平安時代(13) [まとめプリント]
武士のおこりの2回目は、平安時代に地方で起きた反乱を取り上げます。
前回、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)として、
桓武平氏(かんむへいし)と清和源氏(せいわげんじ)が登場しました。
まずは、彼らが一体ナニモノなのか…というところからお話ししましょう。
* * *
平安時代、皇位継承が確実におこなわれるよう、
子どもをたくさんもうける天皇が少なくありませんでした。
桓武天皇(かんむてんのう)は30人ほど、
嵯峨天皇(さがてんのう)なんて50人ほど子どもがいたようです。
天皇の子どもは、もちろん天皇の一族、
すなわち皇族(こうぞく)です。
皇族であるその子どもたちが、それぞれ子どもをもうけるとなると…
そう、皇族はどんどん増えてゆくのです。
律令には、皇族に一定の給料を与えることなどが定められているので、
皇族が増えすぎると、国家財政を圧迫することにつながってしまいます。
そこで、皇位継承の可能性がなくなった皇族に、
源(みなもと)や平(たいら)などの姓を与えて皇族でなくなってもらう、
ということがおこなわれるようになります(皇族は姓をもちません)。
天皇から姓を賜(たまわ)って、臣下(しんか)の籍(せき)に降りることから、
これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
皇族でなくなった方が自由に出世できる、というメリットもあったようですが、
実際のところ、その子孫は没落し、地方で武士や豪族になる、というケースが多かったようです。

(描ききれないのでかなり省略しました。ホントは子どもや兄弟、奥さんナドナドがもっとたくさんいます!)
では、具体的な例を見てみましょう。
889年、桓武天皇のひ孫(孫という説もアリ)である高望王(たかもちおう)は、
平の姓を賜って、平高望(たいらのたかもち)となります( ↑ 上のイラスト参照)。
平高望は、やがて上総(かずさ)の国司に任命され、子どもたちを連れて任国へ赴きます。
そして、国司の任期を過ぎても平安京へは戻らず、
関東地方の開墾を進めて勢力を拡大し、武士団(ぶしだん)を形成するようになるのです。
この平高望の子孫を、桓武平氏と呼びます。
また、清和天皇(せいわてんのう)の孫にあたる人物が、
源の姓を賜って(いつ臣籍降下をしたのか不明)、源経基(みなもとのつねもと)となります。
この源経基の子孫を、清和源氏と呼びます。
前回も述べた通り、彼らは天皇の血をひいているということからカリスマ性を高め、
やがて大武士団(だいぶしだん)を率いる武家の棟梁となってゆくのです。
9世紀末、朝廷は滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)を設置し、
武芸を得意とする者に、宮中の警備を任せるようになります。
さらに地方武士たちは、日本各地で起こるさまざまな反乱を鎮圧することで、
自分たちの実力を、中央の人々に認めさせてゆくのです。

では、地方で起こる反乱を、桓武平氏・清和源氏に整理しながら見ていきましょう。
旧国名が分からない人は、飛鳥時代(11)のプリントを参考にしてくださいね。
* * *
最初は、関東地方で起こる平将門の乱(たいらのまさかどのらん)です。
平将門(たいらのまさかど)は、父である平良将(たいらのよしまさ)の死後、
おじさんにあたる平国香(たいらのくにか)と対立し、これに勝利します。
その後、下総(しもうさ)を根拠地にして一族らと争いを繰り返すうち、
939年には常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府(こくふ)を攻略し、
自ら新皇(しんのう)と名乗るようになります。
東国一帯(東国とは、おもに関東地方を指します)を占領するにいたった新皇・平将門ですが、
940年、平国香の息子である平貞盛(たいらのさだもり)と、
下野国の押領使(おうりょうし)である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって討たれます。
● 平将門の乱(939年~) … 〔負〕平将門 × 〔勝〕平貞盛・藤原秀郷
これとほぼ同じタイミングで起こるのが、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)です。
939年、瀬戸内地方で発生します。
藤原純友(ふじわらのすみとも)は、伊予(いよ)の国司として、
瀬戸内海で暴れまわる海賊たちの討伐にあたっていました。
しかし、国司の任期を過ぎても都には戻らず、逆に海賊たちのリーダーとなり、
日振島(ひぶりしま)を根拠地にして、朝廷と対立するようになります。
伊予の国府を攻略し、さらには大宰府(だざいふ)をも占領する藤原純友ですが、
清和源氏の祖である源経基と、
追捕使(ついぶし)である小野好古(おののよしふる)らに敗北し、反乱は鎮圧されます。
● 藤原純友の乱(939年~) … 〔負〕藤原純友 × 〔勝〕源経基・小野好古
ほぼ同時期に関東地方と瀬戸内地方で起こった平将門の乱と藤原純友の乱。
両者をまとめて、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)といいます。
これらを鎮圧したのは、朝廷の軍隊ではなく、押領使や追捕使に任命された地方武士たちです。
つまり、承平・天慶の乱は、朝廷の軍事力の低下と、地方武士の実力を世に知らしめたのです。
このあと、地方武士の組織はいっそう強化されることとなります。
* * *
969年、朝廷では藤原北家(ふじわらほっけ)による最後の他氏排斥事件が起こります。
地方で起こる反乱ではありませんが、武士がからんでいるので、ちょっとここでお話ししておきます。
ではその事件、なんという名称だったか覚えていますか?
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が左遷された、安和の変(あんなのへん)です。
源高明がなぜ左遷されることになったのかというと、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を即位させようとしているのではないか…
というような内容が、朝廷に密告されたからでしたね。
その密告をしたのは、源経基の息子である源満仲(みなもとのみつなか)です。
源満仲は、同じ源氏である源高明をチクることで藤原氏に接近し、
源氏の勢力を伸ばすことに成功したのです。
ちなみに源満仲は、
摂津(せっつ)にある多田荘(ただのしょう、現在の兵庫県川西市周辺)という荘園に土着した、
武家の棟梁です。
荘園(名(みょう))の名前から、多田(ただ)という名字を名乗ったため、
多田満仲(ただみつなか、または、ただまんじゅう…まんじゅうって!)とも呼び、
彼の子孫を多田源氏(ただげんじ、長男の源頼光(みなもとのよりみつ)が武家の棟梁を継承)と呼びます。
姓と名前の間は「の」を入れて読み(源満仲の読み方は、みなもとのみつなか)、
名字と名前の間は「の」を入れて読みません(多田満仲の読み方は、ただみつなか)。
気をつけてくださいね!
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)を参考にしてください。
* * *
1028年、房総半島で平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が起こります。
平将門の乱から100年が経とうとしているこのころの関東地方では、
平貞盛の子孫をはじめ、平氏が大きな力をふるっています。
平忠常(たいらのただつね)は、平高望のひ孫にあたる人物で、
房総半島に広大な所領をもっていたようです。
1028年、平忠常は安房(あわ)の国司を焼き殺すという事件を起こします。
原因は不明なのですが、これまで平忠常は国司の命令に従わず、納税も拒否していたというので、
そういったモメゴトが高じて起きたことなのでしょう…
平忠常の勢いはとまらず、ついには房総半島を占領するに至ります。
朝廷はこれを討伐すべく軍隊を派遣するのですが、
鎮圧できないまま3年もの月日が流れてしまいます…
そこで、源満仲の息子である源頼信(みなもとのよりのぶ)に、
平忠常の乱を鎮圧するよう命令がくだります。
すると1031年、平忠常は源頼信にすんなり降伏するのです。
えっ…なんで…??って感じですよね。
どうやら平忠常は、昔、源頼信と主従関係にあったようなのです。
長期間にわたる戦闘で疲れ果てていた平忠常は、
かつての主君である源頼信が自分を討伐しに来たことを知り、
一度も戦うことなく屈服し、都に移送される途中で病死してしまうのです。
なんともあっけない終わり方をする平忠常の乱ですが、
これによって東国における平氏の力は衰退し、かわって源氏が東国に進出することになるのです。
● 平忠常の乱(1028年~) … 〔負〕平忠常 × 〔勝〕源頼信
ちなみに、源頼信は河内国を本拠地としたことから、彼の子孫を河内源氏(かわちげんじ)と呼びます。
* * *
1051年、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)、または、前九年の役(ぜんくねんのえき)が、
東北地方で起こります。
この年、陸奥(むつ)の豪族である安倍頼時(あべのよりとき)が国司と対立し、
かわって、源頼信の息子である源頼義(みなもとのよりよし)が、国司(陸奥守(むつのかみ))に任命されます。
両者はしばらく良好な関係にあったのですが、あるとき激突し、
源頼義は、息子の源義家(みなもとのよしいえ)とともに、安倍氏と戦うこととなります。
ところがねー、安倍氏めっちゃ強いんですよー…
そこで源頼義は、出羽(でわ)の豪族である清原氏(きよはらし)に協力をあおぎ、
ようやく1062年、安倍氏を滅ぼすことに成功します。
このとき源頼義は、東国の武士を率いて戦ったため、源氏が東国における勢力を確立することになるのです。
● 前九年合戦(1051年~) … 〔負〕安倍氏 × 〔勝〕源頼義・源義家 + 清原氏
* * *
1083年、後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)が、
東北地方で起こります。
安倍氏の滅亡後、陸奥・出羽の両国で大きな勢力を得るようになった清原氏の内部で、
相続争いが発生します。
父親である源頼義にかわって陸奥守に就任していた源義家は、これに介入し、
清原清衡(きよはらのきよひら)を助けて内紛を平定します。
このとき源義家は、東国の武士団との主従関係を強め、
武家の棟梁としての地位を固めることになるのです。
● 後三年合戦(1083年~) … 〔負〕清原氏 × 〔勝〕清原清衡(藤原清衡)・源義家
ちなみにこのあと、清原清衡は実の父親の姓である藤原を名乗って藤原清衡(ふじわらのきよひら)となり、
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代として、東北地方を支配してゆくことになります。
* * *
以上の流れ、つかめましたか?
最後に、解答を載せておきましょう。

プリントには、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)といった名前が登場しましたね…
いよいよ源平の時代です!
が!
まとめプリントはしばらくお休みして、次回から久々にゴロ合わせを見ていきます。

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前回、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)として、
桓武平氏(かんむへいし)と清和源氏(せいわげんじ)が登場しました。
まずは、彼らが一体ナニモノなのか…というところからお話ししましょう。
* * *
平安時代、皇位継承が確実におこなわれるよう、
子どもをたくさんもうける天皇が少なくありませんでした。
桓武天皇(かんむてんのう)は30人ほど、
嵯峨天皇(さがてんのう)なんて50人ほど子どもがいたようです。
天皇の子どもは、もちろん天皇の一族、
すなわち皇族(こうぞく)です。
皇族であるその子どもたちが、それぞれ子どもをもうけるとなると…
そう、皇族はどんどん増えてゆくのです。
律令には、皇族に一定の給料を与えることなどが定められているので、
皇族が増えすぎると、国家財政を圧迫することにつながってしまいます。
そこで、皇位継承の可能性がなくなった皇族に、
源(みなもと)や平(たいら)などの姓を与えて皇族でなくなってもらう、
ということがおこなわれるようになります(皇族は姓をもちません)。
天皇から姓を賜(たまわ)って、臣下(しんか)の籍(せき)に降りることから、
これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
皇族でなくなった方が自由に出世できる、というメリットもあったようですが、
実際のところ、その子孫は没落し、地方で武士や豪族になる、というケースが多かったようです。

(描ききれないのでかなり省略しました。ホントは子どもや兄弟、奥さんナドナドがもっとたくさんいます!)
では、具体的な例を見てみましょう。
889年、桓武天皇のひ孫(孫という説もアリ)である高望王(たかもちおう)は、
平の姓を賜って、平高望(たいらのたかもち)となります( ↑ 上のイラスト参照)。
平高望は、やがて上総(かずさ)の国司に任命され、子どもたちを連れて任国へ赴きます。
そして、国司の任期を過ぎても平安京へは戻らず、
関東地方の開墾を進めて勢力を拡大し、武士団(ぶしだん)を形成するようになるのです。
この平高望の子孫を、桓武平氏と呼びます。
また、清和天皇(せいわてんのう)の孫にあたる人物が、
源の姓を賜って(いつ臣籍降下をしたのか不明)、源経基(みなもとのつねもと)となります。
この源経基の子孫を、清和源氏と呼びます。
前回も述べた通り、彼らは天皇の血をひいているということからカリスマ性を高め、
やがて大武士団(だいぶしだん)を率いる武家の棟梁となってゆくのです。
9世紀末、朝廷は滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)を設置し、
武芸を得意とする者に、宮中の警備を任せるようになります。
さらに地方武士たちは、日本各地で起こるさまざまな反乱を鎮圧することで、
自分たちの実力を、中央の人々に認めさせてゆくのです。

では、地方で起こる反乱を、桓武平氏・清和源氏に整理しながら見ていきましょう。
旧国名が分からない人は、飛鳥時代(11)のプリントを参考にしてくださいね。
* * *
最初は、関東地方で起こる平将門の乱(たいらのまさかどのらん)です。
平将門(たいらのまさかど)は、父である平良将(たいらのよしまさ)の死後、
おじさんにあたる平国香(たいらのくにか)と対立し、これに勝利します。
その後、下総(しもうさ)を根拠地にして一族らと争いを繰り返すうち、
939年には常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府(こくふ)を攻略し、
自ら新皇(しんのう)と名乗るようになります。
東国一帯(東国とは、おもに関東地方を指します)を占領するにいたった新皇・平将門ですが、
940年、平国香の息子である平貞盛(たいらのさだもり)と、
下野国の押領使(おうりょうし)である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって討たれます。
● 平将門の乱(939年~) … 〔負〕平将門 × 〔勝〕平貞盛・藤原秀郷
これとほぼ同じタイミングで起こるのが、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)です。
939年、瀬戸内地方で発生します。
藤原純友(ふじわらのすみとも)は、伊予(いよ)の国司として、
瀬戸内海で暴れまわる海賊たちの討伐にあたっていました。
しかし、国司の任期を過ぎても都には戻らず、逆に海賊たちのリーダーとなり、
日振島(ひぶりしま)を根拠地にして、朝廷と対立するようになります。
伊予の国府を攻略し、さらには大宰府(だざいふ)をも占領する藤原純友ですが、
清和源氏の祖である源経基と、
追捕使(ついぶし)である小野好古(おののよしふる)らに敗北し、反乱は鎮圧されます。
● 藤原純友の乱(939年~) … 〔負〕藤原純友 × 〔勝〕源経基・小野好古
ほぼ同時期に関東地方と瀬戸内地方で起こった平将門の乱と藤原純友の乱。
両者をまとめて、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)といいます。
これらを鎮圧したのは、朝廷の軍隊ではなく、押領使や追捕使に任命された地方武士たちです。
つまり、承平・天慶の乱は、朝廷の軍事力の低下と、地方武士の実力を世に知らしめたのです。
このあと、地方武士の組織はいっそう強化されることとなります。
* * *
969年、朝廷では藤原北家(ふじわらほっけ)による最後の他氏排斥事件が起こります。
地方で起こる反乱ではありませんが、武士がからんでいるので、ちょっとここでお話ししておきます。
ではその事件、なんという名称だったか覚えていますか?
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が左遷された、安和の変(あんなのへん)です。
源高明がなぜ左遷されることになったのかというと、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を即位させようとしているのではないか…
というような内容が、朝廷に密告されたからでしたね。
その密告をしたのは、源経基の息子である源満仲(みなもとのみつなか)です。
源満仲は、同じ源氏である源高明をチクることで藤原氏に接近し、
源氏の勢力を伸ばすことに成功したのです。
ちなみに源満仲は、
摂津(せっつ)にある多田荘(ただのしょう、現在の兵庫県川西市周辺)という荘園に土着した、
武家の棟梁です。
荘園(名(みょう))の名前から、多田(ただ)という名字を名乗ったため、
多田満仲(ただみつなか、または、ただまんじゅう…まんじゅうって!)とも呼び、
彼の子孫を多田源氏(ただげんじ、長男の源頼光(みなもとのよりみつ)が武家の棟梁を継承)と呼びます。
姓と名前の間は「の」を入れて読み(源満仲の読み方は、みなもとのみつなか)、
名字と名前の間は「の」を入れて読みません(多田満仲の読み方は、ただみつなか)。
気をつけてくださいね!
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)を参考にしてください。
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1028年、房総半島で平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が起こります。
平将門の乱から100年が経とうとしているこのころの関東地方では、
平貞盛の子孫をはじめ、平氏が大きな力をふるっています。
平忠常(たいらのただつね)は、平高望のひ孫にあたる人物で、
房総半島に広大な所領をもっていたようです。
1028年、平忠常は安房(あわ)の国司を焼き殺すという事件を起こします。
原因は不明なのですが、これまで平忠常は国司の命令に従わず、納税も拒否していたというので、
そういったモメゴトが高じて起きたことなのでしょう…
平忠常の勢いはとまらず、ついには房総半島を占領するに至ります。
朝廷はこれを討伐すべく軍隊を派遣するのですが、
鎮圧できないまま3年もの月日が流れてしまいます…
そこで、源満仲の息子である源頼信(みなもとのよりのぶ)に、
平忠常の乱を鎮圧するよう命令がくだります。
すると1031年、平忠常は源頼信にすんなり降伏するのです。
えっ…なんで…??って感じですよね。
どうやら平忠常は、昔、源頼信と主従関係にあったようなのです。
長期間にわたる戦闘で疲れ果てていた平忠常は、
かつての主君である源頼信が自分を討伐しに来たことを知り、
一度も戦うことなく屈服し、都に移送される途中で病死してしまうのです。
なんともあっけない終わり方をする平忠常の乱ですが、
これによって東国における平氏の力は衰退し、かわって源氏が東国に進出することになるのです。
● 平忠常の乱(1028年~) … 〔負〕平忠常 × 〔勝〕源頼信
ちなみに、源頼信は河内国を本拠地としたことから、彼の子孫を河内源氏(かわちげんじ)と呼びます。
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1051年、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)、または、前九年の役(ぜんくねんのえき)が、
東北地方で起こります。
この年、陸奥(むつ)の豪族である安倍頼時(あべのよりとき)が国司と対立し、
かわって、源頼信の息子である源頼義(みなもとのよりよし)が、国司(陸奥守(むつのかみ))に任命されます。
両者はしばらく良好な関係にあったのですが、あるとき激突し、
源頼義は、息子の源義家(みなもとのよしいえ)とともに、安倍氏と戦うこととなります。
ところがねー、安倍氏めっちゃ強いんですよー…
そこで源頼義は、出羽(でわ)の豪族である清原氏(きよはらし)に協力をあおぎ、
ようやく1062年、安倍氏を滅ぼすことに成功します。
このとき源頼義は、東国の武士を率いて戦ったため、源氏が東国における勢力を確立することになるのです。
● 前九年合戦(1051年~) … 〔負〕安倍氏 × 〔勝〕源頼義・源義家 + 清原氏
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1083年、後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)が、
東北地方で起こります。
安倍氏の滅亡後、陸奥・出羽の両国で大きな勢力を得るようになった清原氏の内部で、
相続争いが発生します。
父親である源頼義にかわって陸奥守に就任していた源義家は、これに介入し、
清原清衡(きよはらのきよひら)を助けて内紛を平定します。
このとき源義家は、東国の武士団との主従関係を強め、
武家の棟梁としての地位を固めることになるのです。
● 後三年合戦(1083年~) … 〔負〕清原氏 × 〔勝〕清原清衡(藤原清衡)・源義家
ちなみにこのあと、清原清衡は実の父親の姓である藤原を名乗って藤原清衡(ふじわらのきよひら)となり、
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代として、東北地方を支配してゆくことになります。
* * *
以上の流れ、つかめましたか?
最後に、解答を載せておきましょう。

プリントには、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)といった名前が登場しましたね…
いよいよ源平の時代です!
が!
まとめプリントはしばらくお休みして、次回から久々にゴロ合わせを見ていきます。

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こんにちは、士道ニ背キ間敷事、大切にしています。バイトで社会を教えていて、ふとこのブログを思い出しました。
生徒の学校はただ爆速で進める方式で楽しそうでなく、楽しくプリントの余白がなくなるほどの知識を得ることのできた私はとても幸せだったと痛感しています。(関係ない私事ですが…センターの日本史では9割を超え、第一志望にも合格しました!やりました!笑)
日本史って楽しい♪を教えて下さりありがとうございます。
by らら (2018-07-05 20:13)
らら様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
学校の日本史(歴史)の授業は、時間の制約上、どうしても爆速で進めざるを得ないことが多いです。
かくいう私も、教員時代はそうであったのではないか…と反省しております。
学校の授業を楽しく補助し、読者の方に日本史をちょっとでも好きになってもらえたら…という気持ちでブログを更新しています。
らら様も、その実力と知識で、ぜひ生徒さんたちに日本史の楽しさを広めてくださいね!
これからもよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2018-07-06 15:01)