1086年 院政を開始する [年号のゴロ合わせ]
前回は、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を取り上げました。
これを発令した後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にかわって即位したのは、
息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。
白河天皇は、お父さんにならって親政(しんせい)をおこないますが、
1086年、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲り、
上皇(じょうこう)として院政(いんせい)を開始します。
白河上皇(しらかわじょうこう)は、なぜ院政を始めることにしたのでしょうか。
白河天皇は即位するとき、まだ子どもがいなかったため、
弟の実仁親王(さねひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)に立てられます。
実仁親王、このときわずか2歳です。
そんな幼い実仁親王を皇太弟に立てることを強く望んだのは、
2人のお父さんである後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)です。
前回述べた通り、後三条上皇は、
藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)を外戚としない天皇でした。
ゆえに、摂関家に遠慮することなく、
延久の荘園整理令などの改革を強力に押し進めることができたのです。
しかし、白河天皇のお母さんは、藤原北家の出身です。
(藤原能信(ふじわらのよしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし、または、ふじわらのしげこ))
一方、実仁親王のお母さんは、藤原北家の出身ではありません。
(源基平(みなもとのもとひら)の娘である源基子(みなもとのきし、または、みなもとのもとこ))
後三条上皇は、摂関家と外戚関係にある白河天皇よりも、
自分と同じように、摂関家と外戚関係にない実仁親王の即位を願ったのです。
この願いは相当強かったようで、1073年に後三条上皇がこの世を去る際、
もし実仁親王にナニかがあった場合は、弟の輔仁親王(すけひとしんのう)を皇太弟にするように、
という遺言(ゆいごん)を残したほどです。
その後、後三条上皇の心配は的中し、
1085年、実仁親王は15歳の若さでこの世を去ってしまいます…
ということで、後三条上皇の遺言どおり、輔仁親王が皇太弟になる…
のかと思いきや!!!
なんと翌1086年、白河天皇は息子を皇太子(こうたいし)に立て、
なんとなんと、その日のうちに息子に天皇の位を譲ってしまったのです!!
後三条上皇の遺言、ガン無視です!!!
こうして誕生したのが、堀河天皇なのです。
このとき堀河天皇はまだ8歳ということで、
お父さんである白河上皇が補佐にあたります。
そう、これが院政のはじまりです。
つまり院政とは、白河天皇が、弟ではなく、
自分の息子に天皇の位を譲りたかったがために始まった政治体制なのです。
しかし、ここで1つ疑問がわきませんか?
天皇が幼少のときは、摂政が補佐するんじゃないの??って。
ハイ、その通りです。
堀河天皇の即位に際して、ちゃんと摂政が置かれていて、
白河上皇はその摂政と協調関係を築きながら政務を執ったようです。
しかし、堀河天皇の成人後、22歳のワカゾーが関白に就任したこと、
さらに、堀河天皇の死後、その息子である鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したことで、
白河法皇(しらかわほうおう、上皇が出家すると法皇になります)に権力が集中するようになり、
院政はどんどん強力な政治体制となっていったのです。
結果、白河上皇は、息子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、
そしてひ孫の崇徳天皇(すとくてんのう)の3代にわたって院政を敷くことになるのです。
ちなみに上皇とは、譲位した天皇を指すんでしたね。
正式名称は太上天皇(だいじょうてんのう、または、だじょうてんのう)で、
平安時代中期ごろから上皇と省略して呼ばれるようになったようです。
また、上皇の住居を院(いん)と呼んだのですが、
それがいつの間にやら上皇自身を指す言葉にもなったようです。
というわけで、
上皇(院)による政治を院政と呼び、
その役所を院庁(いんのちょう)、院庁の職員を院司(いんし)と呼び、
院庁から下される命令文を院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)、
上皇の命令を受けて院司が下す命令文を院宣(いんぜん)と呼びます。
とにかく、なんでもかんでも「院」がつくので覚えやすいです(笑)
* * *
では最後に、白河上皇による院政を史料で見ておきましょう。
禅定法王(ぜんじょうほうおう、〔1 〕のこと)は、〔2 〕院崩後(ほうご、亡くなった後ということ)、天下の政をとること五十七年、在位十四年、位を避るの後四十三年。意に任せ、法に拘(こだわ)らず、除目(じもく)・叙位(じょい、いずれも官位の人事のこと)を行ひ給ふ。古来未(いま)だあらず。(中略)威(い)四海に満ち天下帰服(きふく)す、幼主三代(堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代のこと)の政をとり、斎王(さいおう、伊勢神宮などに奉仕する皇女のこと)六人の親となる。桓武以来、絶えて例なし。聖明の君、長久の主と謂(い)ふべきなり。但し理非決断(りひけつだん、裁判をしっかりとおこなうこと)、賞罰分明(しようばつぶんめい、賞と罰をはっきりとおこなうこと)、愛悪掲焉(あいおけちえん、いつくしみと憎しみとが著しいこと)にして、貧富は顕然なり。男女の殊寵(しゅちょう、男女の近臣を優遇すること)多きにより、已(すで)に天下の品秩(ほんちつ)破るゝなり。
空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
1…白河上皇
2…後三条
大学入試で頻出する史料ではありません。
空欄にあてはまる語句と、これが白河上皇の院政について言及した史料であることさえ分かっておれば、
まぁ大丈夫!といったところです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
次回は、保元の乱(ほうげんのらん)を見ていきます。
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これを発令した後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にかわって即位したのは、
息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。
白河天皇は、お父さんにならって親政(しんせい)をおこないますが、
1086年、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲り、
上皇(じょうこう)として院政(いんせい)を開始します。
白河上皇(しらかわじょうこう)は、なぜ院政を始めることにしたのでしょうか。
白河天皇は即位するとき、まだ子どもがいなかったため、
弟の実仁親王(さねひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)に立てられます。
実仁親王、このときわずか2歳です。
そんな幼い実仁親王を皇太弟に立てることを強く望んだのは、
2人のお父さんである後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)です。
前回述べた通り、後三条上皇は、
藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)を外戚としない天皇でした。
ゆえに、摂関家に遠慮することなく、
延久の荘園整理令などの改革を強力に押し進めることができたのです。
しかし、白河天皇のお母さんは、藤原北家の出身です。
(藤原能信(ふじわらのよしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし、または、ふじわらのしげこ))
一方、実仁親王のお母さんは、藤原北家の出身ではありません。
(源基平(みなもとのもとひら)の娘である源基子(みなもとのきし、または、みなもとのもとこ))
後三条上皇は、摂関家と外戚関係にある白河天皇よりも、
自分と同じように、摂関家と外戚関係にない実仁親王の即位を願ったのです。
この願いは相当強かったようで、1073年に後三条上皇がこの世を去る際、
もし実仁親王にナニかがあった場合は、弟の輔仁親王(すけひとしんのう)を皇太弟にするように、
という遺言(ゆいごん)を残したほどです。
その後、後三条上皇の心配は的中し、
1085年、実仁親王は15歳の若さでこの世を去ってしまいます…
ということで、後三条上皇の遺言どおり、輔仁親王が皇太弟になる…
のかと思いきや!!!
なんと翌1086年、白河天皇は息子を皇太子(こうたいし)に立て、
なんとなんと、その日のうちに息子に天皇の位を譲ってしまったのです!!
後三条上皇の遺言、ガン無視です!!!
こうして誕生したのが、堀河天皇なのです。
このとき堀河天皇はまだ8歳ということで、
お父さんである白河上皇が補佐にあたります。
そう、これが院政のはじまりです。
つまり院政とは、白河天皇が、弟ではなく、
自分の息子に天皇の位を譲りたかったがために始まった政治体制なのです。
しかし、ここで1つ疑問がわきませんか?
天皇が幼少のときは、摂政が補佐するんじゃないの??って。
ハイ、その通りです。
堀河天皇の即位に際して、ちゃんと摂政が置かれていて、
白河上皇はその摂政と協調関係を築きながら政務を執ったようです。
しかし、堀河天皇の成人後、22歳のワカゾーが関白に就任したこと、
さらに、堀河天皇の死後、その息子である鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したことで、
白河法皇(しらかわほうおう、上皇が出家すると法皇になります)に権力が集中するようになり、
院政はどんどん強力な政治体制となっていったのです。
結果、白河上皇は、息子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、
そしてひ孫の崇徳天皇(すとくてんのう)の3代にわたって院政を敷くことになるのです。
ちなみに上皇とは、譲位した天皇を指すんでしたね。
正式名称は太上天皇(だいじょうてんのう、または、だじょうてんのう)で、
平安時代中期ごろから上皇と省略して呼ばれるようになったようです。
また、上皇の住居を院(いん)と呼んだのですが、
それがいつの間にやら上皇自身を指す言葉にもなったようです。
というわけで、
上皇(院)による政治を院政と呼び、
その役所を院庁(いんのちょう)、院庁の職員を院司(いんし)と呼び、
院庁から下される命令文を院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)、
上皇の命令を受けて院司が下す命令文を院宣(いんぜん)と呼びます。
とにかく、なんでもかんでも「院」がつくので覚えやすいです(笑)
* * *
では最後に、白河上皇による院政を史料で見ておきましょう。
禅定法王(ぜんじょうほうおう、〔1 〕のこと)は、〔2 〕院崩後(ほうご、亡くなった後ということ)、天下の政をとること五十七年、在位十四年、位を避るの後四十三年。意に任せ、法に拘(こだわ)らず、除目(じもく)・叙位(じょい、いずれも官位の人事のこと)を行ひ給ふ。古来未(いま)だあらず。(中略)威(い)四海に満ち天下帰服(きふく)す、幼主三代(堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代のこと)の政をとり、斎王(さいおう、伊勢神宮などに奉仕する皇女のこと)六人の親となる。桓武以来、絶えて例なし。聖明の君、長久の主と謂(い)ふべきなり。但し理非決断(りひけつだん、裁判をしっかりとおこなうこと)、賞罰分明(しようばつぶんめい、賞と罰をはっきりとおこなうこと)、愛悪掲焉(あいおけちえん、いつくしみと憎しみとが著しいこと)にして、貧富は顕然なり。男女の殊寵(しゅちょう、男女の近臣を優遇すること)多きにより、已(すで)に天下の品秩(ほんちつ)破るゝなり。
(出典:藤原宗忠(ふじわらのむねただ)『中右記(ちゅうゆうき)』)
空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
1…白河上皇
2…後三条
大学入試で頻出する史料ではありません。
空欄にあてはまる語句と、これが白河上皇の院政について言及した史料であることさえ分かっておれば、
まぁ大丈夫!といったところです。
それでは、今日のゴロ合わせ☆
次回は、保元の乱(ほうげんのらん)を見ていきます。
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はじめまして。
いつも分かりやすい解説ありがとうございます!受験勉強でとてもお世話になってます。
お忙しいとは思いますが、今後の更新も楽しみにしてます!
by あき (2018-09-01 16:14)
あきさま
コメントありがとうございます!
受験勉強に役立てて頂いているとのこと、とても嬉しいです!!
のろのろ更新で申し訳ありませんが、これからもよろしくお願いいたします。
受験、頑張ってくださいね!応援しています☆
by 春之助 (2018-09-02 14:59)
http://nizamalmulk.livedoor.blog/archives/12672672.html
わたしはブログにあなたのイラストを使いたいと思ったのですが、許可いただけますか?
by セリム1世 (2018-10-11 23:59)
セリム1世さま
ご連絡ありがとうございます。
どうぞ、ご使用くださいませ。
by 春之助 (2018-10-12 22:44)
はじめまして。
最近見つけて、読ませていただいています
分かりづらい部分が分かりやすくてとても自分のためになっています。早く次の記事を楽しみに待っています(^ ^)
イラストは可愛くて分かりやすいので、イラストをプリントなどで使用したいなと思いコメントさせていただきました。使用してもよろしいでしょうか?
by 日本史専攻 (2018-11-14 15:45)
日本史専攻さま
嬉しいコメント、ありがとうございます。
育児に時間をとられ、なかなか次の記事を更新できずにいます…
申し訳ありませんが、いましばらくお待ちくださいませ★
プリントなどへのイラストの二次利用については、ブログメールで改めてご申請いただきますようお願いいたします。
by 春之助 (2018-11-14 23:54)
今更ですがめっちゃ中学受験に活用させていただいてます。
本当にわかりやすくて社会の成績上がりました!
感謝します。
by ゆな (2022-03-24 19:52)
ゆな様
嬉しいコメント、ありがとうございます。
中学受験にご活用ということは…ゆな様は小学校高学年でしょうか…
大学受験レベルを想定しているブログなので、難しい部分もあるかと思いますが、すごいすね!
社会の成績が上がったのは、ゆな様の努力あってこそです!
頑張って下さいね☆
by 春之助 (2022-04-14 21:57)