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弥生時代(5) [まとめプリント]

前回に引き続き、弥生時代の文字史料を見ていきます。



晋の陳寿(ちんじゅ)が著した歴史書に『三国志』があります。
魏・呉・蜀の3つの国がせめぎあった三国時代を綴った歴史書です。

国ごとにそれぞれ『魏書』(ぎしょ)・『呉書』(ごしょ)・『蜀書』(しょくしょ)がまとめられており、
その『魏書』のなかにある東夷伝に、倭についての記録があります。
これを『魏書』東夷伝倭人条といい、日本では通称「魏志」倭人伝と呼びます。
本のタイトルは『三国志』または『魏書』なので、「魏志」は「」でくくることが多いです。

また東夷(とうい)という言葉が出てきました。
『後漢書』東夷伝でも登場しましたよね。
これは、中国に古くからある中華思想というものに基づく言葉です。

中華思想とはズバリ、中国は世界の中心である華やかな国なのだ!という思想です。
中国は神聖ですばらしい国だけど、それ以外の国はとんでもないところだ!!とまで考える。

いや~…中国、ポジティブですね~…

そして、中国の東西南北に住んでいるのはとんでもないヤツらだ!と勝手に決めつけ、
わざわざ東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)なんて名前までつけて蔑んじゃうわけです。

日本は中国から見て東なので、東夷です。
東夷のなかの倭人について書いてある部分、それが東夷伝倭人条です。
なんか気ぃ悪いですけど、たくさん記録してくれているので2回にわけて内容を見ていきましょう。

弥生5.jpg

陳寿は『漢書』地理志を参考に書いたのでしょうか、倭について漢の時代のことまで記録してくれています。
あとは魏とかかわりのあった邪馬台国について、そして女王卑弥呼について詳しく書いてくれています。
それぞれ邪(よこしま)や卑(いやしい)という漢字をあてているところに中華思想をヒシヒシと感じますね…

さて、このころ朝鮮半島にあった楽浪郡の南半分は、帯方郡(たいほうぐん)になっています。
遼東地方の太守(たいしゅ)という地位にあった公孫(こうそん)と名乗る氏族がつくったものです。
楽浪郡と帯方郡、混同しないよう気をつけて下さいね、『漢書』は楽浪郡、「魏志」は帯方郡です。

その帯方郡のはるか東の向こうにあったのが邪馬台国です。
所在地についてはまだまだ決着がつきそうにありません。
近畿にあったのか…はたまた九州にあったのか…

近畿にあったとするならば、現在の奈良県だと言われています。
奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳や纏向(まきむく)遺跡との関係が注目されています。
ちなみに、奈良県はかつて大和国(やまとのくに)と呼ばれました。
邪馬台国を「やまとこく」と読むのではないか…という説もあるので、このあたりも近畿説を有力にしています。
奈良にあった邪馬台国が、のちに九州北部にまで支配権を及ぼすヤマト政権に発展したのかもしれません。

一方、福岡県や熊本県といった九州にあったという説も根強いです。
邪馬台国が九州にあったのなら、のちのヤマト政権とは別の政治連合と考えます。
近畿でうまれたヤマト政権が九州にまで支配権をのばして、九州にあった邪馬台国を飲み込んだ、ということになります。
はたまた、九州にあった邪馬台国がお引っ越しをして近畿でヤマト政権に発展した、という説もあります。

いずれにせよ、今後の研究結果を待つしかありませんね。
どこにあったのかさえ分からないってのもロマンです。
海に沈んでしまった、なんていう説もありますからね…

「魏志」倭人伝には、邪馬台国の様子が克明に描かれています。
男子は年齢に関係なくみんな入れ墨をしていたそうです。
どうやって、そんな模様を入れていたのでしょうね…気になります。
税や刑罰の制度が整備され、市もひらかれていて、役人さんも色んな仕事をそれぞれ担当していたようです。
国としての仕組みがしっかりつくられていたのですね…

弥生5解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



次回はいよいよ卑弥呼の登場です。
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