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鎌倉時代(6) [まとめプリント]

前々回は1274年の文永の役(ぶんえいのえき)を、
前回は1281年の弘安の役(こうあんのえき)を、それぞれゴロ合わせとともにお届けしました。
まとめて元寇(げんこう)とか蒙古襲来(もうこしゅうらい)と呼ぶこの2つの事件、
今日は前後関係もひっくるめて、まとめプリントで解説してゆきますよ★

鎌倉6.jpg

まずはプリントの右上です。
1206年、チンギス=ハン(漢字で書くと成吉思汗)が、
モンゴル高原で抗争を繰り返していた遊牧諸民族を統一し、モンゴル帝国をきずきます。
プリントの左上にある〈12世紀ごろ〉という地図のなかに「モンゴル」と書いておきましたが、
まぁこのあたりです。

強力な騎馬軍団をほこるモンゴル帝国は、周囲の国々をどんどん征服して領土を広げてゆきます。
1234年に女真族(じょしんぞく)の王朝である金(きん)を滅ぼすと、
東ヨーロッパや西アジアにまで遠征をおこなってそれぞれ勝利し、
モンゴル帝国はユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国へと発展するのです。

プリントの〈13世紀ごろ(南宋滅亡前)〉と〈モンゴル帝国の最大領域〉という地図は、
最後にのせてある解答を参考にして、完成させてくださいね☆

1260年、チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハン(漢字で書くと忽必烈汗)が即位します。
フビライ=ハンは都を大都(だいと、現在の北京(ペキン))に遷(うつ)し、
国号を元(げん)と改めます。

このころ、朝鮮半島の高麗(こうらい)は、三別抄(さんべつしょう、高麗の軍隊)が抵抗を続けているものの、すでにモンゴル帝国(元)に服属しています。
フビライ=ハンは、モンゴル帝国(元)の南に位置する南宋(なんそう)の征服を目指し、
また、海の向こうにある日本にも服属を求めるようになるのです。

これに対して、鎌倉幕府の8代執権(しっけん)である北条時宗(ほうじょうときむね)は、
九州に所領をもつ御家人や九州に住んでいる御家人に北九州を警備させる異国警固番役(いこくけいごばんやく)を設置します。

1273年、フビライ=ハンは抵抗を続けてきた三別抄を鎮圧し(三別抄の乱(さんべつしょうのらん))、
翌1274年、元と高麗の連合軍およそ3万人(人数については諸説アリマス)を日本に向かわせます。
いわゆる文永の役です。

対馬(つしま)と壱岐(いき)を襲い、さらに博多湾から上陸する元・高麗連合軍を、
御家人たちが迎え撃ちます。
その様子は、「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)とか、「蒙古襲来絵巻」(もうこしゅうらいえまき)と呼ばれる絵巻物に描かれています(のちのち鎌倉文化で紹介します)。

なかでも有名なシーンがコチラ(黒字と青字で文字を書き加えています)。

鎌倉6-1.jpg

肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が、
元・高麗連合軍の集団戦法(しゅうだんせんぽう)や「てつはう」という火薬を用いた武器を相手に奮闘する様子が見て取れます。

この日は元・高麗連合軍が優勢のまま日暮れとなり、お互い戦闘を中断して夜を迎えます。
そして夜が明けると…

なんと!
元・高麗連合軍がいなくなっているのです!!
暴風雨だか仲間割れだか威力偵察だかなんだか分かんないけど、日本勝っちゃったのです!!!

ということで、鎌倉幕府は命懸けで戦ってくれた御家人たちに恩賞(おんしょう、ゴホウビのこと)を与えなければなりません。
しかし…これが…ヒジョーにキビシイのです…

普通はね、戦いに勝利すると、敗者の所領やら地位やらをイロイロ取り上げられるので、
それを戦いに参加してくれたメンバーにゴホウビとして分配するんですよ。

ところが…
ところがですよ…

文永の役の敗者は、海の向こうから攻めてきて、そして消えた元・高麗連合軍なんです。
鎌倉幕府は戦いには勝ったものの、ゴホウビとして分配できるようなものを何もゲットできていないのです。

ね?キビシイでしょ…

それでも鎌倉幕府はどうにかやりくりして、1年がかりで約120人の御家人にゴホウビを与えます。

ちなみに「蒙古襲来絵詞」には、ゴホウビリストからなぜか漏れてしまった竹崎季長が、
「オレ、一番乗りで頑張ったんだよ!ゴホウビちょうだい!!」と、
鎌倉にいる恩賞担当の安達泰盛(あだちやすもり)に直談判する様子が描かれています。
(黒字で文字を書き加えています)

鎌倉6-4.jpg

竹崎季長が安達泰盛になにやら相談していますね~。
結果、竹崎季長は肥後国のとある地頭職(じとうしき)と馬一頭を賜ります。
持ち馬を売って旅費をまかない、肥後国から鎌倉まで行った甲斐があったというものです(泣)

*   *   *

文永の役のあと、鎌倉幕府は高麗に出兵する計画をたてますが、実現には及ばず、
異国警固番役の整備や、石塁(せきるい)とか石築地(いしついじ)と呼ばれる防塁(ぼうるい)の築造など、防衛力の強化につとめます。

ちなみに、石塁の様子は「蒙古襲来絵詞」にも描かれています。

鎌倉6-6.jpg

センターにいる赤い鎧(よろい)を着た騎馬武者が竹崎季長で、
その奥に描かれている立派な石垣が石塁です。
武装した御家人たちがズラッと乗っかってますねー。
よっぽど頑丈に作ったのでしょう、石塁の一部は現在も遺(のこ)っているんだそうですよ。



元は1279年に南宋を滅ぼすと、1281年、いよいよ弘安の役を起こします。
元・高麗連合軍を主力とする東路軍(とうろぐん)およそ4万人と、
旧南宋(きゅうなんそう)の軍を主力とする江南軍(こうなんぐん)およそ10万人が日本を目指します。

先発した東路軍は、対馬・壱岐を襲い、さらに博多湾からの上陸を試みるのですが…
文永の役のときと違って今回は上陸に失敗してしまいます。

なぜって?

だってそこには!
石塁があるんだもん!!
上陸のため小舟に乗りかえた東路軍は、石塁の向こうから放たれる矢の餌食(えじき)になってしまうのです!!!

その場を逃れた東路軍は、志賀島(しかのしま)までまわりこんで上陸するのですが、
ここでも竹崎季長をはじめとする御家人たちから激しく攻撃され、
江南軍との待ち合わせ場所である壱岐まで後退します。
船内で病気が蔓延(まんえん)するなか、またまた壱岐でも御家人たちの激しい攻撃をうけ、
東路軍はもうボロボロです。

そのころ、ようやく江南軍が出発します。
出発の直前に、たまたま漂着した日本の船から「平戸島(ひらどじま、覚えなくていいですよ)から攻めたほうが便利ダヨ!」という情報を得たため(コラコラなんてことを教えるんだ!)、江南軍は平戸島を目指します。

これを知った東路軍も平戸島に向かい、両軍は平戸島と壱岐の間にある鷹島(たかしま、これも覚えなくていいですよ)という島周辺でようやく合流します。

さぁいよいよ全軍で日本を攻めるゾーッッ!という夜…

なんと九州北部を台風が襲います!
だって台風シーズンだもんねーーーーッッ!!

台風によって多くの船が沈み、多くの兵が溺死し、そんなこんなで弘安の役も日本が勝っちゃうのです!
これがウワサの神風(かみかぜ)ってものなんでしょうか!!

東路軍と江南軍は撤退を決め、エラい兵は台風を耐え抜いた船から兵や馬を追い出して、
自分たちだけサッサと海を越えて帰ろうとします(ヒドい!!!)。

その船に目をつけるのが御家人たちです。
だってエラい兵がいっぱい乗ってるんですよ?
これを襲えばお手柄(てがら)たてホーダイじゃないですか!!

というワケで、竹崎季長も自分の船でこれを追おうとするのですが、なかなか自分の船がやってきません。
そこで、なんやかんやうまいこと言って、ほかの御家人の船に乗せてもらって追撃します。

ただ、めっちゃ急いでいたので、兜(かぶと)をかぶらずに来てしまったのです。
このままだと船から船に乗り移るときに頭をケガをしてしまうかもしれません。
ケガをしてしまったら手柄をたてることなんてできません。

そこで竹崎季長!
なんと両足につけている脛当て(すねあて、膝から下の部分のプロテクター)をはずし、
それらを結び合わせたものを頭にかぶっちゃうのです!!

鎌倉6-8.jpg

そんな竹崎季長が敵の船に飛び乗って大活躍するシーンがコチラ。
(黒字と青字で文字を書き加えています)

鎌倉6-7.jpg

敵の首をきりとる拍子にーーッ!
脛当てを結び合わせてつくったやつがーーーッッ!!
ポロリと落ちてるーーーーッッッ!!!

そりゃそうなるよねーーーーーッ!
でもまぁ無事に手柄をたてられたようでヨカッタよ!!

このように、御家人たちは船で逃げようとするエラい兵を生け捕ったり討ち取ったりし、
さらに、エラい兵に置いてけぼりにされたおよそ10万人もの兵たちも掃討(そうとう)し、
弘安の役は終結するのです。

*   *   *

とはいえ、いつ三度目の蒙古襲来があるか分からず、
異国警固番役も継続されるなど、九州北部は緊張状態が続きます。
1293年には、鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)にかわって鎮西探題(ちんぜいたんだい)が設置され、
1296年以降は北条氏が赴任し、九州の御家人の訴訟も裁いてゆくことになります。
ちなみに、鎮西(ちんぜい)は九州を意味する言葉ですよー。

また、鎌倉幕府にとって弘安の役のゴホウビはかなりキビシかったようで、
勝利から4年が経っても下せずにいました。

1285年、安達泰盛(「蒙古襲来絵詞」に出てきた恩賞担当のヒト)が滅ぼされる霜月騒動(しもつきそうどう)が起こり、
その影響で、九州の御家人が数名討たれる事件が起こります。
鎌倉幕府は、このとき敗者から取り上げた所領を、弘安の役のゴホウビとして分配します。
その敗者ってのが、元寇で活躍した御家人だったりで…なんとも複雑なゴホウビとなってしまいます。

といっても、ゴホウビはまだまだ足りず、
鎌倉幕府は狭い狭い土地を何年もかけて御家人たちに与えてゆきます。
最後のゴホウビが下されたのは、なんと弘安の役から26年後だったんだとか。

いろいろ頑張ったのに満足なゴホウビをもらえず、御家人たちの生活はカツカツです。
これも相続形態が嫡子(ちゃくし)による単独相続(たんどくそうぞく)から分割相続(ぶんかつそうぞく)にシフトしてゆく一因となるのです。

*   *   *

ちなみに、「蒙古襲来絵詞」は改ざんされているかもしれない、という説があるのをご存知ですか?
それがこのシーンです。

1274-3.jpg

え?さっき見たばっかりのあの有名なココが!?って感じですよね。
ではこのシーン、もうちょっと長く見てみましょう。

鎌倉6-2.jpg

んー?
なんか有名なトリオだけ絵のタッチが違うくない??
トリオ以外のヒト、みんな絵の線ほっそくない???

では、有名なトリオを手で隠してみましょう。
エイッ!!

鎌倉6-3.jpg

絵のタッチがそろったーー!
しかも竹崎季長の頑張りで元・高麗連合軍が逃げてるシーンに変わったーーー!!

もしかしたらこういうことなのかもしれません…

鎌倉6-5.jpg

ただし、別のシーンにトリオみたいな太いタッチで描かれている人物が確認できますし(安達泰盛が描かれている場面の右端にいるヒトとか…)、
他にも修正されている部分が多々あることから、完成品見た竹崎季長が「もっと元・高麗連合軍の強さが伝わるように描き直して欲しい!」と、絵師に手直しを指示したのではないか、との説もあります(大倉隆二氏の説)。

また、博多湾周辺の海底から、元寇の遺品と考えられる船や武器などがたくさん発見され、
引き上げられています。
これらの研究が進めば、元寇にまつわる新情報が発表されるかもしれませんね。

日本史の研究はたえず進んでいます。
研究者の方々を、ただただ尊敬するばかりです。

では最後に解答を載せておきましょう☆

鎌倉6解答.jpg



次回は、今日チラっと出てきた霜月騒動をゴロ合わせとともにお届けします。

参考文献
大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』(海鳥社、2007年)
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)
小学館ウイークリーブック『週刊日本の美をめぐる 蒙古襲来と戦いの絵巻』(小学館、2003年)

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞
https://ja.wikipedia.org/wiki/安達氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇防塁
http://www.craftmap.box-i.net/

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