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平安時代(20) [まとめプリント]

前回は、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のはじまりである、
以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵を、ゴロ合わせとともにお届けしました。

その続きを説明してゆきたいのですが、
とにかく色んな事件がぎゅうぎゅうに起こってややこしいので、
これから3回に分けて解説することにします。
↓ 今日は、鎌倉時代のまとめプリント(1)のうち…
鎌倉1.jpg

↓ 黄色の部分だけを、平安時代(20)として取り上げることにしますね。
鎌倉1-2.jpg

旧国名や七道(しちどう)がたくさん出てきますが、
分かんない人は飛鳥時代(11)を復習してください~。



平治の乱(へいじのらん)のあと、伊豆(いず)に流された源頼朝(みなもとのよりとも)は、
伊豆の在庁官人(ざいちょうかんじん)である北条時政(ほうじょうときまさ)による監視のもと、
父である源義朝(みなもとのよしとも)をはじめ、亡き源氏たちを供養する日々を過ごします。

そんな生活が20年も続いた1180年4月。
源頼朝のもとに、平氏を打倒せよとの以仁王の令旨(りょうじ)が届きます。

どれほどの衝撃だったことでしょう!
だって流人(るにん)生活20年ですよ、20年!!
生まれた赤ちゃんが成人しちゃう年月ですからね!!!

ちなみに、この20年の間に源頼朝は結婚しています。
お相手は、ご存じ北条政子(ほうじょうまさこ)、北条時政の娘にあたる人物です。

あれ?
北条時政って、源頼朝の監視役だったのでは??

そーなんですよ!
あるとき、北条時政が出張先の京都から帰ってきたら超ビックリ!!
なんと自分が留守の間に2人はデキてしまっていたのです!!!

なんだよ!
20年も流罪だったなんて源頼朝ったら可哀想…とか同情したのに!!
禁断の恋なんてしちゃって、ちゃっかり流罪ライフをエンジョイしてんじゃん!!!
って感じですよね(笑)

立場上、このカンケイに大反対だった北条時政ですが、
2人の情熱はアツく、また娘のお腹が大きいこともあって、最終的には結婚を許します。
これにより、源頼朝は北条氏を味方につけることになるのです。

平安20-1.jpg

1180年8月、源頼朝は挙兵します。
しかし、相模国(さがみのくに)で平氏方の大庭景親(おおばかげちか)と戦い、敗れてしまいます。
これを石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)といいます。
なんとかその場から逃れた源頼朝は、
味方を増やしながら相模国の鎌倉(かまくら)に入って態勢を整えます。

そして1180年10月、駿河国(するがのくに)で起きた富士川の戦い(ふじがわのたたかい)で、
平清盛(たいらのきよもり)の孫にあたる平維盛(たいらのこれもり)と戦います。
このとき平維盛の軍勢は、富士川の近くにいた鳥の大群が一斉に飛び立った音を、
源氏の軍勢が攻撃してきた音だと勘違いしてパニックになって逃げてった、と伝わっています。

そんなこんなで富士川の戦いに勝利した源頼朝のもとを、一人の青年が訪ねてきます。
その青年とは、平治の乱のあと生き別れになった、弟の源義経(みなもとのよしつね)です。

弟と感動の再会を果たした源頼朝は、
源義経と、もう一人の弟である源範頼(みなもとののりより)に軍勢の指揮を任せ、
自らは鎌倉に戻って東国の経営に乗り出します。
ここでさまざまな支配機構をつくるのですが、これについては鎌倉時代(2)で説明しますね。

*   *   *

源頼朝の挙兵からほどなくして、イトコの源義仲(みなもとのよしなか)が挙兵します。
信濃国(しなののくに)の木曽谷(きそだに)で育った人物なので、
木曽義仲(きそよしなか)とも呼びます。
姓が源、名字が木曽、とゆーことですよ!
(姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)を復習してください)

源義仲は、1183年5月に倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で平維盛と激突します。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)は、加賀国(かがのくに)と越中国(えっちゅうのくに)の境に位置する砺波山(となみやま)にある峠であることから、
別名を砺波山の戦い(となみやまのたたかい)といいます。

このとき、平維盛の軍勢はおよそ10万騎(騎は、馬に乗った兵のことです)、
対する源義仲の軍勢はおよそ3万騎です。

圧倒的不利!
ビビるぐらい不利!!

そこで源義仲は考えます。
考えに考えたすえ…

夜、平氏の軍勢が寝ているところに、いきなり大きな音をたてながら攻め込んだのです!
一説によれば、火のついた木をツノにくくりつけた牛を数百頭ほど解き放ったんだとか!!

平安20-2.jpg

パニック!
これはパニック!!
結果、平氏の軍勢はバラバラになり、平維盛は命からがら何とかその場から逃れます。
平維盛、鳥やら牛やらほんま大変ですね…

なお、イラストで源義仲の隣にいるのは、妾(めかけ、愛人のこと)の巴御前(ともえごぜん)です。
もんのすごく強い女性だったらしく、この戦いにも参加したと伝わっています。
女武者、カッコイイですね~…

倶利伽羅峠の戦いののち、北陸道(ほくりくどう)を制圧した源義仲は、
1183年7月、その勢いのまま京都に入ります。
平氏は安徳天皇(あんとくてんのう)を連れて都を離れ、西へ西へと逃れてゆきます。
これを平氏の都落ち(みやこおち)といいます。

源義仲の入京(にゅうきょう、京都に入ること)によって、
およそ20年ぶりに、京都の空に源氏の目印である白い旗がはためきます。
ちなみに、平氏の旗は赤色です。
いまも「紅白戦」や「紅白歌合戦」などといって赤チームと白チームに分かれて戦うのは、
源平の争いの名残なんだそうですよ(諸説アリマス)。

しかし、このころの京都はというと、
1181年に発生した養和の飢饉(ようわのききん)による深刻な食料不足に見舞われています。
町には死体があふれ、異臭がただよっていたんだとか…

そこに大軍を率いた源義仲がやってきたんだからたまりません。
食料事情はますます悪化し、
さらに寄せ集めで統制がきかない源義仲の兵たちが、腹ぺこによる略奪を繰り返したため、
治安まで悪化してしまうのです。
源義仲に対する不満はふくらむばかりです。

そんなとき、源義仲は後白河法皇(ごしらかわほうおう)から呼び出され、
西に逃れた平氏を追討するよう命じられます。
京都から出て行けというわけですね。
源義仲は、失った信頼を取り戻すべく、平氏を追って急ぎ京都をあとにするのです。

源義仲の厄介払いに成功した後白河法皇は、かわって源頼朝に近づきます。
西国は平氏が、北陸道は源義仲が支配するなか、
食料不足が続く京都で、なんとしても食べるものを確保しなければならない後白河法皇は、
東国を支配する源頼朝をたよるしかなかったのです。

1183年10月、後白河法皇は、源頼朝の位階(いかい)を平治の乱以前の状態に戻します。
そして、寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつせんじ)を出して、
源頼朝の東国の支配権、
すなわち東海道(とうかいどう)と東山道(とうさんどう)の支配権を認めるのです。

これにより、源頼朝は流罪に処された謀叛人(むほんにん)ではなくなり、
彼が私的に築いた東国の勢力は、朝廷に認められた正当なものとなったのです。
その見返りとして、朝廷は源頼朝に東国からの年貢(ねんぐ)と官物(かんもつ)の納入を保証させます。
両者の利害がガッチリ一致した、というわけですね。

さぁこれに焦ったのが源義仲です!
誰よりも先に入京して一歩リードしたつもりでいたのに、
後白河法皇は自分を京都から追い出した隙に、源頼朝に超接近していたのです!!

あわてて京都に戻った源義仲は、
後白河法皇を幽閉してまで源頼朝追討の命令を出させますが、そんな彼に従う者は少なく、
1184年正月、宇治川の戦い(うじがわのたたかい)で源範頼と源義経の軍勢に敗れ、
近江国(おうみのくに)の粟津(あわづ)という場所で、顔に矢を受けて亡くなってしまいます。

ギリギリまで巴御前が一緒だったようですが、源義仲は最後の最後に逃げるよう促したようです。
別れ際、巴御前は左右から襲いかかってきた敵をそれぞれ両脇ではさんで絞めあげ、
頭をもぎとってやっつけた、と伝わっています。
す、すごすぎるよ巴御前…
想像をはるかにこえてきたよ巴御前…

*   *   *

このあと、源範頼と源義経の軍勢は、
1184年2月、摂津国(せっつのくに)で起こる一の谷の戦い(いちのたにのたたかい)、
1185年2月、讃岐国(さぬきのくに)で起こる屋島の戦い(やしまのたたかい)で平氏の軍勢に勝利し、
1185年3月、長門国(ながとのくに)の壇の浦(だんのうら)で平氏を滅ぼすにいたるのです。

これらの戦いについては次回、
壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)のゴロ合わせで詳しく書きたいと思います。

はー、ややこしかったですね…
最後に解答を載せておきましょう。

鎌倉1解答1.jpg

今日埋められるのは、この部分だけです。
残りは次回と次々回で解説しますので、もうしばらくお待ちください!



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