平安時代(2) [まとめプリント]
随分ご無沙汰してしまいました…
更新が滞っているにもかかわらず、あたたかいコメントを下さった方々、
本当にありがとうございました。
ぼちぼちではありますが、更新を再開します。
* * *
前回から、平安時代のまとめプリントを取り上げていました。
今日は2枚目、平城朝と嵯峨朝を見ていきます。
806年、桓武天皇の息子である平城天皇(へいぜいてんのう)が即位しますが、
病弱だったこともあり、わずか3年で弟の嵯峨天皇(さがてんのう)に譲位します。
平安京にいる嵯峨天皇と、平城京にもどった平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう)。
この兄弟は、やがて対立するようになります。
いわゆる「二所朝廷(にしょちょうてい)」という状態です。
810年、嵯峨天皇は蔵人頭(くろうどのとう)という令外官(りょうげのかん)を設置し、
藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らをこれに任命します。
その後に起こったのが、薬子の変(平城太上天皇の変)です。
藤原薬子(ふじわらのくすこ)は自害し、藤原仲成(ふじわらのなかなり)は処刑されてしまいます。
2人は藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の子ども、すなわち藤原式家の人間です。
薬子の変をきっかけに、藤原式家は没落し、かわって藤原北家が台頭するようになるのです。
以上の流れは、薬子の変のゴロ合わせのことろで詳しく述べましたので、そちらをご覧ください。
では、その後の嵯峨天皇の政治を見ていきましょう。
816年ごろ、嵯峨天皇は令外官をもう1つ設置します。
「検非違使」という名の令外官ですが…
さぁこれ、読めますか?
正解は、ケビイシです。
平安京の警察官であり、かつ裁判官でもあるという重要な役職です。
検非違使と勘解由使(かげゆし)、混同しないように気をつけてくださいね!
検非違使は、非法・違法がないか検察する人、
勘解由使は、解由状(げゆじょう)を勘ぐる人、ということで頭を整理してください。
次に、嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)の編纂を命じます。
大宝律令のところでも触れましたが、
格(きゃく)は、律令の条文を補足したり、改正したりするために出された法令のこと、
式(しき)は、律・令・格を施行するにあたっての細かい取り決めのことです。
このころ、大宝律令・養老律令がつくられてから100年がたとうとしていますが、
新しい律令は作られていません。
律令はそのままに、時代に合わせて必要な法令をそのつど追加しているのです。
それが格です。
たとえば、三世一身法・墾田永年私財法がそうです。
どちらも律令には書いていない新しい土地に関する法令、格なのです。
それぞれ、養老七年の格・天平十五年の格、というんでしたね。
また、律令や格でざっくり書いていることを、
「こういう場合はこうしましょう!」と細かく取り決めたものが、式です。
たとえば、国司などが交替するときのために、「交替式」という式が作られています。
嵯峨天皇の時代に成立した、この『弘仁格式』、
清和天皇の時代に成立した『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』、
醍醐天皇の時代に成立した『延喜格式(えんぎきゃくしき)』を、まとめて三代格式といいます。
三「大」格式ではありませんので気をつけてください。
嵯峨・清和・醍醐の3つの「代」で編纂された格式、ということですからね!
なお、『弘仁格』・『貞観格』・『延喜格』は、いずれも失われてしまいましたが、
『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』という本が、それぞれの一部を今に伝えています。
これは、11世紀ごろに成立した、三代格の中身をジャンル分けした本です。
一方、『弘仁式』・『貞観式』は一部のみ残っており、『延喜式』についてはほぼ完全な形で残っています。
それから、養老令の注釈書を2つ取り上げておきましょう。
清原夏野(きよはらのなつの)らが編纂した官撰注釈書の『令義解(りょうのぎげ)』と、
惟宗直本(これむねのなおもと)らが編纂した私撰注釈書の『令集解(りょうのしゅうげ)』です。
『令義解』は官撰、すなわち天皇の命令で清原夏野らがつくった注釈書です。
一方の『令集解』は私撰です。
『令義解』に載らなかった他の解釈を、惟宗直本が自分で集めて本にしたのが『令集解』なのです。
よく似た名前でややこしいですが、区別しておきましょう。
「自分(私撰)でこれ(惟宗直本)だけ集(『令集解』)めたよ!」ってな感じで覚えてください(笑)
続いて、プリントの右上、蝦夷との戦いを見ていきましょう。
桓武天皇の時代に行われた徳政論争で、蝦夷との戦いを停止することが決定ました。
でも、戦いはすぐには停止できません。
キリのよいところまで続けられます。
嵯峨天皇は、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を将軍に任命し、東北に派遣します。
結果、彼は蝦夷を制圧し、蝦夷の平定を完了させます。
なお、803年に坂上田村麻呂が築いた志波城(しわじょう)が、近くの川の氾濫により被害を受けたので、
813年に志波城から南に約10km下ったところに徳丹城(とくたんじょう)を築きます。
これをもって、覚えるべき蝦夷との関係はおしまいです。
右上の地図で主な城を確認しておいてください。
最後に、地方の変容を見ておきましょう。
8世紀後半から9世紀ごろにかけて、農民たちの間に貧富の差が広がります。
貧しい農民はもちろん、有力な農民までもが、いろいろな方法で厳しい税負担から逃れようとします。
浮浪・逃亡、そして偽籍が頻発するのです。
詳しくは奈良時代(4)に書きましたので、参考にしてください。
浮浪・逃亡・偽籍が頻発すると、戸籍や計帳が信用できなくなります。
すると、これらに基づいた税の徴収も困難になります。
政府は、勘解由使などを設置して、役人の不正や怠慢をなんとかしようと奔走します。
そしてなにより、国家の財源を確保しなければなりません。
そこで政府は、国家が直接経営する田んぼ、すなわち直営田(ちょくえいでん)を作ります。
嵯峨天皇は、大宰府が管轄する地域に公営田(くえいでん)という名の直営田を期間限定で設置します。
このころ、とくに九州では米の不作が続いていたのです。
一部の口分田などを公営田とし、周辺の農民たちに耕作することを義務づけます。
公営田の耕作にかり出された農民たちにはきちんと報酬が支払われ、かつ調・庸も免除されたようです。
879年には、陽成天皇(ようぜいてんのう)が、公営田にならって畿内に官田(かんでん)を設置します。
元慶(がんぎょう)年間に設置された官田なので、元慶官田(がんぎょうかんでん)ともいいます。
ここからの収益を、中央の財源にあてたようです。
なお、このころ中央の各官庁が諸司田(しょしでん)を所有することが認められ、
役人の給料などがそれぞれの諸司田の収益から支払われるようになります。
また、役人たちも自分たちで墾田を集めることで、国家財政に依存することを弱めてゆきます。
天皇はというと、勅旨田(ちょくしでん)という田んぼをもちます。
勅旨(ちょくし、天皇の命令のこと)によって開発された田んぼのことで、皇室の財源としました。
皇族などは、賜田(しでん)という田んぼをもちます。
これは、天皇から賜(たまわ)った田んぼです。
天皇と身近な関係にある皇族や有力貴族は、天皇から賜田を賜ったり、有力な農民を保護したりして、
土地をどんどん増やして力をつけてゆきます。
このような数少ない有力な皇族や貴族を、院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)と呼びます。
イングウオウシンケ、なにこのかっこいい響き…
力のない役人は、院宮王臣家の家人(けにん、従者のこと)になることで保護されようとし、
力のある農民は、院宮王臣家の傘下に入ることで国司に対抗しようとします。
墾田永年私財法によって公地公民制が崩壊し、
このころ力のある者がどんどん土地を集積し、ますます力をつけてゆくのです。
それでは、最後に解答を載せておきましょう。
次回からは、嵯峨天皇のころにさかえた弘仁・貞観文化を2回にわたってとりあげます。
画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
更新が滞っているにもかかわらず、あたたかいコメントを下さった方々、
本当にありがとうございました。
ぼちぼちではありますが、更新を再開します。
* * *
前回から、平安時代のまとめプリントを取り上げていました。
今日は2枚目、平城朝と嵯峨朝を見ていきます。
806年、桓武天皇の息子である平城天皇(へいぜいてんのう)が即位しますが、
病弱だったこともあり、わずか3年で弟の嵯峨天皇(さがてんのう)に譲位します。
平安京にいる嵯峨天皇と、平城京にもどった平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう)。
この兄弟は、やがて対立するようになります。
いわゆる「二所朝廷(にしょちょうてい)」という状態です。
810年、嵯峨天皇は蔵人頭(くろうどのとう)という令外官(りょうげのかん)を設置し、
藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らをこれに任命します。
その後に起こったのが、薬子の変(平城太上天皇の変)です。
藤原薬子(ふじわらのくすこ)は自害し、藤原仲成(ふじわらのなかなり)は処刑されてしまいます。
2人は藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の子ども、すなわち藤原式家の人間です。
薬子の変をきっかけに、藤原式家は没落し、かわって藤原北家が台頭するようになるのです。
以上の流れは、薬子の変のゴロ合わせのことろで詳しく述べましたので、そちらをご覧ください。
では、その後の嵯峨天皇の政治を見ていきましょう。
816年ごろ、嵯峨天皇は令外官をもう1つ設置します。
「検非違使」という名の令外官ですが…
さぁこれ、読めますか?
正解は、ケビイシです。
平安京の警察官であり、かつ裁判官でもあるという重要な役職です。
検非違使と勘解由使(かげゆし)、混同しないように気をつけてくださいね!
検非違使は、非法・違法がないか検察する人、
勘解由使は、解由状(げゆじょう)を勘ぐる人、ということで頭を整理してください。
次に、嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)の編纂を命じます。
大宝律令のところでも触れましたが、
格(きゃく)は、律令の条文を補足したり、改正したりするために出された法令のこと、
式(しき)は、律・令・格を施行するにあたっての細かい取り決めのことです。
このころ、大宝律令・養老律令がつくられてから100年がたとうとしていますが、
新しい律令は作られていません。
律令はそのままに、時代に合わせて必要な法令をそのつど追加しているのです。
それが格です。
たとえば、三世一身法・墾田永年私財法がそうです。
どちらも律令には書いていない新しい土地に関する法令、格なのです。
それぞれ、養老七年の格・天平十五年の格、というんでしたね。
また、律令や格でざっくり書いていることを、
「こういう場合はこうしましょう!」と細かく取り決めたものが、式です。
たとえば、国司などが交替するときのために、「交替式」という式が作られています。
嵯峨天皇の時代に成立した、この『弘仁格式』、
清和天皇の時代に成立した『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』、
醍醐天皇の時代に成立した『延喜格式(えんぎきゃくしき)』を、まとめて三代格式といいます。
三「大」格式ではありませんので気をつけてください。
嵯峨・清和・醍醐の3つの「代」で編纂された格式、ということですからね!
なお、『弘仁格』・『貞観格』・『延喜格』は、いずれも失われてしまいましたが、
『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』という本が、それぞれの一部を今に伝えています。
これは、11世紀ごろに成立した、三代格の中身をジャンル分けした本です。
一方、『弘仁式』・『貞観式』は一部のみ残っており、『延喜式』についてはほぼ完全な形で残っています。
それから、養老令の注釈書を2つ取り上げておきましょう。
清原夏野(きよはらのなつの)らが編纂した官撰注釈書の『令義解(りょうのぎげ)』と、
惟宗直本(これむねのなおもと)らが編纂した私撰注釈書の『令集解(りょうのしゅうげ)』です。
『令義解』は官撰、すなわち天皇の命令で清原夏野らがつくった注釈書です。
一方の『令集解』は私撰です。
『令義解』に載らなかった他の解釈を、惟宗直本が自分で集めて本にしたのが『令集解』なのです。
よく似た名前でややこしいですが、区別しておきましょう。
「自分(私撰)でこれ(惟宗直本)だけ集(『令集解』)めたよ!」ってな感じで覚えてください(笑)
続いて、プリントの右上、蝦夷との戦いを見ていきましょう。
桓武天皇の時代に行われた徳政論争で、蝦夷との戦いを停止することが決定ました。
でも、戦いはすぐには停止できません。
キリのよいところまで続けられます。
嵯峨天皇は、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を将軍に任命し、東北に派遣します。
結果、彼は蝦夷を制圧し、蝦夷の平定を完了させます。
なお、803年に坂上田村麻呂が築いた志波城(しわじょう)が、近くの川の氾濫により被害を受けたので、
813年に志波城から南に約10km下ったところに徳丹城(とくたんじょう)を築きます。
これをもって、覚えるべき蝦夷との関係はおしまいです。
右上の地図で主な城を確認しておいてください。
最後に、地方の変容を見ておきましょう。
8世紀後半から9世紀ごろにかけて、農民たちの間に貧富の差が広がります。
貧しい農民はもちろん、有力な農民までもが、いろいろな方法で厳しい税負担から逃れようとします。
浮浪・逃亡、そして偽籍が頻発するのです。
詳しくは奈良時代(4)に書きましたので、参考にしてください。
浮浪・逃亡・偽籍が頻発すると、戸籍や計帳が信用できなくなります。
すると、これらに基づいた税の徴収も困難になります。
政府は、勘解由使などを設置して、役人の不正や怠慢をなんとかしようと奔走します。
そしてなにより、国家の財源を確保しなければなりません。
そこで政府は、国家が直接経営する田んぼ、すなわち直営田(ちょくえいでん)を作ります。
嵯峨天皇は、大宰府が管轄する地域に公営田(くえいでん)という名の直営田を期間限定で設置します。
このころ、とくに九州では米の不作が続いていたのです。
一部の口分田などを公営田とし、周辺の農民たちに耕作することを義務づけます。
公営田の耕作にかり出された農民たちにはきちんと報酬が支払われ、かつ調・庸も免除されたようです。
879年には、陽成天皇(ようぜいてんのう)が、公営田にならって畿内に官田(かんでん)を設置します。
元慶(がんぎょう)年間に設置された官田なので、元慶官田(がんぎょうかんでん)ともいいます。
ここからの収益を、中央の財源にあてたようです。
なお、このころ中央の各官庁が諸司田(しょしでん)を所有することが認められ、
役人の給料などがそれぞれの諸司田の収益から支払われるようになります。
また、役人たちも自分たちで墾田を集めることで、国家財政に依存することを弱めてゆきます。
天皇はというと、勅旨田(ちょくしでん)という田んぼをもちます。
勅旨(ちょくし、天皇の命令のこと)によって開発された田んぼのことで、皇室の財源としました。
皇族などは、賜田(しでん)という田んぼをもちます。
これは、天皇から賜(たまわ)った田んぼです。
天皇と身近な関係にある皇族や有力貴族は、天皇から賜田を賜ったり、有力な農民を保護したりして、
土地をどんどん増やして力をつけてゆきます。
このような数少ない有力な皇族や貴族を、院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)と呼びます。
イングウオウシンケ、なにこのかっこいい響き…
力のない役人は、院宮王臣家の家人(けにん、従者のこと)になることで保護されようとし、
力のある農民は、院宮王臣家の傘下に入ることで国司に対抗しようとします。
墾田永年私財法によって公地公民制が崩壊し、
このころ力のある者がどんどん土地を集積し、ますます力をつけてゆくのです。
それでは、最後に解答を載せておきましょう。
次回からは、嵯峨天皇のころにさかえた弘仁・貞観文化を2回にわたってとりあげます。
画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
待ってました。ありがとうございます。
本当に分かりやすくて大好きです。
by あす (2017-01-22 20:51)
あす様
わ~、嬉しいコメントありがとうございます!
のろのろ更新ではありますが、これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2017-01-22 22:16)