうとしたものの、いずれも失敗していたのです。
「3度目の正直!」ということで、遣唐使のために4隻の船が用意され、
遣唐使のリーダーである藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)は1つ目の船に、
サブリーダーの小野篁は2つめの船に乗ることとなります。
ところが、1つ目の船は水漏れすることが判明!
そこで藤原常嗣は、自分の乗る船を、2つ目の船と交換します。
ということは…
水漏れする船には、小野篁が乗ることになったのです!!
こ、これはやってられん……
小野篁は怒って乗船を拒否したため、遣唐使は小野篁を置いて中国に渡ります。
このとき、遣唐使の1人としてなんとか中国にたどり着いたのが円仁です。
日本にのこった小野篁は、NGワードをふんだんに盛り込んだ漢詩をつくって遣唐使を風刺し、
嵯峨上皇の怒りに触れて流罪となってしまいます。
ちなみに、前述した百人一首に選ばれた和歌は、隠岐に流される際につくったものです。
その後、2年ほどで罪が赦(ゆる)され、再び平安京に戻ってばりばり働いたようです。
ということで、今日のゴロ合わせ。
次回から、藤原氏による他氏排斥祭りを見ていきます。
今日は最後の遣唐使について見ていきます。
まずは、遣唐使についてまとめた奈良時代(5)のプリントを見てください。
プリントを見ると、遣唐使が最後に派遣されたのは、838年であることが分かりますね。
といってもコレ、あまり覚える必要のない年号です。
遣唐使については、
最初に派遣した630年と、
菅原道真(すがわらのみちざね)が停止を建言した894年を覚えていればOKです。
ではなぜゴロ合わせをつくったのか…
それは、小野篁(おののたかむら)という人物を紹介したいからです!
彼は、607年に中国に渡った遣隋使である小野妹子の子孫で、
美女として有名な小野小町(おののこまち)のおじいちゃんにあたる人物です(諸説あります)。
百人一首の1つに選ばれた、
「わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと
人(ひと)には告(つ)げよ 海人(あま)の釣船(つりぶね)」
という和歌をつくるなど、たいへん優秀で、
嵯峨天皇・淳和天皇(じゅんなてんのう)・仁明天皇(にんみょうてんのう)・文徳天皇(もんとくてんのう)と、
4代の天皇に仕えます。
その小野篁。
嵯峨天皇の時代にたいへんな出来事にまきこまれます。
あるとき、内裏に「無悪善」と書かれた看板が立てられます。
けしからんことですが、それにしてもこの3文字、一体どう読むのかサッパリ分からない…
困った嵯峨天皇は、優秀な小野篁を呼び寄せます。
そこで小野篁は、これをサラリと「さが(悪)なくてよからん」と読んでみせたのです。
まさかまさか、「これ、“嵯峨天皇なんていなければいいのに!”って書いてるんですよ」と、
嵯峨天皇本人の前で言ってしまったのです。
小野篁は、読めと命じられたので読んだまでですが(でもちょっと空気読もうよ…)、
「こんな難しい文をサラリと読むなんて…さてはこの看板、お前が書いたんやろ!」と、
嵯峨天皇にキレられてしまいます。
おどろいた小野篁は、「イエイエ!私はどんな難しい文でも読めるのです!!」と、
秀才にしかできない釈明をします。
すると、嵯峨天皇から「ならばこれを読んでみろ!」と、超難問が出題されます。
「子子子子子子子子子子子子」
子が12個です。
これを小野篁は、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と、またもやサラリと読んでしまうのです。
「子」という漢字は、「こ」とか「し」と読むほか、干支(えと)のように「ね」とも読みますよね。
その3種類の読み方をうまいぐあいに組み合わせ、
「ねこのこのこねこ、ししのこのこじし」と読んでみせたのです。
私なら間違いなく「ここここここここここここ!!」って読みますけどね。
小野篁のあまりの秀才ぶりに、嵯峨天皇の怒りもとけてしまったとか。
このエピソード、真実かどうかはさておき、古典の授業で習いませんでしたか?
『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』などに載っている有名なものです。
また、小野篁には、エンマ様の補佐官を務めていた、という伝説があります。
ウソをついたら舌を抜くという、あのエンマ様です。
小野篁は、昼は朝廷の役人として働き、夜は地獄でエンマ様に仕えていたというのです。
まさかのダブルワーク!
京都に六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)というお寺があるのですが、
そこの井戸が地獄への入口だったそうです。
現在も井戸は残っていますが、近づくことはできません。
うっかり落ちて地獄に行ってしまってはたいへんですからねー!(笑)
あるとき、藤原良相(ふじわらのよしみ)という人物が亡くなります。
人は死んだ後、三途の川(さんずのかわ)を渡って、エンマ様などの裁きを受けるそうで、
藤原良相も例にもれず、川を渡って、エンマ様の前に進みます。
この裁判では、生前の悪行をふまえてどの地獄に配属されるのかが決定するので、
もうドキドキなわけですよ。
そんななか、ふと前を見ると、知った顔があるのです。
エンマ様の隣に、まさかまさか、小野篁がいるではないですか!
藤原良相には、当時まだ学生であった小野篁が罪を犯したとき、
弁護してあげたという過去があります。
(罪の内容は伝わっていません。一体何をしでかしたのか…すごい気になる……)
そんな二人が、地獄で再会したのです。
藤原良相がびっくりしていると、
小野篁はエンマ様に向かって、「この人はすごくいい人なので、生き返らせてください」と言います。
えー!小野篁ってそんな権限もってんの?すごくない??
というわけで、藤原良相は生き返ったのです!
後日、朝廷で小野篁に出会った藤原良相は、この件について尋ねます。
すると、「昔、私を弁護してくださったお礼をしただけです。このことは誰にも言わないように…」との返事。
とんでもない経験をした藤原良相は、「人に対して、まっすぐでないといかん」と説いて回ったそうな…
これ、『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』に載っているエピソードです。
てことは、藤原良相ったら、小野篁の秘密を誰かにしゃべっちゃったんでしょうねぇ…
本に載っちゃってますもんねぇ…
ちなみに、六道珍皇寺には、小野篁がつくったというエンマ様の木像があります。
これがめちゃくちゃ怖い。
会ったことのある人がつくったと言うんだから、エンマ様ってそんな感じなんでしょうねぇ…
それにしても、彫刻まで上手につくっちゃうなんて…
天才すぎるぞ、小野篁!!
なお、地獄の出口はというと、これまで色々と説があったのですが、
最近、入口のすぐ近くで井戸が発見されたそうです。
これが出口なのでしょうか…
ま、入口と出口が遠かったら大変ですもんね。
* * *
さて、前置きが長くなりました。
最後の遣唐使について見ていきましょう。
838年、小野篁は遣唐使のサブリーダーに任命されます。
実はこれ、3回目。
すでに前々年・前年と2回海を渡ろうとしたものの、いずれも失敗していたのです。
「3度目の正直!」ということで、遣唐使のために4隻の船が用意され、
遣唐使のリーダーである藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)は1つ目の船に、
サブリーダーの小野篁は2つめの船に乗ることとなります。
ところが、1つ目の船は水漏れすることが判明!
そこで藤原常嗣は、自分の乗る船を、2つ目の船と交換します。
ということは…
水漏れする船には、小野篁が乗ることになったのです!!
こ、これはやってられん……
小野篁は怒って乗船を拒否したため、遣唐使は小野篁を置いて中国に渡ります。
このとき、遣唐使の1人としてなんとか中国にたどり着いたのが円仁です。
日本にのこった小野篁は、NGワードをふんだんに盛り込んだ漢詩をつくって遣唐使を風刺し、
嵯峨上皇の怒りに触れて流罪となってしまいます。
ちなみに、前述した百人一首に選ばれた和歌は、隠岐に流される際につくったものです。
その後、2年ほどで罪が赦(ゆる)され、再び平安京に戻ってばりばり働いたようです。
ということで、今日のゴロ合わせ。
次回から、藤原氏による他氏排斥祭りを見ていきます。
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